好きになれない

「あの、大丈夫ですか?」
 夜の十時を過ぎたばかりの駅前は、まだまだ賑わいを見せている。おまけに今日は三連休の初日だ。人通りが絶えることはないだろう。
 ロータリーの石段に座り込んだ真木の足元にペットボトルの水を置いて、日和も腰を下ろした。ついでに、軽くキャップも緩めておく。すっかり足の遠のいていた駅横のコンビニエンスストアで購入したものだ。
 ――まぁ、ご無沙汰だったのも、この人のせいではあるんだけど。
 どうでもいいことを考えて気を逸らそうと試みているうちに、隣から返事があった。うつむいたままの表情はよくわからなかったが、声だけ聞いていれば至って普通である。
「大丈夫。というか、家くらいまで帰れるから。二次会、行ってきたらいいよ」
「いや、あの……好きじゃないんで、俺」
「あぁ、そうだっけ。そういや」
「だから、はい。ちょうどよかったです」
「そう」
 その言葉を最後に、また沈黙が流れる。手持ち無沙汰になって、日和は膝の上で組んだ指先を握りしめた。
 こいつ、ちびちび日本酒だけ呑んでたら酔わないんだけど、そこにビールとかワイン混ぜると、即アウトなんだよね。ちゃんぽんに向いてないんだろうね、体質的に。
 勝手知ったるとばかりに羽山は大笑いしていたが、本音を聞き出す以前に、体調を悪くさせただけではないのだろうか。
 本音、か。指先を見つめたまま、内心で呟く。新年会のあいだ、その単語がずっと脳内から消えなかった。おかげで、愛実たちが話していたことはほとんどなにも覚えていない。
 あの日、信じられないと真木は言った。そのときはショックで、それ以上なにも考えることができなかった。でも、と日和は思う。改めて思い返してみても、好きだとも嫌いだとも答えてもらっていないままなのだ。
 なにせ、あなたの答えを聞かせてほしいと訴えて得た返答が、「おまえの気持ちは信じられない」だったのだ。一方通行がすぎる。
 ――はぐらかされたってことなんだろうな、だから。
「いつも、こんなふうになるんですか」
 世間話のていで紡いだ声が、ちゃんと「普通」を保っていたことに、日和はほっとした。予想外にふたりになって緊張してもいたのだ。蒸し返すことのできる最後のタイミングかもしれないとわかっていただけに、なおさら。
「いや」
 日和の内心の緊張と裏腹に真木の声音はいつもどおりで、ほっとしたはずの心がほんの少しささくれる。
 なにが潰す、だ。なにが本音、だ。半ば以上八つ当たりで、愛実たちと二次会に消えた羽山の背中を呪う。まぁ、今ごろは店の中だろうが。
「酔わないようにはしてるよ。半分は仕事だし。今日は、あれだな。あいつが……酒もだけど。悪酔いしそうなことばっかり隣で言うから」
「はぁ」
 その一端を担った罪悪感で、応じる声のボリュームが下がる。
「楽しかった?」
 ふっと調子の変わった声に、自身の手元ばかりを見つめていた視線を隣に向け直す。顔色はたいして変わっていない。けれど、その瞳はどこか酔いに潤んでいて、どきりとしてしまった。
 ――駄目だ、俺。
 そういう目で見ているのだと痛感する。だからと言って、あの夜のように感情に身を任せることが許されていいはずがない。
「楽しかったって、新年会ですか?」
 なんともないような声で、あたりまえの内容を確認する。成功していたかどうかは定かではなかったけれど。
「女の子に囲まれて。やっぱりうれしいだろ」
「そりゃ、真木さんたちがふたりで固まってたら、そうなるに決まってるじゃないですか」
「そうじゃなくても、そうなるだろ」
「真木さん」
 絡まれて、日和は溜息と一緒に吐き出した。
「酔ってますよね、やっぱり」
 前言撤回。気分が悪いだけで頭はしっかりしていると思っていたが、違う。酔っている。普段なら言わないだろう言葉がこぼれる程度には。
「ほら、水でもなんでも飲んで。それで落ち着いたら、帰りましょ」
 手付かずのペットボトルのキャップを外して握らせると、不承不承の顔で一瞥。言われたからしかたなくと言わんばかりのおざなりさで口をつけている。縮まるわけのない年の差がなくなったような感慨が湧いて、すぐに消えた。ただの願望だ。
 この人にとっての自分は、はじめて会ったあの春からずっと、手のかかる年下の子どもでしかないと知っている。
「送りますから」
「……大丈夫」
「いや、普通に心配なんで。送らせてください」
 拗ねたようにも見える横顔は、絶対に間違いなく酔っている。普通の顔色であることが余計に性質が悪いと思い知ったばかりだ。
「べつになにもしませんから」 
 とってつけた台詞にはっとしたのは、日和だけではなかったのだと思う。
 緩慢な動作でキャップを閉めて、ふらりと真木が立ち上がる。慌てて日和も腰を上げたものの、その足取りは思っていたよりずっとしっかりとしていた。
「ちょ、真木さん」
「べつに」
 隣に並んだ日和を真木が見上げる。淡々としたというよりは、どこか挑発するような声。
「誰もそんな心配してねぇよ」
 あんたな、と荒らげそうになった声を寸前で日和は呑み込んだ。なんだ、それ。告白してきた年下のガキなんて歯牙にもかけません、と。そういうことか。
 ――でも、だからって、放っておけないだろ。これ。
 冬の夜道を酔っぱらいひとりで歩いて帰らせるわけにもいかないだろう。言い訳だったけれど、今の日和には理由が必要だった。これは親切だ。あるいは義務だ。気持ちを落ち着けるように吐いた息が夜の闇に溶けていく。
 この感情は、一向に溶ける気配の欠片もないのに。
「家、こっちなんですか」
 問いかけを無視することは大人げないと思うだけの理性は残っていたのか、真木が小さく頷いた。半歩先を行く黒髪が一月の夜風に揺れている。一見すると硬そうなのに、そうでないと知ったのは、この人を意識するようになってからだった。
 いや、もしかすると、もっと前からかもしれない。前を行く背を見つめたまま、日和はそう思い直した。この感情に気がつく前から、自分は彼を視線で追い続けていた。
 酔っていようが、酔っていまいが。生徒たちがいようが、いまいが。どんなときでも、この人の背はまっすぐにしゃんと伸びている。
 ――綺麗だな。
 気をつけないと、すぐに猫背になる自分とは違う。けれど、そう感じるのは、自分とは違うというだけの理由では、きっとない。日和はそっと頭を振った。
 はじめてふたりで歩いたのは、半年前のことだ。まだ、夏にもなる前。無意識のうちに、この人の袖を引いた。あの夜から、自分はなにも変わっていないのかもしれない。
「もう、そこだけど」
 その声に、足を止めて顔を上げる。真木の視線の先にあったのは、三階建ての鉄筋アパートだった。
「上がってく?」
 つぼみにいるときと同じ調子だった。酔いはマシになったらしいとほっとすると同時に、社交辞令だと悟る。固辞することがお互いにとって最善の選択だろうということも。
 ――そうでもしないと、あいつの本音なんて、死んでも聞けないよ。
 ぎゅっと日和は唇を引き結んだ。そうして、口を開く。
「じゃあ、少しだけ」
「そう?」
「お邪魔しても、いいですか」
「いいけど」
 真意を測るようだった瞳が、ゆっくりと瞬く。それが、言葉を呑み込むときの癖らしいと気がついたのは、本当に最近のことだ。何度も、何度も。あの日のことを思い返すうちに、そうではないかと思うようになった。
「本当に、お茶くらいしか出せないよ」
 大丈夫です、と日和は頷いた。こんな積極性を持っていたなんてことも知らなかったけれど、本当に最後にしようと思った。
 だから、そのためにも、ちゃんと終わらせたい。自分のために。はぐらかされたままで、終わりを迎えたくはなかった。