雨錆の歯車は静かに回る

 そんな思いに押しつぶされそうになると、京華は決まって激しい雨の日に外へ飛び出した。

 お菊や谷垣の引き留める声も聞かず、ただ一振りの番傘だけを持って、帝都の街へと駆け出す。






 雨の日が、好きだった。

 バケツをひっくり返したような激しい雨の音は、自分の醜い嗚咽をきれいに消してくれる。容赦なく顔を叩く冷たい雫は、目から溢れて止まらない涙を、誰の目にも触れないよう、静かに誤魔化してくれるから。





 その日も、空は酷く暗く、叩きつけるような豪雨が街を白く染めていた。

 京華は、重い着物の裾を泥で汚しながら、宛てもなく彷徨っていた。すると、見覚えのある路地の軒下で、小さな子供が一人、頭を抱えて激しく震えているのが見えた。


「どうしたの? お家に帰れないの?」

 京華が駆け寄ると、子供は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、コクコクと頷いた。



 京華は迷うことなく、自分が差していた唯一の番傘を、その子の小さな手に握らせた。

「これ、使いなさい。早くお帰り」


 子供は驚いたように京華を見上げ、それから「ありがとう!」と叫んで、雨の中を走り去っていった。



 一人残された京華の頭上に、遮るものは何もなくなった。


 容赦なく打ち付ける豪雨が、一瞬にして京華の髪を、衣服を、芯まで濡らしていく。上質な絹の着物が水を吸って重く身体にまとわりつき、みるみるうちに体温を奪っていった。



(冷たい……。でも、ちょうどいいわ)



 胸の奥の、焼け付くような痛みに比べれば、この凍えるような冷たさなどどうということはなかった。

 水溜りに落ちては激しく弾ける無数の雨粒を見つめながら、京華の目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。




 その時だった。

 頭上を激しく叩いていた雨の音が、不意に、遠ざかった。





 視界を遮るように、目の前に黒い番傘が差し出されている。

 弾かれたように顔を上げると、そこには、肩を大きく上下させ、激しく息を切らせた寅次郎が立っていた。彼の袴の裾も、泥と雨でひどく汚れている。京華を探して、雨の中を遮二無二走り回っていたのは明白だった。




「……何をしている。こんな雨の中で」




 寅次郎の引き結ばれた唇、心配そうに揺れる黒い瞳。



 その姿を見た瞬間、京華の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。




「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、寅次郎さん……!」




 激しい雨音に負けないよう、叫ぶように言葉が溢れ出た。



「私のせいで……私があの時、あなたを見つめてしまっていたせいで、あなたの人生を壊してしまった……! サヨさんと、幸せになるはずだったのに、私がすべてを奪ってしまったの……。本当に、ごめんなさい……!」





 
 初めて口にされた、妻の痛切な本音。

 寅次郎は目を見開いた。彼女がすべてを知っていたこと、および、自分との婚姻をこれほどまでに悔やみ、罪悪感に苛まれてボロボロになっていたことに、今更ながら気づかされたのだ。




 寅次郎も、サヨも、本当は分かっていた。

 この時代に、家を背負う者が恋愛結婚など望めないのだと。長男が倒れた時点で、サヨとの未来が潰えることは覚悟していた。それは決して、目の前で泣きじゃくるこの少女のせいなどではない。







 ばしゃり、と泥水が跳ねる鈍い音がした。

 寅次郎の手に握られていた傘が、地面に投げ出された音だった。 




 二人を等しく、容赦のない激しい雨が叩きつける。




 京華が驚くよりも早く、寅次郎の強い腕が、京華の細い身体を壊しそうなほど強く引き寄せた。





「……もうやめよう」

 耳元で、縋るような、低い声が響いた。





「もうやめよう、やめよう」







 繰り返された言葉は、それだけだった。









 そこには、何の弁明も、これからの約束も、余計な理屈も一切なかった。ただ、濡れるのも構わず、己の腕の中に京華を閉じ込めるように、ただ、ただ強く抱きしめるだけだった。





「寅次郎、さん……」






 寅次郎の身体も、雨に濡れてひどく冷たかった。けれど、触れ合った胸の奥からは、ドクドクと力強い鼓動と、確かな熱が伝わってくる。彼の腕の力が、「お前を離さない」と無言で告げていた。






 言葉は、何もいらなかった。

 確かに、彼の心の中からすぐにサヨが消えることはないのだろう。それでも今、彼は傘を捨て、自分と同じ冷たい雨に打たれながら、この身体を抱きしめることを選んでくれた。その不器用な抱擁が、京華の胸をひどく締め付けた。




 京華は寅次郎の濡れた背中にゆっくりと腕を回し、その肩に顔を埋めて、静かに泣き続けた。