好きになれない


 借りているバンガローは女性陣で三つ。男性陣でふたつ。そして優海が常駐しているもうひとつだ。早くシャワーを浴びて血糊を落とさないと、と言い合いながら、恵麻たちは女の子のバンガローに戻っていく。そのなかには、さも当然と雪人の姿も混ざっていた。
 キャンプに参加すると決めたとき、雪人はどちらのバンガローに泊まるのか密かに気になっていたのだが、女子のくくりと知ったときは、ほんの少し驚いた。
 その驚きが顔に出ていたのか、最初はそんなつもりはなかったんだけどね、と真木も苦笑していたけれど。なんでも、去年、雪人がはじめて参加することになったとき、スタッフのあいだでは、優海と一緒のバンガローにふたりで泊まる案が有力だったらしい。
 けれど、生徒たちから「それはおかしい」という意見が噴出して、女の子の部屋に泊まることになったのだそうだ。そうして自然と今年もその扱いになったのだ、と。
 ――いいことなんだろうけど。それが許されるのって、どこまでなんだろうなぁ。
 シャワーで濡れた髪をタオルで拭きながら、日和はそんなことを考えていた。
 雪人は性同一障害の診断が下っているわけではない。受診すれば診断が下る可能性はあるのだろうが、母親があまり気の進まない調子らしい。学校に通わなくなった原因のひとつは、男子の制服を着ることへのストレスだったとも聞いた。
 ――このご時世だ。学校も診断があれば、制服やトイレもある程度は対応してくれるんだろうけど。
 だからと言って、それですべてがうまく回るわけでもない。
 難しいなぁと胸中で溜息を吐く。ふらふらと夜道を歩いていると、自動販売機の光が目についた。バンガローに戻る前に、少し休憩をしていこう。自動販売機の前で足を止めて、どれにしようかなと指先をさ迷わせていると、すぐ近くで砂利を踏む音がした。
「真木さん」
 振り向くと、ちょうど通りかかった真木が顔を上げた。
「日和。おつかれさま。どうだった? 肝試し」
「あ、……そう、ですね。みんな満足そうで、うれしかった、です」
 我ながら面白みのない応えだと思ったが、真木は「そっか」と柔らかく目を細める。
 彼とふたりで話すのは、キャンプが始まってからははじめてだったかもしれない。真木は常に動き回っていたし、日和も肝試しの準備などに追われていたからだ。
 寂しがっていたつもりはないのだが、思いがけずふたりで話せたことに、なんだか妙にほっとした。慣れないことばかりで、肩に力が入りっぱなしだったのだろうか。
「なんか飲むの?」
「はい。ちょっとだけ休憩してから戻ろうかなと思って」
「そうしな。今、学人たちのところに入ったらやばいよ。枕投げ大会がプロレス大会もどきに進化してた」
「……マジですか」
「学人、元気が有り余ってるから。肝試しでテンション上がったままなんだろ。まぁ、でも、和が相手してるし大丈夫」
 信用してるんだ。あたりまえのことなのに、なんだか引っかかる。気にしないふりで、日和は適当にボタンを押した。鈍い音とともに、お茶のペットボトルが落ちてくる。
 自動販売機の光に集まってくる虫に近づかないよう苦心しつつ、取り出し口に手を突っ込む。冷たさが心地よかった。
「あ、そうだ。日和。戻る前に、ちょっといい?」
「どうかしました?」
 むしろ、俺、なにかしましたか、と聞きたいくらいだったが、怒っている様子はない。
 軽く周囲を見渡して、まぁ、ここでいいか、と呟いた真木に、日和もつられて視線を送った。もう十時に近い時間である。子どもたちが外に出てくることはないだろうし、スタッフもよほどのことがない限り、子どもたちとバンガローにいるはずだ。ふたりきり。
 ――なんか、そう意識すると、ちょっとドキドキする、かも。
 変な意味ではない、けれど。ほぼ無意識で、ぎゅっとペットボトルを握りしめる。
「和から聞いたんだけどさぁ」
「はい」
 嫌な予感に、応じる声のトーンが下がる。
「名波さんに言い寄られたんだって?」
「べつに」
 自分の声がどこか不機嫌に響いた気がして、日和は意識して言い直した。
「たいした話じゃないです。そんな」
「俺が心配するようなことじゃない?」
「え、……と。そういうわけでもない、んですけど」
 しどろもどろになった日和を見つめていた真木が、そこでふっと笑った。
「ごめん。ちょっと揶揄っただけ」
「……真木さんって」
「なに?」
「けっこう、いじめっ子気質ですよね」
 本来だったら苦手なタイプの人間なのだということに、今になって気がついた。
「日和はいじめられっ子ぽいよね、なんというか」
「否定はしませんけど」
 深刻ないじめにあったことはないが、気の強い女子に揶揄われ続けた幼少期だった。拗ねたい気持ちを混ぜたまま、首肯する。と、こちらを見ていたはずの真木の視線が上に動いた。なんだろうと思っていると、そこ、とのんびりと評して差し支えのない声が言う。
「ちょっと半歩下がったほうがいいよ」
「え……って、うわ!」
 いったい、なにが。見上げた瞬間に鼻先すれすれになにかが落ちてきて、日和は固まった。蝉。蝉の、死骸。
「も、もっと早く教えてくださいよ、というか、もっとやばい声出してくださいよ!」
 ぶわっと鳥肌の立った腕を擦りながら叫んでいるのに、真木は肩を震えさせている。やっぱり、いじめっ子だ。絶対に小さいころガキ大将だったタイプだ。いつどこで丸くなったのかは知らないけれど。
「悪い、悪い。虫が駄目なわりには、がんばってえらかったな、肝試し」
 笑いを堪えながら告げられた台詞に、日和は唇を尖らせた。自分の真上に木の枝があったことに気がついて、真木のすぐ隣に移動する。ここなら安全だ。いろんな意味で。
「だって、俺より怖がってる小さな子がいるのに、さすがに俺が怖がるわけにはいかないじゃないですか」
「うん、だから、そこがすごくえらい」
 さらりと褒められてうれしいのに、子どもたちと同じレベルに見られている複雑さも覚えてしまった。
 ――いっても、俺と真木さん、四つしか変わらないのに。
「というか、俺、虫が嫌いだって真木さんに言いましたっけ」
「見てたらわかるよ、それは。嫌いなのにがんばっててかわいいなって思ってた、昼間から」
「……」
 撃沈。この人には結局こうやってずっと敵わないのだろうか。拗ねたくても、自分を見てくれていたうれしさが勝るのだから、どうしようもない。ペットボトルのキャップを捻って、緑茶を喉に流し込む。そうしてから、日和はぽつりと口を開いた。
「本当に、たいした話じゃないんですけど」
「うん、いいよ」
 たいした話かどうかを決めるのはこっちだ、とも彼は言わなかった。なけなしのプライドにも気づかれていたのだろう。本当に敵わないなぁと思いながら、日和は昼間のできごとをかいつまんで説明した。
「べつに、本当に、それだけなんです。もちろん、名波さんだって、それ以降、なにも言ってきませんでしたし。そうかと言って、妙な態度に出ることもなかったですし。だから、大丈夫なんです」
「スタッフとしては、もちろんそれで問題ないし、俺も見てて問題なかったと思うんだけど」
「……はい」
「日和自身はどうだったのかなと思って。腑に落ちないというか、わだかまりが残ってるように見えたから」
 静かに問われて、日和は一度、言葉を呑んだ。
「そんなふうに見えましたか、俺」
「なんとなくね。思い過ごしなら、それはそれでいいんだけど。俺が気になったから」
 そんなつもりはなかったと言えば、たぶん嘘になる。けれど、――あぁ、もう嫌だと思った。なんでこの人は、こんなに俺のことを見てくれているのだろう。
 自分に触れてきた名波の華奢な指先よりも、綺麗にケアされた白い肌よりも。この人の細かな傷のある節くれだった指や、子どもたちと一緒に動いて汗をかく横顔や、ぶっきらぼうな、けれど温かい言葉のほうが、ずっと。どうしようもなく綺麗に見える。
 あぁ、でも、とそこでまた栓のないことを日和は考えた。
 ――案外、色は白いよな、真木さん。焼けても赤くなって終わるだけだから、なのかな。
 ティーシャツから覗く腕に手を伸ばしたい衝動が湧いて、ぐっと堪える。それは、ひよこでもなんでもなく、ただのセクハラだ。
「え、と。あの……、なんというか、すごく嫌だったんです」
「嫌?」
「はい。真木さんが、みんなが成長できる場所だって言ってたじゃないですか。それで、実際にみんな会議が終わってから、ずっとがんばって準備してきて。そのがんばりが、なんか踏みにじられたみたいで」
 それが、自分のせいみたいで。最後の一言は、なんだかあまりにも子どもじみていて口にできなかった。けれど、伝わっていたのかもしれない。
 黙って聞いていた真木の腕が、おもむろに伸びてくる。その指先に髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回されて、日和は「うわ」と小さく声を上げた。
「ちょ、真木さんって」
「んー、かわいいなと思って」
 またしても、さらりと。なんでもないことのように告げられてしまった。
「俺、子どもじゃないですよ」
 というか、身長だけだったら自分のほうが高い。それくらいしか勝てるところはないかもしれないが、日和だって成人男子だ。真木がそう認知しているのかは甚だ疑わしいが。
「知ってる」
 笑いを含んだ声に、本当かよ、と言いたくなったけれど、やめた。離れられたくなかったのかもしれない。
「俺が、いい子、いい子ってしたくなっただけ」
 最後に、ぽんと頭を撫でて、ぬくもりが離れていく。明瞭になった視界に優しい瞳が映る。男だ。自分より年上の。取り立てて女顔なわけでも、かわいいわけでもない。それなのに。
 ――好きだ。
 唐突に理解した。理解したというか、見て見ぬふりをしていた最後の壁が、とうとう壊れた。決壊しそうになったそれを必死で呑み込む。そんな衝動をここで露呈すれば名波と一緒だと思ったのだ。先ほど自分が否定したものと、まったく同じ行動。
 そんなことをして、呆れられたくも嫌われたくもなかった。
「来てくれて、ありがとうね」
 なんだか声が出なくて、日和は無言で頭を下げた。
 逢えてよかった。そう思う。心から。けれど、もしかしたら、それは、真木が口にする純粋な意味合いとは違うものになっているのかもしれない。
 バンガローに戻るか、という真木の誘いに、もう少ししてから戻ります、とやっとの思いで答えて背中を見送る。暗闇にその姿が消えたことを確認して、日和はずるずるとしゃがみ込んだ。頭を抱えたいような、叫び出したいような、そんな気分。
「……マジか、俺」
 だが、そうであれば、すべてに納得がいくのだ。なぜ、あれだけ羽山に敵愾心をむき出しにしていたのか。なぜ、出不精だったはずの自分が、あれだけ積極的につぼみに向かっていたのか。なぜ、ホモフォビアなのだろうかと自分を疑ってしまったのか。
 ――ぜんぶ、ぜんぶ。
 あの人が、好きだからだ。あの人の特別になりたいと思っていたからだ。だから、きっと、手が伸びていたのだ。
「マジか」
 もう一度呟いて、日和は頭を抱えた。
 こんな死にそうな恋心を抱いたのは、生まれてはじめてのことだった。