好きになれない

 火曜日。本日の天気、曇り。時刻、九時四十五分。まったくのいつもどおりで、ドア一枚を隔てたつぼみからは、子どもたちの声はしていない。こちらもいつもの範囲内だ。
 いつも以上にゆっくりとした動作で自転車を止めて、引き戸に手をかけたところで、日和はそっと息を詰めた。
 緊張、する。
 ――いや、緊張というか、勝手に気まずいというか。顔を見づらいというか。
 おまけに、説明なんてできるはずのない理由で、だ。変な態度を取るわけにはいかない。落ち着け、俺。いつもどおりだ。いつもどおり。呪文のように繰り返して、最後にまた深呼吸。
 よし、と気合いを入れて戸を引こうとした瞬間。内側から勢いよく引かれて、日和は小さく悲鳴を上げた。
「日和くん?」
「ま、真木さん……」
 真木もそこまで叫ばれるとは思っていなかったのか、瞳を瞬かせている。
「いや、一向に入ってこないから。どうしたのかなと思って」
「見えてたんですか……」
 なにそれ、恥ずかしい。消え入りそうな声で呟いた日和に、真木がちらりと背後を視線で示した。スタッフルーム。
「それは、まぁ、目前で勇気がくじけた子を見過ごすわけにはいかないし。見えるようにしてるけど」
 ですよね、と。正しく勇気がくじけた子どもであった日和は、肩から力を抜いた。大丈夫。いつもどおりだ。
「すみません、ちょっと、ぼーっとしてました」
「それならいいけど。おつかれ? あ、あと、このあいだは土曜日なのにありがとうね」
 それ以上を追求することなく、あっさりと真木は室内に戻っていく。もう一度静かに息を吐いて、日和ものっそりと靴を脱いだ。このあたりの対人距離の取り方は、さすがとしか言いようがない。
 ――まぁ、それだけではないと思うけど。だから、ここの子は安心するんだろうなぁ。
 大人の態度がぶれることが、どれほどの影響を与えるのか。この人はよくよく知っているのだと思う。だから、真木はいつも変わらない。
「こちらこそ、お世話になりまして。えぇと、あの」
「いいよ、いいよ。俺のほうこそ、早く家に戻れる理由をつくってくれて助かった」
 言外をいとも簡単に読み取って、真木が請け負う。パソコン周辺に広がっている書類は、本来であれば土曜日の夜に戻ってきてやりたかった仕事なのだろうか。
「っていっても、和が戻ってきたのが、日付変わってからどころか二時近くてさ。結局、起こされたんだけどね」
「それは……大変でしたね」
「おかげさまで。酔っぱらいほど面倒なものはねぇなって改めて実感した。人が朝早いって言ってんのに、付き合えって聞かねぇし」
 愚痴めいたそれは、なんだか少し距離が詰まったように響く。唇の端がひっそりとほころびそうになったことに気づいて、日和はそっとうつむいた。
 ――それにしても、仲良いんだな。本当に。
 子どものころから続いている友人なんて、日和にはいない。だから、その親しい距離感がよくわからなくて、もやりとするのかもしれない。数日前の夢見を引きずっているのか、「嫉妬」なんて言葉が湧きそうになる始末だ。
「それで、今日から残ってくれるんでよかったんだっけ? 勉強会」
「あ、はい。もちろん。……えぇと、俺はそのつもりです」
「了解、ありがとう。あとでちょっと打ち合わせしようか」
 はい、ともう一度頷いて、鞄を置く。そうだ、ここは、あの夢とは違う。健全で、温かで、落ち着く場所。それなのに、あんな目で見てしまった自分は、ちょっとおかしいのかもしれない。
 過った考えを振り切って、日課の掃除をしようと和室に足を向ける。そのタイミングで玄関から元気な凛音の声が届いた。続いて、兄の紺の声。今日はふたり一緒だ。
 そのことにほっと安堵しながら、日和も「おはよう」と声をかける。少し前の自分からは考えられないような、張りのある声になっていた。