机上に伏せていたスマートフォンに手を伸ばして、ふわっと欠伸を噛み殺す。午前零時四十二分。画面を見つめたまま、日和は力なくひとりごちた。
「終わった……」
ノルマはどうにかやり終えたものの、とてつもなく眠い。それなのに、電話をしたいという欲望がしつこく頭に居残っている。
――明日の朝はバイト入ってないはずだけど。でも、つぼみはあるし。
この時間に電話をかけていいかとなると、あまりよくはないだろう。はぁと溜息を吐いて、机にぺたりと頬をくっつけた。
あの人、忙しいからなぁ。浮かんだそれに、自然と眉間に皺が寄る。コンビニエンスストアでの早朝バイトについて尋ねたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
自分が口を出すことではないと承知しているが、あの忙しさはどう考えても身体に悪い。つぼみの外でも時間を共有するようになって、日和は心底そう思うようになっていた。
――つぼみの給料だけじゃ厳しいからって言われたら、いや、まぁ、返す言葉もなにもないんだけどさ。
おまけに、不満そうに見えたのか、「民間のフリースクールなんてどこもそんなものだし、つぼみは格段にマシな部類だ」と諭されてしまってもいる。
真木の言い分もわかるのだが、金銭面の問題だけでなく、体力的な心配も少しはしてほしい。恋人としてもだけれど、一ボランティアとしても、そう思う。
若さにかこつけて酷使していると、いつか無理がたたると思うのだが。溜息をこぼして、スマートフォンの画面をなぞる。なにも言えないが、心配することは日和の自由のはずだ。
――そう思ってる、はずなんだけどな。
結局、自分の寂しさ優先で電話をかけたくなっている。子ども扱いされても、文句も言えない有様だ。
そう自嘲したくせに、とうとうアプリを起動してしまった。ラインだけ。送るだけ送って、既読にならなかったら大人しく寝よう。言い訳のように繰り返して、一言送信する。
数分眺めてみたものの、既読になる気配はない。諦めて、日和はベッドに倒れ込んだ。いや、でも、いいんだ。自分を納得させるためにそう言い聞かせる。
週の半分近くを早朝勤務のシフトに入る真木の生活リズムは、基本的に規則正しい。そのリズムを崩してまで起きているのは、つぼみの仕事が大変な証拠にほかならない。そういう意味では、すぐに既読ならないことはいいことだ。
――あの人、俺が泊まってるときも、日付変わる前に寝ろって言うからなぁ。
連想した他愛もないやりとりに、ふふっと笑みをこぼしそうになった瞬間、手の中のスマートフォンが震えた。危うく取り落としかけて、――表示された名前に、一気に目が覚める。
「も、もしもし!」
「真夜中でも元気だね、おまえ」
勢い込んだ日和と対照的に、スマートフォン越しに聞こえる声は静かだった。
その声が、疲れ切った心にどうしようもなく染みていく。スマートフォンを握りしめたまま、噛みしめるように日和は頷いた。
「もう終わったのか?」
「終わりました。……ちょっと、疲れる」
こぼしてしまった愚痴にも、真木は否定的なことは言わなかった。
「そうだろうな」
「日誌とか指導案とかが大変なのはもちろんなんですけど。一日中、ずっと気を張ってるみたいで。家に帰ると、どっと疲れが出るというか」
「真面目だからな、日和は。学校にいるあいだ手ぇ抜けないんだろ」
「……真木さんは」
「ん?」
「どうだったんですか。実習期間中」
「あー……」
思い出すように数秒。言葉が途切れたあとに、返ってきたのは「どうだったかな」というはっきりとしない応えだった。
「四年も前だしな。でも、あれだろ。おまえ、モテてるだろ。女の子に」
「実は、それもすごくストレスで」
黙っていてもどうせバレるのだ。観念して日和は吐き出した。好かれることがうれしくないわけではないけれど、なにごとにも限度というものはあると思う。
ラインはやってるの、連絡先教えて、彼女はいるの。そういった答えづらい質問のオンパレードにも疲れるし、教育実習に来ている男子学生の僻みと同情が入り混じった視線も、なかなか精神的にくるものがある。
しかも、あの年頃の女の子は、「教えられないんだ」だとか「ごめんね、内緒」だとかの濁した回答では、素直に諦めてくれないのだ。その場は立ち去ってくれたとしても、次の日にはまた同じ質問をぶつけにくるのだから本当に際限がない。
「恵麻ちゃんたちが懐かしい……。あの子たち、俺の連絡先なんて、まったく興味なかったんだろうな」
振り返って考えれば、香穂子にも最後まで聞かれなかった。
「あの子たちからしたら、おまえはちゃんとスタッフだったんだろ。どの子もみんな、そういう一線は引いてるよ」
「じゃあ、今は」
「中学生からしたら、教育実習生なんて、ていのいいおもちゃだろ」
にべもなく断定されて、日和は口を曲げた。
「そりゃ、そうかもしれないですけど」
「まぁ、教師になったら、そうじゃなくなるよ」
あたりまえの事実として真木が言う。
「明日もやることいっぱいだろ。早く寝ろ」
「真木さん」
「なに」
「声が聞けて、うれしかった」
「そうか」
「うん。ありがとう」
通話を終わらせないといけないとわかっているのに、なかなか切ることができなかった。
続く沈黙に、「寝ろよ」と真木が苦笑する。けれど、それだけだ。真木はいつも日和が自分で切るまで待っていてくれる。甘やかされていると思う。
「会いたい」
口を吐いたそれに、真木が笑った。まるきりの子ども扱いに、声が尖る。いつも、いつも。俺ばかりだ。
「寂しくないんですか。俺は寂しい」
「俺に絡んでる暇があったら、早く寝ろ」
ほら。やっぱり、と思う。やっぱり、答えてくれない。不貞腐れて黙り込んだ日和に、呆れた声が囁く。
「ほら。電話、切れるか?」
「切れます。……大丈夫」
黙っているうちに急速に眠くなってしまった。後半がしっかりと言葉になっていたのか自信がない。「寝てるだろ」と静かな声が笑う。「寝てません」と反論したつもりだったのだが、もしかすると夢の中だったのかもしれない。
もう一言、二言。声が聞こえた気もしたけれど、なにを言っているのかはわからなかった。けれど、その声が近くて。あの部屋で一緒に寝ているみたいだと思った。
「終わった……」
ノルマはどうにかやり終えたものの、とてつもなく眠い。それなのに、電話をしたいという欲望がしつこく頭に居残っている。
――明日の朝はバイト入ってないはずだけど。でも、つぼみはあるし。
この時間に電話をかけていいかとなると、あまりよくはないだろう。はぁと溜息を吐いて、机にぺたりと頬をくっつけた。
あの人、忙しいからなぁ。浮かんだそれに、自然と眉間に皺が寄る。コンビニエンスストアでの早朝バイトについて尋ねたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
自分が口を出すことではないと承知しているが、あの忙しさはどう考えても身体に悪い。つぼみの外でも時間を共有するようになって、日和は心底そう思うようになっていた。
――つぼみの給料だけじゃ厳しいからって言われたら、いや、まぁ、返す言葉もなにもないんだけどさ。
おまけに、不満そうに見えたのか、「民間のフリースクールなんてどこもそんなものだし、つぼみは格段にマシな部類だ」と諭されてしまってもいる。
真木の言い分もわかるのだが、金銭面の問題だけでなく、体力的な心配も少しはしてほしい。恋人としてもだけれど、一ボランティアとしても、そう思う。
若さにかこつけて酷使していると、いつか無理がたたると思うのだが。溜息をこぼして、スマートフォンの画面をなぞる。なにも言えないが、心配することは日和の自由のはずだ。
――そう思ってる、はずなんだけどな。
結局、自分の寂しさ優先で電話をかけたくなっている。子ども扱いされても、文句も言えない有様だ。
そう自嘲したくせに、とうとうアプリを起動してしまった。ラインだけ。送るだけ送って、既読にならなかったら大人しく寝よう。言い訳のように繰り返して、一言送信する。
数分眺めてみたものの、既読になる気配はない。諦めて、日和はベッドに倒れ込んだ。いや、でも、いいんだ。自分を納得させるためにそう言い聞かせる。
週の半分近くを早朝勤務のシフトに入る真木の生活リズムは、基本的に規則正しい。そのリズムを崩してまで起きているのは、つぼみの仕事が大変な証拠にほかならない。そういう意味では、すぐに既読ならないことはいいことだ。
――あの人、俺が泊まってるときも、日付変わる前に寝ろって言うからなぁ。
連想した他愛もないやりとりに、ふふっと笑みをこぼしそうになった瞬間、手の中のスマートフォンが震えた。危うく取り落としかけて、――表示された名前に、一気に目が覚める。
「も、もしもし!」
「真夜中でも元気だね、おまえ」
勢い込んだ日和と対照的に、スマートフォン越しに聞こえる声は静かだった。
その声が、疲れ切った心にどうしようもなく染みていく。スマートフォンを握りしめたまま、噛みしめるように日和は頷いた。
「もう終わったのか?」
「終わりました。……ちょっと、疲れる」
こぼしてしまった愚痴にも、真木は否定的なことは言わなかった。
「そうだろうな」
「日誌とか指導案とかが大変なのはもちろんなんですけど。一日中、ずっと気を張ってるみたいで。家に帰ると、どっと疲れが出るというか」
「真面目だからな、日和は。学校にいるあいだ手ぇ抜けないんだろ」
「……真木さんは」
「ん?」
「どうだったんですか。実習期間中」
「あー……」
思い出すように数秒。言葉が途切れたあとに、返ってきたのは「どうだったかな」というはっきりとしない応えだった。
「四年も前だしな。でも、あれだろ。おまえ、モテてるだろ。女の子に」
「実は、それもすごくストレスで」
黙っていてもどうせバレるのだ。観念して日和は吐き出した。好かれることがうれしくないわけではないけれど、なにごとにも限度というものはあると思う。
ラインはやってるの、連絡先教えて、彼女はいるの。そういった答えづらい質問のオンパレードにも疲れるし、教育実習に来ている男子学生の僻みと同情が入り混じった視線も、なかなか精神的にくるものがある。
しかも、あの年頃の女の子は、「教えられないんだ」だとか「ごめんね、内緒」だとかの濁した回答では、素直に諦めてくれないのだ。その場は立ち去ってくれたとしても、次の日にはまた同じ質問をぶつけにくるのだから本当に際限がない。
「恵麻ちゃんたちが懐かしい……。あの子たち、俺の連絡先なんて、まったく興味なかったんだろうな」
振り返って考えれば、香穂子にも最後まで聞かれなかった。
「あの子たちからしたら、おまえはちゃんとスタッフだったんだろ。どの子もみんな、そういう一線は引いてるよ」
「じゃあ、今は」
「中学生からしたら、教育実習生なんて、ていのいいおもちゃだろ」
にべもなく断定されて、日和は口を曲げた。
「そりゃ、そうかもしれないですけど」
「まぁ、教師になったら、そうじゃなくなるよ」
あたりまえの事実として真木が言う。
「明日もやることいっぱいだろ。早く寝ろ」
「真木さん」
「なに」
「声が聞けて、うれしかった」
「そうか」
「うん。ありがとう」
通話を終わらせないといけないとわかっているのに、なかなか切ることができなかった。
続く沈黙に、「寝ろよ」と真木が苦笑する。けれど、それだけだ。真木はいつも日和が自分で切るまで待っていてくれる。甘やかされていると思う。
「会いたい」
口を吐いたそれに、真木が笑った。まるきりの子ども扱いに、声が尖る。いつも、いつも。俺ばかりだ。
「寂しくないんですか。俺は寂しい」
「俺に絡んでる暇があったら、早く寝ろ」
ほら。やっぱり、と思う。やっぱり、答えてくれない。不貞腐れて黙り込んだ日和に、呆れた声が囁く。
「ほら。電話、切れるか?」
「切れます。……大丈夫」
黙っているうちに急速に眠くなってしまった。後半がしっかりと言葉になっていたのか自信がない。「寝てるだろ」と静かな声が笑う。「寝てません」と反論したつもりだったのだが、もしかすると夢の中だったのかもしれない。
もう一言、二言。声が聞こえた気もしたけれど、なにを言っているのかはわからなかった。けれど、その声が近くて。あの部屋で一緒に寝ているみたいだと思った。



