好きになれない

「勝てない」
 体育館の床に座り込んだ学人が、むすりと呟いた。その不貞腐れ気味な視線は、コートでシュート練習をしている暁斗たちに注がれている。
 試合合間の休憩時間なのによくやるなぁ、と。日和もコートに視線を向けた。根気良く暁斗に教えている真木の体力は、いったいどうなっているのか。
 二試合参加しただけで、一日分の体力を使い切った気分の自分とは大違いだ。
「一年間がんばったって言ってたもんな、学人。大丈夫、大丈夫。去年よりちゃんとうまくなってるから」
 宥めるというより単なる事実を告げる調子で羽山が笑う。
「でも、勝てない」
「やめてからもそれなりに経ってるけど。あいつ、バスケ歴たぶん十年くらいあるから。すぐに勝つのは難しいな。ほら、言うだろ。継続は力なりって」
「十年……」
「うん、たしか。ミニバス始めたのが小二のときだったし、それくらいあるんじゃねぇかな」
「和は勝てんのかよ」
「どうかなー、俺もブランク長いから。でも、学人も手加減して勝たせてもらっても、うれしくねぇだろ?」
 口ではそう諭しながらも、羽山の指先はくるくるとバスケットボールを回している。
 体育の授業中にバスケ部員がしていたようなそれである。見ているうちにやってみたくなったのか、「俺もできる」と豪語した学人が、そのボールに手を伸ばした。
「お、……あれ?」
 想像よりも難しかったらしい。床に転がったボールを掴み直して、不納得の顔で再チャレンジをしている。二度、三度と果敢に続ける様子を見守りながら、羽山が言った。
「まぁ、あれだ」
「なんだよ」
「ぴよちゃんよりはうまいから安心しな。がんばった成果、ちゃんと出てるじゃん」
 気配を消していたはずなのに会話を振られて、思わず咽そうになる。
「ぴよこと比べられてもうれしくねぇよ。そいつ見かけ倒しじゃんか」
「あのね、学人くん。それ、普通に傷つくから」
「そうだぞー、学人。そういうこと言ってると怒られるぞ、基生に」
 なんでその名前をわざわざ出したと思うのは、日和の勘繰りなのだろうか。黙り込んだ日和を落ち込んだと捉えたのか、「教えてやるから元気出せよ」と学人が励ます台詞を口にする。
「うん、ありがと。でも、またあとでね」
「なんだよー、体力もねぇなぁ、ぴよこは」
「部活もしてない大学生なんてこんなものです。真木さんたちが異常なの」
「ぴよちゃんは基礎体力がねぇんだろ。そもそもとして」
「まぁ、否定はしませんけど」
「学人は、今、部活がんばってるだろ。このままいけば、体力のあるおじさんになれる」
「マジか」
「経験者が言うんだから間違いない」
 バスケットボールの技巧について弾み出した会話を横目に、日和はコートに視線を戻した。
 ……楽しそう。
 暁斗の相手をしている真木の横顔は、いかにも楽しそうだ。小学二年生から十年。それって、青春まるごとか。なにかを長く続けた経験は日和にはないから、純粋にすごいなと思う。
「そういや、うちの高校の先生がさ」
 話題の変わった気配に、日和は少し意識を戻した。
「バスケ部の顧問なんだけど。今日バスケ大会やるんだって言ったら、見に来ようかなって言ってた」
「おい、学人。それ、基生か優海さんにちゃんと言ったか?」
「だって、来れるかどうかわからないとも言ってたし。外から見るくらいだって言ってたから」
 咎める色の混じった羽山の声に、学人が慌てて言い足している。学校の、先生。日和はほぼ無意識に首を傾げた。それはまた随分と熱心な先生もいたものだ。
 ――でも、まぁ、九割九分、社交辞令か。
「どうかしたの?」
「優海さん」
 ジャージ姿でもどこかエレガントな雰囲気の優海が近づいてきて、ふわりとほほえむ。
 アンテナの精度の高さに驚きつつも笑みを返した日和の傍で、学人は少し落ち着かない様子だ。その頭に、苦笑ひとつでぽんと羽山が手を置く。
「ほら、学人。話すなら、早めに話しとけって。ちょうどよかったじゃん」
「あら、なぁに。学人くん」
 視線を合わせて笑いかけた優海に口ごもっていた学人だが、それもほんの少しのあいだだった。促されるままに、ぽつぽつと経緯を話し始めている。
 その様子にほっとして、あいかわらずだなぁとも日和は思った。真木もだが、このふたりも生徒の扱いが抜群にうまい。同じ時間を長く過ごしたからなのか、なんとなくではあるけれど、三人とも生徒と接するときの空気が似ているのだ。
「あのさ、それで。……勝手にオッケーしてごめん」
「教えてくれてありがとう。もうお説教は羽山くんにされたのよね。それで、ちゃんと駄目だったかなって考えてくれたんでしょう? なら、いいの。次からはもうしないものね」
 信頼をにじませた笑顔で、優海が頷く。
「でも、そうね。来ていただいたら、ご挨拶はしなくちゃ。春からは雪ちゃんと恵麻ちゃんもお世話になるんだし」
「でも、来るかどうかわかんねぇよ。来ないかもしれないし」
「うん。来られたら、ね。学人くんにバスケを教えてくれている先生なんでしょう? 一試合入ってもらうのもいいかもしれないわね。あら、もしかして」
 優海の声に、学人が視線を上げる。
 本当に見に来たんだ。感嘆とも呆れともつかない心地で、体育館の入口に視線を向ける。かすかに開いた戸の向こうには、たしかに人影があった。
「あ、先生だ」
 学人の呼びかけに、戸がさらに引かれ、背の高い青年が姿を現した。一礼した顔に控えめな笑みが浮かぶ。
 ――休みの日に生徒の様子を見に来るって、すごいな。
 学人が元不登校児だから、特別に気をかけているのだろうか。その学人はと言えば、優海と教師とをそわそわと見比べている。
「じゃあ、一緒にご挨拶しましょうか」
 安心させるように優海が背を押すや、先駆けて入口に向かっていく。それなりに懐いているらしい。勝手に安心していると、含みのある声が落ちてきた。
「ぴよちゃんはさぁ、仲直りできたの?」
 気がつけば、羽山とふたりきりになっている。避けたかったはずなのに。観念して日和は羽山に向き直った。チーム分けで一緒になったのが、運の尽きだったのだ、たぶん。
「はぁ、まぁ」
 誤魔化す術もなく曖昧に頷く。仲直り。真木からすれば喧嘩ですらなかったのだろうが、ほかにどう表現すればいいかわからなかったのだ。
「どう? 面倒くさいやつだったでしょ、あいつ」
「……いや、そんなことは」
 ないとも言えないが、はいとも言い切れない。言葉を濁した日和の心境などお構いなしの調子で、羽山は笑っている。
「まぁ、でも、悪いやつではないからね。ご存じのとおり。駄目なやつだけど」
「はぁ」
「ぴよちゃんさぁ」
「なんですか」
「考えてることが、もろに顔に出るタイプだね」
 日和は黙ってうつむいた。床の目に視線を落とす。居た堪れない。「あいつがかわいがるのも、わかる気がするわ」との台詞が、正確に追い打ちをかけてくる。
 しょせん、子ども。そう言われているように感じるのは、被害妄想なのだろうか。たかが四つ。されど四つ。子どものころならば、もっと大きく感じただろう年齢差だ。日和が社会人になれば、次第に気にならなくなるのだろうか。
 ――それとも、このままずっと子ども扱いされてんのかな、俺。
 マイナス思考に陥ったまま、床の目を数える。ひとつ、ふたつ。三つ。
「まきー、優海さんが呼んでる」
 きゅっきゅと床とシューズの擦れる音が通り過ぎていく。つられて視線を持ち上げれば、コートに入った学人が真木に声をかけているところだった。
「来てるの、俺の先生。まきの代わりは俺が入るから」
 ちらりとその視線が動いて、入口のほうを向く。一瞬、嫌そうな雰囲気になった気がしたのだが、気のせいだっただろうか。暁斗に断って学人にボールを預ける真木の態度は、まったくのいつもどおりに見えた。
 ――学校の先生、嫌いなのかな。
 その想像で日和は納得することにした。新年会の席で、酒に酔った愛実が、「画一的な学校教育への不満」やら「学校の教師の頼りなさ」への憂いやらを熱く訴えていたことを思い出したからだ。独自の教育論など日和は持たないが、つぼみに自らやってきたスタッフであれば、こだわりがあってもおかしくない。むしろ、そのほうが自然だろうと思う。
「代わってやろうか?」
「いらねぇに決まってんだろ」
 近くを通り過ぎざま、羽山がかけた声に対する返事もいつもどおりだったので、やはりそういうことなのだろう。それでもなんとなく気になって視線で追いかけた日和だったが、隣から声がかかった。
「じゃ、しかたない。ぴよちゃんと俺とで得点係しましょうか」
「あ、はい」
 慌てて視線を外して立ち上がる。壁にかかる時計は休憩の終わりを示していて、コートには生徒たちが戻り始めていた。みんなまだまだ元気そうだ。
 バスケットボール大会と銘打っているものの、参加者はスタッフを合わせて二十名に満たない人数だ。おまけに、経験年数も性別も年齢も、みんなばらばら。学人のように負けん気をむき出しにしている生徒は少数派で、残りの大多数はスリー・オン・スリーを和気あいあいと楽しんでいる。
 お、また、入った。歓声に沸くコートをほほえましく見つめながら、日和は得点板の点数を捲った。五対二。運動は嫌いだと言っていた雪人も楽しそうで、その姿にほっとする。公式戦でもなんでもないのだ。上手下手に限らず楽しんでいることが一番だろう。
「あら、あら。恵麻ちゃんたちのチームが善戦してるじゃない」
「おかえり、優海さん。先生さん帰ったの?」
 いきなり隣から聞こえた声にぎょっとしたのだが、羽山は気がついていたらしい。愛想の良い声が平然と会話を受けている。
「仕事終わりに様子を見に来ただけだから、ゲームはご勘弁をって断られちゃったわ」
 その台詞にコートから入口に視線をそっと動かしたのだが、誰の姿も見当たらなかった。あれ、と内心で首を傾げる。
「そうなんだ。基生は?」
「その先生と、外で少しお話してくるって言ってたから。しばらくは戻ってこないかも」
 学人の目のないところで引き継ぎたい話でもあったのだろうか。思考を巡らせつつ、日和は得点を変えた。七対二。ツー・ポイント・ラインの外側からシュートを決めたのは学人だ。この試合が終わるまでのあいだくらい、見ていてあげてもいいだろうにとも思いながら。
「世間は狭いわね。真木くんの知り合いだったんですって、その先生。羽山くんも知ってる? 高校の同級生だって言ってたけど」
「あー、どうっすかね。うちの高校、八クラスはあったからなぁ。俺もあいつとばっかりつるんでたわけでもないんで」
「それもそうね。お友達なら羽山くんもお話したかったかしらと思っただけよ。違うならいいの」
 その確認だけだったらしく、あっさりと笑った優海は、応援している凛音たちのほうへ歩いていってしまった。その背を見送って、誰もいないとわかっている入口にもう一度視線を送る。
 ――高校の同級生って、なんで、また。
「ぴよちゃんさぁ。気になるなら、見に行ってもいいよ。得点係は俺ひとりでもできるから」
 ぼそりと届いた声に、日和は羽山の顔を見た。
「俺が行って、問題大きくしても困るからさ」
「……お知り合い」
「知り合いって言いたくないレベルの知り合いだけどね。まったく妙なところで縁が繋がるから人間関係って本当に面倒」
 コートを見つめたまま、口元だけで羽山が笑う。
「まぁ、地元から遠く離れた場所ってわけでもないからね。そういう意味ではしかたないんだろうけど。あいつは引きが悪いから」
 ぴよちゃんの大学にもさ、いたでしょ。俺らの後輩。だから、なんだ。こうやって繋がっていても、ちっともおかしくはないんだろうけど。なんでもないことのように羽山は続ける。コートの中で、また歓声が上がる。学人だ。日和が捲るべく担当チームの得点だったのだが、伸びてきた羽山の手が無造作に捲り上げていく。
 バスケットボールを追いかける生徒たちと、閉まったままの入口とを見比べること、三度。日和は小さく頭を下げた。できるだけ目立たないように、そっと体育館を抜ける。
 小さなロビーは、ひどくがらんとしていた。無人の受付の前を通って靴を履き替え、そのまま外に出る。冷たい空気に、日和は首を竦めた。
 こんな寒いところで、わざわざ話さないといけないことってあるのかよ。そんなことを思う。わざわざふたりじゃなきゃ話せないことってなんだよ。
 それは、嫉妬というよりも、やるせなさに近い感情だった。羽山が言わなければ、自分がなにも知らないあいだに、すべて終わらせられていたとわかるから。
 そういう人なのだ。でも、それで、俺もなにも言えないんだよな。溜息を吐いて、建物の裏側へ足を進める。声が聞こえたのは、角を曲がろうとしたときだった。反射的に踏み出しかけた足が止まる。
「おまえ、こんなところで『先生』してたんだな」
 旧友との再会を懐かしんでと評するには、随分と棘のある声だった。半ばわかっていたことでも気持ちの良いものではない。そうして同時に、やっぱりな、とも思う。真木のあの表情は、気のせいではなかったのだ。
「生徒の口から、おまえの名前聞いて驚いた。知ってるか? 地元じゃ、おまえ、死んだみたいに思われてるぞ」
「さすがに死んだら噂になるだろ。あんな場所だ」
「それはそうかもな。なんでもすぐに広まる町だ」
 試すような言い方に首を傾げる。ここからは真木の背中しか見えない。喧嘩に乗るような人ではないと思うが、大丈夫だろうか。
「なにが広がっても、べつにいいけど」
 日和の不安を一蹴する、いつもどおりの淡々とした声だった。
「それで、死んだと思ってたような相手になんの用だよ」
「なぁ、おまえさ。その『死んだ』って、俺らに殺されたとでも思ってんの?」
 不穏な言葉の応酬にどきりとした日和と裏腹に、真木の態度は変わらなかった。
「なにをいまさら」
 呆れたように笑う調子も、相手に向ける声の温度も、なにもかもいつもどおり。それなのに、なんだか胸が落ち着かない。
 なにも言わない相手を持て余したのか、真木が小さく溜息を吐いたのがわかった。
「おまえ、本当になにしに来たんだ? 弁解しに来たわけはないよな。俺に昔の悪行を吹聴するなとでも釘刺しに来たのか。まぁ、そんなことできるわけも……」
「やっぱり、そういうことか」
 跳ね上がった相手の声に、反射でぴくりと肩を竦める。喧嘩は嫌いだが、そもそもとして、大きな声自体がちょっと苦手なのだ。
「そうやって、俺のことを陥れるつもりだったんだろう」
「……冗談のつもりだったんだけど」
 困惑を隠す気もない調子で、真木が否定する。
「俺がおまえを陥れるって、なに。意味がわからないんだけど」
 出て行ったほうがいいのだろうか。喧嘩は嫌いだし、面倒ごとにも関わりたくはない。でも、それとこれとは話がべつだ。悩んだものの、日和は耳をそばだてるに留めた。
 自分が首を突っ込むほうが邪魔だと言われる未来は、残念だが目に見えている。
「俺が県立高校にいるって知って、仕返しにちょうどいいと思ったんじゃないのか?」
「俺、そんな陰湿なことした記憶ないんだけどな」
 されたことはあっても、と注釈のつきそうな雰囲気に、水原に聞いた話が頭に浮かぶ。高校の部活で揉めた、というようなこと。
 ――高校の部活で揉めたっていうのは、たぶん本当の話なんだろうけど。あの人、言い訳のひとつもしないでやめたらしいよ、部活。
 それを聞いたとき、いかにもらしいと思ったことを覚えている。
「そもそも、どう仕返ししろって言うんだよ。おまえの学校に匿名で苦情でも入れろってか」
「おまえの親父、県教委にいるだろうが。白々しい」
 けれど、もしかすると、なにを言っても通じない相手だから、面倒になって言わなかったのかもしれない。この数分で日和は思い直しつつあった。
 なんというか、ものすごく面倒くさそうな人だ。心の底から真木に同情したい気分で、もろもろを呑み込む。なにを言っても自分が思うようにしか受け取らない人って、たまにいるよな。
「言いたいことは、だいたいわかった」
 日和以上になにを言っても無駄だと承知しているのだろう。応じる真木の声は、どうにか呆れを抑えたというふうでしかなかった。
「安心しろよって言うのもなんだけど。そういうことする気は、俺にはいっさいないから」
「……あいかわらずだな。その、おまえのどうでもいいって顔。人のこと下に見て、馬鹿にして、それでおいしいところだけ持っていくんだよな、いつも」
「何年前の話だよ、それも」
 さすがにうんざりとしたのか、嫌そうな雰囲気がにじむ。珍しい。邪魔だと言われても、首を突っ込むべきなのだろうか。迷っているうちに、面倒くさそうに真木が言い捨てた。
「あのな。おまえが来なかったら、俺はおまえのことなんて思い出さなかったよ。でも、それも、なかったことにして忘れたままでいてやるから、もう帰れ」
「もう、帰れ?」
 偉そうにと言わんばかりの反応に、喧嘩ってこうやって起こるんだなぁ、と日和は天を仰ぎたくなった。真木本人に喧嘩をする気はないと思っていたが、もしかすると、そんなことはなかったのだろうか。
 ――あと十秒。十秒待って、なにも変わんなかったら、あとでなに言われてもいいから、首突っ込みに行こ。
 できることなら関わりたくない相手だが、やはり話はべつなのだ。耳を疑う発言が飛び込んできたのは、そう決めてカウントを始めた矢先だった。
「おまえこそいいのか、そんな態度で。おまえのところの面倒な生徒、今は俺が受け持ってるんだけど。来年もまた新しいのが来るんだろ?」
 あ、これ、やばい。日和は咄嗟に足を踏み出した。
「真木さん」
 用事があって呼びに来たていを装って、声をかける。
「あの、羽山さんが……」
「羽山?」
 いかにも嫌そうに繰り返されて、名前の選択を間違えたことを日和は悟った。とは言っても、いまさらどうにもならなかったのだが。中途半端な愛想笑いで、体育館を示す。
「あの、試合」
「羽山って、あいつか。この年でまだつるんでんのかよ、気持ち悪い」
「気持ち悪いって」
 さすがにその言い方はないだろう。つい口を挟みそうになったが、ちらりと動いた真木の視線で遮られてしまった。余計なことを言うなと告げてくる瞳に、不承不承で口を噤む。
 真木の対応が正しいことは、わかっていたのだ。その場その場の感情で、行動を起こしたりなんてしない。自分とは違う。
「また、そうやって年下飼い慣らしてんだな、おまえ」
 鼻先で笑って、じろじろとこちらを見つめる視線は、ひどく意地が悪そうで。学人が懐いているのだと想像すると、なんだかやるせなかった。来てくれたとうれしそうだったのに。
 それを、生徒に対する裏切りのように感じることは、おかしいのだろうか。その唇が、嘲るように言葉を紡ぐ。
「きみ、こいつのところで働いてるの? だったら、気をつけたほうがいいよ。こいつ、節操のない男好きのゲイだから。高校のときも」
「日和」
 すっと目の前に伸びてきた腕と、その声で、自分が前に出ようとしていたことに日和は気がついた。あ、と小さな声が漏れる。驚いたのだ。
「いいから、べつに」
 静かな声が、どうしようもなく居た堪れなかった。自分がなにをしようとしたのかはわからない。でも、あれは、真木のためではなく、自分のための行動だったのだと思う。
 ――怒りたいのは、この人のはずなのに。
 俺じゃない。それなのに、余計なことをしてしまった。うつむくと、ふっと真木が笑った気がした。
「お望みどおり、うちのパパに泣きついてやろうか? なんだかんだ言っても、俺は三人兄弟の末っ子でね。男好きのゲイでもかわいがられてるんだ」
 その声の温度に、はっと視線を上げる。相手を見据える真木の表情は一見変わらず淡々としているのに、なぜか不思議と威圧的だ。その調子のまま、黙り込んだ相手に向かって、真木が続ける。
「県立城西高校には、このご時世になってもLGBTに理解がないどころか、偏見を助長させるような暴言を吐く教師がいるが、教育的な影響としてどうなのかってな。LGBTの子どもを進学させることにも不安が募る。その教師の名前は――」
 よどみのないそれに半ば圧倒されていると、もういい、と慌てたように相手が遮った。よくわからない弁明を残して立ち去った背中は、腹立たしいを通り越してもはや滑稽で。
 無言のまま、真木に視線を向け直す。その視線を受けて、真木が軽く肩を竦めた。先ほどまでの怜悧な雰囲気なんて微塵もない、いつもどおりの態度。
「おまえって、案外、こういうときに頭に血が上るタイプなんだね」
「……俺も知らなかったです」
 というか、あんたじゃなかったら、こんなところまで見に来ないし、揉めてるところに口を挟もうとも思わねぇよ。そんな面倒なこと、俺はしない。
「べつにいいけど。女の子と一緒のときは気をつけろよ。それと、選ぶんだったら、頭を下げたことに感謝できる子にしろよ。私のために戦えとか言うやつは絶対やめとけ」
「なんの話ですか、それ」
 逃しようのない感情を持て余したまま、日和はそう吐き捨てた。それなのに、当事者であるはずの真木は、いかにも平然としている。
「小心者なんだよ、あいつ。昔から。だから、気にしなくていい」
「はぁ」
「たぶん、学人から俺の名前聞いて。それで、俺も自分のことを知ってるのかもしれない、とか。恨んでるのかもしれない、とか。なにかしてくるのかもしれない、とか」
「……はぁ」
「そんなことぐるぐる考えてるうちに、よくわからなくなったんだろ」
 相手を哀れむような言い方を真木がするから、なにをどう聞けばいいのかわからなくなってしまった。
 もっと怒っていいはずなのに。自分はなにを言われても構わないと思っているみたいで、日和はそれが嫌なのに。
「日和?」
 訝しむ声に、ぎこちない笑みを浮かべる。けれど、どうでもいいことしか言えなかった。
「そういえば、真木さんって末っ子だったんですね」
「いや、真ん中。上もしっかりしてるし、下もそれなりの大学に入ったらしいし。おかげで、俺はていよく放置してもらってるけど」
「お父さん、教育委員会の関係なんですか」
「いや。県庁に勤めてるのは事実だけど。今、どこの課にいるのかなんて、俺が知るか。もう五年は会ってない。けど、まぁ、あいつが言うんだから、今はそうなんだろ」
 堅い、まぁ、たしかに堅い仕事だなと日和は思った。水原が言っていたとおりの。いや、けれど、それよりも。
「ぜんぶ、はったり……」
「嘘も方便」
 にっと真木が口元だけで笑う。力みのひとつもないそれに力が抜けた。なんだ。俺が心配することなんて、本当になにもないんだな。
「俺、真木さんのそういうところ、好きです」
「あ、そう。ありがとう」
「でも、べつに弱腰でも好きですよ」
「うん」
「負けてもいいし、なんなら、泣いてもいいんですよ」
「泣くのはいつもおまえだろ」
「そういうことじゃなくて。というか、はぐらかさないでくださいよ」
 調子に乗ったふうに見せかけて、その実、精いっぱいの「頼ってください」だったのに。無下に切り捨てられて、日和は唇を尖らせた。たかが、四つさ。されど、四つさ。
 その日和の頭に、真木がぽんと手を置いた。
「じゃあ、まぁ、おまえが大人になったらな。俺に振られても泣かないくらい」
「え……」
「ほら、すぐにそういう顔する」
 固まった日和の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜて、気が済んだらしい手を離す。
「まだまだだな」
 逆光で、顔ははっきりと見えなかった。
「だから」
 諦めたような、愛しさを詰めたような声音だけが頭の中で反響する。
「子どもでいろよ、もうしばらく」
 それが、どういう意味なのかは、わからなかった。戸惑ったままの日和に、真木が続ける。
「なにも考えずに愛されるのは、子どもの特権だろ」
 それは、本当に、どういう意味だったのか。日和が深く考え出すより先に、背を向けられてしまった。館内から漏れ聞こえる笑い声は、恵麻と凛音のものだ。
 振り返ることなく体育館に戻っていく後姿に、日和はふるふると首を振った。固まっていた足が、ぎこちなく砂利を踏む。
 空は青く、落ちてくる日差しは、どこか春の面影を見せている。けれど、頬をなぶる風は冷たく、寒い。
 ――寒い。