いつかのまほろば

「子供には(こく)な話でしょう。何も知らないうちに出ていくのが、俺にとっての親というものです」

 靴箱の奥から軍靴(ぐんか)を引っ張り出す。これに足を入れるのは何年ぶりだろう。

「しかしだな、永才(えいさい)。よく考えてくれ」

 いつもは柔らかい父の声が、別人のように硬く響く。

「たとえこの戦争に勝つとしても、お前が生きて帰れるとは限らないんだ」

 真剣で、必死な声。この声を聞くとずいぶんと前のことを思い出す。

 遠い記憶が脳裏に淡く浮かび、軍靴の(ひも)を持つ手が度々止まる。

「もう昨夜も言ったでしょう。この家系に生まれれば戦争なんて避けられない。あんただって日露(にちろ)の時、俺を置いて行ったでしょう」

 そう言うと、父は黙り込んでしまった。言い過ぎただろうか。

 軍靴の紐を結んでいるので父の顔は見えないが、どんな表情かは察しが付いた。

「ただもう、どうにもなりませんから」

 軍靴の片方の紐をもう結び終えてしまった。もう片方を結ぶのにもそう時間はかからない。父と、まだこれしか話せていないのに。

 なぜか頭の中は、どんなことを話すかでいっぱいだった。考えては消え、考えては消え、泡のようだった。
 いつもなら、一日では言い切れないほど話すことがあるはずなのに。

 紐はもうすぐ結び終える。

「なあ、永才」

 父が浮ついた口どりでしゃべりだす。

 軍靴の紐はとっくに結び終えた。だが、それを誤魔化(ごまか)すように、手は蝶々結びの紐をいじり続けている。

「この前の七夕は、綺麗だったなあ」

 父の言葉に一歩遅れてから、満天の星空が目に浮かんだ。視界に収まらないほどの天の川。あまりにも綺麗で、自分が小さくて、隠した言葉さえ(こぼ)れ落ちそうだった。

「きっと、杼茜(ひぜん)さんもあの中にいたよ。だから」

 だから、と言ったあと、父の言葉が詰まる。いつもなら絶え間なく続いていく父の話が、止まった。

 ただ、父の言おうとすることは、わかるような気がした。物心つく前から一緒に生きて何年もたつのだから、当然といえば当然か。

 玄関の隙間からは、日の光が差し始めている。どうして、時の流れはこうも早いのだろう。

 赤紙の届いたあの日が、つい一昨日(おととい)のことのように思えるのに。
 真秀(まほろ)に、おやすみを言えなくなるのは、何十年も先のことに思えるのに。

 外からは人の歩く音や、声が聞こえてくるようになった。そろそろ、家を出なくてはいけない。

「駅まで送ろうか」

「いえ、大丈夫ですよ。真秀(まほろ)もじきに起きるでしょうし」

「そうか」

 父は何か言いたげなように息を吐く。
 その言葉を聞かないうちに立ち上がろうと、体を前屈みにする。きっと聞けば、行けなくなる。

 どうもいつも通りにはいかず、のそのそと立ち上がる。
 足元の砂利を踏みしめる。

「じゃあ、真秀(まほろ)は任せましたよ」

 父のほうに顔は向けられず、声は玄関の引き戸に跳ね返った。

「ああ。いってらっしゃい」

 引き戸に手をかけて、手の力が緩まないように開ける。引き戸はガラガラと音を立てて、頭の中の騒音を上塗りしていった。

 朝日のまばゆい光が目を貫く。夏を感じるしたたかで柔らかな光。

 ただ、今日を生きている感覚は無かった。

 引き戸を閉めるときも、どこかに置いて行かれるような気がした。
 父の顔は見れなかった。引き戸のそばに生えていたつゆ草を見ていた。

 家に背を向けて、歩き出す。一歩は小さく、重かった。

 道に出るとき、駅にたどり着く道に一歩出たときだった。

 突然、走馬灯(そうまとう)のように、今までの思い出が頭の中を逆流し、体をめぐった。

 死んだ友達の背をとうとう追い越してしまった日、父が遠くに行ってくると言って家を出た日。
 真秀(まほろ)が生まれた日……

 まだ死んでもいないのに。きっと、あの人がまだ生きていたら、そうからかった。

 ただ、もう自分一人になってしまった。

「もっと……」

 もっと、父と話したいことがあったのに。まだ、真秀(まほろ)が書いた作文も読めていないのに。

 帰って来れないと決まった訳でもない。でも、目から溢れるものが頬を伝っていくのがわかった。

 何が戦争だ。何が絶対に勝つ、だ。勝てば戦争、勝てばまた戦争のくせに。
 なんで、忘れていくのだろう。

 駅へと続く遠い道からは、風に乗ってか、軍歌の旋律が聞こえてくる。