雨錆の歯車は静かに回る

「お嬢様、最近は随分とあの界隈へ足を運ばれますな」



 屋敷への帰り道、一歩後ろを歩く谷垣が、静かに声をかけた。

 京華は一瞬、肩をびくりと揺らしたが、すぐにいつものお転婆な笑みを作って誤魔化そうとした。



「……そう? 珍しい舶来の品がたくさんあって、見ていて飽きないのよ」
「左様でございますか」



 谷垣はそれ以上追及しなかった。だが、その目は騙されなかった。

 京華が物陰から、あの藍色の羽織を着た青年――影森寅次郎を、どれほど切なげに、愛おしそうに見つめていたか。谷垣はすべてを察していた。


 サヨという娘の存在にまでは、谷垣の目は届いていない。ただ、お嬢様が生まれて初めて、買い与えられたものではない『誰か』を心から想っている。その事実だけが、谷垣の胸を強く打った。





(お嬢様は、いつもこの広い屋敷で寂しそうにしていらした。あのように誰かをひたむきに想うお姿など、初めて拝見する……。私は、お嬢様に誰よりも幸せになっていただきたい)




 谷垣にとって、京華の幸せこそがすべてだった。良かれと思って、谷垣はすぐに行動を起こした。影森の家柄を調べ上げ、然るべき筋から、京華の父親である來城家の当主へ話を繋いだのだ。



「――ほう、影森の次男坊か」



 書斎で谷垣からの報告を聞いた父親は、髭を撫でながら満足げに頷いた。

「影森といえば、最近勢いのある家柄だな。京華がその男を好いているというのなら、これ以上の話はあるまい。無理な政略結婚を押し付けるより、娘が望む相手を娶らせる方が、親としても鼻が高いというものだ。よし、この縁談、進めさせよう」



 父親にとっても、これは「娘の願いを叶えてやる良き父」としての満点の選択だった。





 一方、その頃の影森家は、長男が病に倒れたことで暗雲が立ち込めていた。
 
 次男である寅次郎が家を継がねばならないという重圧の中、突然、格上の大華族である來城家から、破格の縁談が舞い込んだのだ。





「まさか、あの來城家から、うちの次男坊に婚姻の話が来るとは……!」






 寅次郎の父親は、驚きと喜びで震えていた。

 影森家は來城家よりも家柄が下である。普通なら、長男が健在であっても到底手の届かない大物との縁談だ。しかも、長男が倒れて急遽跡取りになったばかりの不慣れな次男に、向こうからお嬢様をくださると言う。



「ありがたい話だ。これで影森の家も安泰だ。寅次郎、お前には勿体ないほどのお嬢さんだぞ」



 父親は二つ返事でこの縁談を承諾した。



 大人たちの世界で、誰もが悪意を持たず、むしろ「めでたい話だ」「これで皆が幸せになる」と笑顔で書類に判を捺していく。

 谷垣の純粋な忠義も、京華の父の親心も、影森の父の安堵も、すべてが正しい善意だった。







 ただ、その巨大な歯車が、当人たちのあずかり知らぬところで、もの凄い速さで回り始めていることだけが、あまりにも残酷だった。