髪を撫でられたような感覚と、嗅ぎ慣れた煙草の匂い。冬の布団の温かさは、判断力も気力も根こそぎ奪っていく。まだ、もう少し寝ていたい。遠くから注がれる太陽の熱を感じながらも、布団を頭の上まで引き上げる。二度寝を決め込もうとしたところで、日和は異変を察知した。
――あれ。これ、俺の布団じゃ、ない。
目は覚めたが、まだ頭は冴え切っていない。のそりと身を起こして、しばし考える。そうしてから、そうだったと思い出した。
ここ、真木さんの家だ。ぼんやりとした思考のまま、部屋を見渡して家主を探す。寒いと判じた体感どおり窓が開いていた。ベランダに背中が見える。
「あ、起きた」
日和が声をかけるよりも早く、煙草を吸っていたらしい真木が振り返った。煙草、吸うんだ。そんなことを思っているうちに、真木が淡々と続ける。
「よかった。俺、今日、助っ人で日中のバイト入っててさ」
「はぁ」
「コンビニ」
「はぁ、朝だけじゃなかったんですね」
「いや、基本は朝なんだけど。昼のシフトに入ってるおばちゃんが娘の成人式だって言うから、そりゃ休まんと駄目だろって話になって」
「……はぁ」
「まぁ、俺、暇だし」
空き缶に吸いさしをねじ込んで、真木が窓を閉める。外からの風は入ってこなくなったが、暖房をつけない主義なのか、室温は外と変わらない気がする。寒い。
「というわけで、悪いんだけど。そろそろ帰る用意してくれる?」
なんだかよくわからないまま押し切られて、脱ぎっぱなしだった服を日和は手に取った。そのまま頭から被る。
――ん?
もしかしなくても、流されていないだろうか。これは、あれか。昨夜のことは酒を飲んだ末の一夜の過ちだ、と。なかったことにしよう、と。言外に告げられているのだろうか。
急かされるがままに帰り支度を整え、玄関に追いやられたところで、我に返って呼びかける。このままだと、昨日の苦労も、そのあとのもろもろも、すべてなかったことにされかねない。
「あ、あの、真木さん」
余裕なんてまったくない必死な顔だったのだろう。玄関先で真木がふっと笑った。どこか柔らかい表情にどきりとして、朝っぱらからこの人が好きなのだとまた思い知る。
「日和さ」
「は、はい」
「信用はしてるけど。つぼみで妙な態度は取るなよ」
「え、えぇ、と。それは、はい、もう」
それは、もう、絶対に。自分の主張はさておいて、こくこくと日和は頷いた。仕事に自分の感情を持ち込むべきではない。その程度の分別はあるつもりだ。
頷いたまま下がった頭を、真木の手がぽんぽんと撫でる。
「夜は、基本的にいるから」
「え……」
「来てもいいよ、好きに」
その言葉に、日和はばっと顔を上げた。単純だと笑われてもいい。胸が熱い。
「なくすなよ」
そうして落ちてきたのは、いつだったか真木が羽山に投げ渡していた裸の鍵だった。ぎゅっと握りしめる。キーケースにつけよう。大事に、する。
「なくしません」
真木の瞳が優しく笑う。この色を見たかった。この人がほしかった。みんなのものかもしれないこの人を、独占したかった。
「気をつけて帰れよ」
「真木さんも」
バイトおつかれさまです。そう言うだけで精いっぱいだった。
来たときはあれほど緊張していた足取りが、驚くほど今は軽い。自分の家までの道を歩きながら、日和は頬を緩ませた。やっと、答えを聞くことができた。そのことがうれしくてしかたがない。
頬に吹きつける風は冷たかったが、それも寝不足な頭にはちょうどよかった。
――あれ。これ、俺の布団じゃ、ない。
目は覚めたが、まだ頭は冴え切っていない。のそりと身を起こして、しばし考える。そうしてから、そうだったと思い出した。
ここ、真木さんの家だ。ぼんやりとした思考のまま、部屋を見渡して家主を探す。寒いと判じた体感どおり窓が開いていた。ベランダに背中が見える。
「あ、起きた」
日和が声をかけるよりも早く、煙草を吸っていたらしい真木が振り返った。煙草、吸うんだ。そんなことを思っているうちに、真木が淡々と続ける。
「よかった。俺、今日、助っ人で日中のバイト入っててさ」
「はぁ」
「コンビニ」
「はぁ、朝だけじゃなかったんですね」
「いや、基本は朝なんだけど。昼のシフトに入ってるおばちゃんが娘の成人式だって言うから、そりゃ休まんと駄目だろって話になって」
「……はぁ」
「まぁ、俺、暇だし」
空き缶に吸いさしをねじ込んで、真木が窓を閉める。外からの風は入ってこなくなったが、暖房をつけない主義なのか、室温は外と変わらない気がする。寒い。
「というわけで、悪いんだけど。そろそろ帰る用意してくれる?」
なんだかよくわからないまま押し切られて、脱ぎっぱなしだった服を日和は手に取った。そのまま頭から被る。
――ん?
もしかしなくても、流されていないだろうか。これは、あれか。昨夜のことは酒を飲んだ末の一夜の過ちだ、と。なかったことにしよう、と。言外に告げられているのだろうか。
急かされるがままに帰り支度を整え、玄関に追いやられたところで、我に返って呼びかける。このままだと、昨日の苦労も、そのあとのもろもろも、すべてなかったことにされかねない。
「あ、あの、真木さん」
余裕なんてまったくない必死な顔だったのだろう。玄関先で真木がふっと笑った。どこか柔らかい表情にどきりとして、朝っぱらからこの人が好きなのだとまた思い知る。
「日和さ」
「は、はい」
「信用はしてるけど。つぼみで妙な態度は取るなよ」
「え、えぇ、と。それは、はい、もう」
それは、もう、絶対に。自分の主張はさておいて、こくこくと日和は頷いた。仕事に自分の感情を持ち込むべきではない。その程度の分別はあるつもりだ。
頷いたまま下がった頭を、真木の手がぽんぽんと撫でる。
「夜は、基本的にいるから」
「え……」
「来てもいいよ、好きに」
その言葉に、日和はばっと顔を上げた。単純だと笑われてもいい。胸が熱い。
「なくすなよ」
そうして落ちてきたのは、いつだったか真木が羽山に投げ渡していた裸の鍵だった。ぎゅっと握りしめる。キーケースにつけよう。大事に、する。
「なくしません」
真木の瞳が優しく笑う。この色を見たかった。この人がほしかった。みんなのものかもしれないこの人を、独占したかった。
「気をつけて帰れよ」
「真木さんも」
バイトおつかれさまです。そう言うだけで精いっぱいだった。
来たときはあれほど緊張していた足取りが、驚くほど今は軽い。自分の家までの道を歩きながら、日和は頬を緩ませた。やっと、答えを聞くことができた。そのことがうれしくてしかたがない。
頬に吹きつける風は冷たかったが、それも寝不足な頭にはちょうどよかった。



