「そういえば、日和ってどこ受けるんだっけ。やっぱ地元?」
大学の図書館は、定期試験前でもないのにひどく混んでいた。教員採用試験まで残り一ヶ月を切った今、最後の詰めの期間なのでしかたがないのかもしれない。
空席を探してともにさ迷っていた水原に小声で話しかけられ、日和は曖昧に首を振った。
「地元も受けるけど、ここも受けるつもり」
教員採用試験は、中学校であれば市や区の教育員会、高校であれば県や都の教育員会に願書を提出することになるのだが、七月に行われる一次試験の日程さえ重なっていなければ、複数の都市を受験することが可能なのだ。併願する人間が、おそらくは大半だろう。
「併願か。でも、本命は地元だよな。もし、こっちだけ受かったらどうする? 来年、地元受け直す?」
「いや、……」
日和は言葉を濁して周囲を見渡した。
「どこもいっぱいだね」
「だな。諦めて外でやるか」
切羽詰まっている時期のはずなのに、ひとり暮らしの家では集中し切れず、図書館に足を運んだわけだが、考えることはみな同じらしい。
大学近くのファミリーレストランに入ると、梅雨の湿度から開放された身体がほっと軽くなる。
幸い客もまばらで、少しくらいなら参考書を開いていても問題のない雰囲気だ。確保した隅のテーブル席で、ドリンクバーを注文して、ページを開く。
少し読み始めたところで、「さっきの話だけどさ」と水原が再び問いかけてきた。
「親父さんは地元に帰ってこいとか言わないわけ?」
「あー……、はっきりとは言わないけど、いずれは戻ってきてほしいと思ってるかもね」
「だよな。うちも、そう。じゃあ、こっちだけ受かったらさ。腰かけで一年やって、来年受け直す? それとも何年か年数積んで、経験者枠で受けに戻る?」
矢継ぎ早に飛んできた質問に、手を止めて黙り込む。気に障ったわけではない。ただ、ひとつずつ検討すると時間がかかってしまうのだ。
「俺も地元のほかにも何個か受ける予定だから、日和はどうすんのかなって。純粋な興味なんだけど」
「うん。俺は、こっちに受かったら、ずっとこっちにいると思う」
どちらも受かった場合はどうするのかということは脇に置いて、日和は答えた。はっきりとしたそれが意外だったのか、水原が瞳を瞬かせる。
「……それってさ。今、付き合ってる彼女がここに住んでるから、とか?」
再び黙った日和に、水原は眉を顰めた。
「俺がどうこう言う話じゃないし、おまえも考えて決めたとは思うけど。付き合い始めて、まだ半年も経ってない相手だろ? その相手に合わせて一生の仕事決めていいのかよ」
「どこでしても、一緒だろ。やることは」
教師という仕事を選ぶことに変わりはない。それに、と日和は思う。
ここの大学で四年間を学んで、この地に根付くフリースクールで子どもたちと関わって、教師になりたいと改めて思うようになったのだ。この地を選ぶ理由として十分のはずだ。
「それは、まぁ、そうかもだけど。結婚の話とか出てたりすんの?」
「ないよ」
「なんだ。もしかしてできたのかなって、ちょっと焦った」
「それは、ない」
否定を繰り返して、苦笑する。いっそのこと、そうだったらよかったのに、と。頭の片隅で無責任なことを考えながら。
「そういうんじゃないんだ。これも、本当に。……その、なんていうか、勝手に俺がひとりで考えてるだけで」
「でも、その選択に影響を与えてる人なんだから、相談したほうがいいと思うけど」
「……」
「反対されるのが怖いの?」
ぐっと日和は息を呑んだ。まさに考えないようにしていたことだったからだ。その日和の態度に、水原が軽い調子で肩を竦めてみせる。
「されそうなんだ。図星かよ」
「というか、なんで、そう思ったわけ」
「なんでって。おまえが言ってたんじゃん。自分は好きだし、その気持ちを受け止めてもらってるとも思うけど、相手が本当に自分のことを好きなのかどうかはわからないって」
その話をしたのは、冬のことだ。あれからもう季節がふたつ巡ろうとしているのに、自分が抱えている問題は、なにも変わっていなかったらしい。
不機嫌な表情になった自覚はあったが、去年と違い水原は「怖いよ」とは言わなかった。その代わり、さらりと笑うだけだ。
「重症すぎるだろって思ってたんだけど。けっこうマジで悩んでたのかなって」
相談に乗ってほしいなら乗りますよという気遣いを感じて、日和はどうにか笑おうと試みた。ありがたいとは思う。でも、どう言えばいいのかわからないのだ。
――そもそもとして、相手が真木さんだなんて、水原に言えるわけもないし。
ごくごく自然とそう思った自分に、内心で首を捻る。どうして言えるわけがないのだろう。男同士だからか。水原があの人と面識があるからか。
――いや、誰と付き合ってるなんて、吹聴するようなことじゃない。それだけだ。
「ちなみにさ。なんで相手が自分のことを好きかどうかわからないって思ったんだよ。告白はおまえからでもオッケー貰ったんだろ? 好きってことじゃないの」
単純な話だろうと言わんばかりの調子に、曖昧に首を振る。適当なことを言おうと思ったのにできなくて、結局、日和は吐き出した。認めたくはなかったことを。
「一度も好きって言ってもらったことがないから、かな」
「え……」
「ないんだ、一度も」
ずっと、ずっと、考えないようにしていたことだった。今を壊したくなくて、受け入れてもらっていることが答えだと自分に言い聞かせてきた。それでも誤魔化し切れず、ふとしたときに不安になる。あの人は、なんで受け入れてくれたのだろう、と。
「俺がこの街を離れるって言ったら、あの人その場で終わりだって言いそうで、怖いんだよ」
「一回、聞いてみろよ、それこそ」
弱音を水原が諭す。
「聞いてみなきゃ、ずっとわからないままだぞ」
「わかってる」
吐息と一緒に日和は吐き出した。わかっている。わかってはいる。ただ、真実を知ることは、怖い。
また「恋」じゃないと言われたら。俺に合わせて受け止めただけだと言われたら。日和がいなくなるまでの一定の期間のことだと思っていたと言われたら。
きっと、自分は、身動きができなくなってしまう。それだったら、今のままでいたいと思ってしまう。今のままがいいと願ってしまう。でも、その先を本当に求めたいのなら、甘えたことをずっと言っているわけにはいかない。それもわかってはいるのだ。
ぬるま湯の中は心地がいい。けれど、いつかは冷めてしまう。適温を維持するためには、それ相応の労力が必要だ。
大学の図書館は、定期試験前でもないのにひどく混んでいた。教員採用試験まで残り一ヶ月を切った今、最後の詰めの期間なのでしかたがないのかもしれない。
空席を探してともにさ迷っていた水原に小声で話しかけられ、日和は曖昧に首を振った。
「地元も受けるけど、ここも受けるつもり」
教員採用試験は、中学校であれば市や区の教育員会、高校であれば県や都の教育員会に願書を提出することになるのだが、七月に行われる一次試験の日程さえ重なっていなければ、複数の都市を受験することが可能なのだ。併願する人間が、おそらくは大半だろう。
「併願か。でも、本命は地元だよな。もし、こっちだけ受かったらどうする? 来年、地元受け直す?」
「いや、……」
日和は言葉を濁して周囲を見渡した。
「どこもいっぱいだね」
「だな。諦めて外でやるか」
切羽詰まっている時期のはずなのに、ひとり暮らしの家では集中し切れず、図書館に足を運んだわけだが、考えることはみな同じらしい。
大学近くのファミリーレストランに入ると、梅雨の湿度から開放された身体がほっと軽くなる。
幸い客もまばらで、少しくらいなら参考書を開いていても問題のない雰囲気だ。確保した隅のテーブル席で、ドリンクバーを注文して、ページを開く。
少し読み始めたところで、「さっきの話だけどさ」と水原が再び問いかけてきた。
「親父さんは地元に帰ってこいとか言わないわけ?」
「あー……、はっきりとは言わないけど、いずれは戻ってきてほしいと思ってるかもね」
「だよな。うちも、そう。じゃあ、こっちだけ受かったらさ。腰かけで一年やって、来年受け直す? それとも何年か年数積んで、経験者枠で受けに戻る?」
矢継ぎ早に飛んできた質問に、手を止めて黙り込む。気に障ったわけではない。ただ、ひとつずつ検討すると時間がかかってしまうのだ。
「俺も地元のほかにも何個か受ける予定だから、日和はどうすんのかなって。純粋な興味なんだけど」
「うん。俺は、こっちに受かったら、ずっとこっちにいると思う」
どちらも受かった場合はどうするのかということは脇に置いて、日和は答えた。はっきりとしたそれが意外だったのか、水原が瞳を瞬かせる。
「……それってさ。今、付き合ってる彼女がここに住んでるから、とか?」
再び黙った日和に、水原は眉を顰めた。
「俺がどうこう言う話じゃないし、おまえも考えて決めたとは思うけど。付き合い始めて、まだ半年も経ってない相手だろ? その相手に合わせて一生の仕事決めていいのかよ」
「どこでしても、一緒だろ。やることは」
教師という仕事を選ぶことに変わりはない。それに、と日和は思う。
ここの大学で四年間を学んで、この地に根付くフリースクールで子どもたちと関わって、教師になりたいと改めて思うようになったのだ。この地を選ぶ理由として十分のはずだ。
「それは、まぁ、そうかもだけど。結婚の話とか出てたりすんの?」
「ないよ」
「なんだ。もしかしてできたのかなって、ちょっと焦った」
「それは、ない」
否定を繰り返して、苦笑する。いっそのこと、そうだったらよかったのに、と。頭の片隅で無責任なことを考えながら。
「そういうんじゃないんだ。これも、本当に。……その、なんていうか、勝手に俺がひとりで考えてるだけで」
「でも、その選択に影響を与えてる人なんだから、相談したほうがいいと思うけど」
「……」
「反対されるのが怖いの?」
ぐっと日和は息を呑んだ。まさに考えないようにしていたことだったからだ。その日和の態度に、水原が軽い調子で肩を竦めてみせる。
「されそうなんだ。図星かよ」
「というか、なんで、そう思ったわけ」
「なんでって。おまえが言ってたんじゃん。自分は好きだし、その気持ちを受け止めてもらってるとも思うけど、相手が本当に自分のことを好きなのかどうかはわからないって」
その話をしたのは、冬のことだ。あれからもう季節がふたつ巡ろうとしているのに、自分が抱えている問題は、なにも変わっていなかったらしい。
不機嫌な表情になった自覚はあったが、去年と違い水原は「怖いよ」とは言わなかった。その代わり、さらりと笑うだけだ。
「重症すぎるだろって思ってたんだけど。けっこうマジで悩んでたのかなって」
相談に乗ってほしいなら乗りますよという気遣いを感じて、日和はどうにか笑おうと試みた。ありがたいとは思う。でも、どう言えばいいのかわからないのだ。
――そもそもとして、相手が真木さんだなんて、水原に言えるわけもないし。
ごくごく自然とそう思った自分に、内心で首を捻る。どうして言えるわけがないのだろう。男同士だからか。水原があの人と面識があるからか。
――いや、誰と付き合ってるなんて、吹聴するようなことじゃない。それだけだ。
「ちなみにさ。なんで相手が自分のことを好きかどうかわからないって思ったんだよ。告白はおまえからでもオッケー貰ったんだろ? 好きってことじゃないの」
単純な話だろうと言わんばかりの調子に、曖昧に首を振る。適当なことを言おうと思ったのにできなくて、結局、日和は吐き出した。認めたくはなかったことを。
「一度も好きって言ってもらったことがないから、かな」
「え……」
「ないんだ、一度も」
ずっと、ずっと、考えないようにしていたことだった。今を壊したくなくて、受け入れてもらっていることが答えだと自分に言い聞かせてきた。それでも誤魔化し切れず、ふとしたときに不安になる。あの人は、なんで受け入れてくれたのだろう、と。
「俺がこの街を離れるって言ったら、あの人その場で終わりだって言いそうで、怖いんだよ」
「一回、聞いてみろよ、それこそ」
弱音を水原が諭す。
「聞いてみなきゃ、ずっとわからないままだぞ」
「わかってる」
吐息と一緒に日和は吐き出した。わかっている。わかってはいる。ただ、真実を知ることは、怖い。
また「恋」じゃないと言われたら。俺に合わせて受け止めただけだと言われたら。日和がいなくなるまでの一定の期間のことだと思っていたと言われたら。
きっと、自分は、身動きができなくなってしまう。それだったら、今のままでいたいと思ってしまう。今のままがいいと願ってしまう。でも、その先を本当に求めたいのなら、甘えたことをずっと言っているわけにはいかない。それもわかってはいるのだ。
ぬるま湯の中は心地がいい。けれど、いつかは冷めてしまう。適温を維持するためには、それ相応の労力が必要だ。



