好きになったから、恋がしたい

 そのまま、ただ、俺のことを強く抱きしめたまま動こうとしない凪紬に、ラブさんが少しでも手掛かりになればと、花園家に呪いをかけた海の天使のいる場所を教えてくれた。
 ラブさんは、あまり参考にならないと思うと苦笑していた。じっとしたまま、何も手掛かりがないよりはいい。その一心だった。
 俺は母に学校に行く振りをするためだけに制服に着替え、俺たちは、次の日の学校を休んでその海へ向かう。

「本当にここにいるのか?」

 凪紬が疑問に思うのも無理はなかった。
 教えてもらった場所は、常に荒れた海で人はもちろん、天使などと名を持つ者も寄り付かないような管理されていない小さな浜辺だ。

「足元、気をつけて」

 繋ぐ手を些細な気遣いに感謝を伝えられないことに胸が傷んだ。

「海の天使さん、いるんですよね? 昔、悪魔と花園家に呪いをかけた……」

 荒波が一層激しくなる。俺を守るようにする凪紬に、しがみつく。

「誰よ」
「……ラブの息子です」
「へぇ。もう一人いる?」
「はい」
「ラブには世話になったわ。入りなさい」

 荒れた海しかない。入れる場所などどこにもなかった。心配と恐怖から凪紬の袖を掴む。

「俺も、もう一人も海に入ることはできないです」
「どうして?」
「俺は海の天使ではないですし、もう1人は人間だから海で呼吸する術がないです」

 すると、海の天使は声を荒げる。

「はぁぁぁぁぁぁ?? 人間ですって!? ワタクシが人間嫌いであることを知っててのこと?? 悪寒がするわ!! 早くこの浜辺から出て行って」
「嫌です。呪いの解き方を教えてください」
「……呪い?」

 荒波が静まり返る。とすぐに、水飛沫が上がり始めた。

「ぷっ! あはははは!!!!」

 水中から反響する甲高い笑い声。

「あっはははははははははは!!!!!!」

 悪魔のような笑い声は、徐々に音の響きがなくなり水飛沫が上がった。

「何百年ぶりかしら」

 上半身だけ浅瀬に出した女性。上半身だけしか見えないが、それでもわかるほどのボロボロに破けた服。水に濡れた髪の毛は、ところどころが、千切れまとまりがない。

「はじめまして。ラブの息子の凪紬です」

 ひび割れた唇は声から想像していた姿とかけ離れていた風貌に、凪紬の後ろに隠れる。ビクビクする俺とは対照的に凪紬は堂々と挨拶をしていた。

「こっちは……李斗です」
「ふぅん。名前なんてどうだっていいわ。呪いの話を聞かせて」

 凪紬は、自分に呪いをかけた幼少期の頃の話から今ここにいる理由まで簡潔に話した。

「えっとー……」
「ハルカでいいわ」

 ずいぶんと、馴染みのある名前だと凪紬も思ったのだろう。一瞬眉間にしわを寄せる。しかし、聞きたいことはそこではないとすぐに思考の軸を戻した。

「ハルカさんは、どうやって皆にかけた呪いを解いたんですか?」
「知らないわ」
「え?」
「怖くなくなったのよ。本当は、人間に恋するなんてふざけてるし、赦されないと思ってた。でも、一番赦せなかったのは、呪いをかけたって……」

 詰まる言葉を吐き捨てるように言う。

「何も変わらなかったこと」
「変わらなかった?」
「皆の反感を買って、『呪いを解いてくれ』と痛いほど耳にした。でも、呪いをかけても解き方なんて知らなかった。そもそも呪いなんてかけられるほどの力を自分にあるとも思っていなかったけどね」
「……力の大きさは関係ないってことですか?」
「知らなーい。端的に言えばそうなんじゃない? 気持ちの問題みたいなものよ」
「気持ち?」
「ラブに言われたのよ。『私に呪いをかけてご覧』って」

——ラブさんも呪われていた?

「呪いをかけたんですか?」
「人間に恋していたラブにムカついていたから簡単にかけれたわ。でも効かなかった」
「どうして」
「本当かはわからないけど、ラブ曰く、『私は人間を好きになっても、そうじゃなくても大切にしたいと思った人は忘れない自信があるから』って。きっと恐怖心なんてラブになかった」

——恐怖心……きっと凪紬が一番に感じていることだ。

「母さんが……ラブが大天使だからってことはないんですか?」
「ないわ。言ったでしょ? 力は関係ないって。大天使に与えられた使命は、魔王と結婚することと、統率する能力だけよ。つまり天使の呪いなんてただの気持ち次第だもの。それはラブも知ってるはずよ」

——感情って本当に形をかえてしまうんだな……。

「あなたは、このガキに呪いをかけたんだろう」

 コクリと凪紬が頷く。

「でも、ガキの方が前に進もうとした。つまり、ガキの恐怖心はもうないから呪いが解けた。だからあなたは『好きな人』を思い出せたのよ」
「しゃべれないのは……」
「忘れる前段階ってとこかな。『まずは声を奪い……次に相手の記憶を奪う』この世界は代償なしに生きられないのよ。代償が対価じゃないなら、記憶を奪うこともできないのよ」

——記憶を奪うほど大きな代償ってなんだ……?
 凪紬は何を引き換えに今まで呪いをかけていたんだ?
 膨らむ疑問を人間の俺が解決することはできない。

「てゆうか!! 母さん、呪いの解き方知ってるのかよ!」

 大きな声を出し静かに「急いで来る必要なんてなかったじゃん」と、小さくつぶやいた。

「さぁ……。呪いをかけた同士で仲良くしろってことじゃないかい?」
「李斗! 行こう」

 手をぐいと引っ張られた凪紬を止める。

《凪紬、待って》

 俺が海に近づくと水面が揺らいだ。
 海の天使は俺にぶっきらぼうに言い放つ。

「何?」
《俺の名前は》
「もう聞いたわよ。李斗でしょ? ガキって呼ばれたこと気にしてるの? 人間ってめんどくさーい」
《花園李斗です》
「花…園……そう……だから何? 恨んでるって言いたいの? 怒りに来たの?」

 こんなに時が経っても一番初めに呪いをかけた人間の名前を覚えてるなんて、恨んでいるのはどっちの方なのだろうか。それとも呪ったことに罪悪感を感じているのだろうか。

《俺がハルカさんに恨む理由はないわけではないです。でも、いつかまた好きな人ができたらその時は、嫉妬じゃなくてどうか向き合ってみてほしいです。本音をぶつけてほしいです。ただそれだけです》
「このガキ上から目線に……凪紬。耳を貸しな」
「李斗、待ってて」

 俺が皮肉に捉えられるような言葉を言ってしまったから怒ってしまったのだろうか。
 慌てて凪紬が海の方へ近づくのを阻止しようとしたが、凪紬は「大丈夫」と言い、数メートルと離れてしまった。
 荒い海の波は、岩に当たるたびに水飛沫を上げる。来る波が全て大きく感じて怖い。数分もしないうちに、凪紬がこちらに振り向き歩いてくる。その姿を見て駆け寄る。

《海の天使さん帰っちゃった?》
「……あぁ。最後までよくわからない天使だったな」
《うん。でも人間のことそこまで嫌いじゃないよね、ハルカさん》
「あぁ。俺もそう思う」

 どこか穏やかな表情を見せる凪紬の変化を俺は見逃さなかった。

《怖い?》
「……いや」
《俺は怖くないよ》
「うん、ありがとう。なぁ李斗。俺のバカみたいに情けない話を聞いてくれるか?」

 首を縦に振る。

「人間の父は、早くに亡くなった。早くと言っても、天使の体感だ。人間の寿命で考えたら長寿と言われるくらいだったと思う。俺は、人間に恋するのが怖くなった。忘れたら楽になれると思って呪いをかけたんだ」

——ラブさんの言った通りだ。

「初めて呪いをかけたのは、幼い身体になって公園で出会った少年だ。俺自身のことが好きになったんだと思うし、少年も俺に気があるみたいだった。それで怖くなってどっちもに呪いをかけた。俺はすでにそれを思い出してる」

 非常に大切な思い出のようで、少し嫉妬してしまいそうになる。

「その後呪いをかけたのは、多分、李斗が優光に恋をしていると分かった時。あの時から俺は李斗のことが好きになっていたんだと思う。人間に恋するのは怖いくせに、他のやつと付き合うのが許せないなんて、結局、海の天使と同じことを俺は繰り返してしまった。そして、李斗が俺のことを好きなんじゃないかって考えるようになった時、浮かれたと同時に呪いをかけたんだ」

 優光さんのときも多少は呪いがかかっていたということと俺の気持ちが凪紬に傾いていたことにいち早く気づいたのは、俺ではなく凪紬だったということか。凪紬は俺のことをよく見ててくれている。呪いはよくないが、嬉しかった。

「すごく最低で安直なのはわかってるし謝って済むことじゃないのは重々承知だけど、改めて謝罪させてほしい。申し訳ございませんでした」

 頭を下げる凪紬は続ける。

「でも、ちゃんと人間と……李斗と向き合いたいと思ってるから俺ももう怖くない」
「ほんと…う……」

 微かに声が出る。

「李斗」
「凪紬!!!!!!」

 名前を呼べるだけで、こんなにも嬉しく思う日が来るなんて考えもしなかった。
——1番に伝えたかったこと。1番伝えなきゃいけないことを。

「凪紬、好きだ!」

 凪紬の腕に包まれる。そして、凪紬は噛み締めるように言う。

「李斗、大好き」

 胸がギュッと好きと伝えられて、凪紬も俺も手を離さなかった。嬉しさのあまり名前を呼ぶ。

「凪紬っ!」

 凪紬のことを仰ぎ見ると、それに応えるように凪紬が俺の唇にキスをする。
——確かに、これは自分の寿命が憎くなってしまう。いつまでもこんな時間が続いていたいと願ってしまうのだから。
 ドッと疲れに襲われたみたいに、頭がくらりとする。



 夢を見た。小さい頃の夢。

 年長になった俺は、保育園に通うのにようやく慣れてきた。母にお迎えに来てもらった後は、通学路の帰り道にある公園で遊ぶことが日課だ。
 この日も、公園に立ち寄り、朱色に落ちゆく太陽を背に大好きだった花冠を作って遊んでいた。

「僕ね、シロツメクサの花冠大好きなんだ!」
「そう。お母さんも好きよ」

 慣れた手つきで、茎をくるくると円になるように編んでいく。俺の隣で微笑む母の姿は、暖かい家庭の一部を切り取ったようだった。母の発言で僕の暖かさを壊す。

「あら? “クロくん”はどうしたの?」

———へっ? 僕のクロくん…?
 シロツメクサを結う手を止め、周囲を見渡す。ブランコが1つあるだけの、そう広くもない公園。
 "クロくん"。それは、俺が名付けた真っ黒な犬のぬいぐるみだ。
 生まれるずっと前からあったらしいクロくんは、どこに行くにも一緒だった。誰も持って行こうと思わないような、ほつれた糸や綿が出ているぬいぐるみ。
 しかし、手には作りかけの花冠しかなかった。
 いつも隣にいたクロくんがいないことが、頭が真っ白になり思考が停止する。

「保育園出たときは?」

 当然、俺よりも背の高かった母が立ち上がり、公園の奥まで視線を飛ばしながら言う。必死に記憶を辿ろうと、力強く目を瞑る。
 保育園の大きな扉の玄関。マジックテープをズレないように丁寧に貼った靴は、少し窮屈。そんなのを感じさせないほど軽やかに立ち上がり、保育園の先生へ別れを告げる。

「せんせい。ばいばい」

 まだ人と話すことが気恥ずかしく、自分の顔のサイズほどしかないクロくんの後ろに隠れる。

「うん! 李斗くんまたね! ハイタッチ〜! クロくんもハイタッチ!」

——確実に持っていた。
 公園に行く途中で落としてしまったのか、確証もなく不安になり目には大粒の涙が今にも落ちそうになっていた。
 母は、そんな俺と目線を合わせるようにしゃがみ直すと「1度保育園まで戻ってみましょう」と、俺の手を優しく包み込み、微笑みかける。

「うん……」

 泣きそうになるのを我慢して、コクリと頷いた。
 公園の柵を抜け、保育園までの道のりを前も見ず、ただ母の手を握って歩く。数メートルと歩いたときだった。母が手を繋いでいない方の手で興奮気味に俺の肩を叩く。
 
「ねぇ! あれ!!」
 
 叩かれたことで、不機嫌に顔をあげる。顔を上げたのを確認すると、目線を合わせるように腰を曲げ、腕を伸ばしてまっすぐ道なりに指差す。母の、ゆっくり動く指を、子猫がおもちゃを追いかけるように追った。

「……あ!! クロくん!!」

 母の指と目線の先で、見慣れたクロくんが縁石の側にポツンと取り残されているのを発見した。そのときだった。
 前から歩いてきた小学生くらいの少年がスッとしゃがみクロくんを手に取ったのだ。
 クロくんが連れて行かれてしまうと思った俺は、一心不乱に叫ぶ。

「それ!! 僕の!!!!」

 甲高い声に反応し駆け寄ってきてくれた少年は、「もう落とさないようにね」と、両手でクロくんを差し出した。
 10cmほど背の高い少年は、腰を曲げて視線を合わせてくれた。そして、溢れそうになっていた俺の涙を、少年は服の袖を使って優しく拭ってくれた。
 俺の目にはうんと大人っぽく映り、ヒーローのようだった。俺が幼い頃から背が低かったこともあり、尚更大人っぽく見えたのもあったのだろう。
——かっこいいなぁ。
 俺も両手でクロくんを受け取る。俺の視線は、少年に固定されたままだった。

「バイバイ」

 空いた両手でひらひらと手を振る少年。
——バイバイしたらもう会えない……?
 出会ったばかりの少年に何を思ったのか、幼い俺は俺自身の気持ちに理解できなかった。
 気づけば、少年の腰ほどの位置までしか届かない腕を伸ばし、抱きついていた。

「こら! 李斗!!」

 焦る母を無視して、腕は離さなかった。

「あはは! 大丈夫ですよ!」

 口角を上げたまま、少年は、「李斗くんって言うんだ?」と、優しく俺の頭を撫でる。
 鼓動をくすぐる少年の手は鼓動を早くさせた。

「うん!! “はなぞの りと”だよ!!」
「李斗くん。お友達、見つかってよかったね」
「うん! ありがとう!! お兄さん!」

 抱きついたまま、首を直角に曲げ、見上げる。
 優しい少年に俺も自然と笑顔が溢れていた。

「お兄さんの名前は?」
「なつむ。ひがしざきなつむだよ」
「なつむくん!」

 呆れた母が、「ありがとうね」と、礼を言うと「ほら、帰るよ」と、強制的に腕を剥がされた。
 不貞腐れた俺は、「明日! あの公園で遊ぼう!!」と、母に手を引かれながら一方的に約束を取り付けた。
 一緒に遊べるかもわからないというのに、次の日が待ちきれない思いでいっぱいだった。

「ケホッ!」

 
 約束した明日になり、落ち着きなく過ごした日中の保育園。
 母は、風邪気味だった俺に呆れながら「少しだけね」と、公園に連れて行ってくれることになった。
 公園に向かう道中、小さい背中だがもっと小さかった俺には大きく見えた。
 昨日の少年だということはすぐにわかった。
 また会えた嬉しさから早く追いつこうと駆け出す。
 ポスッと、”なつむくん”の後ろから抱きついた。

「うぉ?!」

 今思えば、突然後ろから抱きつかれるなんて怖いものはないだろう。
 少年は恐る恐る振り返り、俺だとわかると「李斗くん」と、名前を呼び、安堵の表情を見せた。
 そして、優しく微笑むと、抱きつく俺の頭をまた、一撫でする。
 くすぐったく、掌が頭に乗ったまま顔を上げた。
 満面の笑みをする俺は、大きく口を開けた。

『なつむくん、明日も遊べる?』

——あれ……?? うまく声が出せない。
 さっきまで、普通に母と話していたはずなのに。喉の奥で言葉が詰まる。
 口を開けるのが精一杯だった。
 声が出ない恐怖で唇がかすかに震え、するりと、両腕の力が抜けた。
 母が急いで俺を抱き上げると、「この子、風邪気味みたいだから帰るわね。ありがとう」と、足早に帰路についた。

 次の日は、公園に行くことを「やめなさい」と言う母の言いつけ通りに、幼稚園の帰りはそのまま家に帰った。
 しかし、少し買い物に行ってくると家を出た隙に、俺は探偵ごっこのようにいないと分かっている母に見つからないようにと、壁にはりつき、忍足で家を抜け出した。
 言葉が発せられないという不安もあったが、それ以上にまた”なつむくん”に会いたいという気持ちと声が出なかったのは気のせいだったんじゃないかと思う気持ちが強かった。
——会いたい。
 早くなる鼓動。
 会えたら何をして遊ぼうか。考えれば考えるほど、自然と笑みが溢れる。
 公園が見える道に差し掛かった時、公園のブランコに座る”なつむくん”を見つけた。
 俺は、”なつむくん”へ一直線に、短い足で一生懸命に走る。
 すると、目の前を遮るように女性が1人、ふわりと、ワンピースを揺らして現れた。
 俺は走る足を止め、2人の様子を伺うように近づく。
 何を話しているのかは、聞こえなかったけど女の人は腰に手を当て怒っているようだった。
——お母さんかな?
 女の人がブランコを握っていた”なつむくん”の手を掴むと、引っ張るようにブランコから降ろした。
 その時、一歩一歩、接近してくる俺を察し、少年からパッと手を離すと女の人が笑顔で屈む。

「迷子かな?」

 首を激しく横に振り、否定する。
 横に佇む”なつむくん”に訴えかけるように、瞳を潤わせる。

『なつむくん!!』

——やっぱり、声が出せない……
 出ない声に反抗するように、手を伸ばし”なつむくん”の腕を掴む。

『なんだこれ……どうなってるんだよ!!』

 腕を手放すこともできず、俯いたまま呆然と立ち尽くす俺は、”なつむくん”に訴えかけるように、吊り目を向ける。
 ”なつむくん”が、俺のぐちゃぐちゃになった感情を綺麗に踏み潰し真っ新にする。

「……?」

 言葉を発さずに、ただ首を傾げる少年の仕草に胸の奥が締め付けられるように痛い。
 お兄さんの顔に笑顔もなく、困惑をしているようにも、迷惑そうにも見えたその口元は、幼い俺を絶望させるのに十分だった。
 頬を伝い拭いきれない涙が、地面にシミを作る。

『うっ、ぐす……うぅ』

 ぐしゃぐしゃになった顔。
 歯を食いしばれば縛るほど、涙で視界はぼやける。

『いやだ!! どうして……なんで!声が出せないんだ……!!』

 震える手に力を込めることもできず、その場に崩れるようにへたり込んだ。

『うわぁぁ…うぅ……うぐ……うぅ……』

 声が出ないまま、ひとしきりに泣き嗚咽をする俺に困り果てたお兄さんと少女は、背中をさするように慰めてくれたが、お兄さんの優しい手。
——なんで何も話してくれないの?
 そのすぐ後に、公園の前を通った母が連れて家に帰ったらしい。
 家系が、『好きになったら、好きな人に忘れられる呪い』がかけられていることを知ったのは、しばらくしてからだった。
 そして、これが花園李斗の東崎凪紬への初めての恋であり、俺はこの16年その家系にかけられた呪いのせいだと思って生きていた東崎凪紬がかけた初めての呪いだった。



 あぁ。そうか。凪紬自身を呪ってしまうほど凪紬も苦しかったんだ。
 忘れてしまった良い記憶とは言い難い初恋の思い出。それでも、思い出せて良かったと心の底から思う。
——だって、また君を好きになった。
 凪紬のことは全部覚えていたいから。好きになったから、今度こそ前に進める恋がしたい。
 凪紬自身に呪いをかけたから、凪紬の好きな人である俺が凪紬のことを忘れてしまった。俺であればいいと思った反面、やっぱり忘れたくはない。

 カーテンの揺れて風光る。視界にうつる真っ白な天井に見覚えがなくとも、俺が横になっているという自覚ができた。

「ここは……?」

 身体を起こしながらこぼした声に返答がある。

「俺の部屋。いろんな呪いが解けたせいで、記憶が流れ込んでキャパオーバーにさせちゃったんじゃないかって……李斗!?」

 俺の頬に一流の涙が伝う。凪紬のエメラルドの瞳と真っ白な髪。もう忘れたくなんてない。

「俺、何回凪紬に恋すれば気が済むんだろうな」
「全部思い出したんだね。でもね、それはこっちの台詞だよ」

 そっとキスを落とす凪紬は、小さく微笑む。

「俺は李斗しか好きになったことしかないのに」
「それは……嫉妬?」

 「まぁ」と答える凪紬に苦笑する。

「呪いがあっても何回でも恋をするよ」

 呪いという言葉を自分で声にし、ハッと思い出した。

「そういえば、ラブさんから聞いたんだけど、天使の呪いは人に危害を加えるのは代償が必要だと言っていた。凪紬は何を代償に呪いをかけたんだ?」
「それは……」
「いや、いい。言いたくなったらでいいよ」
「ごめん」

 凪紬の一瞬、曇った表情に深くは聞けなかった。
 すると、凪紬が俺の手を取る。

「李斗、恋人になってくれますか?」
「当然だろ」
「ありがとう。高校最後一緒に楽しもう」
「うん!」

 まだまだやりたいこと、いっぱいあるんだ。
 止まっていた歯車が、動き出す。



 朝のバイト終わり、俺の身体が心配だからと言って最寄駅で待つ凪紬の元へ急ぐ。駆け足になる俺に朔風が通る。海の天使の声がした。

《本当は言わないつもりだったし凪紬にも言うなって口止めしてたんだけど、ムカつくから伝えにきたわ。これが最後の呪いよ。わたしの感情までバレてしまうから使いたくないんだけど最期だから許してちょうだい》
「な、何の話ですか?」

 呪いという言葉に敏感になるあまり、俺は歩道の真ん中ということも忘れ返事した。そんなことも知らない海の天使は続ける。俺は、近くの公園に向かいながら話を聞く。

《凪紬だけを呼んで話をした時に話していた内容よ。人に危害を加えないから少しの力で使えるけど、こちらが辱めを受けるから呪った側が呪われるみたいな気持ちになるの。だから本当は使いたくないのよ》
「何のことかわからないですけど、自分の感情を恥ずかしいって思わなくていいと思います」
《このガキ……あーあ。疲れたわ。記憶を渡す呪いよ。わたし視点でしか見せてあげられないから凪紬がどう思ってるとかは知らないけど、しっかり見ときなさい》
「はい……」

 ベンチに腰掛け、目を瞑る。

***

 天使には大天使と大々的に呼ばれている天使がいた。その天使と子孫は、自由にする天使の統率を取るために、特別に天使たちを管理する力を授かっていた。
 一人は、海の大天使。海で過ごし、精神を司る。
 一人は、恋の大天使。空の上で過ごし、恋路を司る。
 一人は、命の大天使。地上で過ごし、寿命を司る。

 命の大天使であるわたしは、人間に呪いをかけた罰として地上を禁じられ、海の天使になった。
 海での生活に飽き飽きしていたところにあなたたちが現れた。バカみたいに呪いを使っているバカな天使が現れた。命の大天使としての資格を失ったけれども、完全に海の天使になったわけではない。この世界に生を授かった時から根本の天使の種は変えられないから。
 だから、バカな天使が何を代償にしているのか見抜けることができた。いや、わたしが命の大天使でそれなりの力を持った天使だったからかもしれない。
——わたしのようになってほしくない? いや、そんなことどうだっていいの。
 好きな人と話せない苦しみはわたしも嫌と言うほど味わった。話す言葉はあるのに、振り向いてくれない苦しみ。
——あなたたちは両思いなのに話せないなんて……
——わたしも大概ね。この一瞬で情がうつるなんて。
 花園李斗はわたしたち天使に振り回されているだけで、本来は何も気にすることなく平穏な生活を送るはずだった人間なのだから。血反吐を吐くほど憎むことになった人間の幸せを生きる糧とする天使の役割を、また願うことになるなんて思いもしなかった。
——だから、最期くらい天使らしく……
 気づけば、凪紬に声をかけていた。

《凪紬、耳を貸しな》
『早く李斗のところに戻りたいんですけど……』

——こんなときまで李斗のことばっか。呆れるわ。

《あなたは寿命を引き換えに呪いをかけているね?》
『え……?』

——気づいてなかったなんて、本当にバカよ。

 ただ

 好きな人のために必死になるあなたたちが恨めしかった。
 

《このままだと花園のガキよりも命が短いわ。もう、呪いを繰り返しすぎたせいね。凪紬がガキを好きでも自分に呪いをかけられなくなってるくらいに、寿命がない。こんなことになるまで呪うなんて問題児よ。ほんと、人間に恋をするなんてしょうもないわ》

 ただ

 好きな人に名前で呼ばれているあなたが羨ましかった。

《だから、わたしの全てを使って、あのガキより一秒だけ長く生きれるように》

 呪いをかけよう。

《最期に幸せだったと泣いていられるような呪いを》

 好きになったから、君と恋がしたかった。

***

 海の漣の音と重なるように、映像が途切れる。ゆっくりと瞼を開けると、海の天使の声だけがが頭に響いた。

《またね、花園李斗。できるものなら人間の短い生を1秒でも長く生きてみなさい》

 ”またね”。その声は寂しさではなく、嬉しそうで背中を押された気さえした。
 立ち上がると、大好きな声が俺を呼ぶ。

「あ、ありが……」
《彼が待ってるわ。早く行きなさい》

 俺の言葉を遮る海の天使の声は全く聞こえなくなってしまった。

「李斗」

 ブレザーは手に持っている凪紬は、肩で息をする。なぜ走ってきたのか。その疑問よりも先に凪紬の姿に俺は目を見開いた。
 学校では見せなかった輝くシルクのような髪の毛に、エメラルドの瞳で制服を纏った凪紬がいた。

「凪、紬、なんで……」
「海の天使にこの公園に来いって言われて」
「それもそうだけど……髪も目の色もいいのか?」
「李斗に嘘をつきたくないから」
「……嘘つかれてるなんて思ったことないよ」
「李斗。話しておきたいことがある」

 覚悟をしている凪紬の瞳で、他でもない海の天使との会話のことだろうと推測できた。それならば凪紬の話を一言一句逃さず聞こう。
 そして、目一杯叱ってやる。
 最期に幸せだったと笑えるように——