好きになれない

 大学進学で上京した土地に比べると田舎である。という事実を差し引いても、教育実習先の中学校からの帰りはいつも暗かった。
 通っていた当時はなんとも思っていなかったが、部活や塾で遅くなると、女の子は怖く感じるのかもしれない。ごく自然と浮かんだ想像に、日和は小さく苦笑した。そんな方向に思考が働くようになったのは、間違いなくつぼみの影響だ。
 恵麻や凛音といった顔が過って、疲れ切った身体にほんの少し力が戻る。教育実習でしばらく休むと告げた日和を、がんばれと笑って送り出してくれたのだ。一週間で音を上げるわけにもいかないだろう。
 自転車を自宅のガレージに止めて、よし、とどうにか気合いを入れる。家に帰りついても、やることはまだまだ残っているのだ。
 ――実習日誌書いて、指導案も書いて、……模擬授業も始まるから、そっちも確認して。日付変わる前に終わるのかな、ぜんぶ。
 自分の要領が悪いせいばかりでないことは、姉の生ぬるい笑みで実証済みだ。なんの慰めにもならないが、そういうものらしい。
 気合いでは誤魔化し切れない疲れを感じて、溜息ひとつで実家のドアを開ける。気力と体力はべつの問題なのだ、たぶん。
「おかえり。おつかれさま」
「ただいま。……って、あれ。今日、母さんいないんだっけ」
 台所から聞こえた姉の声に、日和は朝の記憶をひっくり返した。夜は用事があると言っていたような、いないような。
「今日は友達とごはんだって言ってたじゃない。私も少し前に帰ってきたところなのよ。ついでに温めておいてあげるから、先にお風呂入ってきたら?」
「そうする」
 ありがとうとお礼を付け足して、のろのろと風呂場に向かう。その背中に「大変そうね」との含み笑いが飛んできて、日和は苦笑いで頷いた。


「今日で一週間でしょ。どう? ちょっとは慣れた?」
 山と盛られたカレーライスに、すごい量だなと内心で引いていたのだが、向かいの席に座った姉の皿も、自分と変わらない大盛り具合だ。おまけにビールまでついている。
 このくらいぺろりと平らげる元気がないと、やっていけないのだろうか。抱いた疑惑に、日和は「いただきます」と恐る恐る手を合わせた。
 眠気と戦いながらスプーンを動かしていると、再び姉が話しかけてくる。
「それで? ちゃんとやってるの」
「日和さんのところの末っ子かって言われるのが地味に一番堪える」
 教師一家の宿命かもしれないけれど。ぼやいた日和を、姉は明るく笑い飛ばした。
「しかたないわよ、私もそうだったもの」
「おまけに、俺が中三のときに担任だった先生がまだいてさ」
「あ! 宮原先生でしょ、懐かしい」
「あの智咲くんがこんなに立派になってって、おばあちゃん面されるのが、正直しんどい」
 頼りなかったのに、随分しっかりしたわねぇ、なんて言われても、笑うしかない。十年近く前の話なのだから、多少はマシになっていてしかるべきでなかろうか。それは、まぁ、そのころの自分は頼りなかっただろうが。溜息ごとカレーを呑み込む。
 ――あ、なんか、真木さんのカレー食べたくなってきた。
 恵麻いわくの、有りものを適当に放り込むから味が安定しないが、ほかの料理よりは格段にマシ、というあれだ。
「でも、あんた、実際に、この一年でぐっとしっかりしたもの。宮原先生も驚かれたんじゃない? お正月に帰って来たときは元の木阿弥って思ったけど、持ち直したみたいで安心した」
「んー、うん」
 曖昧に相槌を打ってスプーンを進める。懐かしい味ではあるのだが、なんだか物足りない。
 ――一週間でホームシックにでもなってんのかな、俺。いや、ここがホームなんだけど。
 思い返すと、鍵を貰ってからの自分は、週の半分近くをあの家に入り浸って過ごしている。さらに、ボランティアではあるものの、火曜日なんて丸一日一緒だ。
 もしかすると、やばいくらい真木に依存しているのかもしれない。改めて意識するとぞっとしないが、考えるのは実習を終えてからにしようと日和は棚上げを決め込んだ。
「ところで、やっぱり彼女いるでしょ、あんた」
「……なんで」
「疲れてるはずのあんたが、真夜中にいそいそ電話してたら、そりゃ、そう思うわよ。ねぇ、彼女なんでしょ?」
 明解に告げられて、言葉に詰まる。
「なんで知ってんだよ」
「だって、壁越しに聞こえるんだもの。内容までは、さすがにわからないけど。あの部屋の壁が薄いの、知らなかった?」
「聞くなよ」
「聞きたくもないわよ、弟の甘い声なんて。似合わなくて笑っちゃうから」
 そんな声は出していないと思うのだが、姉に口で勝てるはずもない。黙って目の前のカレーに集中することで、日和はお茶を濁した。
「それにしても、あんたがねぇ」
 完全に酒のつまみ状態だ。缶ビールを揺らしながら笑う姉の瞳は、ほほえましくもからかう気満々のそれである。
「彼女ができても相手もせずにほったらかしで。あっというまに振られるのがお決まりだったのに。二十一になって、ようやく大人になったわけだ」
「うるさいな」
「それとも面倒くさがりのあんたがマメになるくらい、本気になれる人に出会えたの?」
 本気。格好悪い必死さが本気ゆえのものだというのなら、きっとそうなのだろう。どうしてあれだけ必死に縋りつくことができたのか、自分でもよくわからない。
 でも、たぶん、ただただ必死だったのだ。離したくなくて、傍にいてほしくて、それで、あの人も応えてくれた。それだけのこと。
「私には言わなくてもいいけど。お母さんには教えてあげたら? 夏にも言ったけど、あの人、気にしてるんだから」
 本気になった相手が男だと言えば、この笑顔は凍りつくのだろうか。それともぎこちなくとでも笑顔を維持して、受け入れようと努めてくれるのだろうか。
 どちらも想像がしづらくて、曖昧に日和は笑った。