居酒屋の入っているテナントビルの前で時間を確認して、日和は小さく息を吐いた。七時四十分。アルバイト先を出ることが遅くなった上に、乗り換えがうまくいかなかったものだから、想定より遅くなってしまったのだ。
億劫さを抱えたままビルに入ろうとしたところで、喫煙所に視線が吸い込まれる。
「……」
ただでさえ遅れているのだ。早く向かうべきだろうという正論は、ここまで遅れていれば五分くらいなにも変わらないとの悪魔の囁きに完敗を喫した。
無言のまま進行方向を変え、ぐるぐると巻きつけていたマフラーを外す。硬くなる表情を誤魔化すようにして、日和は煙草に火を点けた。かろうじてアクリル板の壁が設置されているだけの喫煙所は寒かったが、中に入る前に一服吐きたかったのだ。
――というか、真木さん云々はさておいても、できあがってる飲み会にあとからひとりで入るとか、俺、すごい苦手なんだけどな。
親しい仲間内の会合でもないので、なおさらである。キャンプに参加したことで見知った顔は増えたが、特別に親しくなったわけでもない。
――名波さんって、来てんのかな。
キャンプという単語で連想した顔に、日和はますます面倒くさくなった。
――というか、なんで、俺がこんなに気にしてんだ。真木さんのことにしても、つぼみのことにしても、名波さんのことにしても。
一服吐くはずが、苛々が増しただけだった。紫煙と一緒に深々と溜息を吐き出す。
火曜日につぼみで会うより先に、真木と会っておいたほうがいい。正論だ。間違いなく正しい。スタッフとして。新年会に出て、ほかのスタッフとも親睦を深めたほうがいい。それもまた正しい。正しすぎて、自分にまったく似合わない。
――結局、直前になって、怖気づいただけ、か。
二本目に火を点けたあたりで、ほんの少し冷静になる。その頭が導いた結論に、日和はなんだか虚しくなった。
――そうか。俺、自分から誰かに告白して振られたのって、はじめてなんだ。
来るもの拒まず去るもの追わずの「お付き合い」しか、自分はしてこなかった。
告白されて、なんとなく受け入れて、そうして振られる、の繰り返し。自嘲をこぼしそうになったところで、ふと日和は気がついた。
一年前の自分であれば、塩見の誘いを受けていたのかもしれない。水原の言ったとおりの、そのほうが後腐れがないという理由で。それができなくなった、あるいはしようと思わなくなった。その変化の理由なんて、ひとつしか思い当たらない。
もう一度、深々と溜息を吐いて、灰皿に吸いさしをねじ込もうとした瞬間。意外な声が落ちてきた。
「あれ。日和くんじゃん」
「羽山、さん」
ビルのほうから姿を現した長身に、人懐こい笑みが浮かぶ。逃げを打ちかけた身体を諫めて、日和は迎え入れる場所を空けた。そうして、どうにか苦笑を返す。
「俺もちょっと吸いたくなって。抜けてきちゃった。あ、べつに、店も禁煙じゃないけどね、なんとなく。あの場じゃ誰も吸わないから、吸いにくくて」
顔を合わすのは半年ぶりなのに、羽山の態度は親しい後輩に接するかのようだ。性格の違いとしかいいようがない。その調子のまま一服始められて、立ち去るタイミングを日和は見失った。
まぁ、いっか。どうせ向かう場所は一緒なんだし。そう言い聞かせて、所在なくポケットに手を突っ込んでいると、羽山が話しかけてきた。
「日和くんも吸うんだ、煙草? って、もう二十歳は超えてるもんね、べつに」
「はぁ、まぁ」
「いいじゃん、そんなに逃げようとしなくても。わかりやすいね、きみ、本当に」
さらりと本音を突かれて、日和はわずかに言葉に詰まった。
「そういうわけじゃ……」
「ついでに言うと、こういう飲み会の場も苦手そう。それで、遅れて登場とか、めちゃくちゃ苦手そう」
「……」
「お? 図星? あいつもさぁ、昔からなんだかんだ面倒見が良いから。放っとけないんだろうね、日和くんみたいなタイプが」
黙り込んだ日和に気を悪くするでも使うでもなく、羽山が続ける。こういうところ、あの人と類友だよ。思ったが、言えない。他人の機微に聡いくせに、自分のペースを崩さないところ。日和には死んでも真似のできない芸当だ。
「とは言っても、ご存じのとおり、そこまでできた人間でも、いいやつでもないから。あいつが気に入ってる前提じゃなきゃ、そこまで構わなかったと思うけどね」
「俺がボランティアで来てるから、じゃないですか」
投げやりに日和は口にした。どう思われようとも関係がない。それに、それが事実だ。人手の足りていない曜日に入っているボランティアだから、逃がすわけにいかなかった。火曜日の担当の正規職員が真木だけだったから。だから、日和を気にかけてくれていた。それだけのこと。
そのはずなのに、羽山は意味深に瞳を細めて紫煙を吐いてみせた。
「本当に、そう思ってる?」
本当にもなにも、現実がそうなのだ。再び沈黙で返した日和を一瞥して、羽山が灰を叩く。寒い冬の空気に、白が小さく煌いた。
「ふぅん、まぁ。それならそれでいいけど」
この人、俺がなにしたのか、知ってるわけじゃないよな。疑念が湧いたものの、すぐにないなと日和は断定した。真木が言うはずがない。
「残念だったね。もうちょっと早く来てれば、面白いものが見れたのに」
「面白いもの?」
思わずつられて問いかけてしまった。
「塩見ちゃんに説教してる基生」
「塩見さん、来てるんですか」
「食いつくところ、そこか」
顔を思いきり歪めた日和に、羽山がおかしそうに笑う。
「まぁ、日和くんがそういう顔するってことは、塩見ちゃんが百パー悪かったんだろうけど」
「えぇ、と……、その、真木さんはなにを」
子どもの喧嘩に保護者を巻き込んでしまったような居た堪れなさがある。うれしいというよりも純粋に恥ずかしい。
「大丈夫、大丈夫。きつい言い方なんてしてないから。ただ、なんていうの? 家に帰って夜にひとりで思い返したときに、じわじわきそうなことは言ってたけど」
「そう、ですか」
「うん、そう、そう。だから大丈夫だって。きついこと言われても、ああいうタイプの子はあんまり堪えないだろうし」
たしかに塩見は堪えないだろうなとは思った。けれど、それ以前に。コートに突っ込んだままの拳をぎゅっと握る。
――なんだよ、あの人。あのときは俺が悪いみたいな言い草だったくせに。
「これはまぁ、日和くんも知ってるか。あいつ、誠実ですよみたいな雰囲気漂わせてるけど。案外、人をうまく懐柔して操縦するでしょ。叱ったりせずに」
「はぁ」
「まぁ、それがなくても、誰かを叱ることは疲れるからね。珍しい光景だったと思うよ」
なにが言いたいのかなんて、考えたくもない。ゆらゆらと立ち上る細い紫煙に視線を移したまま、日和は溜息を呑み込んだ。
「つまり、その程度には日和くんのことかわいがってるんだって、あいつ」
「……べつに、俺のためじゃないと思いますよ」
その程度なら、かわいがってほしくなかった。そう思うことは勝手だとわかっていても、つい考えてしまう。こんなふうに距離を詰めなければ、自分でも処理し切れない感情に悩まされることはなかっただろうに、と。
「塩見さんがうっかり口にしたことで、香穂子ちゃんが落ち込んでたらしいから。だから」
だから、もう会うことはないかもしれないが、一言くらい釘を刺しておきたかったのだろう。
そう、と頷いただけで、それ以上は羽山は言わなかった。
煙草を吸い終えるのを待っていると、羽山が吸いさしを灰皿に落とした。お待たせ、とやってきたときと同じ調子で笑って、ビルに日和を誘う。
一基しかないエレベーターは、まだしばらく降りてくる気配はなかった。落ち着かない気分でしかなかったものの、羽山と一緒で良かったのかもしれないと日和は思い始めていた。もしひとりだったら、エレベーターの前で挙動不審に立ち尽くしていた可能性がある。
「そういやさぁ、世間って狭いね。修吾とお友達だったんだって?」
「修吾?」
「お友達の名前くらい覚えててやれよ、日和くん。水原修吾。ゼミ一緒なんだろ?」
「あ」
日和はその苗字に短く声を上げた。
「あ、あの。俺、べつになにもそんなに根掘り葉掘り聞いたりは……」
「わかってる、わかってる。あいつも弁えてるし、日和くんも弁えてるでしょ。基生には面倒くさいから言ってないけど」
地元の忘年会で会ったときにね。我慢できなくなったみたいであいつゲロしちゃって。話を聞いた経緯を日和に説明しながら、着いたエレベーターに羽山が乗り込む。日和も慌ててそのあとを追った。直後、狭い空間に苦笑いのような声が響く。飄々としたトーンとは違うそれに、日和は羽山の横顔に視線を向けた。
「あいつね、本当にただの面倒くさいやつだからね。十年来、いや下手したら二十年か。の付き合いの俺が言うんだから間違いない。まぁ、なんというか、本当に妙なところで人を誑すやつではあるんだけど。昔から」
二十年って幼馴染みみたいなものなのか。新たに知る事実に、日和は曖昧に頷いた。
「だから、まぁ、お節介を焼きたくなるんだよなぁ。あいつからしたら、本当に余計な世話なんだろうけど」
どう答えていいのかわからないでいる日和の肩に、羽山が腕を回した。気安い勢いのまま、ぱしんと二の腕のあたりを叩く。痛い。というか、握力が強い。
「というわけで。ぴよちゃんは、めぐちゃんたちと呑んでなよ。俺は基生の相手しとくから」
「え……と。あの、羽山さん?」
「軽く潰してやるから、もう一回話してみれば。なにを諦めたのかは知らねぇけど」
「え、いや。……え?」
「それくらいのハンデがないと、あいつはぴよちゃんごときに本音晒してくれませんって。だから、いいの、いいの」
「ごときって」
「それに多少弱ってたって、絶対に基生のほうが強いから。そのへんの心配はしてないし。あ、でも」
チンと音を立てて、目的の階にエレベーターが到着する。ドアが開く寸前。さらに肩を引き寄せられて、耳元で一言羽山が囁いた。
「まかり間違って、なにかあったとして。泣かせたら、潰すよ」
呆然とする日和の背をバンバンと叩いて、羽山はさっさと降りていく。ついてこない日和を手招く顔は見慣れたそれだったのだが、逆に怖い。
「なにしてんの。早くおいでよ、ぴよちゃん。みんな待ってるんだから」
エレベーターで誰かとふたりきりというシチュエーションが地雷になりそうだと憂いつつも、日和はなんとか笑顔を浮かべてみせた。ぎこちなかったとは思うが。
というか。つぼみの面々に迎え入れられながら、日和は内心で盛大に頭を捻っていた。
――というか、なんで。俺が真木さんのことを好きで、一度振られたことが、あの人の前提になってるんだ?
億劫さを抱えたままビルに入ろうとしたところで、喫煙所に視線が吸い込まれる。
「……」
ただでさえ遅れているのだ。早く向かうべきだろうという正論は、ここまで遅れていれば五分くらいなにも変わらないとの悪魔の囁きに完敗を喫した。
無言のまま進行方向を変え、ぐるぐると巻きつけていたマフラーを外す。硬くなる表情を誤魔化すようにして、日和は煙草に火を点けた。かろうじてアクリル板の壁が設置されているだけの喫煙所は寒かったが、中に入る前に一服吐きたかったのだ。
――というか、真木さん云々はさておいても、できあがってる飲み会にあとからひとりで入るとか、俺、すごい苦手なんだけどな。
親しい仲間内の会合でもないので、なおさらである。キャンプに参加したことで見知った顔は増えたが、特別に親しくなったわけでもない。
――名波さんって、来てんのかな。
キャンプという単語で連想した顔に、日和はますます面倒くさくなった。
――というか、なんで、俺がこんなに気にしてんだ。真木さんのことにしても、つぼみのことにしても、名波さんのことにしても。
一服吐くはずが、苛々が増しただけだった。紫煙と一緒に深々と溜息を吐き出す。
火曜日につぼみで会うより先に、真木と会っておいたほうがいい。正論だ。間違いなく正しい。スタッフとして。新年会に出て、ほかのスタッフとも親睦を深めたほうがいい。それもまた正しい。正しすぎて、自分にまったく似合わない。
――結局、直前になって、怖気づいただけ、か。
二本目に火を点けたあたりで、ほんの少し冷静になる。その頭が導いた結論に、日和はなんだか虚しくなった。
――そうか。俺、自分から誰かに告白して振られたのって、はじめてなんだ。
来るもの拒まず去るもの追わずの「お付き合い」しか、自分はしてこなかった。
告白されて、なんとなく受け入れて、そうして振られる、の繰り返し。自嘲をこぼしそうになったところで、ふと日和は気がついた。
一年前の自分であれば、塩見の誘いを受けていたのかもしれない。水原の言ったとおりの、そのほうが後腐れがないという理由で。それができなくなった、あるいはしようと思わなくなった。その変化の理由なんて、ひとつしか思い当たらない。
もう一度、深々と溜息を吐いて、灰皿に吸いさしをねじ込もうとした瞬間。意外な声が落ちてきた。
「あれ。日和くんじゃん」
「羽山、さん」
ビルのほうから姿を現した長身に、人懐こい笑みが浮かぶ。逃げを打ちかけた身体を諫めて、日和は迎え入れる場所を空けた。そうして、どうにか苦笑を返す。
「俺もちょっと吸いたくなって。抜けてきちゃった。あ、べつに、店も禁煙じゃないけどね、なんとなく。あの場じゃ誰も吸わないから、吸いにくくて」
顔を合わすのは半年ぶりなのに、羽山の態度は親しい後輩に接するかのようだ。性格の違いとしかいいようがない。その調子のまま一服始められて、立ち去るタイミングを日和は見失った。
まぁ、いっか。どうせ向かう場所は一緒なんだし。そう言い聞かせて、所在なくポケットに手を突っ込んでいると、羽山が話しかけてきた。
「日和くんも吸うんだ、煙草? って、もう二十歳は超えてるもんね、べつに」
「はぁ、まぁ」
「いいじゃん、そんなに逃げようとしなくても。わかりやすいね、きみ、本当に」
さらりと本音を突かれて、日和はわずかに言葉に詰まった。
「そういうわけじゃ……」
「ついでに言うと、こういう飲み会の場も苦手そう。それで、遅れて登場とか、めちゃくちゃ苦手そう」
「……」
「お? 図星? あいつもさぁ、昔からなんだかんだ面倒見が良いから。放っとけないんだろうね、日和くんみたいなタイプが」
黙り込んだ日和に気を悪くするでも使うでもなく、羽山が続ける。こういうところ、あの人と類友だよ。思ったが、言えない。他人の機微に聡いくせに、自分のペースを崩さないところ。日和には死んでも真似のできない芸当だ。
「とは言っても、ご存じのとおり、そこまでできた人間でも、いいやつでもないから。あいつが気に入ってる前提じゃなきゃ、そこまで構わなかったと思うけどね」
「俺がボランティアで来てるから、じゃないですか」
投げやりに日和は口にした。どう思われようとも関係がない。それに、それが事実だ。人手の足りていない曜日に入っているボランティアだから、逃がすわけにいかなかった。火曜日の担当の正規職員が真木だけだったから。だから、日和を気にかけてくれていた。それだけのこと。
そのはずなのに、羽山は意味深に瞳を細めて紫煙を吐いてみせた。
「本当に、そう思ってる?」
本当にもなにも、現実がそうなのだ。再び沈黙で返した日和を一瞥して、羽山が灰を叩く。寒い冬の空気に、白が小さく煌いた。
「ふぅん、まぁ。それならそれでいいけど」
この人、俺がなにしたのか、知ってるわけじゃないよな。疑念が湧いたものの、すぐにないなと日和は断定した。真木が言うはずがない。
「残念だったね。もうちょっと早く来てれば、面白いものが見れたのに」
「面白いもの?」
思わずつられて問いかけてしまった。
「塩見ちゃんに説教してる基生」
「塩見さん、来てるんですか」
「食いつくところ、そこか」
顔を思いきり歪めた日和に、羽山がおかしそうに笑う。
「まぁ、日和くんがそういう顔するってことは、塩見ちゃんが百パー悪かったんだろうけど」
「えぇ、と……、その、真木さんはなにを」
子どもの喧嘩に保護者を巻き込んでしまったような居た堪れなさがある。うれしいというよりも純粋に恥ずかしい。
「大丈夫、大丈夫。きつい言い方なんてしてないから。ただ、なんていうの? 家に帰って夜にひとりで思い返したときに、じわじわきそうなことは言ってたけど」
「そう、ですか」
「うん、そう、そう。だから大丈夫だって。きついこと言われても、ああいうタイプの子はあんまり堪えないだろうし」
たしかに塩見は堪えないだろうなとは思った。けれど、それ以前に。コートに突っ込んだままの拳をぎゅっと握る。
――なんだよ、あの人。あのときは俺が悪いみたいな言い草だったくせに。
「これはまぁ、日和くんも知ってるか。あいつ、誠実ですよみたいな雰囲気漂わせてるけど。案外、人をうまく懐柔して操縦するでしょ。叱ったりせずに」
「はぁ」
「まぁ、それがなくても、誰かを叱ることは疲れるからね。珍しい光景だったと思うよ」
なにが言いたいのかなんて、考えたくもない。ゆらゆらと立ち上る細い紫煙に視線を移したまま、日和は溜息を呑み込んだ。
「つまり、その程度には日和くんのことかわいがってるんだって、あいつ」
「……べつに、俺のためじゃないと思いますよ」
その程度なら、かわいがってほしくなかった。そう思うことは勝手だとわかっていても、つい考えてしまう。こんなふうに距離を詰めなければ、自分でも処理し切れない感情に悩まされることはなかっただろうに、と。
「塩見さんがうっかり口にしたことで、香穂子ちゃんが落ち込んでたらしいから。だから」
だから、もう会うことはないかもしれないが、一言くらい釘を刺しておきたかったのだろう。
そう、と頷いただけで、それ以上は羽山は言わなかった。
煙草を吸い終えるのを待っていると、羽山が吸いさしを灰皿に落とした。お待たせ、とやってきたときと同じ調子で笑って、ビルに日和を誘う。
一基しかないエレベーターは、まだしばらく降りてくる気配はなかった。落ち着かない気分でしかなかったものの、羽山と一緒で良かったのかもしれないと日和は思い始めていた。もしひとりだったら、エレベーターの前で挙動不審に立ち尽くしていた可能性がある。
「そういやさぁ、世間って狭いね。修吾とお友達だったんだって?」
「修吾?」
「お友達の名前くらい覚えててやれよ、日和くん。水原修吾。ゼミ一緒なんだろ?」
「あ」
日和はその苗字に短く声を上げた。
「あ、あの。俺、べつになにもそんなに根掘り葉掘り聞いたりは……」
「わかってる、わかってる。あいつも弁えてるし、日和くんも弁えてるでしょ。基生には面倒くさいから言ってないけど」
地元の忘年会で会ったときにね。我慢できなくなったみたいであいつゲロしちゃって。話を聞いた経緯を日和に説明しながら、着いたエレベーターに羽山が乗り込む。日和も慌ててそのあとを追った。直後、狭い空間に苦笑いのような声が響く。飄々としたトーンとは違うそれに、日和は羽山の横顔に視線を向けた。
「あいつね、本当にただの面倒くさいやつだからね。十年来、いや下手したら二十年か。の付き合いの俺が言うんだから間違いない。まぁ、なんというか、本当に妙なところで人を誑すやつではあるんだけど。昔から」
二十年って幼馴染みみたいなものなのか。新たに知る事実に、日和は曖昧に頷いた。
「だから、まぁ、お節介を焼きたくなるんだよなぁ。あいつからしたら、本当に余計な世話なんだろうけど」
どう答えていいのかわからないでいる日和の肩に、羽山が腕を回した。気安い勢いのまま、ぱしんと二の腕のあたりを叩く。痛い。というか、握力が強い。
「というわけで。ぴよちゃんは、めぐちゃんたちと呑んでなよ。俺は基生の相手しとくから」
「え……と。あの、羽山さん?」
「軽く潰してやるから、もう一回話してみれば。なにを諦めたのかは知らねぇけど」
「え、いや。……え?」
「それくらいのハンデがないと、あいつはぴよちゃんごときに本音晒してくれませんって。だから、いいの、いいの」
「ごときって」
「それに多少弱ってたって、絶対に基生のほうが強いから。そのへんの心配はしてないし。あ、でも」
チンと音を立てて、目的の階にエレベーターが到着する。ドアが開く寸前。さらに肩を引き寄せられて、耳元で一言羽山が囁いた。
「まかり間違って、なにかあったとして。泣かせたら、潰すよ」
呆然とする日和の背をバンバンと叩いて、羽山はさっさと降りていく。ついてこない日和を手招く顔は見慣れたそれだったのだが、逆に怖い。
「なにしてんの。早くおいでよ、ぴよちゃん。みんな待ってるんだから」
エレベーターで誰かとふたりきりというシチュエーションが地雷になりそうだと憂いつつも、日和はなんとか笑顔を浮かべてみせた。ぎこちなかったとは思うが。
というか。つぼみの面々に迎え入れられながら、日和は内心で盛大に頭を捻っていた。
――というか、なんで。俺が真木さんのことを好きで、一度振られたことが、あの人の前提になってるんだ?



