好きになれない

「なんか、かわいそうになっちゃって」
 と、真木は言った。それが、どういう関係の人だったんですか、と悩んだ末に尋ねた日和への回答だった。
 昔の話だよ、とも言い置いて、なんでもないふうにかすかな笑みを浮かべる。
 深くなり切る前の夜が、その顔を静かに見下ろしていた。そういえば、真木さん、歩くの好きだって言ってたな。少し前を行く真木を追いながら、そんなことを日和は思い出していた。
 夏に聞いた話だ。そのときは相容れない価値観だと思ったけれど、今はわからなくもない。この人とふたりで歩く静かな時間は、日和にとって心地のいいものだった。
 ――最近、いつもふたりで抜けるじゃないですか。たまには付き合ってくださいよ。
 そう言い募る愛実に断って打ち上げを抜けた日和は、外で待つ真木の姿を見つけて心底ほっとした。自分の行動を見越して、しかたなく待っていてくれただけでも、構わなかった。
「日和が気にするような話じゃないんだけど。でも、まぁ、気になるよな、ああいう場面に出くわすと」
「……はぁ」
 だからしかたないと言わんばかりの言い方に、知らず相槌が渋くなる。気がついているだろうに、真木は変わらなかった。
「あの情緒不安定そうな先生は、簡単に言えば、俺の高校の同級生で、部活仲間。感情が高ぶりやすいわりに気が弱くて、それを隠すために悪ぶってるっていう。いただろ、学年にひとりやふたり。そういうタイプ」
「はぁ、まぁ、いたかもしれないですけど」
「夕方にも言ったけど、ひとりで悶々と考えてるうちに爆発しちゃったんじゃないかな。でも、まぁ、もう来ないと思うよ」
 他人事といった淡々とした調子に、つい「嫌いじゃないんですか」と口走ってしまった。嫌いというか、腹が立つというか。そういうふうに思わないものだろうか。
 その問いに、真木が首を傾げた。合点がいったらしく、あっさりと笑う。
「あまり誰かを嫌いだって思わないんだよね、俺。まぁいいかで済ませちゃうというか。怒るエネルギーがもったいないというか。こんな仕事してるくせに人に興味がないんだろうね、結局」
「そんなことはないと思いますけど」
「いや。あるんだと思うよ。昔から、俺、こんな感じだし。なんというか、なにごとにもこだわりがあまりないというか。周囲から浮いてるとまでは言わないけど、進んで迎合するタイプでもなかったから」
 今の真木のイメージとは少し違うと思った。あるいは、日和の思う「今の彼」が、仕事にあわせて無理をしてつくった姿なのだろうか。浮かんだ疑念を振り払うように軽く頭を振る。
 ――そんなこと、ないよな。
 真木は、真木だ。日和にとって、出逢った真木がすべてだ。
「だから、俺のことを気に食わないやつがいても、しかたないかなと思ってたんだけど」
「それが、さっきの人なんですか?」
「まぁ、そうだな。そのうちのひとりだった。言ったことあったかな、俺、高校のときバスケ部だったんだけど」
 自慢じゃないけど、それなりにうまかったから、と真木が言う。感傷の類のいっさいない事実を伝える声で。
 経験年数に準じたレベルでしかなかったんだけど。まぁ、そんなこと言っても、入ってきたばかりの一年にスタメン獲られたら、いい気はしないだろうし、と。
「俺もね、愛想を良くするなり、上に気に入られるようにするなりして立ち回ったらよかったんだけど。それも性に合わなくて。と言っても、部内全体でどうのこうのってわけじゃなかったし、べつにいいかなって思ってた」
「俺だったら、絶対、無理です。そんな空間」
「まぁ、日和は体育会系と無縁そうだから、そうかもね。でも、中途半端な強豪だと、そういうところも多いんじゃないかな。体罰とか、いじめとかね。ないところもあるだろうけど」
 嵌められたのかなとも俺たち後輩は言ってたんだけど。どっちにしろ、あの人、あっさりやめちゃったから。
 ふと水原が言っていた言葉が過った。あっさり。いとも簡単に真木は話しているが、だからと言って、本当に「あっさり」だったはずはないのに。そう思うのに、言えなかった。
「それで、――そんななかでも、俺に懐いてた変わり種もいて。ひとつ年下のやつで、ミニバスのころから一緒で、中学も同じだったから。後輩というより幼馴染みみたいなものだったんだけど」
 淡々としていた真木の声に、はじめてかすかな哀愁が混じった気がした。そっと窺った横顔は、変わらない静かな笑みを湛えていたけれど。
「そいつが入学して、俺らも二年になって。部活の空気もまたちょっと変わって」
「いじめがなくなった?」
「そうだな、表立っては。ベンチメンバーに入れなかった一部からの当たりはきつかったけど。そのくらい」
 そのくらい、か。俺だったら十分に嫌だな、と。あえて茶化すように日和は想像した。やはり体育会系は恐ろしい。
「そいつはね、すごくバスケがうまくて。バスケ馬鹿っていうのかな。とにかくバスケが好きなやつだった。あっというまにスタメンになって、あれよあれよと地区大会も勝ち進んじゃって。創部以来初の全国大会出場。田舎だったから、大騒ぎで」
 気に食わなかったんだろうね。同じフレーズを真木は繰り返した。どう反応すべきかわからなくなった視線が、暗い地面に落ちる。自分で聞いたことなのに。
 気がつけば、もう真木のアパートの前だった。階段を上っていく背中に、躊躇を呑み込んで日和も続いた。かつん、かつん、と。コンクリートに音が跳ねる。ぼんやりとした薄明かりの中に、声は響かない。
 ――聞いても、いいのかな。
 心の内で思い悩む。聞きたくないわけではない。けれど、聞いたところでなにをできるわけでもないことだ。真木も、本当は話したくなかったのかもしれない。自分があの場に姿を出してしまったから、当事者の責任として話してくれているだけで。
 ――でも。
 言い訳を断ち切って、心を決める。知りたいし、聞きたい。この人の心に触れたい。どんな理由であっても、話してもらえるのなら、真摯に受け取ろう。そう、思った。