「あれ、それ。もしかして」
背後からひょいと手元を覗かれて、日和はスマートフォンを取り落としそうになった。というか、いきなり人の手元を覗き込むな。そんな不満を視線に込めつつ、ちらりと振り返る。
大講義室の一番後ろを陣取って、講義開始の鐘が鳴るのを待つばかりだったので、キャンプの写真を整理していたのだ。次につぼみに行くときにデータを渡す約束になっている。
「あ、ごめん。驚かせた?」
「いや、いいけど。というか、もしかしてってなに?」
そのまま隣に腰を落ち着けた水原に、しかたなく問いかける。ゼミで話すことは間々あるが、大教室の講義を並んで受けるような間柄ではない。
「さっきの写真、ちょっと見せてくれない?」
「え……と。あの、ボランティア先の子も写ってるし」
なんとなく渡しづらく、日和はスマートフォンを握りしめた。誰にも見られないと思って、気を抜いて広げていたのは自分であるけれど。その反応をどう取ったのか、「違う、違う」と水原が弁明する。
「べつに小さい子を見たいとかじゃないから。というか、俺らロリコンとか一番思われちゃ駄目な課程だろ」
「……まぁ、それはそうだけど」
「だから、そうじゃなくて。さっきの写真のさ、男の人」
「え?」
「基生さんじゃない? 変わってなくてびっくりして」
出てきた名前に、日和は固まった。
「知り合い?」
「知り合いというか、まぁ、知り合いか。地元の先輩。懐かしいな。元気にやってるんだ、基生さん」
「まぁ、……元気だと、思う、けど」
歯切れの悪い返事になったのは、頭の理解が追いつかなかったからだ。水原もひとり暮らしをしていたはずだから、真木と同じ地域の出身なのだろうか。
――世間って、案外、狭いんだな……。
呆れ気味にそんなことを思う。とは言え、同じ県内だ。そういうこともあるのかもしれない。
――けど。普通、四つも年が離れてたら、顔が割れるようなことってなくないか?
中学校も高校も被らないだろうから、部活の先輩後輩ということもないだろう。そんなことを考えているうちにチャイムが鳴り始める。いつのまにか姿を現していた講師が、前回の続きから、と教科書のページを指定しているが、大教室にいる学生の三分の一も聞いていまい。
その大多数のひとりである水原も、声量を少し落としただけで話を続けてくる。
「ミニバス時代の先輩でさ。あ、俺、バスケやってたんだけど。基生さん、中学とか高校とかに行ってからも、たまにミニバスの練習に顔出してくれてたから」
「あぁ、それで」
そういえば、バスケが強いだなんだという話があったような。得心して日和は頷いた。体育会系の繋がりか。自分には縁遠い話だ。
「すごい人だったんだけど。高校のときはいろいろあって大変そうだったからさ。他人事ながら気になってたんだけど。まさか、こんなところで消息を知るとは思わなかった。世間って狭いよな」
「いろいろ?」
無視できず繰り返した日和に、水原が言い淀む。
「噂でしか知らない話だし。それに、おまえ、今、基生さんと一緒なんだろ? さすがに俺の口からは言えないって」
「……なら、中途半端に気になること言うなよ」
声のトーンが自ずと下がる。「だから、ごめんって」と謝りながらも、水原は手慰みにボールペンを回していた。
「懐かしい顏見たから、びっくりしちゃって。それで、つい」
「……」
「それだけだって。というか、怖ぇよ、日和、その顔。黙るとやたら迫力あって怖いんだもん。美形って嫌だなー」
笑って誤魔化された気しかしないが、問い詰めて気持ちの良い話でもないだろう。日和は溜息ひとつで、閉じたままだった教科書に手を伸ばした。
「まぁ、でも。元気にやってるなら、よかった」
ひとりごとの調子で水原が言う。
「あの人が覚えてるかどうかはわからないけど、俺のこと言わないでね」
「俺のことって……」
「だから、地元の知り合いが、今を知ったって気持ちの良いものじゃないだろ。特に、基生さんみたいに地元を捨てた人からしたら」
帰れないじゃなくて、帰らない。本人の関知しないところで知ることは卑怯だ。わかっていたのに、こぼれてしまった。
「それって、あの人のさ」
「うん?」
「恋愛のこととかに、関係あったりする?」
知らなければ伝わらないだろう、あやふやなぼかし方を選んだことが、最後の一線だった。水原は驚いた顔で日和を見つめて、なんだ、と嘆息した。
「知ってたんだ? その、男が好きって話」
「知ってたというか、真木さんがあんまり隠してないから」
「へぇ」
意外そうに相槌を打って、水原がまたペンを回す。時計の針を無理やり逆回転させるように。教室の喧騒がどこか遠かった。
「俺からすると、それはちょっと意外というか、……まぁ、でも、いいことなのかな。隠さなくて済むなら」
「……昔は違ったんだ?」
「うちの地元ってけっこう田舎でさ。そういう、なんていうの? 偏見とかもあったし。基生さんの家も、堅い感じのお家だったし」
想像は容易についた。たとえば日和がゲイだったとしても、地元では絶対に公言できない。すぐに噂になって広がるからだ。そうして家族にも風評の被害が及ぶ。そんな、田舎。
「でも、実際に『そう』なのかどうかは、俺ははっきりと聞いたわけじゃなくて。どちらかというと、嵌められたんじゃないかなって俺ら後輩は話してたんだけど」
「嵌められたって、そういう噂が広がったってこと?」
「あの人が高二くらいのときの話だし。そのころ俺は中一だったしさ。学校も違うし、詳しいことは知らないけど。部活で揉めたのは事実だと思う」
部活というのは、バスケットボール部だろう。恵麻たちの話が本当なら、全国大会にも出たことがあるという、それ。
「なんというか、らしいと言えばらしいんだけど。当の本人が弁明のひとつもしないもんで。でかい声ばっかり目立っちゃった、みたいな。嫌になったのか、基生さんはあっさり途中でやめちゃうし」
本当に上手だったんだけどな、と水原が惜しむように言う。どんな噂だったのかは知らないが、弁明をしなかったというのはたしかにらしい気はした。
けれど、聞かないほうがよかったのかもしれない。そう少し日和は悔やんだ。聞いたところで、どうにもできないことを知ってしまったと思ったからだ。おまけに、聞くとしても当人からにすべきところを、自分の興味本位で第三者から。
「まぁ、そんなわけで。ぜんぜん帰ってこなくなったの、あの人。ミニバスとかの連中と集まることがあっても、顔出さないし。というか、むしろ誰も連絡先知らないんじゃないかな」
「でも、えぇと。羽山さんとは今も会ってるよ」
「うそ」
今も誰とも連絡を取っていないわけではない、と。伝えないといけないような謎の義務感で羽山の名前を出した日和に、ぽかんとした顔をした水原が小さく叫んだ。
「ひでぇ! 和さん、今までそんなこと言わなかったのに!」
「知り合い?」
「和さんも俺の先輩。和さんは現役は中学までだったけど。そのあともボランティアのコーチみたいな感じで、ミニバスのほうに来てくれてたから、ずっと」
次に会うのいつだ。正月か。絶対、聞き出してやる。あれ、でも、待てよ、そうすると、俺がなんで知ってるんだって話になるな。ひとりで悩み出した水原に苦笑を残して、日和は教卓に視線を向けた。どこまで進んでいるのか把握し切れないまま、とりあえずで板書をルーズリーフに書き写す。黙々とペンを動かしながら、聞かなければよかったかな、ともう一度おのれに問いかける。
知ったからといって、なにがどう変わるというものではない。ただ。第三者から勝手に聞いていいものでもない。
――まぁ、俺がうっかり口を滑らさない限り、バレることはないと思うけど。
結論づけて、日和はペンを走らせるスピードを上げた。書き洩らしたまま消えた板書もいくつかある気はするが、たぶんなんとかなるだろう。
けれど、もし、と。詮ないことを頭の片隅で日和は考えていた。
もし、俺が聞いたら。忘れたいと思っていたことでも、あの人は教えてくれたのだろうか、と。
背後からひょいと手元を覗かれて、日和はスマートフォンを取り落としそうになった。というか、いきなり人の手元を覗き込むな。そんな不満を視線に込めつつ、ちらりと振り返る。
大講義室の一番後ろを陣取って、講義開始の鐘が鳴るのを待つばかりだったので、キャンプの写真を整理していたのだ。次につぼみに行くときにデータを渡す約束になっている。
「あ、ごめん。驚かせた?」
「いや、いいけど。というか、もしかしてってなに?」
そのまま隣に腰を落ち着けた水原に、しかたなく問いかける。ゼミで話すことは間々あるが、大教室の講義を並んで受けるような間柄ではない。
「さっきの写真、ちょっと見せてくれない?」
「え……と。あの、ボランティア先の子も写ってるし」
なんとなく渡しづらく、日和はスマートフォンを握りしめた。誰にも見られないと思って、気を抜いて広げていたのは自分であるけれど。その反応をどう取ったのか、「違う、違う」と水原が弁明する。
「べつに小さい子を見たいとかじゃないから。というか、俺らロリコンとか一番思われちゃ駄目な課程だろ」
「……まぁ、それはそうだけど」
「だから、そうじゃなくて。さっきの写真のさ、男の人」
「え?」
「基生さんじゃない? 変わってなくてびっくりして」
出てきた名前に、日和は固まった。
「知り合い?」
「知り合いというか、まぁ、知り合いか。地元の先輩。懐かしいな。元気にやってるんだ、基生さん」
「まぁ、……元気だと、思う、けど」
歯切れの悪い返事になったのは、頭の理解が追いつかなかったからだ。水原もひとり暮らしをしていたはずだから、真木と同じ地域の出身なのだろうか。
――世間って、案外、狭いんだな……。
呆れ気味にそんなことを思う。とは言え、同じ県内だ。そういうこともあるのかもしれない。
――けど。普通、四つも年が離れてたら、顔が割れるようなことってなくないか?
中学校も高校も被らないだろうから、部活の先輩後輩ということもないだろう。そんなことを考えているうちにチャイムが鳴り始める。いつのまにか姿を現していた講師が、前回の続きから、と教科書のページを指定しているが、大教室にいる学生の三分の一も聞いていまい。
その大多数のひとりである水原も、声量を少し落としただけで話を続けてくる。
「ミニバス時代の先輩でさ。あ、俺、バスケやってたんだけど。基生さん、中学とか高校とかに行ってからも、たまにミニバスの練習に顔出してくれてたから」
「あぁ、それで」
そういえば、バスケが強いだなんだという話があったような。得心して日和は頷いた。体育会系の繋がりか。自分には縁遠い話だ。
「すごい人だったんだけど。高校のときはいろいろあって大変そうだったからさ。他人事ながら気になってたんだけど。まさか、こんなところで消息を知るとは思わなかった。世間って狭いよな」
「いろいろ?」
無視できず繰り返した日和に、水原が言い淀む。
「噂でしか知らない話だし。それに、おまえ、今、基生さんと一緒なんだろ? さすがに俺の口からは言えないって」
「……なら、中途半端に気になること言うなよ」
声のトーンが自ずと下がる。「だから、ごめんって」と謝りながらも、水原は手慰みにボールペンを回していた。
「懐かしい顏見たから、びっくりしちゃって。それで、つい」
「……」
「それだけだって。というか、怖ぇよ、日和、その顔。黙るとやたら迫力あって怖いんだもん。美形って嫌だなー」
笑って誤魔化された気しかしないが、問い詰めて気持ちの良い話でもないだろう。日和は溜息ひとつで、閉じたままだった教科書に手を伸ばした。
「まぁ、でも。元気にやってるなら、よかった」
ひとりごとの調子で水原が言う。
「あの人が覚えてるかどうかはわからないけど、俺のこと言わないでね」
「俺のことって……」
「だから、地元の知り合いが、今を知ったって気持ちの良いものじゃないだろ。特に、基生さんみたいに地元を捨てた人からしたら」
帰れないじゃなくて、帰らない。本人の関知しないところで知ることは卑怯だ。わかっていたのに、こぼれてしまった。
「それって、あの人のさ」
「うん?」
「恋愛のこととかに、関係あったりする?」
知らなければ伝わらないだろう、あやふやなぼかし方を選んだことが、最後の一線だった。水原は驚いた顔で日和を見つめて、なんだ、と嘆息した。
「知ってたんだ? その、男が好きって話」
「知ってたというか、真木さんがあんまり隠してないから」
「へぇ」
意外そうに相槌を打って、水原がまたペンを回す。時計の針を無理やり逆回転させるように。教室の喧騒がどこか遠かった。
「俺からすると、それはちょっと意外というか、……まぁ、でも、いいことなのかな。隠さなくて済むなら」
「……昔は違ったんだ?」
「うちの地元ってけっこう田舎でさ。そういう、なんていうの? 偏見とかもあったし。基生さんの家も、堅い感じのお家だったし」
想像は容易についた。たとえば日和がゲイだったとしても、地元では絶対に公言できない。すぐに噂になって広がるからだ。そうして家族にも風評の被害が及ぶ。そんな、田舎。
「でも、実際に『そう』なのかどうかは、俺ははっきりと聞いたわけじゃなくて。どちらかというと、嵌められたんじゃないかなって俺ら後輩は話してたんだけど」
「嵌められたって、そういう噂が広がったってこと?」
「あの人が高二くらいのときの話だし。そのころ俺は中一だったしさ。学校も違うし、詳しいことは知らないけど。部活で揉めたのは事実だと思う」
部活というのは、バスケットボール部だろう。恵麻たちの話が本当なら、全国大会にも出たことがあるという、それ。
「なんというか、らしいと言えばらしいんだけど。当の本人が弁明のひとつもしないもんで。でかい声ばっかり目立っちゃった、みたいな。嫌になったのか、基生さんはあっさり途中でやめちゃうし」
本当に上手だったんだけどな、と水原が惜しむように言う。どんな噂だったのかは知らないが、弁明をしなかったというのはたしかにらしい気はした。
けれど、聞かないほうがよかったのかもしれない。そう少し日和は悔やんだ。聞いたところで、どうにもできないことを知ってしまったと思ったからだ。おまけに、聞くとしても当人からにすべきところを、自分の興味本位で第三者から。
「まぁ、そんなわけで。ぜんぜん帰ってこなくなったの、あの人。ミニバスとかの連中と集まることがあっても、顔出さないし。というか、むしろ誰も連絡先知らないんじゃないかな」
「でも、えぇと。羽山さんとは今も会ってるよ」
「うそ」
今も誰とも連絡を取っていないわけではない、と。伝えないといけないような謎の義務感で羽山の名前を出した日和に、ぽかんとした顔をした水原が小さく叫んだ。
「ひでぇ! 和さん、今までそんなこと言わなかったのに!」
「知り合い?」
「和さんも俺の先輩。和さんは現役は中学までだったけど。そのあともボランティアのコーチみたいな感じで、ミニバスのほうに来てくれてたから、ずっと」
次に会うのいつだ。正月か。絶対、聞き出してやる。あれ、でも、待てよ、そうすると、俺がなんで知ってるんだって話になるな。ひとりで悩み出した水原に苦笑を残して、日和は教卓に視線を向けた。どこまで進んでいるのか把握し切れないまま、とりあえずで板書をルーズリーフに書き写す。黙々とペンを動かしながら、聞かなければよかったかな、ともう一度おのれに問いかける。
知ったからといって、なにがどう変わるというものではない。ただ。第三者から勝手に聞いていいものでもない。
――まぁ、俺がうっかり口を滑らさない限り、バレることはないと思うけど。
結論づけて、日和はペンを走らせるスピードを上げた。書き洩らしたまま消えた板書もいくつかある気はするが、たぶんなんとかなるだろう。
けれど、もし、と。詮ないことを頭の片隅で日和は考えていた。
もし、俺が聞いたら。忘れたいと思っていたことでも、あの人は教えてくれたのだろうか、と。



