好きになったから、恋がしたい

『リリリリリリ!!!!』

 目覚ましのアラームが部屋に鳴り響く。

「うるせ……」

 細く開いた目で、音の鳴る方を探す。手をベッドの上で泳がせると、今日も朝が来たのだと喚くアラームを乱暴に止めた。
 重たい体を起こし、ベッド横のカーテンを座ったまま開ける。まだ日が上りきっておらず、薄暗い空に強い眠気が襲ってきた。
 上半身をこれでもかというように伸ばし、無理やり体を目覚めさせる。
 起き上がったのも束の間、すぐ布団に頭から土の子のように潜り込むと、そのまま布団の中でもぞもぞと着替える。何年も着続けている裾がヨレたパジャマは小さな身体をスルスルと抜け、布団の中で着替えるのもお手のもだ。
 1軒家の2階の1室にある俺の部屋は、必要最低限のものしか置いていない。部屋の壁にあるクローゼットに全ての服が仕舞われている。ベッドのある壁とと対照的な壁の部屋の角に机がL字に設置されている。
 被った布団の隙間から顔だけ出し、綺麗に畳まれ、机に置かれたマフラーを見つめる。
 部屋を出る間際にマフラーに手を伸ばし、丁寧に巻く。

「ケホッ…ゲホ……」

 風邪のように止まない咳を無視をする。
――早く行かなきゃ遅刻する。
 朝ごはんなどは全く口にせず、忍足ながら早足で家の階段を下る。まだ寝ている親を起こさぬようそっと玄関の扉を閉じた。
 外に出ると太陽が街路樹から差し込む。
 その光にくらりと視界が歪む。カラッと晴れた空は、すでに青空まで見え始めていた。
 体が重しを背負ってるように重い。体の怠さには心当たりしかなかった。大方、昨日の優光さんにマフラーを巻かれたことを思い出しては寝付けずにいたからだろう。それでも行かなければと足を動かした。
 住宅街を進む。この街にはビルという文字は存在しない。住宅と住宅の間に、こぢんまりと現れるブラウンの塗装が剥がれかけた建物。
 ここが俺の2つ目のバイト先である地元に愛されるパン屋さんだ。
 店の前で深呼吸をすれば焼き上がったばかりと思しきパンの香りが鼻を抜け心地が良い。

「はようございます」

 重量感のある扉を開けると、店内はパンの香りがふわふわと漂っていた。
 早朝にバイトをしているここは、夜になってもネオンが灯ることはない。
 俺はここに来るお客さんやバイトの人たちと会話をするのが好きだったため、朝が早くてもこのバイトが好きだった。
 「おはよう」と、返してくれる店長と「今日も元気だね」と微笑んでくれるパートのおばちゃん。
 そんなバイト先が悪くないと日々思いながら、早朝に働いている。

 大きなあくびを1つする。
 「眠そうねぇ」と、パートのおばちゃんが心配そうに声をかけてくれた。
 俺は「昨日別のバイトだったんすよ。でも、元気っす」と、肘を曲げニカッと笑ってガッツポーズして見せ、元気だと証明する。
――正直少ししんどい。
 腰エプロンをつけ、準備を終えると「俺、外掃除してくるっす!!」と、設置されている掃除用具から、箒を徐に取り出し、大股で自動ドアを潜った。
 おばちゃんの心配をよそに、自分の仕事を進める。
 お店の前の石畳の砂埃を手際よく集め、店前の花壇に水をやる。
 それが終われば、お店の看板を表に出すのが日課だ。
 『CLOSE』とチョークで書かれた黒板を消し、『OPEN』と書き換える。
 字にも英語にも自信があまりなかったが、今日は英語のスペルも間違えず我ながらよくできたと感心する。
 そして、石畳に倒しておいた箒を拾い上げたその時だった。
 視線が定まらず、視界が揺れる。
――気持ち悪い。
 手からするりと箒が滑り落ち、力の入らなくなった足と身体は前面に向かって倒れる。
 真っ白になった瞼の裏。

「……っ」
「大丈夫ですか?」

 透き通るような、心地良い声が遠くで聞こえる。
 その呼びかけに応じるように瞼がピクリと動くのがわかった。
 ゆっくり目を開ける俺が通う高校と同じ制服の男の子が、両腕で俺の身体を包むように支えてくれていた。

「ありがとう……ございます……」

 自分の力で立とうと、足に力を込める。
 しかし足の力は抜け、またふらりと後ろに倒れそうになる。
 彼は、反射的に俺を抱き寄せるように支えてくれた。

「さ、さーせん……!」

 迷惑をかけてしまったと、彼の身体を突き放すように腕をのばし、慌てて顔を上げる。その反動で、マフラーがするりと石畳に落ちた。俺は借りたものなので汚れてはいけないと、急いで拾おうと手を伸ばすも彼に先を越される。
 彼は突き放そうとしたことに怒ることもなく、片腕で俺を支えたままスラリと長く伸びた腕で拾う。

「どうぞ。えっと、『さかき』くん……?」

 彼の持っているマフラーのタグには、『さかき』と、小さく黒いペンで書かれていた。
 そのタグを見て言ったらしい。『さかき』というのは、優光さんの苗字だ。
 あの優光さんが名前を書いていたということに少し可愛く思え、意外とまめな人なんだと新しい発見をしたようで笑いが込み上げた。
 微笑する俺をぽかんとする彼に恥ずかしさを覚える。

「あっ! そのマフラー俺のじゃないんです。まさか名前書いてあると思わなくて……貸してくれた人が名前とか書きそうになかったから……」
「そう……」

 俺の言葉を遮り彼は、拾ったマフラーを俺に巻き直してくれる。くるくると不器用そうに俺の首に巻きつけられた。

「その“さかきさん”もこうやって巻いてくれたのかな?」
「な!」
「意識してるみたいだったから」
「そ、そんなわけないっすよ!」

 突然の出来事と彼の勘の良さに取り乱した俺はこの場限りの彼に対して名前を口走る。

「あ! 俺、花園李斗っす!!」
「花園……李斗くん……」
 
 彼のマフラーを巻く手が止まる。

「ん? はい」
「俺は、東崎凪紬……です」
「え……?」

――東崎…凪紬……? 同姓同名か?
 今、目の前にいる昨日とは態度が違いすぎる東崎は、俺を混乱させるには十分だった。
 何重にもなっているマフラーから埋もれた顔を出し、長身の東崎を見上げる。

 ここはレストランとは距離もかなり離れているし、あの“終始不機嫌そうだった東崎”とは、かけ離れていた。そのため、他人の空似だと思う。
 何より、あの大人っぽすぎる東崎凪紬が高校生だとは到底思えなかったのだ。
――違う、よな?
 東崎を怪訝そうにじろじろ見てしまったために、首を傾げ「どうかしましたか?」と、困り笑いをされる。

「な! なんでもないっす!!」
「お大事にしてくださいね」
「はいっす! あ、あざした」
 
 何度も頭を下げ、東崎を見送った俺はパン屋に戻った。
――俺のことは気づいてなさそうだし、やっぱり違うんだろう。
 それに、あのエメラルドに輝く瞳と、光を透き通すほど美しい髪だったら間違えるはずがない。



 東崎への謎を深めたまま早朝のバイトを終えると、急いで家へ戻る。この時も、朝ごはんを食べる暇なく、高校に行く準備をする。
 木目調のクローゼットを横に引いて開く。丁寧にハンガーにかけられたワイシャツと紺色のブレザー。
 アイロンをすることなくてもシワ1つできないワイシャツは、重宝していた。ワイシャツの第1ボタンと下2つのボタンを閉めないまま、お気に入りの深緑色のパーカーを着ると、ブレザーの首元を掴んでハンガーから外す。左胸のポケットには、学校のエンブレムが縫い付けられている。ブレザーと同じ色のズボンを履きながら、自分の部屋を後にした。
 トーストされたパンの香りが廊下にまで届いている。
 リビングで優雅に朝食を摂っている母だと言うのはリビングを通らずともわかった。そのため、ドアの向こうまで届かすほど大きな声で「いってきます!!」と一声かけ、そのままバタバタと忙しなくローファーを履き外に出た。いつも、俺の声に負けじと、「いってらっしゃい!!」と、母の声が家の外に響く。
 それに対して近くを通る近所の人に笑われることも少なくなく、俺はそれが少し気恥ずかしい。

 家から最寄りの駅までダッシュで走る。1時間に2本しかない電車は、次の電車に間に合わないと遅刻確定だ。最寄駅のそばにある歩道橋を駆け抜け、駅構内まで繋がるエスカレーターの下までたどり着いた。ブレザーのポケットからスマホを取り出しロック画面だけ表示させ時計を確認する。
――8時17分。
 この時点で乗りたい電車まで、3分あったためホッと胸を撫で下ろした。
 無事、電車に乗り、3駅揺られる。満員電車なのは、もう諦めていた。
 ここからがまた大変な通学だ。学校の最寄駅まで到着するも、駅からまたダッシュする。普通に歩けば、約30分の道のりを、全力で走って10分近くまで縮めなければいけない。
 幸い、重たい荷物はない。学校では寝る時間が多すぎる上にどうせ家で勉強しているので、2年の途中から教科書を持っていくだけ無駄だと気づいたからだ。
 上がる息と共に正門をくぐり、教室までの階段を駆け上がる。俺と同様、遅刻寸前と思われる人たちも階段を一段飛ばしで駆け上がる。
 呼吸を忘れるほどがむしゃらに教室のある3階まで到着した俺は、息を吹き返した花のように大きく息を吐いた。そして息を整えるために教室まで歩く。
 重い瞼を擦りながら、聞こえてきた廊下まで響く甲高い声が、頭に響いてきた。その声は、耳を澄まさずとも聞こえてくる。

「今日、転校生くるらしいよ!」
「しかもイケメンとか!!」

 廊下まで聞こえたその声の主は、俺のクラスの女子たちだったらしい。
――うるさ。こんな期待されて転校生も大変だな。
 騒がしい教室に、遅刻ギリギリで入り自席に着くことで、やっと一息つけた。椅子を引き、腰を曲げ、ペタリと頬を机とくっつける。冷たい机が心地いい。
 授業を聞く気は元よりないので、寝るための準備をする。腕を枕のように囲み、その上に頭を置き直す。
――ねみぃ。
 そろそろ本当に枕を持っていくるか本気で悩んでいるも、そこまでやると本気で先生に泣かれそうで自制心が働いた。

 目を瞑りながらそういえば、今日は転校生が来るとか騒いでいたことを思い出す。
 来年度は高校3年生というのに、この時期に転校してくるのは珍しいとも思いながら俺には関係がないことだと、思考を止める。
 日差しが差し込む窓際の席は心地いい。ぽかぽかの陽気に当てられながら、深い眠りについた。

「……ぞのくん……花園くん!!」
「あ?」

 何時間経ったのか不明だが、起こされた機嫌の悪さから鋭い目つきで睨み、ゆっくり首を起こす。
――いててて。
 同じ態勢で寝過ぎた代償に、身体が痛い。それでも、痛がってる姿を見せてたまるかと、動かせる範囲で声の主を探す。回らない頭と開けきれてない目を必死に開けようとする。

「体調は大丈夫? もうお昼だよ」

 どこかで聞いた声がする。
 視界にぼんやりと、映っていたのは、俺の椅子に手をかけながら爽やかに笑い、覗き込むチョコレートのように甘い瞳。
 目が合うも、瞬時に首を180度勢い良く動かしそっぽを向く。

――東崎だよな……? なんでいるんだ??

 驚きと焦りからダラダラと出る冷や汗が止まらない。パン屋で助けてくれた時よりずっと明るい話し方だが、東崎凪紬だということは理解できた。俺に話しかけて来たことが何よりも証拠だ。まるでカメレオンがその環境に擬態するような少し気味の悪ささえ感じる。
 学校での俺はヤンキーのフリをしている。当然、パン屋さんでも高級レストランでも働いていることを知る人はいなかった。俺と話そうとする人もいなければ、話しかけられても碌に返事はしない。笑うことなんて滅多にない。そんな俺が接客のバイトをしていると知られたらバカにされるに決まっている。最悪、バイト先に迷惑をかけることんいなるかもしれないとまで考え出すと、ぐるぐると焦燥感に駆られる。
――レストランの方に来た東崎凪紬とは違う人なはず……でもパン屋のバイト先は知られてるし、この東崎凪紬と会ったきっかけはバイト先だし……。
 無視をする俺に手を伸ばしかけた東崎を阻止するかのように、複数人の女子が囲む。
 その中には、俺を非難する声も聞こえた。
 無視したことを「気にしないでね」と、東崎を慰める女子もいて、コイツが勝手に話しかけてきただけだろ? と、反抗したくなったがバイトのことがバレなければ何でも良いとまた寝直そうとする。
 しかし、寝たくても東崎がいることが落ち着かず、女子と話す東崎の声に耳を傾けていた。

「なんで花園のこと知ってるの?」

 女子の素朴な疑問に間髪置かず、答えようとする東崎。

「あぁ。花園くんは……」
「お、おい!」

 言葉を遮り、椅子が倒れる勢いで、立ち上がる。
 小柄な身体で大きく見せ、東崎の腕をこれでもかという力で握ると、そのまま教室を飛び出した。
 小走りをする俺に対して、東崎は優雅に大股でついてくる。

「痛いよー?」

 一歩後ろをついてくる東崎の声は全く痛そうになかった。
 それに苛立ち、力を込める。東崎の腕を握ったまま、階段を2階分一段飛ばしで登る。

「ねぇ、花園くん、朝倒れてるんだからそんな走っちゃダメだよ」

 その警告を無視して、人の気配のない廊下を走り続けようとする。実際、使われている教室もない空き教室の目立つこの廊下は、誰もおらずシンと静まり返っていた。
 すると、握っていたはずの腕がグイッと後ろに引かれたことで俺も後ろにバランスを崩す。

 転ぶと思い、ギュッと目を瞑ると、後ろにいた腕を引いた張本人である東崎にそのまま捕まえられる。

「だーめ」

 細いながら筋肉質の左腕にすっぽりと収まってしまう自分の小柄さが憎い。

「離せ!!」
「へぇ……」

 悪巧みをするような薄ら笑いを見せる東崎に背筋が凍る。

―俺なんだこいつ……。さっきまで女子にいい顔して、俺を助けた時も爽やかだったくせに。

「なーんか、失礼なこと考えてない?」
「そ、そりゃそうだろ! どれが素なんだよ!!」

 俺は、東崎に捕まえられたまま東崎の顔を仰見て、威嚇をする。

「ん? それ、こっちの台詞なんだけど?」
「あ……」

 俺の顔を覗きこむ東崎はポツリとこぼす。

「綺麗な瞳だね」
「な! 何言ってんだよ……」

 
 余裕そうにする東崎は、奇妙な提案をしてくる。

「ねぇ、よくわかんないけど色々知られたくないんでしょ? バイトのこととか」
「うん」

 逃げれないと諦め、不機嫌そうに東崎の腕の中で答える。

「友達になってよ。そしたら全部黙っておいてあげる」

 東崎の考えていることがわからない俺は、眉間に皺を寄らす。

 「あはは。よく顔に出るね」と、東崎はご機嫌そうに俺を抱えていない方の手の人差し指で俺の額を押す。友達なんて……作りたくない。でもいてもいなくても案外変わらないのかもしれない。それにこれを断ったらアルバイトのことをバラされるというのが俺を一番不安にさせる。

「いいよ……」

 渋々了承した。
 それが嬉しかったのか目を見開き、これまでにない屈託のない笑顔を見せる東崎の声のトーンが上がる。

「よろしくね! 李斗!」
「は? 名前……」
「いいじゃん? “友達”の証だよ」
「あっそ」

 そっけない返事をしたが、本当は、友達という言葉に心の奥が痒くてニヤけてしまいそうだ。

「てか、なんでお前いるんだ??」
「今頃……?」

 苦笑する東崎は、今日転校してきたのだと教えてくれた。
 ふと、登校時に聞いた女子たちの会話を思い返す。

「……確かにイケメンか」
「え? 何々?? 何の話?」
「なんでもねぇよ」

 こんなに、学校で人と話すのは何年ぶりだろうか。背中が熱くなるのを感じた。
 こうしている間に、昼休みはあっという間に過ぎ、予鈴が俺らしかいない廊下に響いた。