雨錆の歯車は静かに回る

 あの激しい雨の夜から、邸宅の空気は静かに、しかし確かに変わり始めていた。



 翌朝、京華は激しい雨に打たれたせいで、酷い熱を出して寝込んでしまった。
 薄暗い寝所で、京華が重い瞼をうっすらと開けると、枕元には意外な人物が座っていた。




「……気がついたか」




 そこにいたのは、いつものお行儀の良い着物姿ではなく、少し着崩した羽織をかけた寅次郎だった。彼の目には、いつもの義務的な「お行儀の良い笑顔」はない。ただ、熱で赤くなった京華の顔を、じっと静かに見つめていた。  



「寅次郎、さん……。どうして、ここに……」


「妻が倒れたんだ。夫が看病するのはおかしなことじゃないだろ」




 寅次郎はそうぶっきらぼうに言うと、枕元に置かれた手桶から手拭いを絞り、京華の熱い額にそっと載せた。その手は、かつて路地裏で自分の手を引いてくれたときと同じ、大きくて、少し骨張った、確かな熱を持った手だった。




「谷垣から聞いた。君が、俺たちのことを……サヨのことを知っていたと」

 寅次郎は、部屋の隅の暗がりを見つめながら、ぽつりと言った。




「君に、あんな顔をして泣かせてしまうまで、気づかなかった。俺は、家を継ぐことへの不満や、サヨとの別れの傷ばかりに気を取られて、隣にいる君を全く見ていなかったな」


「そんな……私のせいで、あなたが……」


 京華が遮ろうとすると、寅次郎はすっと目を細めた。あの路地裏で見せたような、鋭く、けれど今はどこか優しい眼光が、京華の言葉を止める。




「君のせいじゃない。誰も悪くないんだ、京華。この時代に生まれた以上、俺たちの生きる道は最初から決まっていた。それを君一人が背負って泣く必要はない」




 寅次郎はそう言うと、布団の上から、京華の小さな手をそっと包み込んだ。





「すぐにサヨを忘れられる、なんて嘘は言えない。そんな器用な真似、俺にはできないからな。……でも、俺はもう、過去だけを見て生きるのをやめる。君の夫として、君の隣で、ちゃんと前を向くよ」




 言葉の少ない寅次郎が、これほどまでに本音を語ったのは初めてだった。





 京華の目から、熱とは違う涙がまた一筋、枕を濡らした。けれど、その涙はもう、あの雨の日のように冷たくはなかった。