「三月の終わりにさ。お別れ会ってほどのものじゃないけど、スタッフの送迎会があるんだけど。おまえ、どうする?」
そう問われたのは、冬の名残の濃い二月の末だった。道路には、昨日降った雪がうっすらと残っている。
「あー……」
まだ先の話だなぁと思いながら、日和はコンロの前でお湯が沸くのを待つ。分厚い靴下を持ち込んだところで、この家は足元が寒いのだ。
はじめて訪れたときが奇跡的に綺麗に片づいていただけなのか。それとも年度末が近づき忙しいのか。ローテーブルの上にはパソコン、その他書類が広がっている。
付き合ってはじめて、日和は、真木が仕事を大量に持ち帰っていることを知った。予定表だとか、保護者や支援者向けの通信の記事だとか、そういった個人情報に関わらないものは、家でやると決めているらしい。
唐突な発言から察するに、今まさに作成しているのが予定表なのだろう。
「というか、いまさらなんだけど、おまえ、来年どうするの。来ないよな?」
「来てもいいっていう選択肢があったんですか?」
最初から一年きりのつもりだったので、日和は期待に瞳を瞬かせた。その日和を見ようともしないまま、真木が言う。
「まぁ、来たけりゃ駄目じゃないけど。あー、まぁ、でも、やっぱり、駄目」
「なんでですか……」
俺の期待を返せと言いたい気分で、ふたつ並べたマグカップのひとつにティーパックを落とし込んだ。もうひとつは、珈琲。この人、カフェイン過剰摂取気味だよな、ということも、この家に通い出して知ったひとつだ。
――俺が言ったところで、どうにもならないだろうけど。この人、社畜の気があるよな。いや、つぼみは会社じゃないから「社」じゃないか。そこはどうでもいいけど。
「なんか、特例な感じがするから」
「特例って。でも、俺が四月から来なくなったら、火曜日困るでしょ」
「じゃ、後輩紹介して」
塩見が日和を紹介したように、ということだろう。こともなげに返されて、日和は小さく唇を尖らせた。ひどいと感じる自分が子どもなのだろうか。
「俺、そんなに顔広くないですもん」
言い訳じみた言葉を吐いて、マグカップのひとつを真木の手元に置いた。自分も傍に腰を下ろす。ありがとうの言葉だけで、視線はパソコンの画面から動きもしない。
――これも距離が近くなったからだって言われたら、返す言葉もないんだけど。
うれしいけれど、ちょっとだけ寂しい。口にすれば呆れられてしまいそうな感情に蓋をして、日和は黙って頷いた。
せっかくの日曜日なのになぁ、とほんの少し不満に思う気持ちもあるものの、どこに出かけたいわけでもないから、こうしているだけで十分だなぁ、と思う。
そんなふうに思うことも、だが、出不精の自分が、雪の残る道を歩いてここまでやってきているのだ。恋愛の持つパワーには恐ろしいものがある。とりとめもないことを考えたまま、躊躇いがちに口を開く。
「教育実習に行ってるあいだは行けないですけど」
「え? あぁ、つぼみ?」
「はい。それ以外の期間は、全日参加できるようにしますから。それでも、駄目ですか? 火曜日」
ボランティアのスタッフは、基本的に丸一日いてほしい。はじめに優海に言われたことを、日和はちゃんと覚えている。そうして一年が経って、半日だけの参加では生徒との関わり方が中途半端になるからではないかと考えるようになった。
だから、全日参加できない日和の籍を残しておくことが、特別措置のようで嫌だということなのだろう。そう判断して提案した日和に、真木がようやく振り向いた。
「そんなに続けたいの?」
訝しむ調子に、他意はないと首を振る。
「やっとみんなと少しは関係をつくれるようになってきたところだし、できるなら続けたいなって」
「……まぁ、いいけど。全日で来れるなら。でも、実習が終わっても、採用試験とかあるでしょ。どうなの」
「時間はつくるものですから」
自分でも似非くさかったなと思ったが、真木も肩を震わせている。
「そこは笑わなくてもよくないですか、ちょっと」
「いや、うん。じゃあ、がんばってもらおうかな。でも、無理はしなくていいからな。おまえ、決して要領良くはないんだし。やばいって思ったら、ちゃんと事前に相談、報告すること」
まるきりの子ども扱いだったが、了承を貰えたのでよしとすることにした。はい、と頷いた日和に、真木がさらりと続ける。
「あと、新しいスタッフの子が入ってきてくれたら、その子優先で組むからな」
――そりゃ、そうですよね。
わかってはいるが不満だ。小さく頷いてマグカップに口をつける。
「日和?」
「なんでもない、です」
「そうか? なんでもある顔しかしてないけど」
だから、そうやって甘やかすなよ。八つ当たりのような悪態を吐きたくなるのは、この幸せなぬくもりに慣れ切ってしまいそうだからだ。
真木は、優しい。
「真木さん」
付き合っているからというよりは、出会ったころの関係に戻ったかのように。日和がなにをしても受け止めてくれる、安心できる優しさ。
「ちょっとだけ」
でも、はたしてそれは対等な恋愛なのだろうか。自分は同じものを返せているのだろうか。その自信が、日和には笑いそうになるくらい、ない。
「ちょっとだけ、なに?」
わかっているくせに、拗ねた日和の台詞を繰り返す。拒絶する気がないことは明らかだった。
――この人は、俺に、なにを求めてるんだろう。
少しでも、なにかを与えることができているのだろうか。そんなふうに思うことも、はじめてだった。今まで付き合ってきた女の子たちの誰ひとりにも、思ったことはない。
「ちょっとだけ、ぎゅってしていいですか」
ふっと真木が微笑った。
「ガキか」
その声が、たまらなく優しく響く。少なくとも、日和にとっては。どうしようもないほどに。
「邪魔しませんから、ちょっとだけ」
「はい、はい」
おざなりなことを言いながらも、日和の場所をこうして空けてくれるのだ。
ローテーブルが、手のひらに押されて前方にずれる。ついで、それに合わせて真木の身体も。ベッドとの隙間に滑り込んで、背後から抱きしめる。腹に手を回して肩に顔を埋めるくらいなら、邪魔にならないと許してもらった。あぁ、もう、駄目だ。好き。
「落ち着く」
首筋に頬を寄せたまま、スンと鼻を鳴らす。人工的なものではない香りが心地いい。
「あのな、湯たんぽじゃないからね、これ」
「誰もそんなこと思ってません」
「だって、おまえ、寒がりだし」
この人、大きい子どもがひっついてるとしか思ってないんだろうな。そう思ってしまう程度には、打ち込まれる文字の速度も、態度もなにひとつ変わらない。
――でも、これ以上欲張って、もう触るなって言われたら、それこそ生きていけないし。
この家に通うようになって、そろそろ丸二ヶ月。あの夜以来、びっくりするほど進展はないままだ。そのなにもなさの理由が、あの夜の自分の言動にあるように思えて、日和はなにも言えないでいる。
――いや、でも。こうやって、ゆっくりのほうがいいか。
急いで、駄目にしたくない。そんなふうに思ったことも、はじめてかもしれなかった。
今までの彼女たちにとって、「恋人」だった自分は、ひどい男だったのだろう。ようやく、そう省みることができるようになった。常に受け身の自分に愛想を尽かしたと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。愛されていないと悟ったせいだったのかもしれない。
いまさらな罪悪感が募って、日和はぎゅっと力を込めた。
「柔らかくも小さくもない男の身体に触って落ち着くとか。おまえも、本当にあれだね」
「放っておいてください」
「ところで、三月の送別会はどうするの」
「行きます」
塩見さん来るんですか、と聞く代わりに、日和はしっかりと頷いた。気にしたところでどうともならない。
「同じく三月の半ばにバスケ大会があるんだけど。それはどうする?」
「……行きます」
生じさせた間に、真木が笑ったことが振動で伝わってくる。腕の中から感じ取ることのできるぬくもりは温かくて。離れたくないなと思った。
そう問われたのは、冬の名残の濃い二月の末だった。道路には、昨日降った雪がうっすらと残っている。
「あー……」
まだ先の話だなぁと思いながら、日和はコンロの前でお湯が沸くのを待つ。分厚い靴下を持ち込んだところで、この家は足元が寒いのだ。
はじめて訪れたときが奇跡的に綺麗に片づいていただけなのか。それとも年度末が近づき忙しいのか。ローテーブルの上にはパソコン、その他書類が広がっている。
付き合ってはじめて、日和は、真木が仕事を大量に持ち帰っていることを知った。予定表だとか、保護者や支援者向けの通信の記事だとか、そういった個人情報に関わらないものは、家でやると決めているらしい。
唐突な発言から察するに、今まさに作成しているのが予定表なのだろう。
「というか、いまさらなんだけど、おまえ、来年どうするの。来ないよな?」
「来てもいいっていう選択肢があったんですか?」
最初から一年きりのつもりだったので、日和は期待に瞳を瞬かせた。その日和を見ようともしないまま、真木が言う。
「まぁ、来たけりゃ駄目じゃないけど。あー、まぁ、でも、やっぱり、駄目」
「なんでですか……」
俺の期待を返せと言いたい気分で、ふたつ並べたマグカップのひとつにティーパックを落とし込んだ。もうひとつは、珈琲。この人、カフェイン過剰摂取気味だよな、ということも、この家に通い出して知ったひとつだ。
――俺が言ったところで、どうにもならないだろうけど。この人、社畜の気があるよな。いや、つぼみは会社じゃないから「社」じゃないか。そこはどうでもいいけど。
「なんか、特例な感じがするから」
「特例って。でも、俺が四月から来なくなったら、火曜日困るでしょ」
「じゃ、後輩紹介して」
塩見が日和を紹介したように、ということだろう。こともなげに返されて、日和は小さく唇を尖らせた。ひどいと感じる自分が子どもなのだろうか。
「俺、そんなに顔広くないですもん」
言い訳じみた言葉を吐いて、マグカップのひとつを真木の手元に置いた。自分も傍に腰を下ろす。ありがとうの言葉だけで、視線はパソコンの画面から動きもしない。
――これも距離が近くなったからだって言われたら、返す言葉もないんだけど。
うれしいけれど、ちょっとだけ寂しい。口にすれば呆れられてしまいそうな感情に蓋をして、日和は黙って頷いた。
せっかくの日曜日なのになぁ、とほんの少し不満に思う気持ちもあるものの、どこに出かけたいわけでもないから、こうしているだけで十分だなぁ、と思う。
そんなふうに思うことも、だが、出不精の自分が、雪の残る道を歩いてここまでやってきているのだ。恋愛の持つパワーには恐ろしいものがある。とりとめもないことを考えたまま、躊躇いがちに口を開く。
「教育実習に行ってるあいだは行けないですけど」
「え? あぁ、つぼみ?」
「はい。それ以外の期間は、全日参加できるようにしますから。それでも、駄目ですか? 火曜日」
ボランティアのスタッフは、基本的に丸一日いてほしい。はじめに優海に言われたことを、日和はちゃんと覚えている。そうして一年が経って、半日だけの参加では生徒との関わり方が中途半端になるからではないかと考えるようになった。
だから、全日参加できない日和の籍を残しておくことが、特別措置のようで嫌だということなのだろう。そう判断して提案した日和に、真木がようやく振り向いた。
「そんなに続けたいの?」
訝しむ調子に、他意はないと首を振る。
「やっとみんなと少しは関係をつくれるようになってきたところだし、できるなら続けたいなって」
「……まぁ、いいけど。全日で来れるなら。でも、実習が終わっても、採用試験とかあるでしょ。どうなの」
「時間はつくるものですから」
自分でも似非くさかったなと思ったが、真木も肩を震わせている。
「そこは笑わなくてもよくないですか、ちょっと」
「いや、うん。じゃあ、がんばってもらおうかな。でも、無理はしなくていいからな。おまえ、決して要領良くはないんだし。やばいって思ったら、ちゃんと事前に相談、報告すること」
まるきりの子ども扱いだったが、了承を貰えたのでよしとすることにした。はい、と頷いた日和に、真木がさらりと続ける。
「あと、新しいスタッフの子が入ってきてくれたら、その子優先で組むからな」
――そりゃ、そうですよね。
わかってはいるが不満だ。小さく頷いてマグカップに口をつける。
「日和?」
「なんでもない、です」
「そうか? なんでもある顔しかしてないけど」
だから、そうやって甘やかすなよ。八つ当たりのような悪態を吐きたくなるのは、この幸せなぬくもりに慣れ切ってしまいそうだからだ。
真木は、優しい。
「真木さん」
付き合っているからというよりは、出会ったころの関係に戻ったかのように。日和がなにをしても受け止めてくれる、安心できる優しさ。
「ちょっとだけ」
でも、はたしてそれは対等な恋愛なのだろうか。自分は同じものを返せているのだろうか。その自信が、日和には笑いそうになるくらい、ない。
「ちょっとだけ、なに?」
わかっているくせに、拗ねた日和の台詞を繰り返す。拒絶する気がないことは明らかだった。
――この人は、俺に、なにを求めてるんだろう。
少しでも、なにかを与えることができているのだろうか。そんなふうに思うことも、はじめてだった。今まで付き合ってきた女の子たちの誰ひとりにも、思ったことはない。
「ちょっとだけ、ぎゅってしていいですか」
ふっと真木が微笑った。
「ガキか」
その声が、たまらなく優しく響く。少なくとも、日和にとっては。どうしようもないほどに。
「邪魔しませんから、ちょっとだけ」
「はい、はい」
おざなりなことを言いながらも、日和の場所をこうして空けてくれるのだ。
ローテーブルが、手のひらに押されて前方にずれる。ついで、それに合わせて真木の身体も。ベッドとの隙間に滑り込んで、背後から抱きしめる。腹に手を回して肩に顔を埋めるくらいなら、邪魔にならないと許してもらった。あぁ、もう、駄目だ。好き。
「落ち着く」
首筋に頬を寄せたまま、スンと鼻を鳴らす。人工的なものではない香りが心地いい。
「あのな、湯たんぽじゃないからね、これ」
「誰もそんなこと思ってません」
「だって、おまえ、寒がりだし」
この人、大きい子どもがひっついてるとしか思ってないんだろうな。そう思ってしまう程度には、打ち込まれる文字の速度も、態度もなにひとつ変わらない。
――でも、これ以上欲張って、もう触るなって言われたら、それこそ生きていけないし。
この家に通うようになって、そろそろ丸二ヶ月。あの夜以来、びっくりするほど進展はないままだ。そのなにもなさの理由が、あの夜の自分の言動にあるように思えて、日和はなにも言えないでいる。
――いや、でも。こうやって、ゆっくりのほうがいいか。
急いで、駄目にしたくない。そんなふうに思ったことも、はじめてかもしれなかった。
今までの彼女たちにとって、「恋人」だった自分は、ひどい男だったのだろう。ようやく、そう省みることができるようになった。常に受け身の自分に愛想を尽かしたと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。愛されていないと悟ったせいだったのかもしれない。
いまさらな罪悪感が募って、日和はぎゅっと力を込めた。
「柔らかくも小さくもない男の身体に触って落ち着くとか。おまえも、本当にあれだね」
「放っておいてください」
「ところで、三月の送別会はどうするの」
「行きます」
塩見さん来るんですか、と聞く代わりに、日和はしっかりと頷いた。気にしたところでどうともならない。
「同じく三月の半ばにバスケ大会があるんだけど。それはどうする?」
「……行きます」
生じさせた間に、真木が笑ったことが振動で伝わってくる。腕の中から感じ取ることのできるぬくもりは温かくて。離れたくないなと思った。



