いつかのまほろば

「なあ君、ここの席、座ってもいいかい」

 突然の声に、窓に向けられていた視線が揺れた。
 頬杖にしていた右手を崩して声の方を見ると、見かけは自分と同じくらいの男がいた。

「なあ、お願いだよ。他の席はみんな五月蠅(うるさ)そうで座れたもんじゃない」

 そう言われてみると、さっきと比べてだいぶ人の気が増えた気がする。

「ああ、もちろん。いいとも」

 そう言うと、男は、どうも、と言ってボックス席の向かいに座った。

 ただ、向かいに人が座ったとて、話しかける気にはならなかった。

 父ならきっと、迷わず話しかけるだろう。何せ、店で居合わせた赤の他人に話しかけるような人なのだから。
 きっと、父なら相手のほしい話をあっという間に理解するから、天気の話なんかはしないのだろうな。

「なあ、なあ」

 いつの間にか窓の方を向いていた顔を、向かいの席に向ける。

「ずいぶんと浮かない顔じゃないか」

 そんなこと言われても、何回も戦争を経験していれば当然だ、なんて言えるわけでもないし。
 そんなことを思いつつ、曖昧に笑う。

「そうか?」

「そうだよ」

 向かいの男がそう言ってから、少しの沈黙が流れる。

 もう会話は終わったな、と顔を窓に向き直そうとしたその時、

「あっ」

 向かいの声と共に、一瞬、周りが静まり返る。そしてしばらくすると、何もなかったように列車の中は声で満たされていく。

 そんな気まずさも気にせず、向かいの男はしゃべりだす。

「嫁さんがよほどの美人だったんだろう。それだからそんな顔をしているんだろ?」

 嫁。どこに行ってもその話ばかりで、人に聞かれるたびに言うのも億劫になっていく。

「妻はもう死んだ」

 それを聞くと、向かいの男は、そうか、と元気をなくしたように呟いた。

「すまなかった」

「いや、いいさ。聞かれなれてるから」

 窓の外を見ると、つがいだろうか。鳥が二羽飛んでいるのが見えた。

 妻、か。杼茜(ひぜん)が死んで、もう十年は経つ。
 だが、あの日のことは決して色あせていない。ついさっきの出来事のように、息のしづらさも思い出すことができる。
 あの時は、どれほど自分が嫌になっただろう。自分がまともな人間にさえ生まれていれば、と。