好きになれない

 二階の角部屋の鍵を開けた真木に続いて、室内に入る。日和の住む学生マンションとさして変わらない広さのワンルームは、意外なほど殺風景な空間だった。生活していくための最低限と言わんばかりのベッドとローテーブル。あとはパソコンくらいしか家電も家具も置かれていない。
 玄関に立ったままそっと見渡していると、真木から声がかかった。
「暖房つけるから。適当にコート脱いで」
「あ、はい」
「かけるから、ちょうだい」
 靴を脱いだところでコートを渡せば、さっとハンガーにかけて吊される。思えば、真木は食事などの所作も綺麗だ。しっかりと躾けられて育ったのだろうなと、ふとしたときに思うことがある。水原が言っていた「堅い家」というのも、想像は易かった。
「すぐに暖かくなるから」
 促されるままローテーブルの前に座った日和の前髪を、その言葉どおりに温風が撫でていく。廊下と一体化したつくりの台所からは、しゅんしゅんとお湯の沸く音が響いていた。
 小さく首を竦めたのが視界の端に留まったのか、ケトルの前に立っていた真木が笑った。
「日和は、寒いの本当に駄目なんだな」
 気負いのない雰囲気につられて、肩から力が抜ける。
「俺の地元は、もうちょっと暖かかったです。雪も降らなかったし」
「そう。俺の地元は、ここよりももう少し寒かったな。毎年十センチは積もったよ、雪」
「へぇ」
「たまに五十センチとか積もるときもあって。そうなるとさすがに大変だったけど」
「羽山さんと同じなんでしたっけ」
「そう。といっても、俺はもうぜんぜん帰ってないけど」
 一瞬、日和は悩んだ。けれど、問う。
「なんで、ですか」
「居場所がないからかな」
 マグカップに湯を注ぎながら、真木は淡々と答える。日和のほうは一度も見なかった。
「帰りたいと思わないから、でもあるか。帰ったところで、煩わしいことしかないし。まぁ、だから」
 自嘲じみた吐息と一緒に、真木が続ける。
「楽なほうに逃げてるだけだよ」
 目の前に置かれたカップに、無言で日和は頭を下げた。指先を温めるように、両手で触れる。紅茶。彼が避けていた昔語りを口にしたのは、なんでなのだろう。
「真木さんは、俺のなにが信じられないですか」
「案外しつこいね。おまえも」
 驚くでもなく真木が静かに笑った。手の中の水面を見つめながらの問いになってしまったが、どんな顔かの想像はつく気がした。次の言葉を発さない日和の代わりに、真木が口火を切る。
「おまえだったらさ、いくらでもいるでしょ、相手は。べつに、まぁ、女の子じゃなくても、男でも、おまえならいいって言うやつもいるかもしれないし。それなのに、なんでこんなのを好きだって思い込んだんだろうね」
「こんなのって……」
「だいたい、おまえ、男にそういうこと、できるわけ?」
 日和はぱっと顔を上げた。
「それとも、なに。俺に抱いてほしいの?」
 揶揄う延長線の顔で、真木が目を細める。にじみ出す色めいた雰囲気に、泣きたいような気持ちになって、ぐっとカップに触れていた指先に力を込めた。どうにか感情を抑えて声を吐き出す。
「どちらかというと、触りたいし、抱きたい、です」
「勃たないだろ」
「大丈夫です。実際、一回、勃ちましたから」
「……あ、そう」
 白けた声で応じて、真木がマグカップに口をつけた。突き刺さるような沈黙に、また視線が下がる。
 ――なんか、すごいこと言ってないか、俺。
 ふと冷静に振り返ってみると、なかなかにすごいことを口走った気がしてきた。引かれたかもしれない。
「あの」
 意を決して顔を上げたのとほぼ同時に、かつんとカップを机に置く音がした。
「なら、試してみる?」
「え……」
「脱げよ。やってやるから」
 なにを言われているのか、まったくわからなかった。呆然と見つめていると、ゆっくりと真木が近づいてくる。はじめて見ると思った。そんな顔は、俺は知らない。そんな、誰かを誘うような。貶めるような顔は、知らない。
「したかったんだろ」
 気がついたときには、背に柔らかいシーツの感触があった。背後にあったベッドに肩を押しつけられたまま、被さってくる真木を見上げる。
「違うのか?」
 不思議そうに問いかけて、真木が首を傾げる。視線を逸らすこともできなかった。言葉もなにも出ない。その日和を見とめて、ふっと真木が笑った。鎖骨に触れていた指先が、なんの名残もなく離れていこうとする。
「だったら、やめとけ」
 静かな声に、ゆっくりと呪縛が解けていくようだった。
「おまえが、俺のどの面を見て、そんなふうに思ったのかは知らないけど。俺はおまえが好きだと思うような人間じゃないよ」
「っ、やめてください」
 半ば反射で、その手を掴む。今、離したら、本当に最後だ。本能のようななにかが必死に日和に訴えている。そうして、なぜか。真木は過分を求めないと思ったことを思い出してもいた。
 まるで、特別ななにかを持つことを恐れるように、と、そう。
「そんなこと、言わないでください」
 震えを押し込んだ声になった。見下ろしてくる瞳が見開かれたのは一瞬で、すぐにまた凪いだ色に戻る。この人の瞳は、もっと雄弁だったはずだった。
「俺は好きなんです。あなたが。あなただから」
「聞きたくない」
 遮られたのは、なかったことにされたのは、これで三度目だ。静かで、それでいて強い、頑なな声。
「聞きたくない」
 それでも、と。紡ごうとした言葉を、同じ声が遮る。
「ちょ、……待っ――ぅ、……っん」
 台詞を体現するように覆い被さった唇が、すべてを奪っていく。あの夜に自分がしかけたものよりも、ずっと深いキスだった。歯列を割って入ってきた舌に舌先を絡め取られる。流されたくないと思っていたはずの矜持が溶けて、応じるように日和は舌を動かした。
 だって、好きな相手なのだ。うれしくないわけがないし、反応しないわけがない。貪欲にどこまでも求めたくなってしまう。もっと、と身体が強請りそうになったところで、唐突にキスが終わった。焦点が合わないほどの近距離で、濡れた唇が微笑を象る。
「煙草の匂い」
「真木さ……」
「吸うの?」
 揶揄うような問い方だった。今のキスに深い意味もなにもなく、ただの気まぐれなのだと主張するような。なんで、と思った。胸が苦しい。
「真木さん」
 精いっぱいが消えていく。俺の想いは、もうずっと宙に浮いたままだ。受け取られることも、拒否されることもないまま。ずっと、ずっと。
 ――好きなのに。
 嫌いになんて、なれないのに。
「真木さんは、俺のなにがそんなに信じられないんですか」
 誰かにこんな感情を向けたのは、はじめてだった。好きで、どうしようもなくて、腹が立って、そして、悔しくて、悲しい。
「なんで、そうやって、俺に見限らせるようなことばっかりするんですか」
 手首を掴んだまま、一息に言い切る。ただ、知りたいだけだ。聞きたいだけだ。この人の口から。それのなにが駄目なのか、日和にはわからない。
 日和の激情に圧されて、真木の表情が揺れた気がした。
「真木さん」
 根比べの様相になっていることを自覚しながらも、ただ繰り返す。あるのは、逃がしたくないという執心だけだった。視線を外したのは、真木のほうだった。
「女が好きな男の言う『好き』なんて信じられるか」
 感情のない声が吐き捨てる。
「それで痛い目を見るのは、いつもこっちだ」
 その言葉に、日和は静かに息を呑んだ。ゆっくりと噛み砕こうとして、けれど、無理だった。
「あなたがどんな経験をしてきたのかなんて、俺は知りませんけど」
 掴んだままの指先に、さらに力が籠もったことにも気がついていた。きっと痕になる。でも、それでも無理だった。ふざけるな。
「俺の知らない誰かと俺を一緒にして、俺の気持ちをなかったことにしないでください」
 声が、震える。ふざけるなと思った。ふざけるなよ。そんな理由で、――俺の知らない誰かのせいで、傷つくな。
「ひとりひとりをしっかり見ろって。その子に誰かを重ねるようなことはするなって。いつも言ってくれてたのは、真木さんじゃないですか」
 この人の過去になにがあったかなんて、日和は知らない。べつに、知らなくてもいい。今のこの人を見て、知って、好きになった。それだけだ。
 つぼみの子どもたちが、それぞれ独立した個人であるように。その個性を尊重して触れ合っているように。日和を、ただ日和として見てほしかった。そして、自分がした告白についての彼の答えがほしかった。
 伸びてきた指先が日和の頬に触れる。
「泣くなよ」
 困惑気味な声に、ようやく自分が泣いていると知った。
「まるで俺が泣かしたみたいだろうが」
「みたいじゃなくて、そうなんですよっ」
 子どもだと言われても、なにも否定できない有様だった。
 そうして、この人は、最後の最後で、結局、甘い。優しい。それが、たまらなく苦しかった。俺を見捨ててくれない。この一年を、なかったことにしてくれない。
「あんたが、俺を見てくれないから」
「日和」
 呆れたような、あるいは諦めたような声だった。その声が、どこまでも優しく落ちてくる。
「俺は、おまえがかわいいよ」
「……え?」
「おまえがいちばん、かわいい」
 その瞳いっぱいに、自分の顔が映っている。抗えるわけがなかった。そのまま強く腕を引いても抵抗はなかった。だから、それが答えなのだと思うことにした。
 たまらなくて、頬に触れる。思っていたよりもずっと柔らかくて、なんだか子どもみたいで。顔を持ち上げて、キスをした。何度も、何度も。
 日中につぼみで感じるような太陽の匂いではない、夜の匂いがした。