どうしよう。降って湧いた新たな問題に、日和は比喩でなく本気で頭を抱えていた。
――ゼミ終わったら、絶対、即行で断ろうと思ってたのに。
そう、本当にそのつもりだったのだ。先延ばしにしたら悪化するだろうことは、実体験として身に染みている。そう言い聞かせて気合いと勇気を溜めていたのに、散会の合図と同時に日和はまんまと捕まった。塩見ではなく、教授に。
そうして、そのまま。急を要するとも思えない雑談になぜか付き合わされ、塩見がほかの四年生とゼミ室を出て行くところを見送るはめになったのである。
扉を見つめている姿がよほど憐れだったのか、水原がひとりになった日和の肩を叩いた。「食堂行く?」と水を向けられて、無言で頷く。
聞いてもらえるのならば、一から十までぶちまけて、もう楽になってしまいたい。その願望のままに、日和は今朝の一件について訥々と語った。
「そういうわけなんだけど、どうしたらいいと思う?」
二限目が終わったばかりの時間帯の食堂は、まだ空席が目立っている。少し離れた席から聞こえるお喋りを聞くともなしに聞きながら、日和は陰鬱な溜息を吐き出した。
「どうしようって言われても。塩見さんの言うとおり、付き合ってる子いないんだよな。だったらいいんじゃない? 残り三ヶ月なんだし。やらせてもらって終わりじゃん」
どこが問題かわからないと言わんばかりの顔に向かって、軽く眉を顰める。
共通の知人が発覚した親近感からか、九月に入ったあたりから、ゼミ室以外でも水原は話しかけてくるようになった。案外と話も合い、こうして愚痴をこぼすこともできる間柄になったわけだが、これに関しては合わないし、そういう問題でもないと思う。
「……そういう問題じゃなくね?」
「クリスマスデート奮発したら、それでよくない? ほら、させてもらうお代っていうか」
「いや、だから、そういう問題じゃなくて」
むっつりと否定して、紅茶に砂糖を二袋ぶちこんだ。なんだか無性に糖分が取りたい。行儀悪く音を立ててティースプーンを掻き回していると、水原が「そういう問題じゃないって、じゃあ、なにが嫌なの?」と肩を竦める。
「だって、塩見さんだよ。見た目は最高、性格もそこまで悪くない。なにが問題なんだよ、逆に聞くけど」
「そもそもとして、そんなに好きじゃないんだって、俺は。……まぁ、綺麗な人だとは思うけど、それだけで」
「だから、見た目はセーフなんだろ? だったら、いいじゃん、べつに。おまけに三ヶ月限定なわけだし。早い話がセフレと思えば。それとも、そういうのが好きじゃないって?」
セフレ。身も蓋もない呼称に、顔をしかめたまま紅茶に口をつける。
「まぁ、……そういうのが好きじゃないっていうのも、そうだけど」
「じゃあ、好きな人がいるとか」
日和は今度こそ沈黙した。好きな人。そこであの人の顔が浮かぶのだから、嫌になる。まったく相手にされていないのに。
「いるんだったら、あれだけど。そうじゃないなら、提案に乗ったほうがおまえのためだと思うよ、俺。断って、残り三ヶ月、針の筵になりたくないだろ? 俺らの学年にもあの人のファン多いから、下手したら残り一年と三ヶ月、針の筵だよ。うわ、絶対、嫌だわ、俺」
「面倒くせぇ……」
心の底から嘆いた日和に、水原が笑った。
「なんかひさしぶりに聞いたな、日和のそれ。去年はよく言ってたけど、今年になってから、あんまり言わなくなってたから」
それは、つぼみに通い出したから、なのだろうか。なんとも言えなくて、日和はちびちびと紅茶を飲んだ。
――ブラックで大丈夫?
揶揄うように自分を見ていた瞳が蘇る。あぁ、もう、やってられない。
「そんなこともないと思うけど」
「そう? まぁ、そういうことでもいいけど」
照れ隠しと捉えたらしく軽く受け流した水原が、それよりさ、と囁いてくる。
「結局、どんな子だったらいいんだよ。日和、ぜんぜんそういうこと言わないじゃん。好きなタイプとか。あるだろ、いろいろ」
好きなタイプ。思い浮かんだ顔を切り捨てて、日和はそっと目を閉じた。一拍置いて、おざなりに応じる。
「優しい人」
子どもたちに、とびきり優しい瞳を向ける人。なにもできない自分も否定せず、笑顔で受け入れてくれた人。つぼみでの日々の断片が、いくつも思い浮かんでは消えていく。
水面に映る自分の顔から目を背けるように、日和はカップを傾けた。優しい人。精いっぱいの告白をなかったことにして、なにごともないような顔で笑いかけてくる、ひどい人。
「そう言われると、塩見さんはおまえのタイプじゃないのかもな。あの人、まかり間違っても癒し系ではないし」
「いや……」
癒してほしいと思っているわけでもないのだけれど。否定しようと思って、やめた。べつに、どう思われたって、どうでもいいことだ。甘いはずの紅茶も、なぜかあまり甘味を感じない。眉間の皺を深くした日和に、宥める調子で水原が本筋に戻した。
「断ったほうが気が楽なら、そうしたらいいと思うけど。言い方だけ気をつけろよ」
「うん」
「日和、そういうの苦手そうだもんなぁ。なんなら、千砂さんとか、四年の人に相談して――って、塩見さんなら根回し済みだな、絶対」
「うん」
「あ、じゃあ、基生さんに相談してみたら?」
なんの気なしに出た名前だったのだろう。わかっていたのに、カップを掴む指先に力が籠もったことを自覚した。適当に打っていただけの相槌が途絶える。
「もともと塩見さんが基生さんのところでお世話になってたんだろ? さすがに塩見さんも、そんなところにまで根回ししてないだろうし。それこそ、日和のタイプの話じゃないけど、あの人、面倒見も良いし優しいだろ。ぱっと見はとっつきにくいけど――」
「いい」
話を遮るような、きつい声になった。自身も驚いたが、水原も口を開いたまま固まっている。その口が新しい言葉を紡ぎかけたのを見て、日和は焦って首を振った。
「あ、いや。その、そうじゃなくて。……べつに、俺は、お世話になってはいるけど。その、ただのボランティアだし、プライベートな相談なんてしないし」
「あぁ、まぁ。そう言われたら、そうだよな。なんか、ごめん」
「……いや、俺こそ」
もごもごと口の中で謝って、最後に日和は「大丈夫」と付け加えた。まったく大丈夫な気はしなかったが、だからと言って、あの人に相談なんてできるわけがない。
――というか、面倒見が良いなんて、俺だって知ってるし。
むしろ、そのせいで深みに嵌まって堕ちていったようにさえ思う。鬱屈を残りの紅茶と一緒に喉の奥に流し込んで、日和はトレー片手に立ち上がった。
「ごめん。話、聞いてくれてありがと」
「いや。なんの役にも立ってないと思うけど。まぁ、なにかあったら言えよ」
話くらいなら聞くと気前良く請け負ってくれる姿勢に感謝して、食堂をあとにする。次の講義は昼からなので、まだ少し時間に空きがあった。図書館でレポートでも仕上げてしまおうかと算段をつけながら、歩く。吐く息が白い。
――ちゃんと、言おう。
できれば、早いうちに。自身に言い聞かせるように、日和は小さく頷いた。塩見にとっては軽い告白だったのかもしれないが、だからと言って、さらりと流してしまうことは失礼だ。
自分はあの日、受け流されて傷ついた。それと同じことを、したくない。
好きな人が、いる。
その響きに胸が高鳴ることはいっさいなかった。あの人が相手でなければ、もっと楽しい「恋」になっていたのだろうか。日和にはわからない。想像もできない。
――でも、これは、俺が男を好きになったから、だとか、そういうことじゃなくて。
そういうことじゃ、きっと、なくて。
けれど、その先を落ち着いて考えるほどの感情の整理は、まだできていなかった。
学生証を入口でかざして図書館に入る。パソコンが使用できる席が空いていたことにほっとして、一番端の席に日和は腰を下ろした。コートを脱いで椅子の背面にかけ、パソコンが起動するのを待つ。暗い画面を見ているうちに、また詮ないことを考えてしまった。どうしようもない、「たられば」だ。
もし、水原に言ったように、プライベートな交流を持とうとさえしなければ、ほどよい関係のままでいることができたのだろうか。
好きだなんて言わなければ、あのまま。友人とは言えなくとも、手を伸ばせば届く距離で、受け入れ続けてもらうことができていたのだろうか。あそこの子どもたちのように。
そこまで考えたところで、日和は緩く頭を振った。変わらない、わけがない。
あそこは、優しいだけの夢の空間ではない。次に巣立っていくための、宿り木だ。
香穂子は、同じ中学校の友人が選択しない私立の高校に進学すると言って、十月の終わりから少しずつ学校に戻っている。保健室登校ではあるようだが、間違いなく進歩だ。
雪人と恵麻は、学人が選んだのと同じ公立の通信制高校を進路に選んだ。
レポートの提出が遅れると進級できないから、自分で管理しないといけない。大変だぞと真木や学人に言われて、目を泳がせていたけれど。たぶん、あのふたりは高校生になってもつぼみに通いたいのだろう。だから通信制を選んだのではないかと思う。それが良いことなのか悪いことなのか、日和にはどうとも言えなかったけれど。
一方で紺は、公立高校の全日制の不登校枠を受験してみるつもりだと言っていた。通常の入試では、不登校の生徒は内申点が低いので受かることは難しい。その救済制度なのだが、合格人数が極めて少ないので倍率の高い枠だ。
紺は勉強はできるけれど、受かったとしても、問題はそのあとに待ち構えている。全日制の高校に、本当に毎日通うことができるのかどうか、ということだ。
――でも、どちらにしても、春になって、あの子たちが新しい道に踏み出すとき、そこに俺はいないんだ。
そして、真木の傍にも自分はいることができなくなる。塩見のいなくなった穴に自分が入ったように、自分がいなくなった穴にも、べつの誰かが納まるのだ。そして。あの人はまたあの顔で受け入れてみせるのだろうか。
――嫌だ。
嫌だと思うのは、ただの我儘だ。わかっている。意味のない独占欲だ。あそこは日和だけの場所ではない。
――でも、嫌だ。
頑なに心の奥で小さな自分が主張している。これが「恋」? 笑いたくなって、日和は誤魔化すようにうつむいた。リュックからUSBを取り出して、パソコンに差し込む。
好きな人がいるんです。付き合っているわけじゃないけど。頭の中で塩見に告げる文面を構築する。好きな人がいる。振られたのに、いや、正確には振ることさえしてくれなかったのに。忘れられなくて、嫌いになれない人がいる。
これから関係が進展する望みなんてないのに、諦められない人がいる。心から出て行ってくれない人がいる。
だから、――。
だから、付き合えません。
――ゼミ終わったら、絶対、即行で断ろうと思ってたのに。
そう、本当にそのつもりだったのだ。先延ばしにしたら悪化するだろうことは、実体験として身に染みている。そう言い聞かせて気合いと勇気を溜めていたのに、散会の合図と同時に日和はまんまと捕まった。塩見ではなく、教授に。
そうして、そのまま。急を要するとも思えない雑談になぜか付き合わされ、塩見がほかの四年生とゼミ室を出て行くところを見送るはめになったのである。
扉を見つめている姿がよほど憐れだったのか、水原がひとりになった日和の肩を叩いた。「食堂行く?」と水を向けられて、無言で頷く。
聞いてもらえるのならば、一から十までぶちまけて、もう楽になってしまいたい。その願望のままに、日和は今朝の一件について訥々と語った。
「そういうわけなんだけど、どうしたらいいと思う?」
二限目が終わったばかりの時間帯の食堂は、まだ空席が目立っている。少し離れた席から聞こえるお喋りを聞くともなしに聞きながら、日和は陰鬱な溜息を吐き出した。
「どうしようって言われても。塩見さんの言うとおり、付き合ってる子いないんだよな。だったらいいんじゃない? 残り三ヶ月なんだし。やらせてもらって終わりじゃん」
どこが問題かわからないと言わんばかりの顔に向かって、軽く眉を顰める。
共通の知人が発覚した親近感からか、九月に入ったあたりから、ゼミ室以外でも水原は話しかけてくるようになった。案外と話も合い、こうして愚痴をこぼすこともできる間柄になったわけだが、これに関しては合わないし、そういう問題でもないと思う。
「……そういう問題じゃなくね?」
「クリスマスデート奮発したら、それでよくない? ほら、させてもらうお代っていうか」
「いや、だから、そういう問題じゃなくて」
むっつりと否定して、紅茶に砂糖を二袋ぶちこんだ。なんだか無性に糖分が取りたい。行儀悪く音を立ててティースプーンを掻き回していると、水原が「そういう問題じゃないって、じゃあ、なにが嫌なの?」と肩を竦める。
「だって、塩見さんだよ。見た目は最高、性格もそこまで悪くない。なにが問題なんだよ、逆に聞くけど」
「そもそもとして、そんなに好きじゃないんだって、俺は。……まぁ、綺麗な人だとは思うけど、それだけで」
「だから、見た目はセーフなんだろ? だったら、いいじゃん、べつに。おまけに三ヶ月限定なわけだし。早い話がセフレと思えば。それとも、そういうのが好きじゃないって?」
セフレ。身も蓋もない呼称に、顔をしかめたまま紅茶に口をつける。
「まぁ、……そういうのが好きじゃないっていうのも、そうだけど」
「じゃあ、好きな人がいるとか」
日和は今度こそ沈黙した。好きな人。そこであの人の顔が浮かぶのだから、嫌になる。まったく相手にされていないのに。
「いるんだったら、あれだけど。そうじゃないなら、提案に乗ったほうがおまえのためだと思うよ、俺。断って、残り三ヶ月、針の筵になりたくないだろ? 俺らの学年にもあの人のファン多いから、下手したら残り一年と三ヶ月、針の筵だよ。うわ、絶対、嫌だわ、俺」
「面倒くせぇ……」
心の底から嘆いた日和に、水原が笑った。
「なんかひさしぶりに聞いたな、日和のそれ。去年はよく言ってたけど、今年になってから、あんまり言わなくなってたから」
それは、つぼみに通い出したから、なのだろうか。なんとも言えなくて、日和はちびちびと紅茶を飲んだ。
――ブラックで大丈夫?
揶揄うように自分を見ていた瞳が蘇る。あぁ、もう、やってられない。
「そんなこともないと思うけど」
「そう? まぁ、そういうことでもいいけど」
照れ隠しと捉えたらしく軽く受け流した水原が、それよりさ、と囁いてくる。
「結局、どんな子だったらいいんだよ。日和、ぜんぜんそういうこと言わないじゃん。好きなタイプとか。あるだろ、いろいろ」
好きなタイプ。思い浮かんだ顔を切り捨てて、日和はそっと目を閉じた。一拍置いて、おざなりに応じる。
「優しい人」
子どもたちに、とびきり優しい瞳を向ける人。なにもできない自分も否定せず、笑顔で受け入れてくれた人。つぼみでの日々の断片が、いくつも思い浮かんでは消えていく。
水面に映る自分の顔から目を背けるように、日和はカップを傾けた。優しい人。精いっぱいの告白をなかったことにして、なにごともないような顔で笑いかけてくる、ひどい人。
「そう言われると、塩見さんはおまえのタイプじゃないのかもな。あの人、まかり間違っても癒し系ではないし」
「いや……」
癒してほしいと思っているわけでもないのだけれど。否定しようと思って、やめた。べつに、どう思われたって、どうでもいいことだ。甘いはずの紅茶も、なぜかあまり甘味を感じない。眉間の皺を深くした日和に、宥める調子で水原が本筋に戻した。
「断ったほうが気が楽なら、そうしたらいいと思うけど。言い方だけ気をつけろよ」
「うん」
「日和、そういうの苦手そうだもんなぁ。なんなら、千砂さんとか、四年の人に相談して――って、塩見さんなら根回し済みだな、絶対」
「うん」
「あ、じゃあ、基生さんに相談してみたら?」
なんの気なしに出た名前だったのだろう。わかっていたのに、カップを掴む指先に力が籠もったことを自覚した。適当に打っていただけの相槌が途絶える。
「もともと塩見さんが基生さんのところでお世話になってたんだろ? さすがに塩見さんも、そんなところにまで根回ししてないだろうし。それこそ、日和のタイプの話じゃないけど、あの人、面倒見も良いし優しいだろ。ぱっと見はとっつきにくいけど――」
「いい」
話を遮るような、きつい声になった。自身も驚いたが、水原も口を開いたまま固まっている。その口が新しい言葉を紡ぎかけたのを見て、日和は焦って首を振った。
「あ、いや。その、そうじゃなくて。……べつに、俺は、お世話になってはいるけど。その、ただのボランティアだし、プライベートな相談なんてしないし」
「あぁ、まぁ。そう言われたら、そうだよな。なんか、ごめん」
「……いや、俺こそ」
もごもごと口の中で謝って、最後に日和は「大丈夫」と付け加えた。まったく大丈夫な気はしなかったが、だからと言って、あの人に相談なんてできるわけがない。
――というか、面倒見が良いなんて、俺だって知ってるし。
むしろ、そのせいで深みに嵌まって堕ちていったようにさえ思う。鬱屈を残りの紅茶と一緒に喉の奥に流し込んで、日和はトレー片手に立ち上がった。
「ごめん。話、聞いてくれてありがと」
「いや。なんの役にも立ってないと思うけど。まぁ、なにかあったら言えよ」
話くらいなら聞くと気前良く請け負ってくれる姿勢に感謝して、食堂をあとにする。次の講義は昼からなので、まだ少し時間に空きがあった。図書館でレポートでも仕上げてしまおうかと算段をつけながら、歩く。吐く息が白い。
――ちゃんと、言おう。
できれば、早いうちに。自身に言い聞かせるように、日和は小さく頷いた。塩見にとっては軽い告白だったのかもしれないが、だからと言って、さらりと流してしまうことは失礼だ。
自分はあの日、受け流されて傷ついた。それと同じことを、したくない。
好きな人が、いる。
その響きに胸が高鳴ることはいっさいなかった。あの人が相手でなければ、もっと楽しい「恋」になっていたのだろうか。日和にはわからない。想像もできない。
――でも、これは、俺が男を好きになったから、だとか、そういうことじゃなくて。
そういうことじゃ、きっと、なくて。
けれど、その先を落ち着いて考えるほどの感情の整理は、まだできていなかった。
学生証を入口でかざして図書館に入る。パソコンが使用できる席が空いていたことにほっとして、一番端の席に日和は腰を下ろした。コートを脱いで椅子の背面にかけ、パソコンが起動するのを待つ。暗い画面を見ているうちに、また詮ないことを考えてしまった。どうしようもない、「たられば」だ。
もし、水原に言ったように、プライベートな交流を持とうとさえしなければ、ほどよい関係のままでいることができたのだろうか。
好きだなんて言わなければ、あのまま。友人とは言えなくとも、手を伸ばせば届く距離で、受け入れ続けてもらうことができていたのだろうか。あそこの子どもたちのように。
そこまで考えたところで、日和は緩く頭を振った。変わらない、わけがない。
あそこは、優しいだけの夢の空間ではない。次に巣立っていくための、宿り木だ。
香穂子は、同じ中学校の友人が選択しない私立の高校に進学すると言って、十月の終わりから少しずつ学校に戻っている。保健室登校ではあるようだが、間違いなく進歩だ。
雪人と恵麻は、学人が選んだのと同じ公立の通信制高校を進路に選んだ。
レポートの提出が遅れると進級できないから、自分で管理しないといけない。大変だぞと真木や学人に言われて、目を泳がせていたけれど。たぶん、あのふたりは高校生になってもつぼみに通いたいのだろう。だから通信制を選んだのではないかと思う。それが良いことなのか悪いことなのか、日和にはどうとも言えなかったけれど。
一方で紺は、公立高校の全日制の不登校枠を受験してみるつもりだと言っていた。通常の入試では、不登校の生徒は内申点が低いので受かることは難しい。その救済制度なのだが、合格人数が極めて少ないので倍率の高い枠だ。
紺は勉強はできるけれど、受かったとしても、問題はそのあとに待ち構えている。全日制の高校に、本当に毎日通うことができるのかどうか、ということだ。
――でも、どちらにしても、春になって、あの子たちが新しい道に踏み出すとき、そこに俺はいないんだ。
そして、真木の傍にも自分はいることができなくなる。塩見のいなくなった穴に自分が入ったように、自分がいなくなった穴にも、べつの誰かが納まるのだ。そして。あの人はまたあの顔で受け入れてみせるのだろうか。
――嫌だ。
嫌だと思うのは、ただの我儘だ。わかっている。意味のない独占欲だ。あそこは日和だけの場所ではない。
――でも、嫌だ。
頑なに心の奥で小さな自分が主張している。これが「恋」? 笑いたくなって、日和は誤魔化すようにうつむいた。リュックからUSBを取り出して、パソコンに差し込む。
好きな人がいるんです。付き合っているわけじゃないけど。頭の中で塩見に告げる文面を構築する。好きな人がいる。振られたのに、いや、正確には振ることさえしてくれなかったのに。忘れられなくて、嫌いになれない人がいる。
これから関係が進展する望みなんてないのに、諦められない人がいる。心から出て行ってくれない人がいる。
だから、――。
だから、付き合えません。



