好きになったから、恋がしたい

 初恋は叶わない。よく聞く言葉。じゃあ、初恋ではないのなら叶うのだろうか。そんなことは考えるだけ無駄だった。
 俺にとっては初恋だろうがなかろう恋が叶う日は来ないから。

 『好きになった人に忘れられる呪い』

 この呪いを思い出しても呪いを解こうだなんて思う日は来ない。
 遠い海の底にあるような曖昧な初恋の記憶を探し当てることも諦めた。

 恋愛が雲の上の存在に思える俺にとって、恋がしたいと呪いを解く日が来るとは到底思えない——そう思っていたのに、コイツだけは諦められないんだ。



 
「ケホッ!」

 乾いた咳が、小さな口から吐き出される。 
「夏風邪かしら?」と、首を傾げながら呟く母。その横に屈み、俺の額に大きな手を当てる父は帰宅するなり靴を脱ぎ捨て飛んできた。

「熱はないみたいだな」

 父の手が少し震えていたことは、微かに覚えている。
 「暫くは、公園遊びもダメよ」と、母に言われた時はひどく反発した。

「やだ! 明日遊ぶって約束しちゃったもん!!」

 遊ぶという約束をした“お兄さん”の約束。実は、一度だけしか会ったことはない。それも数分会っただけだ。

「ダメよ」

 ただの幼い子供のよくあるワガママを重く捉え、怖がるみたいに否定する母はこの時が最初で最後だろう。
 なぜここまでよく知りもしない “お兄さん” の約束を守ろうとしたのか。理由は1つしかなかった。

 好きになったからだ。

 『好きになったら、好きな人に忘れられてしまう呪い』という忌々しい呪いは、幼い俺にとって苦しいという感情を覚えさせた。そして、“お兄さん”が俺の初恋であり、呪いの発動と共に「好き」という感情を覚えさせられた。
 
――「好き」って苦しいんだ。

 俺が”お兄さん”に忘れられたのは呪いのせいだ。
 しかし俺の呪いは不可思議な点があった。俺が好きになった相手に忘れられるはずの呪い。少なくとも俺の家に代々伝わっているのはそうだった。それなのになぜ、忘れるはずではなかった俺まで忘れているのか。その原因を知る由もない。
 思い出を包んだ泡が弾けるように記憶から薄れていく幼い記憶。たったひとつ、心に残っていること。それは、“もう誰とも恋をしたくない”という強い執着。初恋の人の微かな記憶を辿ることもなくなっていた。加えて、忘れられることに恐怖を覚えてしまった俺は人との関わりも希薄になっていった。
 錆びた歯車が噛み合わないみたいに俺の中で、止まる。
――俺だって普通に生きたいのに。



 あれから、8年。中学生の花園李斗(はなぞのりと)は、“もう誰とも恋をしたくない” そう心に誓いながら1秒、1分、ただ1日が過ぎるのを待つ。

「は、花園くん! 体育祭、やりたい競技とかって……ある?」

 話しかけるだけで声が裏返るほど緊張するクラスメイト。
 「ない」と、顔を合わせることなく雑な返事をする俺に返ってくるのは、「なんなの? あいつ」「話しかけないほうがいいよ」という否定的な声の数々。
 学年が上がるごとに周りから人は消え、気を利かせて話しかけていた同級生も誰もいなくなっていた。学校行事も委員会の当番も何もかも俺の意思などなくなりクラスメイトが勝手に決めたもので、俺はそれに対して何か言うこともなかった。
 1枚も写真を撮らずに終えた中学生活にこれで良かったのだと、自分自身に暗示をかける。
 進学も就職も考えていなかった俺に母に「高校までは行ってみなさい」と、押し切られ自分の学力を頼りに決めた高校。最寄駅から3駅ほど電車に揺られた場所にあるそこに入学して2年が経とうとしている今でも、変わらない。1人で過ごし続けるのが日常だ。

 変わったことと言えば、アルバイトを始めたことだ。

「おはようございます」

 お店の豪華な正面玄関とは真逆の少し錆びた小さな戸を開く。人と関わっていなかったとはいえ、軽く挨拶をする程度お手の物になった。
 将来を考えると人と関わらなくなってしまったことには、不安に感じることも少なくなかった。
 進路という岐路に初めて立たされた中学3年生のとき、俺の道の行先が見えず来た道も真っ暗で崖っぷちに立たされている感覚に恐怖を覚えたからだ。人と関わっていなかった俺に何ができるのか何がしたいのか1つも思いつかなかったのだ。

 恋に落ちなければいいとアルバイトを始めたのだ。親は猛反対したが、その反対が俺にとっては、鳥籠から出してもらえない小鳥のように感じた。
 呪いを解こうとは思わない。解く方法を知らないのはもちもんだが、そもそも人と関わるだけでは恋には落ちない。人の数が多ければ多いほど確率が上がるのは言うまでもないが、人に何か思うことがなくなった俺は、謎の自信に満ちていたため人と関わることを決意した。
 せめてアルバイトとして、あまり深く人と関わらず仕事をこなす立場くらい、人と話せるようになり距離感を学ぼうとしたのが始まりだ。そこからはアルバイトを掛け持ちまでするほどにまで心酔している。
 どちらも接客業だ。
 1つは、ホテルのレストランだ。学校から1時間以上の遠く離れたお店。
 大きな全面ガラス張りの壁には夜景が映し出される豪華な内装。俺のアルバイト代では支払えないほどの値段をする食事が提供される。
 もう1つは、地元のパン屋さんだ。早朝はパン屋さん。学校が終わったらレストランと、時間によってアルバイトを変えていた。始めた頃は、体力的にも心配をしていたが、慣れれば充実していると感じられる日々を送っていた。

 今日もホームルームが終わった瞬間に、颯爽と教室を出て学校を後にする。電車に飛び乗ったら、意地でも座って寝ていた。
 制服のブレザーは着ずに深緑色のパーカーを羽織っていたそれをロッカーにしまい、入れ替えるようにクロスタイと黒いベストを身につけ、センターラインがしっかりあるズボンに着替える。ロッカーに貼り付けられた鏡で乱れている箇所がないか丁寧に確認するのは欠かさなかった。
 大きな吊り目は桜色の瞳をよく映した。天然パーマの地毛は目にかからない程度に伸ばされている。
――よし。これならいいだろ。

 店の舞踏会の会場かと思えるほどの眩しい大きなシャンデリアを初めて見た時はその大きさに圧倒された。開放感のあるエントランス。
 その真下で、来店されたお客様の予約の確認と席まで案内までするのが仕事だ。
 平日であることに加え20時をまわると新たに来店する人はグッと減る。立ち仕事がゆえに足にダルさを感じ始めた時無線から入る一通のお客様の到着の知らせ。車を使用して到着すると、事前に知らせが入るのだ。学校終わりの疲れて眠い瞼を必死に開き、気を引き締める。
 程なくすると、両開きの扉がエントランスのスタッフによって、結婚式で新郎新婦が入場するように開かれる。
 1人の男性がのんびりとした歩調で入店してきた。成人男性でも扉の三分の一も届かないような大きな扉だが、その男性は今まで見てきたどの人よりも背が高い。あいにく、俺には持ち合わせてない身長に嫉妬を超えて感動さえ覚えそうだ。
 毛玉1つない白いセーターにしわ1つないズボン。折り曲げた腕にかけられたコートは二つに綺麗に折りたたまれている。
 真っ白な髪は透き通し、サングラスがシャンデリアを反射させる。
 目に映る全てが華やかになり思わず息を呑む。いつもと同じエントランスの新たな一面を見れた気がした。

「いらっしゃいませ」

 美しさに目を奪われ、挨拶をすることさえ忘れるところだったと、内心ヒヤヒヤする。
 しかしそれを悟られないよう語尾は伸ばさず、手は体の横につけ指先までシャンとさせる。丁寧な印象になるようにと言われた挨拶も初めは慣れなかったが今ではそれを感じさせない無駄のない動き。
 学校生活で誰にも話しかけられないようにするために口調が荒くなっていた俺にとっては、初めは修行を彷彿とさせるぐらいだった。
 それでも、アルバイトをしようと自分を奮い立たせたのは、変な執着から逃れたいという反骨精神みたいなものもあったのかもしれない。

 事前に来店を知らせる無線が入るお客様の場合、車の使用だけでなく何度も来店していることを意味していた。いつの間にかエントランスに来ていた支配人が「お久しぶりでございます」などぺこぺこ頭を下げている。
――彼は一体どんなすごい人なんだろうか。
 この店には生体認証のシステムを導入することで、受付やキッチンにまで情報が飛ぶようになっている。生体認証というのは、瞳の虹彩によって判別している。
 サングラスをしているせいでうまく読み取れない。正直、支配人がお客様を知っているとなればこの過程は不要と思われる。だが、その逆にしっかりと本人が分かることで安全を確保していると言えるため、やらないわけにはいけなかった。
 頭ひとつ動かそうとせず、話しかけるなと言わんばかりのオーラを放つ彼をどうしたものかと困惑する。
 エントランスに他の従業員もいて、丁寧に所作に見えたが忙しいことは2年バイトをしているため見て取れた。そのため俺が困っていても、誰かが助けてくれる状況ではないと意を決して声をかける。

「お客様。大変申し訳ないのですが、当店は生体認証でご予約の確認をさせていただいております。つきまして、サングラスの方をとっていただきたいのですが……」

 まっすぐに店内を眺め不機嫌そうな顔で、ゆっくりと俺の方へ首を動かしながら、かけていたサングラスを外した。
 パチリと目が合う。
——わぁ……。
 エメラルドを埋め込んだように鮮麗な翠色の瞳は、真っ白な髪に映えている。昔読んだ絵本の天使がそのまま出てきたようで思わず「きれいだ」と、口に出してしまいそうになる。
 乾燥を知らなそうな艶やかな唇がかすかに動く。

「り……」

――ん? なんか言ったか?
 聞き逃したそれに対応しようとする。

「どうかいたしましたか?」
「いえ」

 すかさず、認証された情報を読み取る。

『20時に2名でご予約の“東崎凪紬(ひがしざきなつむ)様……VIP』

 無線で来店を伝える。

 東崎は、相変わらず無愛想な立ち振る舞いを続けた。それでも、その仕草ひとつひとつに非の打ちどころがなく端麗な容姿をしている。

「ご協力ありがとうございました」

 浅く一礼を終える。すかさずサングラスを顔に戻す東崎に、もったいない気さえする。席まで案内をしようとすると、コツコツと、リズムを刻むヒールの音がエントランスに鳴り響いた。

「待った?」

 真っ赤なドレスを纏った女性が東崎の背後まで来ていた。

「いや。俺も今来たとこだから」

 ほんの少しの段差さえ笑顔で、手を差し伸べる東崎はまるで、王子様を彷彿とさせた。先ほどまでの愛想笑い一つしなかった人物と同じとは誰も思わないほど爽やかな笑顔に鳥肌が立つ。
 差し伸べられた手に細い指を軽やかに乗せる女性は、当たり前かのように歩き出す。
 東崎の不機嫌な態度は一変し、機嫌が良さそうに勝手に先を行く彼らに焦り、小走りで前に割って入り案内する。
 他のお客様が食事をするテーブルとテーブルの間を一瞥し、最奥に佇むVIP専用の部屋の前までたどり着いたところで、案内は終わりだ。
 通常、扉を閉めて終えるのだが東崎の要望から扉を開けたまま部屋を後にした。
 一息つくのも束の間、一歩フロアに出たところでゆらりと影が覆い被さる。
 顔を上げると、そこには、背の高い男性が腰に手を当て、俺の様子を覗っていた。

「1組案内するのに、どんだけ時間かかるんだ? 李斗」
優光(ゆうひ)さん……すみません」
「いくら余裕がある日でも予約時間過ぎてのご来店だ。ご提供できないサービスが発生する可能性だってあることわかってるだろ」
「はい……」

 耳がいたい言葉に自分の行動を振り返る。確かにエントランスでの予約情報の照会に手間取った。それに、予約時間を過ぎての到着であったことも気づきながらも報告を怠った俺の落ち度であると反省する。
 優光さんは、スタッフの人たちの中でも一目置かれている存在である。
 その理由は、先の言葉でも明らかだと思うが、厳しい人というところだ。整った凛とした顔立ちと高い背丈から発せられる毒舌は、厳しいの範囲ではないと言うスタッフもいるというが、俺は優光さんの優しさだと受け取っている。
 それでも、皆怖がりながら話しかけているのをよく見る。
 優光さんが大学生ということもあり、場を仕切る優光さんの言動が年上のバイトや社員は、気に触ることもしばしばあるとかないとか。
 優光さんは喝を入れに来たのか、すぐに去ってしまった。
 俺は俺のことしか考えられていない。この人はよく周りのことが見えている人だ。
 シャンとした背筋の優光さんを見ると、俺も頑張ろうと思える。
 そう思って、歩き出した矢先だった。
 カーペットの床に踏み出した足の爪先を持っていかれ、盛大に顔から転ぶ。
――えっ?

『ドサッ!!』

 大きな音がレストラン中に響く。
 物音を聞きつけた優光さんが小走りで駆けつけ、即座に謝罪をする。

「皆様、大変失礼いたしました。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
「……失礼いたしました」

 恥ずかしさと焦りが同時に押し寄せ、何の言葉もでなくなる。
 優光さんに続いて、謝罪をするので精一杯だった。視線が刺さるほど痛い。下げた頭を上げられないどころか指先一つ動かせない。

「李斗、顔上げろ」

 耳打ちする優光さんに、おずおずと緊張を解く。
 刺さるように一際視線を感じ、首をそちらに向けた。
――あ、VIPの……
 東崎の視線だった。目を細め怒っていると見て取れた。奥歯を噛み締め、足を一歩引く。
 こんな店員がいるとわかり、もうVIPの東崎は来ないかもしれない。ここに来る人は皆、最上級の食事を求めている。その食事の中に接客も含まれていることは確かだ。
 これで東崎が本当に来なくなったら、俺は怒られるだけでは済まされないとぐるぐると思考した。
 そこからの記憶が曖昧なまま呆然とバイトを終え、ロッカールームでバイトの制服から制服に着替える。高級レストランの従業員という変身を解いている途中でドッと疲れが押し寄せ、ロッカーに寄りかかった。
 すると、ロッカールームの扉のノックが意味を出さない速度で開かれる。

「おつかれー」
「……お疲れ様っす!」

 慌ててロッカーから身体を剥がした。
 同じ空間が気まずく、足早にバイト先を後にしようとする。

「お先に失礼します……」

 スマホから目を離さないままの優光さんに向かって会釈をする。

「……待って」
「え?」
「すぐ準備するから……駅まで一緒だろ?」

 優光さんは駅の反対側に住んでいると聞いたことがある。今日のことで怒られるんだと、怖くなるも逃げることもできず諦めて待つことにした。
 程なくすると、優光さんはマフラーを腕にかけたまま「帰るぞ」と、ロッカーの前でぼーっとしていた俺に声をかける。
 外に出ると街の電子温度計は2℃を示していた。
 真冬だが、寒いというのはあまり感じない。街行く人はイルミネーションを見るために周辺の集まっていて人の熱気で暑いくらいだ。
 無言のままの優光さんの隣を歩く。足も心も重しが乗っかっているみたいに、ずっしりと重い。
 横を歩いていることが憂鬱になると、何も話さない優光さんが逆に怖くて、自ら言おうと腹を括った。

「あの、優光さん。今日すんませんした」
「は?」
「俺、転んで……」
「あんなの気にするなよ」

 気にするなと言う優光さんの声は、優しく、本当に気にしていなかったらしい。
 そんな優光に安心したのか、俺は弱々しくなる。

「もう2年経つのに、あんな失敗するなんて。優光さんに何も言われないくらい仕事できるようになったと思ってたのに……」

 俯きざまに言う俺とは対照的に、顔を上げて笑う優光さん。

「あはは!」
「な、なに笑ってるんすか!! こっちは真剣なんすけど!!!!」
「いいや? そんな自信あるならもう大丈夫じゃないか??」

 笑った目をこすりながら言う優光さんに、口を膨らませる。
 すると、不機嫌に俯く俺の背後に回り、俺よりもかなり背の高い優光さんの顎が俺のつむじに乗った。

「ちょ! これ以上チビになったらどうするんすか!」

 俺の抵抗を無視し、頬を両手で挟むと、ぐいっと上に持ち上げると空を見上げさせた。

「うぇっ」
「ほら! 今日は、月が綺麗だぞ。満月だ」

 手のひらに顔が包まれたまま空を見上げる。

「そうっすね……」
「元気出たか?」

 誇らしげな顔をする優光さんに苦笑するしかなかった。

「なんか、すんません」
「だーかーら、あやまんな」

 優光さんの指が長い大きな手が、細くくるくるとした猫っ毛を一層くしゃくしゃにし、また隣を歩き出す。

「わっ! 子供じゃないんですけど……」

 くしゃくしゃになった髪を気持ち程度に直す。

「なんか“お兄さん”みたい」

 ポツリとこぼした言葉に「ははっ。李斗が弟はやだね」と、あっけなく返されてしまった。

「なんか、会った時のこと思い出すなー」

 ドキッと胸が鳴る。本当に“お兄さん”なのかもしれないと思考がよぎったからだ。

「髪の毛、金髪だったじゃん?」
「あ、あー。そっすね」
「李斗が弟なのは嫌だけど、反抗期の弟みたいでかわいいなって」
「な、に言ってるんですか…反抗期みたいってどこにかわいい要素あるんですか」
「その時は生意気だなーって思ったけど、思い返すとかわいいって話」
「意味わかんない……です」

 あっという間に、駅に着く。
 人も多く賑わう大きな駅舎の前。

「あの、お疲れさまです。俺こっちなので」と、軽く会釈をし、足の方向を変える。
 すると、ぐいっと、制服の裾を引っ張られた。

「え?」

 振り返るや否や無言で持っていたマフラーを俺の首に巻かれる。目を丸くしながら、優光さんのゴツゴツした指を追う。されるがままに巻かれたマフラー。

「優光さん、これ……」

 見上げると優光さんの蜂蜜のような透明感のある大きな瞳に吸い込まれそうになる。
 息がかかりそうな距離に思わず息を止めた。
 優光さんは巻き終わったマフラーから手を離す。

「そんな薄着で風邪引くぞ」

 寒さを感じていなかった上に、今から退勤ラッシュの満員電車に乗る以上暑すぎるくらいだ。

「だ、大丈夫ですよ! 歩いて帰る優光さんの方が……!」
「着けといてよ」
 
 外そうとした俺の手に一回り大きい手が重なる。異性はもちろん同性とも手の触れることも無縁な俺は反射的に手を離そうとしたが、ギュッと阻止され諦めた。それに、どこか憂いを帯びた表情を見せる優光さんに抵抗できなかった。

「またね」

 するりと、手を離し俺に背を向けて行ってしまう。
――な、なんなんだよ……。
 戸惑っている間にも、優光さんは人混みに紛れて見えなくなりそうになる。
 歩く優光さんの耳は少し赤く染まっているのが見えた。

――あー! もう!! どうして!
 冷たい空気を吸い込んでまで、大声を出す。

「優光さん!!!!!!」

 周りにいる人の迷惑なんて考えもせず、ただ逃げるようにいなくなる優光さんに届けという一心で叫んだ。

「マフラー! 次のとき返すんで!!」

 俺に背を向けたまま、手を上げひらひらと振った。
 こんなに大きな声を出すのなんて何年振りだろうか。
 大きく吐いた息は真っ白に染まり、それが消える頃には、優光さんの姿は見えなくなっていた。
 俺は、雑に巻かれたマフラーに顔をうずくめた。

「ケホッ」

 俺の頬は高揚し、熱くなっていることは触らずともわかった。
――なんだこれ…なんて言って返せばいいんだよ……
 マフラーを巻かれたまま、電車に乗り込みバラバラと空いている席に座る。バクバクと鳴る心臓の音を感じる。目を閉じると無意識に脳裏では優光さんを思い描いていた。
――優光さんはいつもこうなんだ……
 自分にも他人にも厳しい人。
 俺がバイトに出勤すると大体いつも出勤していた。レストランのホールを歩く優光さんは、背筋をシャンと伸ばし、指の先まで気を使われた動作は、無駄がなかった。いつか、優光さんみたいにかっこよく接客ができるだろうか。と、いつの間にか目で追ってしまっていた。
 いや、その前から意識していたのだろう。
 アルバイトを始めて1回目の出勤で俺は、優光さんに怒られた。

「髪色。直してこいって言ったよな?」

 このレストランの規定では、茶髪が限度だ。それだと言うのに、黄金に輝く俺の髪の毛は店内のシャンデリアにキラキラと照らされる。

「うっす……」

 口を尖らせ言う俺の唇に優光さんの人差し指の先がツンと当たる。

「返事は、“はい”だろーーー」
「はいっす……」

 満足そうに目を細め笑い、唇から指をソッと離すと、仕事の説明に移ったが、内容は、何も入ってこなかった。唇に触れた優光さんの感触が消えない。俺の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
――この人は、いつもこんな距離感なのだろうか。
 そんな感情の答えを見つけるのが怖くて、これは尊敬しているだけだと繰り返し自己暗示した。
 アルバイトを始めて2回目の出勤で、優光さんは優光さん自身に怒っていた。
 周りの人に聞いた話では、オーダーを取り違えていたらしい。
 ロッカールームに入る手前で、優光さんを含むバイトメンバーの話し声が聞こえドアノブにかけた手を離す。

「あぁ! クソ!」
「優光荒れてんなー」
「いつも厳しいから罰当たったんだろ」
「は?」
「ははっ、イケメンがこえー顔してる。冗談だって」

 おつかれ様という声が遠のいていったタイミングを見計らって、扉を開けた。

「怒鳴ってごめんな、怖かっただろ?」

 優光さんが苦笑いして優しく声をかけてくれる。怖くなかったと言えば嘘になる。でも優光さんが声を荒げたことよりも、優光さんのことを悪く言った人たちに腹が立った。それと同時に怖くなった。
――情を持ってはダメだ……恋なら尚更……。

 クラスメイトが悪口を言っていたりするのはもちろん聞いたことはあった。その時は他人事だと無視をしていたけど、優光さんのことを悪く言われた時は言い返したくなった。“ただの嫉妬だろ”って。
 優光さんが言い返さないのも分かってた。だから俺が言わなきゃって勘違いして言い返したくなっただけだって、自分に言い聞かせることで今日までなんとかバイトを続けられてきたんだ。

――それなのに、マフラーなんてズルいだろ……意識しちゃうだろうが……。