飲み会や食事会といった場を純粋に楽しみ切ることのできない自分は、結局のところものすごく内向的な人間なのだと日和は思う。
まったく楽しくないとは言わないものの、気疲れするというほうがどうしたって勝るのだ。塩見に言質を取られてしかたなく参加したゼミの新歓も、疲れただけで終わっている。
二次会の場所はどこにしようとの楽しそうな会話が耳に届いて、日和はそっと夜の空を仰いだ。ファミリーレストランの光る看板が目に痛い。
――会議に食事会。ここまで付き合ったら十分すぎるだろ。二次会は絶対に回避して帰ろ。
ひとり暮らしの家に帰ったところで、やりたいことがあるわけではないのだけれど。
そう決意して輪の端っこで気配を消していると、にこにこと愛実が近づいてきた。二次会の店選びを率先して進めていた当事者である。嫌な予感しかしない。
「ぴよちゃんさんは、お酒って強いんですか?」
「いや、……俺はあんまり」
というか、なんだ。ぴよちゃんさんって。思ったものの、どうせ会議の場とキャンプ当日にしか会わない相手だ。好きにさせようと受け流す。
「そうなんですねー。でも、ということは、飲めないわけじゃないんですよね? このあと一緒に行きますよね」
「あー、……いや」
「和さんがいると、賑やかで楽しいですよ。あの人、いつも元気だから」
断りの文句をさらりと遮って、愛実が視線を動かした。輪から少し外れたところで優海と真木と話しているその人は、いかにもフリースクールのスタッフらしい朗らかなイケメンである。
恵麻たちの口から出る名前の中でも「和くん」は頻度の高いものだ。きっとイメージと大差のない好青年なのだろう。
「和さんって変わり種なんですよー。噂によると、真木さんが学生だったころから、つぼみで一緒にボランティアしてるらしいんですけど。そのあと、真木さんはつぼみに残って、和さんは院に進んで、それで、えーと、今はカウンセラーとして働いていて。でも、こうしてキャンプとか、土曜日に運動して遊ぶ日があるじゃないですか。そのときにボランティアとして参加を続けているという」
「へぇ」
「なので、優海さんに気があるんじゃないかという説もあるんですが。ぴよちゃんさんは、どう見ます?」
「どう見ますって……」
俺、その和さんとやらも代表も、今日会ったばっかりだし。興味もないし。気のないことを考えながら、優海をちらりと一瞥する。年齢不詳の美女ぶりは、大学生だった青年が熱を上げたとなっても、有り得る話なのかもしれないが。
「まぁ、そのあたりも、二次会で一緒に聞き出しましょうよ。あの人、いろいろなことを知ってるくせに煙に巻くんですよねぇ。真木さんのことも絶対に教えてくれないし」
「……真木さんの?」
「そう。もともと、うちに来る前からの知り合いらしいんですけどね。ふたり揃って、はっきりとしたこと言わないんですよねぇ。だから、もうひとつの説としては、真木さんと和さんがデキてたんじゃないかっていうのもあるんですけど」
優海に気があるのではないかと言ったときとまったく同じ調子だった。喫煙所で口さがなく塩見が笑ったときとは違う。それなのに、もやりとしたものを覚えて、日和は内心で首を傾げた。
――そんなつもりなかったんだけど、俺って、ホモフォビアだったのかな。
雪人とはじめて会ったときも、戸惑いはあったが、受け入れがたいとは思わなかったし、気持ち悪いとも思わなかった。教師であった父と母に、差別や偏見を持つなと育てられてきたつもりだし、そう育ってきたつもりである。
だから、気持ち悪いだとか、そういうことを思っているわけじゃない。日和は自身に言い聞かせた。けれど、なんだかおさまらない。
アイデンティティ崩壊の危機を迎えた気分で、気がつけば真木を睨んでいたらしい。
「日和くん?」
訝しげに瞳を瞬かせた真木が近づいてくる。薄暗がりの中で揺れる黒髪を見つめていると、目の前でそれが止まった。
「どうしたの。飲みに行かないの、日和くんは」
「真木さんは?」
「俺? 俺は行かないよ。みんなで楽しんできな」
火曜日に聞く声と変わらないリズムに、ささくれ立っていた心が落ち着いていく。なんでだろうと自問する。答えは出ない。
「たまには真木さんも顔出してくださいよ。和さんも喜ぶし」
「あいつの勢いにはついていけません。明日に響く」
「えー、なんか、その言い方、やらしー」
「馬鹿なことばっかり言ってないで、飲みに行ってきな。いつまでもたむろしてないで。時岡さんは日和くんがいたら満足だろ」
「まぁ、そうですけど。和さーん。真木さんが、いいかげんに行けって」
人身御供にされた気分で閉口する。スタッフ同士なら、どうとでも好きにしろってか。日和と違いまんざらでもなく笑った愛実が、優海と話し込んでいた青年を呼んだ。羽山和。明るい笑顔が近くなる。
「了解。なに、なに? 基生も行くって? 楽しみすぎて早く行きたいって?」
「だから行かねぇって言ってるだろうが。しつこい上に声がでかい」
「そういう口の利き方してると、また優海さんに怒られるぞ、おまえ。真木くんの口の悪さがいくつになっても直らないせいで、新しく入ってくるスタッフの子が軒並み怖がるのぉって」
「うるさいので黙ってもらえますか、羽山くん」
「うーわ、かわいくねー」
けたけたと笑う羽山と対照的に真木の顔は不機嫌そうだが、スタッフ同士でなく気のおける友人同士なのだろうことは窺い知れた。自分に向けられることはないトーンでの受け答えも、このふたりにおいてはいつものことなのか、愛実はただ笑っている。
「ただでさえ怖がられる仏頂面してるんだから、愛想くらい良くしても罰は当たらねぇぞ。笑うと童顔なのにね、おまえ。それで? 愛想良く行かないの、一緒に。大事よ、コミュニケーション」
「だから、……ん?」
不思議そうな視線を三つ受けて、日和は首を傾げた。ずっと黙っていたはずなのだが、なにかしらの不満がにじみ出ていたのだろうか。
「日和くん、どうかした?」
真木の問いかけは困惑の色を隠していない。クエスチョンマークを脳内で盛大に散らしながら視線を手繰ったところで、日和はぴしりと固まった。
「う、わ。す……み、ません!」
なぜだ。なぜ、またしても、俺はこの人の服の裾を幼子のように掴んでいるのか。
赤面してぱっと離した日和の頭上から、楽しそうな笑い声が降ってきた。目立つばかりでうれしくないが、日和は百八十を超える長身である。その上を行く長身には、あまりお目にかからないのだが、羽山がそうだった。
「これか。ひよこって!」
ひよこ。反応できない日和のことはお構いなしに、羽山が得心したふうに続ける。
「雪と恵麻から聞いたときは、あいつら絶対話盛ってるだろって思ってたけど。――へぇ、そんなこともなさそうで」
「おい、和」
「なんだよ、誰もいじめてねぇだろ? でも、えらく懐いてんのな、おまえに」
揶揄う顔で真木を見ていた羽山の視線が動いて、日和はどきりとする。子どものころに同じクラスにいたら苦手だったタイプだ。好青年という評価も消し去りたい。
「今、何才? 大学三年だっけ」
「えぇと、……そうです、けど」
「じゃあ、俺らの四つ下か」
その複数形は間違いなく真木にかかっているのだろうが、日和は真木の年齢もはじめて知った。
「おまえ、昔からこの手のタイプの後輩受け良いよな。なんでなんだろうね」
「いいかげんに黙れよ、おまえは。それで? 日和くんは、なに。どうしたの」
「真木さんは」
「ん?」
「帰るんですよね」
「まぁ、帰るというか」
歯切れの悪い真木の応えを歯牙にもかけず、消化不良の苛立ちそのままに畳みかける。
「同じ方向ですよね」
「日和くんと? あぁ、そう言ってたね。あのコンビニの近くなんだっけ」
「一緒に帰りましょうよ」
「いや、あの、飲みに行かないの?」
阿るようなそれに、日和は無言で首を振った。嫌だ。ほとんど誰も知らない二次会とか、どんな苦行だ。
「あー、……うん、わかった。わかったから」
根負けしたように、真木が視線を泳がせた。
「だから、そんな捨て犬みたいな目で見んな」
「え……?」
「というわけだから、時岡さんは、日和くんは諦めて、和たちと遊んできな。あんまり遅くならないようにね」
「えー! 本当に行かないんですか?」
「日和くんも早くから明日予定あるんだって。だから」
そんなことは一言も言っていないのだが、そういうことにしてくれたらしい。
「また今度ね」
付き合いが悪いとの喧々をさらりと受け流して真木が踵を返す。自分と違って、いかにも断ることに慣れている。「優海さん」と真木に呼ばれるかたちで、一歩前に彼女が進み出た。
「おつかれさま、今日はありがとう。あまり遅くならないように帰ってね」
引率の先生のような言葉で散会になったが、二次会に向かう数名はまだなにやら話し込んでいる。あの輪に加わらずに済んだことにほっとしていると、優海の声が近くで響いた。
「基生。あなた、日曜日は出てこないわよね」
「あー……、はい。出ません。火曜にやります」
「そうしてね。手当なんて出せないんだから」
もしかして。真木が言葉を濁していたのは、つぼみに戻って仕事をするつもりだったからなのだろうか。思い当たったが、いまさらどうぞ戻ってくださいというのも変な話だ。悩んだものの口を噤んだ日和に、優海の柔らかな視線が動いた。
「じゃあ、日和くんも気をつけて」
「あ……、今日はありがとうございました」
にこりともう一度ほほえんで、彼女がゆっくりと背を向ける。車で来ているとのことだったので、そのまま帰るのだろう。
「じゃ、帰ろうか」
さも当然と続いた真木の台詞に、日和は慌てて頷いた。
「日和くん、自転車じゃなかったっけ」
「はい。ここにも押してきてますけど」
「俺、歩きだよ」
一瞬、悩んだものの「押して歩きます」と応じる。そうか、歩きか。
「真木さんって、いつも歩きなんですか?」
「まぁ、うん。歩くの好きなんだよね、わりと」
いかに疲れないように移動するかをモットーとしている自分とは、相容れない価値観だ。
――まぁ、でも、たまにはいいか。
夜風は湿度をはらんでいるが、我慢できないような暑さではない。駐輪していた自転車を取って戻ってくると、羽山が真木に話しかけているところだった。積極的に声をかけることも憚られて、距離を置いて話が終わるまで待つことにする。
すぐに終わると踏んでいたのだが、予想に反してなかなか話は途切れなかった。仲が良いのは本当なんだなとわかる会話ばかりが耳に入ってくる。
「なぁ、基生。今日、おまえのとこ泊まっていい?」
「あー……、駄目」
「なんでだよ。俺のとこまで遠いの知ってんだろ。飲みに付き合わないんだったら、それくらい付き合えよ」
「おまえと違って、俺は朝も早いんだよ。邪魔すんな」
「じゃあ、起こしてやるから。それでいいだろ?」
「そんなこと言って、一回でも俺より早く起きたことあったか?」
呆れたようにそう言って顔を上げた真木と、ぱちりと目が合った。小さく頭を下げると、真木がなにかを羽山に放り投げた。
「まぁ、もういいけど。ぜんぶ、おまえが勝手にしろよ」
「おお、任せろ!」
嬉々とした声で応じて、羽山が先に歩き出していた一団に向かっていく。一拍以上遅れてから、羽山が受け取ったなにかが鍵だと気がついた。
「ごめん、お待たせ。帰ろうか」
自分にかけられた声に、再び広がりそうになっていたもやもやがゆっくりと閉じていく。そのことを不思議に感じながらも、こくりと日和は頷いた。
歩き出すにつれ、さざなみのように響いていた声々も遠くなっていく。車通りの少ない道を行く彼の横顔は静かだった。誰かとふたりでいるときの沈黙は気まずいことが多いのに、今はまったくそうではない。黙っていてもよかったのだけれど、なんだかもったいない気もして。からからと回る車輪の音を聞きながら、日和は胸にあった疑問を口にした。
「真木さんって、いつも、その、こんな感じなんですか」
「こんなって飲み会? あー、どうだろ。まぁ、ひさしぶりだから、和が騒ぎたかっただけじゃないかな。あいつがいなかったら、そこまでひどくは」
「いや、そこじゃなくて」
「ん?」
「あの、その、合鍵」
「あぁ」
こうなることを予測して持ち歩いていたんですか、との言外を、今度は読み取ってくれたらしい。なんだ、そんなことかと言わんばかりの声だ。
「まぁ、昔から知ってるから。日和くんは苦手なタイプかもしれないけど、うるさいだけで悪いやつじゃないよ」
「昔から?」
「あー……、うん。地元が一緒で」
ほんの少し言いにくそうだった気がしたのは、気のせいだっただろうか。わからなくなってしまうほど、次に届いた声はいつもどおりのものだった。
「誰も知り合いがいないと思って選んだのに、大学の同じ学部にあいつもいてね。初日のオリエンテーションで声かけられて、なんの偶然だとは思ったよね」
前を向いたまま、苦笑としか言いようがない調子で真木が笑う。
この人のことをなにも知らないと明確に思ったのは、おそらくこの瞬間だった。安定している人というイメージがかすかに揺らぐ。
――でも、それも、そうか。
なにかがあったのか、なかったのかは知らない。けれど、学生時代に学校に対して思うことがなければ、フリースクールに関わろうとは思わないのではないだろうか。みんなそれぞれに、つぼみを選んだ意志があるのだろう。そうでない日和が、きっと少数派だ。
「日和くんさぁ、モテるでしょ」
話題を変えられたと思ったが、乗ることにして、答えを引っ張り出した。
「はぁ、まぁ。モテないと言っても信じてもらえないと思うんですけど」
「なに、なんなの。結局、モテるの、モテてないの」
「第一印象でモテますが、長い時間を過ごすにつれ、こいつは顔だけだって離れていかれます」
「マジか」
「だから、その、なんというか、見ず知らずの人にはモテるんですが、近しい人にはモテません」
「見る目ねぇなぁ。日和くん、かわいいのに」
「うれしくないですよ。というか、真木さんは身近な人にモテるタイプでしょう。彼女さんとかいないんですか」
言ってしまってから、はっとする。そういや、この人、ゲイなんだっけ。そう思うと「かわいい」発言も、なんだか違う方向に思えてくるような。
日和の空気が止まったことが伝わったのか、真木の声のトーンが落ちる。
「あのね、日和くん。誰かからか聞いたかもしれないけど」
「……はい」
「俺はたしかにいわゆるゲイだけど、スタッフに手は出さないから」
「いや、あの、そういう意味で心配はしてないですけど。というか、真木さんはそんなことしないでしょ」
「俺がノンケだったところで、スタッフの女の子に手を出したら大問題だからね。それと一緒」
「で、ですよね」
としか言えない上に、正論すぎる。こくこくと頷く日和をちらりと見やった真木が、「もしかして」と嫌そうに語尾を上げた。
「さっきの合鍵云々もそっち方面の話だった?」
「え? いや」
突かれたくなかった核心に触れられた気分で返答にまごつく。それをどう取ったのか、真木がかすかに笑った。しかたがないなというように。
「安心してって言ったらいいのかどうかはわからないけど。ノンケの男に手ぇ出すほど若い恋愛する気はないから。だから、ない」
ノンケの男。この人にとっての恋愛対象は、やはり男なのだ。男というか、自分のような異性愛者とは違う、仲間内での恋愛。仲間内、つまるところ、ゲイ。
――そういう人と、どうやって知り合うんだろ。やっぱり新宿二丁目的な? それとも、アプリとか?
あやふやな知識を総動員して想像しかけたところで、日和はぷるぷると首を振った。駄目だ。しないほうがいい。
「まぁ、どっちにしても、俺も今は付き合ってる人間はいないかな。日和くんはいないの? 彼女」
黙り込んだ日和に気を使ったのか、話しかけてくる声の調子が心持ち柔らかい。ちらつく妄想の欠片を排除して、日和もぎこちなく笑みを浮かべた。
「いません。というか、いたら、ちゃんと断れるんで、楽なんですけど」
「日和くん、本当に真面目だよな。そんなナリなのに、女の子のあしらい方もよくわかってねぇとか」
他意のないふうに笑って、真木が言う。
「恵麻たちも言ってたよ。教え方がうまいって」
「え……?」
「丁寧だし、それになにより、自分たちの目線で教えてくれるからうれしいって」
そんなふうに自分を評してくれていたのか。予想外だった評価に、次々に子どもたちの顔が頭を過る。出逢って、二ヶ月と半月。たったそれだけの期間なのに、うれしい気持ちとかわいいと思う気持ちが、じわじわと込み上げてくるから不思議だった。人と人との繋がりは、時間だけがつくるものではないのかもしれない。
「ありがとうね、すごく助かる」
温かい声に、日和はやっとの思いで頷いた。
――先生みたいっていうわけじゃないと思うんだけど。でも、なんか。
この人の声は、すごく落ち着く。それなのに、もぞもぞとした落ち着かなさが湧き上がってくるような感じもあった。自分では制御できなくなりそうな、そんな予兆。それらすべてに気がつかなかったふりで、日和は問いかけた。
「勉強が嫌いなわけじゃないんです、よね。恵麻ちゃんたちは」
「そうだな。というか、長いあいだ学校に行ってない子ってさ、勉強に対するコンプレックスや不安を抱えてることが多いって言われることがよくあるんだけど」
「あぁ」
そういえば、なにかの授業で聞いた気もする。けれど、あくまで知識だ。
つぼみに来なければ、不登校の子どもが意欲を持って自主的に勉強に取り組んでいることを、日和は知らないままだっただろう。
「勉強というか、……進路というか、将来というか。俺ら大人があれこれ口出ししなくても、あの子たちが一番悩んでるんだよ。このままでいいのか。この先はどうなるのか。でも、どう動けばいいのか」
淡々とした調子で真木が続ける。大人だって、なにが正解かなんてわからないのに、あの小さな身体でよく踏ん張ってるなと思うよ、と。
「俺も、そう思います」
自然と口を吐いたそれに、真木がぱっと顔を向けた。目が合うと、はにかむような笑みが浮かぶ。
――あ。
男にはにかむって表現、どうなんだ。それも年上の、なんて。頭のどこかで思いながらも、日和は先ほどの羽山の台詞を思い出していた。笑えば、案外、童顔なのに。
――たしかに、ちょっと、かわいい、かも。
って、おかしいだろ、俺。今日だけで何度目になるのかわからない突っ込みを入れて、やりどころに困った視線を足元に落とす。
ゆっくりと回る車輪が視界に入って、もっとゆっくりでもいいのにと思った。
「自分が普通のレールから外れてることに対する恐ろしさは、どうやっても根本的には打ち払えないと思うんだよね。日常に戻るまでは。……と言っても、その日常がどういうものなのか、戻りたいものなのかっていうのも曖昧で、漠然としていて。そうなったときに、一番身近な普通って、『学校に通っていただろう自分』なんじゃないかな」
「不登校になる前の、ってことですか?」
「うん。でも、そこには、集団に馴染めない苦しさとか、対人関係の難しさとか、そういうものがいっぱいあるでしょ。そのぜんぶに、すぐに立ち向かえるわけじゃない。そのなかで、一番わかりやすく自信に繋がって、手を出しやすいものが勉強なんだと俺は思う」
学校に通っている子どもたちと変わらない学力。いつでも戻ることはできると胸を張れるだけの準備。進路を選ぶときに幅を広げるための基盤。努力をしているという実感。
学力というものは、ひとつの武器だ。つぼみにはじめて参加した日。この人はそうも言っていた。
「それに、いざ学校に戻ろうってなったときに、勉強についていけないっていう理由で登校を尻込む子は一定数以上いる。そうならないための、……逃げない理由のひとつなのかもしれないな」
もちろん、逃げてもいいいんだけどね。ただ、と真木がひとりごとのように呟いた。
「いつまで逃げ続けられるかは、人それぞれだから」
逃げる。逃げる、か。
「あの、真木さん」
おもむろに切り出した日和に、真木がわずかに首を傾げた。身長差のせいで、まるで見上げているみたいで、だから、それなんだって、と。また思った。だから、それ、なんかかわいく見えるんだって。なぜなのかは知らないし、わかりたくもないけれど。
「俺、よかったら、夜も教えましょうか、勉強」
「……それはうれしいけど。なんの賃金も出ないよ?」
「いや、あの」
困惑した声に、日和は焦って理由をつくりだした。
「その、みんなががんばってるのは見ててうれしいし、俺にできることなら応援もしたいし。というか、家に帰っても特にすることもないですし、あの、だから」
ちょっとでも手伝いができればうれしいと思ったのだ。この自分が。省エネ第一主義で、面倒なことなんて絶対にしないと決めている、この俺が。
子どもたちへの援助のつもりなのか、真木に対するものなのかどうかさえも、わかっていなかったけれど。
毎週火曜日。ひとりだけ先につぼみを出る。その背後で子どもたちと真木が囲む勉強会のテーブルに、後ろ髪を引かれた覚えがあったことも事実だ。
あの輪に入りたいと思うのは、身内になりたいと願う気持ちに似ているのかもしれない。
日和をじっと見つめていた真木の瞳が、ふっとほほえむ。うれしそうに。それだけで十分な対価だと、これもまたなぜかわからないままに思ってしまった。
「ありがとう」
「はい」
「すげぇ、助かる。あと、うれしい」
それならよかったと心の底から日和は思った。
まったく楽しくないとは言わないものの、気疲れするというほうがどうしたって勝るのだ。塩見に言質を取られてしかたなく参加したゼミの新歓も、疲れただけで終わっている。
二次会の場所はどこにしようとの楽しそうな会話が耳に届いて、日和はそっと夜の空を仰いだ。ファミリーレストランの光る看板が目に痛い。
――会議に食事会。ここまで付き合ったら十分すぎるだろ。二次会は絶対に回避して帰ろ。
ひとり暮らしの家に帰ったところで、やりたいことがあるわけではないのだけれど。
そう決意して輪の端っこで気配を消していると、にこにこと愛実が近づいてきた。二次会の店選びを率先して進めていた当事者である。嫌な予感しかしない。
「ぴよちゃんさんは、お酒って強いんですか?」
「いや、……俺はあんまり」
というか、なんだ。ぴよちゃんさんって。思ったものの、どうせ会議の場とキャンプ当日にしか会わない相手だ。好きにさせようと受け流す。
「そうなんですねー。でも、ということは、飲めないわけじゃないんですよね? このあと一緒に行きますよね」
「あー、……いや」
「和さんがいると、賑やかで楽しいですよ。あの人、いつも元気だから」
断りの文句をさらりと遮って、愛実が視線を動かした。輪から少し外れたところで優海と真木と話しているその人は、いかにもフリースクールのスタッフらしい朗らかなイケメンである。
恵麻たちの口から出る名前の中でも「和くん」は頻度の高いものだ。きっとイメージと大差のない好青年なのだろう。
「和さんって変わり種なんですよー。噂によると、真木さんが学生だったころから、つぼみで一緒にボランティアしてるらしいんですけど。そのあと、真木さんはつぼみに残って、和さんは院に進んで、それで、えーと、今はカウンセラーとして働いていて。でも、こうしてキャンプとか、土曜日に運動して遊ぶ日があるじゃないですか。そのときにボランティアとして参加を続けているという」
「へぇ」
「なので、優海さんに気があるんじゃないかという説もあるんですが。ぴよちゃんさんは、どう見ます?」
「どう見ますって……」
俺、その和さんとやらも代表も、今日会ったばっかりだし。興味もないし。気のないことを考えながら、優海をちらりと一瞥する。年齢不詳の美女ぶりは、大学生だった青年が熱を上げたとなっても、有り得る話なのかもしれないが。
「まぁ、そのあたりも、二次会で一緒に聞き出しましょうよ。あの人、いろいろなことを知ってるくせに煙に巻くんですよねぇ。真木さんのことも絶対に教えてくれないし」
「……真木さんの?」
「そう。もともと、うちに来る前からの知り合いらしいんですけどね。ふたり揃って、はっきりとしたこと言わないんですよねぇ。だから、もうひとつの説としては、真木さんと和さんがデキてたんじゃないかっていうのもあるんですけど」
優海に気があるのではないかと言ったときとまったく同じ調子だった。喫煙所で口さがなく塩見が笑ったときとは違う。それなのに、もやりとしたものを覚えて、日和は内心で首を傾げた。
――そんなつもりなかったんだけど、俺って、ホモフォビアだったのかな。
雪人とはじめて会ったときも、戸惑いはあったが、受け入れがたいとは思わなかったし、気持ち悪いとも思わなかった。教師であった父と母に、差別や偏見を持つなと育てられてきたつもりだし、そう育ってきたつもりである。
だから、気持ち悪いだとか、そういうことを思っているわけじゃない。日和は自身に言い聞かせた。けれど、なんだかおさまらない。
アイデンティティ崩壊の危機を迎えた気分で、気がつけば真木を睨んでいたらしい。
「日和くん?」
訝しげに瞳を瞬かせた真木が近づいてくる。薄暗がりの中で揺れる黒髪を見つめていると、目の前でそれが止まった。
「どうしたの。飲みに行かないの、日和くんは」
「真木さんは?」
「俺? 俺は行かないよ。みんなで楽しんできな」
火曜日に聞く声と変わらないリズムに、ささくれ立っていた心が落ち着いていく。なんでだろうと自問する。答えは出ない。
「たまには真木さんも顔出してくださいよ。和さんも喜ぶし」
「あいつの勢いにはついていけません。明日に響く」
「えー、なんか、その言い方、やらしー」
「馬鹿なことばっかり言ってないで、飲みに行ってきな。いつまでもたむろしてないで。時岡さんは日和くんがいたら満足だろ」
「まぁ、そうですけど。和さーん。真木さんが、いいかげんに行けって」
人身御供にされた気分で閉口する。スタッフ同士なら、どうとでも好きにしろってか。日和と違いまんざらでもなく笑った愛実が、優海と話し込んでいた青年を呼んだ。羽山和。明るい笑顔が近くなる。
「了解。なに、なに? 基生も行くって? 楽しみすぎて早く行きたいって?」
「だから行かねぇって言ってるだろうが。しつこい上に声がでかい」
「そういう口の利き方してると、また優海さんに怒られるぞ、おまえ。真木くんの口の悪さがいくつになっても直らないせいで、新しく入ってくるスタッフの子が軒並み怖がるのぉって」
「うるさいので黙ってもらえますか、羽山くん」
「うーわ、かわいくねー」
けたけたと笑う羽山と対照的に真木の顔は不機嫌そうだが、スタッフ同士でなく気のおける友人同士なのだろうことは窺い知れた。自分に向けられることはないトーンでの受け答えも、このふたりにおいてはいつものことなのか、愛実はただ笑っている。
「ただでさえ怖がられる仏頂面してるんだから、愛想くらい良くしても罰は当たらねぇぞ。笑うと童顔なのにね、おまえ。それで? 愛想良く行かないの、一緒に。大事よ、コミュニケーション」
「だから、……ん?」
不思議そうな視線を三つ受けて、日和は首を傾げた。ずっと黙っていたはずなのだが、なにかしらの不満がにじみ出ていたのだろうか。
「日和くん、どうかした?」
真木の問いかけは困惑の色を隠していない。クエスチョンマークを脳内で盛大に散らしながら視線を手繰ったところで、日和はぴしりと固まった。
「う、わ。す……み、ません!」
なぜだ。なぜ、またしても、俺はこの人の服の裾を幼子のように掴んでいるのか。
赤面してぱっと離した日和の頭上から、楽しそうな笑い声が降ってきた。目立つばかりでうれしくないが、日和は百八十を超える長身である。その上を行く長身には、あまりお目にかからないのだが、羽山がそうだった。
「これか。ひよこって!」
ひよこ。反応できない日和のことはお構いなしに、羽山が得心したふうに続ける。
「雪と恵麻から聞いたときは、あいつら絶対話盛ってるだろって思ってたけど。――へぇ、そんなこともなさそうで」
「おい、和」
「なんだよ、誰もいじめてねぇだろ? でも、えらく懐いてんのな、おまえに」
揶揄う顔で真木を見ていた羽山の視線が動いて、日和はどきりとする。子どものころに同じクラスにいたら苦手だったタイプだ。好青年という評価も消し去りたい。
「今、何才? 大学三年だっけ」
「えぇと、……そうです、けど」
「じゃあ、俺らの四つ下か」
その複数形は間違いなく真木にかかっているのだろうが、日和は真木の年齢もはじめて知った。
「おまえ、昔からこの手のタイプの後輩受け良いよな。なんでなんだろうね」
「いいかげんに黙れよ、おまえは。それで? 日和くんは、なに。どうしたの」
「真木さんは」
「ん?」
「帰るんですよね」
「まぁ、帰るというか」
歯切れの悪い真木の応えを歯牙にもかけず、消化不良の苛立ちそのままに畳みかける。
「同じ方向ですよね」
「日和くんと? あぁ、そう言ってたね。あのコンビニの近くなんだっけ」
「一緒に帰りましょうよ」
「いや、あの、飲みに行かないの?」
阿るようなそれに、日和は無言で首を振った。嫌だ。ほとんど誰も知らない二次会とか、どんな苦行だ。
「あー、……うん、わかった。わかったから」
根負けしたように、真木が視線を泳がせた。
「だから、そんな捨て犬みたいな目で見んな」
「え……?」
「というわけだから、時岡さんは、日和くんは諦めて、和たちと遊んできな。あんまり遅くならないようにね」
「えー! 本当に行かないんですか?」
「日和くんも早くから明日予定あるんだって。だから」
そんなことは一言も言っていないのだが、そういうことにしてくれたらしい。
「また今度ね」
付き合いが悪いとの喧々をさらりと受け流して真木が踵を返す。自分と違って、いかにも断ることに慣れている。「優海さん」と真木に呼ばれるかたちで、一歩前に彼女が進み出た。
「おつかれさま、今日はありがとう。あまり遅くならないように帰ってね」
引率の先生のような言葉で散会になったが、二次会に向かう数名はまだなにやら話し込んでいる。あの輪に加わらずに済んだことにほっとしていると、優海の声が近くで響いた。
「基生。あなた、日曜日は出てこないわよね」
「あー……、はい。出ません。火曜にやります」
「そうしてね。手当なんて出せないんだから」
もしかして。真木が言葉を濁していたのは、つぼみに戻って仕事をするつもりだったからなのだろうか。思い当たったが、いまさらどうぞ戻ってくださいというのも変な話だ。悩んだものの口を噤んだ日和に、優海の柔らかな視線が動いた。
「じゃあ、日和くんも気をつけて」
「あ……、今日はありがとうございました」
にこりともう一度ほほえんで、彼女がゆっくりと背を向ける。車で来ているとのことだったので、そのまま帰るのだろう。
「じゃ、帰ろうか」
さも当然と続いた真木の台詞に、日和は慌てて頷いた。
「日和くん、自転車じゃなかったっけ」
「はい。ここにも押してきてますけど」
「俺、歩きだよ」
一瞬、悩んだものの「押して歩きます」と応じる。そうか、歩きか。
「真木さんって、いつも歩きなんですか?」
「まぁ、うん。歩くの好きなんだよね、わりと」
いかに疲れないように移動するかをモットーとしている自分とは、相容れない価値観だ。
――まぁ、でも、たまにはいいか。
夜風は湿度をはらんでいるが、我慢できないような暑さではない。駐輪していた自転車を取って戻ってくると、羽山が真木に話しかけているところだった。積極的に声をかけることも憚られて、距離を置いて話が終わるまで待つことにする。
すぐに終わると踏んでいたのだが、予想に反してなかなか話は途切れなかった。仲が良いのは本当なんだなとわかる会話ばかりが耳に入ってくる。
「なぁ、基生。今日、おまえのとこ泊まっていい?」
「あー……、駄目」
「なんでだよ。俺のとこまで遠いの知ってんだろ。飲みに付き合わないんだったら、それくらい付き合えよ」
「おまえと違って、俺は朝も早いんだよ。邪魔すんな」
「じゃあ、起こしてやるから。それでいいだろ?」
「そんなこと言って、一回でも俺より早く起きたことあったか?」
呆れたようにそう言って顔を上げた真木と、ぱちりと目が合った。小さく頭を下げると、真木がなにかを羽山に放り投げた。
「まぁ、もういいけど。ぜんぶ、おまえが勝手にしろよ」
「おお、任せろ!」
嬉々とした声で応じて、羽山が先に歩き出していた一団に向かっていく。一拍以上遅れてから、羽山が受け取ったなにかが鍵だと気がついた。
「ごめん、お待たせ。帰ろうか」
自分にかけられた声に、再び広がりそうになっていたもやもやがゆっくりと閉じていく。そのことを不思議に感じながらも、こくりと日和は頷いた。
歩き出すにつれ、さざなみのように響いていた声々も遠くなっていく。車通りの少ない道を行く彼の横顔は静かだった。誰かとふたりでいるときの沈黙は気まずいことが多いのに、今はまったくそうではない。黙っていてもよかったのだけれど、なんだかもったいない気もして。からからと回る車輪の音を聞きながら、日和は胸にあった疑問を口にした。
「真木さんって、いつも、その、こんな感じなんですか」
「こんなって飲み会? あー、どうだろ。まぁ、ひさしぶりだから、和が騒ぎたかっただけじゃないかな。あいつがいなかったら、そこまでひどくは」
「いや、そこじゃなくて」
「ん?」
「あの、その、合鍵」
「あぁ」
こうなることを予測して持ち歩いていたんですか、との言外を、今度は読み取ってくれたらしい。なんだ、そんなことかと言わんばかりの声だ。
「まぁ、昔から知ってるから。日和くんは苦手なタイプかもしれないけど、うるさいだけで悪いやつじゃないよ」
「昔から?」
「あー……、うん。地元が一緒で」
ほんの少し言いにくそうだった気がしたのは、気のせいだっただろうか。わからなくなってしまうほど、次に届いた声はいつもどおりのものだった。
「誰も知り合いがいないと思って選んだのに、大学の同じ学部にあいつもいてね。初日のオリエンテーションで声かけられて、なんの偶然だとは思ったよね」
前を向いたまま、苦笑としか言いようがない調子で真木が笑う。
この人のことをなにも知らないと明確に思ったのは、おそらくこの瞬間だった。安定している人というイメージがかすかに揺らぐ。
――でも、それも、そうか。
なにかがあったのか、なかったのかは知らない。けれど、学生時代に学校に対して思うことがなければ、フリースクールに関わろうとは思わないのではないだろうか。みんなそれぞれに、つぼみを選んだ意志があるのだろう。そうでない日和が、きっと少数派だ。
「日和くんさぁ、モテるでしょ」
話題を変えられたと思ったが、乗ることにして、答えを引っ張り出した。
「はぁ、まぁ。モテないと言っても信じてもらえないと思うんですけど」
「なに、なんなの。結局、モテるの、モテてないの」
「第一印象でモテますが、長い時間を過ごすにつれ、こいつは顔だけだって離れていかれます」
「マジか」
「だから、その、なんというか、見ず知らずの人にはモテるんですが、近しい人にはモテません」
「見る目ねぇなぁ。日和くん、かわいいのに」
「うれしくないですよ。というか、真木さんは身近な人にモテるタイプでしょう。彼女さんとかいないんですか」
言ってしまってから、はっとする。そういや、この人、ゲイなんだっけ。そう思うと「かわいい」発言も、なんだか違う方向に思えてくるような。
日和の空気が止まったことが伝わったのか、真木の声のトーンが落ちる。
「あのね、日和くん。誰かからか聞いたかもしれないけど」
「……はい」
「俺はたしかにいわゆるゲイだけど、スタッフに手は出さないから」
「いや、あの、そういう意味で心配はしてないですけど。というか、真木さんはそんなことしないでしょ」
「俺がノンケだったところで、スタッフの女の子に手を出したら大問題だからね。それと一緒」
「で、ですよね」
としか言えない上に、正論すぎる。こくこくと頷く日和をちらりと見やった真木が、「もしかして」と嫌そうに語尾を上げた。
「さっきの合鍵云々もそっち方面の話だった?」
「え? いや」
突かれたくなかった核心に触れられた気分で返答にまごつく。それをどう取ったのか、真木がかすかに笑った。しかたがないなというように。
「安心してって言ったらいいのかどうかはわからないけど。ノンケの男に手ぇ出すほど若い恋愛する気はないから。だから、ない」
ノンケの男。この人にとっての恋愛対象は、やはり男なのだ。男というか、自分のような異性愛者とは違う、仲間内での恋愛。仲間内、つまるところ、ゲイ。
――そういう人と、どうやって知り合うんだろ。やっぱり新宿二丁目的な? それとも、アプリとか?
あやふやな知識を総動員して想像しかけたところで、日和はぷるぷると首を振った。駄目だ。しないほうがいい。
「まぁ、どっちにしても、俺も今は付き合ってる人間はいないかな。日和くんはいないの? 彼女」
黙り込んだ日和に気を使ったのか、話しかけてくる声の調子が心持ち柔らかい。ちらつく妄想の欠片を排除して、日和もぎこちなく笑みを浮かべた。
「いません。というか、いたら、ちゃんと断れるんで、楽なんですけど」
「日和くん、本当に真面目だよな。そんなナリなのに、女の子のあしらい方もよくわかってねぇとか」
他意のないふうに笑って、真木が言う。
「恵麻たちも言ってたよ。教え方がうまいって」
「え……?」
「丁寧だし、それになにより、自分たちの目線で教えてくれるからうれしいって」
そんなふうに自分を評してくれていたのか。予想外だった評価に、次々に子どもたちの顔が頭を過る。出逢って、二ヶ月と半月。たったそれだけの期間なのに、うれしい気持ちとかわいいと思う気持ちが、じわじわと込み上げてくるから不思議だった。人と人との繋がりは、時間だけがつくるものではないのかもしれない。
「ありがとうね、すごく助かる」
温かい声に、日和はやっとの思いで頷いた。
――先生みたいっていうわけじゃないと思うんだけど。でも、なんか。
この人の声は、すごく落ち着く。それなのに、もぞもぞとした落ち着かなさが湧き上がってくるような感じもあった。自分では制御できなくなりそうな、そんな予兆。それらすべてに気がつかなかったふりで、日和は問いかけた。
「勉強が嫌いなわけじゃないんです、よね。恵麻ちゃんたちは」
「そうだな。というか、長いあいだ学校に行ってない子ってさ、勉強に対するコンプレックスや不安を抱えてることが多いって言われることがよくあるんだけど」
「あぁ」
そういえば、なにかの授業で聞いた気もする。けれど、あくまで知識だ。
つぼみに来なければ、不登校の子どもが意欲を持って自主的に勉強に取り組んでいることを、日和は知らないままだっただろう。
「勉強というか、……進路というか、将来というか。俺ら大人があれこれ口出ししなくても、あの子たちが一番悩んでるんだよ。このままでいいのか。この先はどうなるのか。でも、どう動けばいいのか」
淡々とした調子で真木が続ける。大人だって、なにが正解かなんてわからないのに、あの小さな身体でよく踏ん張ってるなと思うよ、と。
「俺も、そう思います」
自然と口を吐いたそれに、真木がぱっと顔を向けた。目が合うと、はにかむような笑みが浮かぶ。
――あ。
男にはにかむって表現、どうなんだ。それも年上の、なんて。頭のどこかで思いながらも、日和は先ほどの羽山の台詞を思い出していた。笑えば、案外、童顔なのに。
――たしかに、ちょっと、かわいい、かも。
って、おかしいだろ、俺。今日だけで何度目になるのかわからない突っ込みを入れて、やりどころに困った視線を足元に落とす。
ゆっくりと回る車輪が視界に入って、もっとゆっくりでもいいのにと思った。
「自分が普通のレールから外れてることに対する恐ろしさは、どうやっても根本的には打ち払えないと思うんだよね。日常に戻るまでは。……と言っても、その日常がどういうものなのか、戻りたいものなのかっていうのも曖昧で、漠然としていて。そうなったときに、一番身近な普通って、『学校に通っていただろう自分』なんじゃないかな」
「不登校になる前の、ってことですか?」
「うん。でも、そこには、集団に馴染めない苦しさとか、対人関係の難しさとか、そういうものがいっぱいあるでしょ。そのぜんぶに、すぐに立ち向かえるわけじゃない。そのなかで、一番わかりやすく自信に繋がって、手を出しやすいものが勉強なんだと俺は思う」
学校に通っている子どもたちと変わらない学力。いつでも戻ることはできると胸を張れるだけの準備。進路を選ぶときに幅を広げるための基盤。努力をしているという実感。
学力というものは、ひとつの武器だ。つぼみにはじめて参加した日。この人はそうも言っていた。
「それに、いざ学校に戻ろうってなったときに、勉強についていけないっていう理由で登校を尻込む子は一定数以上いる。そうならないための、……逃げない理由のひとつなのかもしれないな」
もちろん、逃げてもいいいんだけどね。ただ、と真木がひとりごとのように呟いた。
「いつまで逃げ続けられるかは、人それぞれだから」
逃げる。逃げる、か。
「あの、真木さん」
おもむろに切り出した日和に、真木がわずかに首を傾げた。身長差のせいで、まるで見上げているみたいで、だから、それなんだって、と。また思った。だから、それ、なんかかわいく見えるんだって。なぜなのかは知らないし、わかりたくもないけれど。
「俺、よかったら、夜も教えましょうか、勉強」
「……それはうれしいけど。なんの賃金も出ないよ?」
「いや、あの」
困惑した声に、日和は焦って理由をつくりだした。
「その、みんなががんばってるのは見ててうれしいし、俺にできることなら応援もしたいし。というか、家に帰っても特にすることもないですし、あの、だから」
ちょっとでも手伝いができればうれしいと思ったのだ。この自分が。省エネ第一主義で、面倒なことなんて絶対にしないと決めている、この俺が。
子どもたちへの援助のつもりなのか、真木に対するものなのかどうかさえも、わかっていなかったけれど。
毎週火曜日。ひとりだけ先につぼみを出る。その背後で子どもたちと真木が囲む勉強会のテーブルに、後ろ髪を引かれた覚えがあったことも事実だ。
あの輪に入りたいと思うのは、身内になりたいと願う気持ちに似ているのかもしれない。
日和をじっと見つめていた真木の瞳が、ふっとほほえむ。うれしそうに。それだけで十分な対価だと、これもまたなぜかわからないままに思ってしまった。
「ありがとう」
「はい」
「すげぇ、助かる。あと、うれしい」
それならよかったと心の底から日和は思った。



