好きになれない

「どこまで話したっけ。そうだ、それで、夏の大会が終わって、秋くらいかな。そいつに告白されて」
「え」
 ローテーブルを挟んで座った途端に投下された爆弾に、日和は驚きの声を上げてしまった。
「いや。そいつは、俺のこと兄貴分としか思ってなかったと思うよ。俺からしても、弟みたいなものだったし。本当の弟は、年も少し離れていて、外で遊んだりするのも嫌いだったから。俺の遊び相手にはならなくて。そういう意味では弟より相性良かったのかも。――あれ。もしかして、おまえ、悠生(ゆうき)と同い年なのか」
 気がつかなきゃよかった、と本筋の話よりもよほど嫌そうに真木が呟いた。
「悠生って、弟さんですか」
「そう。どこ行ったんだっけな。県外の公立大に進んだって兄貴が言ってたけど、忘れたな。まぁ、いいか」
「連絡を取ったりとか」
「しない、しない。もっぱら、俺に家のことを伝えてくるのは兄貴だな。というか、俺に連絡寄こすのが兄貴くらい」
 姉の顔が自然と頭に思い浮かんだ。年は離れているし、特別に仲が良いわけでもないが、姉の今を知らないという事態に陥ることは、きっとないと思う。
 それがあたりまえだと思っていた。
「話を戻すけど。そいつの後ろに、三年や二年の一部がいるんだろうなって、すぐにわかった。様子も変だったし。言わされたんだろうなって」
「……立派ないじめじゃないですか」
「そうかもな。でも、俺がそのとき思ったのは、ひとつだったんだよな」
 硬くなった日和の声とは正反対に、真木の声は変わらなかった。
「俺がここで断ったら、また、こいつがひとり面白おかしく責められるんじゃないかって」
「……」
「まぁ、俺はべつに、なにを言われても大丈夫だし」
 何年も前の介入することも不可能な過去の話だ。わかっていても、身体の芯が冷えていくようだった。
 ――女が好きな男の『好き』なんて、信じられるか。
 そう吐き捨てられたのも、この部屋だった。
「そいつも、嫌いじゃなかったし」
 淡々と真木は言った。そうして思い出したように付け加える。
「でも、最後の最後。知ってたって言ったら、泣かれてさ。あれはちょっと堪えたかな」
「え……?」
「根が真面目なやつだったからさ。良心の呵責に耐えかねたんだろうね。もうやりたくないって言ったみたいで。それで、俺にも真面目な顔で違うんですって言うから。――それが年明けくらいのころだったかな」
 夏の終わりから、年明けまで。どんな気持ちだったのだろう。想像しようと思ったけれど、できなかった。
「馬鹿だよね。三年が卒業するまでのあいだ、適当に相手してやったらよかったのに。俺が一番上になったら、また多少は変わってたかもしれないんだし」
 ふっと真木が笑った。目の前の自分ではない、どこか遠くを見ているような、それで。
「本当、馬鹿」
「……真木さん」
「誰もそんなことで傷つきゃしないのに、なんで泣くかなって」
 そんなことはないでしょうと諭したかった言葉が、喉の途中で止まる。
 でも、そんなこと、あるわけがないのだ。傷つかない人間なんているはずがない。もし、いるとすれば、それは、傷跡にすら気がつこうとしていないだけだ。目を逸らしているだけだ。
「だから、代わりに始末つけただけ」
「代わりにって」 
「実際、俺はそうだったし。そいつみたいに、自分を殺してまで必死に縋りつきたいほど、やりたかったわけでもなかったし」
 自分は本当にゲイだから。だから、なにを言われてもいいというのか。真木に向けるべきでない苛立ちが増幅しそうで、机の下で手のひらを握りしめる。
 自分ばかりが情緒を揺さぶられているみたいで、なんだかよくわからなくなった。この人は、今、なにを考えているのだろう。
「それだけなのに、馬鹿だなって」
「なにしたんですか?」
 熱源を押し出すように、日和はあえて軽く問いかけた。
「若気の至りということで詳細は省くけど。ちょっとね。想像もしたくない修羅場ができあがっちゃって。なんでああなったかなぁと思わなくもないけど、まぁ、タイミングが悉く悪かったんだろうね」
 なにをしたというよりも、なにかが起こったのかもしれない。真木の口ぶりから、なんとなく日和はそう思った。彼の同級生は恨まれていると思っていたようだけれど、この人の中では誰のせいでもないできごとだったのではないだろうか、と。
「そいつは泣くし、和は切れるし。切れたついでに部室のドア壊しやがったから、その音にビビったやつが教師まで呼んでくるし。それで大ごとになっちゃって」
 なんでもないと言い聞かせるように、先ほどの日和と同じ軽い調子で真木が笑う。
「どうする気だって教師に言われたから。じゃ、俺がバスケ部やめます。ぜんぶ俺のせいですって。それで終わるなら儲けものだって思ったし、一番丸く収まるかなって」
 その言葉に、ふっと日和は虚しくなった。なんで、そういうふうに考えることしかできないのだろう。この人の言う「丸く」は、致命的に本人が円の中に入っていない。
 平均以上に恵まれているはずなのに、自分を軽んじて過分を求めない。たびたび心に過っていた思いが、また強くなっていく。なんで、そうなのだろう。
「本当にそれだけだったのに、無駄に校内で目立っちゃってね。とは言え、それも我慢できないようなことじゃなかったんだけど」
 不意に言葉が途切れたと思った次の瞬間、真木の瞳が困ったふうに瞬いた。
「だから、なんで、おまえがそういう顔するの」
 その瞳に自分がどう映っているのか、日和にはわからなかった。悔しい。悲しい。なんで、と訴えたくなる焦燥。こんな感情は、この人と深く関わり合うようになるまで知らなかった。
 自分のことでもなんでもない、他人の過去の話なのに、どうしようもなく燻られる。
「昔の話だよ、ぜんぶ」
 日和を宥めようとする優しい声が、幕切れを告げる。
「俺が田舎に帰らないって言ったのは、親と折り合いが悪いから、無理してまで帰ろうと思わないっていうだけだし。これとはなにも関係ないよ」
「なんで」
「なんでって、俺が、『こう』だから。認めたくなかったんだろ。自分の息子が、普通のレールから外れていくことを」
 ようやく絞り出した声は、ひどくぎこちないものだった。その日和に向かって、真木は頑なな子どもに言い聞かせるように続ける。そんなふうに話すことができるまでに、どれだけの時間がかかったのか、葛藤があったのか。日和はなにも知らない。
「それもわからなくもないしさ。お母さんの育て方が悪かったのかしら、なんて。昭和のテレビドラマみたいなこと言われても、なんかごめんとしか言いようがないし。でも、生まれ持ったものだし、変えようもないし。兄貴も弟も普通だし。だったら、俺がひとりで好き勝手していても問題ないだろって。それだけ」
 だから大丈夫だ、と彼は簡単に笑ってみせる。
「俺はそれで楽しくやってるし。繰り返しになるけど、それだけ」
「それだけって」
「だから前にも言っただろ。俺は楽なほうに逃げてるだけだって」
 話の終わりを悟って、言い募る言葉を日和は呑み込んだ。どれだけ自分が言葉にしても、きっと響かない。
 ――でも、いい。
 真木さんが、真木さんを大事にしないなら。その分、俺が大事にしたらいい。
 子どものような決意だった。それくらいしかできないけれど、それくらいならできる。沈黙の中で、日和は握りしめていた指先から力を抜いた。
 そうして、ふと問いかける。半分は、ただの興味だった。
「どんな人、だったんですか」
「そうだな。ちょっと、おまえに似てたかな。もちろん、そんなに美形じゃなかったけど。わりと整った顔してて、女の子からも人気があって。そんなナリのくせに、気が小さくて。でも、真面目で、馬鹿だったな。まぁ、でも」
 真木が窓へと視線を向けた。藍色のカーテンが重くのしかかっている。
「かわいかったよ」
 その声に日和は息を呑んだ。また指先にぎこちなく力が入る。日和に視線を戻しもしないまま、真木が立ち上がった。
「ごめん。ちょっと、煙草」
「ここで吸ったらいいのに」
 口をついた声は、思っていたよりもいつもどおりのものだった。自分でも意外だったけれど、ほっとした。
「やだよ。引っ越すときに金かかる」
「そんなに吸わないでしょ」
「たまに吸うよ。日和も吸うんだってね、そういや」
「似合いませんか」
「どうだろ。べつに、でも、いいんじゃない。似合っても、似合わなくても」
 言葉遊びのような会話を終わらせて、真木がカーテンを引く。外は、もう夜の最中だった。
 入り込んできた外気の冷たさから逃れるように、日和はうつむいた。煙草の匂い。あの朝、嗅いだものと同じ。
 いつか。ふと思った。いつか、こんなふうに、淡々と自分のことを彼が語る日が来るのかもしれない。あの夜と同じ声で。かわいかったよ、と。でも、それだけだったけどね、と。
 ――寒い。
 寒いと思った。寒い。寒い。怖い。
 だから、それは、ほぼ無意識の衝動だった。気がついたときには、その背を腕に抱き込んでいた。肩に額を埋める。煙草と、夜の匂い。夜に攫われてしまいそうな儚さなんて、皆無だ。消えるとしたら、この人は自分の意志でいなくなる。跡形もなく痕跡を消し去って。
 吸いさしを日和から離すように空に向けて、真木がちらりと振り返った。
「おまえ、好きだね。背中にくっつくの。コアラか」
 呆れたような、けれど、拒絶のない声だった。
「コアラって、背中にひっつくんですか」
「知らないけど。見たことないし」
「……そうですか」
「違った。ひよこだったな、日和は」 
 ぴよちゃん、と。はじめて会った日。衒いのない笑顔で呼んだのは、雪人だった。もう、一年。また、春がやってくる。
「それも、刷り込みが一段と強力な」
 喉の奥で真木が笑った。短くなった吸いさしからは、細い紫煙がゆるゆると立ち上っている。
 たまらなくなって、囁く。押し殺した声で。そうやって殺さないと、寂しさがあふれてしまいそうだった。
「好きです」
「そう」
「好きです」
「うん」
「好きなんです」
「……知ってるよ」
 溜息まじりの声が、折れて受け止める。もっと深い確証がほしくて、その頬に指を伸ばした。振り向かせれば、間近で瞳が瞬く。その瞳が、ふっと諫める調子でほほえんだ。同じように指先が伸びてきて、日和の唇に触れる。そして。
「今日は、駄目」
 と静かに言った。