好きになれない

「あ」
 最近の慣習どおり恵麻たちを送り届け、さて自宅に帰ろうと思ったところで、日和は小さく声を上げて立ち止まった。
「やっべ、忘れた……」
 リュックの中身をひっくり返すまでもない。その忘れ物がどこにあるかも、明瞭に思い出すことができる。
 やらかしてしまった。その事実に、知らず天を仰ぐ。駅前だからだろうか、ネオンに照らされた空は少しばかり明るい。それでも小さな星を見つけることはできた。現実逃避を決め込むように、ひとつふたつと星を数える。それが十になったところで、日和は勢いよく頭を下げた。自転車のハンドルを握る指先に力を込めて、歩いてきた方向に足を向ける。
 スピードを上げる気にはなれなくて、自転車を押したまま自宅とは反対方向へ。吐き出した溜息は白い。
 ――こんな日は、とっとと家に帰って寝たいのに。
 そのぼやきは、半分以上自身に言い聞かせているようなものだった。
 もうすっかりと暗い商店街のアーケードを通り、つぼみの前に自転車を横づけする。スタッフルームに面した窓からは、カーテンの隙間越しに淡い光が漏れていた。
 まだ、いるんだ。半分ほっとして、日和は鍵のかかっていない戸を引いた。昼間でもないし不用心だと思うのだが、自分が言ったところで改善が見られるはずもない。なので、日和は「おつかれさまです」とだけ小声で告げて、室内に入り込んだ。
 戸を閉めると、外気の冷たさが薄らいでいく。静かに靴を脱いで、スタッフルームのドアを開ける。指先に変なふうに力が籠もるのを自覚したまま覗いた先で、真木が振り返った。
「あれ、どうしたの」
 ひさしぶりにふたりきりで聞く声に、胸が詰まりそうになる。思春期の子どものような感慨を誤魔化して、日和は小さく眉を下げた。
「凛音ちゃんに貰ったクッキー、忘れちゃって」
 机の脇に置いていたそれに手を伸ばして、リュックに入れる。あいかわらずやるべき仕事が多いのか。それとも、自分が手伝わなくなったからなのか。真木の机には茶封筒が積み上がっている。手伝いましょうかとの声かけを、ぐっと日和は呑み込んだ。ふたりにならないように策を巡らしていたのは、日和であり真木だった。
「あ、本当だ。よかった、取りに来てくれて」
 それでも、変わらない声が、寂しいのにうれしい。すぐに帰るつもりだったのに、気がつけば会話を続けてしまっていた。
「朝イチで貰ったんで、リュックに入れておくと潰れちゃいそうで。机の上に置いてたんですけど。……って、それで持って帰るの忘れたら、意味ないですね」
「いや」
 苦笑するような調子で真木が首を傾げる。
「喜ぶと思うよ、凛音も。そうやって、ちゃんと大事にしてくれたら」
「だったらいいんですけど。俺、そういう気が利かなくて。みんなに小さなお菓子くらい持ってきたらよかったかなって」
「女の人は、土曜日のクリスマスパーティーのときに、小さなプレゼントを用意してたみたいだけど。まぁ、でも、それは、プレゼント交換をやるっていう名目だったらしいから。べつにいいんじゃないかな」
 クリスマスパーティーという単語に、日和は自分の表情がわずかに固まったことを自覚した。
「凛音は日和が笑って貰ってくれたら、それで十分うれしいだろうし」
「あ、の」
「やっぱり、真面目だよな、日和は。なんていうか、いい子って感じで安心する」
「あの、真木さん」
 躊躇いがちに遮った日和に、真木は驚くでもなく「なに?」と続きを促した。あの日の告白は、本当にこの人の中でなかったことになっているのだと思い知る。
「その、クリスマスパーティーのことなんですけど」
「あぁ、塩見さん?」
 日和が思い切るより前に、真木がさらりと口にした。
「日和が気にすることじゃないよ。まぁ、あまりいいことでもないけど。言ってしまったものはしかたないし。今後、気をつけてくれたら、それで」
 本当に。本当に、なんでもないことだというようにそう言って、真木が封筒のひとつを手に取った。華奢でもなんでもない、自分を求めて触れることもない、男の指。
 それなのに、どうして、俺はこの人がいいのだろう。触れたいのも、触れてほしいと思うのも、どうしてこの人なんだろう。ぎゅっと指先を握り込んで、息を吸う。
「聞かれたので、今日、凛音ちゃんたちには言ったんですけど」
 この人にとって意味のないことだとわかっていても、弁明したかった。
「違うんです。なんでそんなことをあの人が言ったのかは知りませんけど、付き合ってなんて、ない」
 淡々と紙面を繰っていた指先が止まって、真木の顔が上がる。その瞳に自分ひとりが映り込んでいるのは、あの夜以来かもしれなかった。
 あのときは、まだ暑くて。いや、違う。台風で雨がひどくて、触れた腕も冷たかった。
「知らないって、ことはないだろ」
 溜息を押し出すようにして、瞳が逸れていく。
「おまえのことが好きなんじゃないの。かわいそうだろ」
「かわいそうって」
「あの子が凛音たちと会うことはもうないかもしれないけど、そう、女の子に恥をかかせなくても……」
「なんで」
 気がついたときには声が出ていた。なんで。
「なんで、真木さんがそんなこと言うんですか」
 かわいそうってなんだよ。俺があんたのことを好きだって言ったのは、三ヶ月前の話だ。この人にとっては「もう」なのかもしれない。でも、と日和は思う。俺にとったら、「まだ」だ。なにも変わっていない。それなのに。
「俺が、好きでもなんでもないのに、塩見さんと付き合ってればよかったですか」
 腹が立つというよりは、悲しかった。
「いい子だと思うけど、塩見さん。綺麗な子だし。ああいうお姉さんタイプの子は、案外、日和みたいな弟っぽい子が合うのかなって」
 真木の視線は手元に落ちたままだ。いつもと変わらない調子で紡がれる言葉は、子どもに言い聞かせているようにさえ響く。
「凛音から聞いたときは、そうだな。お似合いだとは思った、かな」
 いかにも他人事なそれに、ぷつりとなにかが切れた気がした。
「なんだよ、それ」
 みっともなく感情に呑まれた声だった。諦めたのか、真木が書類を机に戻して、日和に向き直る。見上げてくる瞳には諫める色しか見当たらない。それがたまらなかった。
「あの人に向ける優しさの半分くらい、俺に向けてくれてもよくないですか」
「なかったことにしようって言ったのは、お互いさまだろ」
 溜息まじりに応じた真木の視線が、またゆっくりと外れていく。それが、嫌で。どうしようもなく、嫌で。
「っ……、ふざけんなよ」
 あんたじゃないか、とも思った。あんたが、なかったことにしたんだろう。俺の精いっぱいを。
 感情のままに伸びた指が目の前の肩を掴んで、背もたれが鈍い音を立てる。けれど、それだけだった。真木の表情は、まったく変わらない。
 そうだ、とよくわからないまま思った。変わるのは、影響されるのは、いつも自分だけだ。
「あんたじゃないですか。なかったことにしたのは」
「同意しただろ、おまえも」
 静かに見上げてくる瞳も、声も、特別な感情はなにひとつ映し出していない。その現実に、日和の口元が歪んだ。
「……俺、は」
 俺は、ちゃんと伝えたつもりだ。好きだと、そう言った。それを、なかったことにすると言ったのは真木だ。応えてくれなかったのは、真木だ。
「日和」
 宥めるように、そう呼ばれる。この部屋で、この空間で、何度も聞いたものだった。
 どこかぶっきらぼうなのに柔らかく響くそれが、――いつしか自分が好きになったもののすべてだった。もっと聞いていたいと願うようになった、すべて。
 そうして、できることなら、ずっと近くで聞いていたかった。期限つきで、もう会えなくなるなんて嫌だった。
 ――だから、言ったつもりも、きっとあった、のに。
「っ……」
 小さな声が、腕の中の世界で生まれる。自分がキスをしたという自覚はほとんどなかった。触れた唇は乾いていて、そして。
「あ……、すみませ……」
 舌を這わせかけたところで、日和はふっと我に返った。無意識に力が入っていた指先を、どうにかして肩から離す。緊張なのか、なんなのか。心臓がやたらとうるさい音を立てていた。
 情けない自分の顔を映し込んでいた瞳が、静かに瞬く。
「べつにいい」
 責める雰囲気の欠片もない、感慨のない返事。けれど、それを許されたからだと思うほど呑気にはできていない。
 糾弾すらされないことがこんなにもやるせなく苦しいなんて、知らなかった。
「べつにって」
「たいしたことじゃない。だから、忘れろ」
 最後まで言わせることなく、真木は言い切った。話は終わりだと全身で表すように、書類に手を伸ばす。紙面に目を落としたまま、立ち尽くしていた日和に声をかける。いつもどおりに。
「気をつけて帰れよ」
 自分が反対を唱えることが、勝手だということはわかっていた。大人として、この施設の運営に携わる人間として、真木の対応が正しいのだろうということも。それでも。
「俺は、忘れたくない」
 それなのに、はっきりと口にしてしまった。止められなかったのだ。なかったことにすると言われて、今回もまた忘れろと言われて、無理だと悟った。なかったことにすることも、忘れることも、自分にはできない。
「たしかに、塩見さんにそういったことは言われました。でも、ちゃんと断ったんです。遊びでも、本気じゃなくてもいいっていうのは、無理だってわかったから」
 この人からしたら一寸の興味もないことだと知っている。それでも聞いてほしかった。
「あなたが好きだって、あなたじゃなきゃ駄目だって、思い知ったから。だから」
「日和が俺のことを好きだって思うのはさ」
 日和のほうを向きもしないまま、言い聞かせるように彼が言う。
「俺がゲイだって知ってるからだよ。そうじゃなかったら、ただの友愛で終わってた。そういうものだよ」
「……違います」
「違わない。毛色が違うから、ちょっと物珍しかっただけだ。それは恋なんてものじゃない」
「っ、違う」
「大丈夫、違わない。すぐに忘れる。ただの一過性のものだ。塩見さんがそうじゃなかったっていうなら、それはそれで。すぐにまた、違う女の子を好きになる。それで、いつか消えてなくなる」
 こぼれ出さないように感情を必死で握りしめて、うつむく。視線さえ、合わない。
「それだけだ」
 そんな言葉を聞きたかったわけじゃない。日和はすっと息を吐いた。
「答えを聞いてないです、俺は一度も」
 日和がそれでいいなら、なかったことにする。おまえのそれは恋じゃない。それは、どちらも、この人の主体的な言葉でも、感情でもない。せめて、真木自身の言葉を聞きたかった。終わらせるにしても、言葉がほしかった。
「あなたの答えを、聞いてない」
 そうでなければ、自分では、止められないところに来ている。無意識に口づけてしまって、ようやく気がついた。もう、ふたりになることを求めるわけにはいかない。だから、これが最後だ。
 プライベートな感情をこの人にぶつけるのは、これで最後。だから。そんな祈るような気持ちが届いたのか、それとも、埒が明かないと踏んだだけか。真木の視線が手元から離れた。
 自分を見てくれてあたりまえだと。夏までは思っていた瞳だった。
「はっきり言ったほうがいいなら、言うけど」
 呆れと苛立ちがかすかに混じった声に、握りしめたままの拳に力が入る。良い答えが返ってくることはない。わかっていても、誤魔化しようもなく、緊張で震えた。
 そのことを、この人はわかっているのだろうか。この揺らぎも、不安も、それでも、と。残るかすかな期待も。そのすべてを日和の勘違いだと、そう言うのだろうか。
 生徒たちや自分に対して、どんなときも誠実な言葉を吐くのだと信じていた唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おまえのそれは、信じられない」
 心臓を掴まれたみたいだった。日和の答えを待つように、真木はそれ以上なにも言わなかった。
「そうですか」
 その言葉を口にするのが、精いっぱいだった。そのあとどうやって家に帰りついたのか、日和はよく覚えていない。