雨錆の歯車は静かに回る

 それから、数年の月日が流れた。
 帝都の街はますますハイカラになり、路面電車が走り、洋装の男女が楽しげに行き交う。



 その賑やかな雑踏の中に、二人の姿があった。





「寅次郎さん、見てください! あそこの洋菓子屋、新しい苺のタルトが出たそうですよ」

「おいおい、そんなに急ぐなよ。タルトは逃げやしないさ」





 お転婆な気質がすっかり戻った京華は、鮮やかな矢絣の着物に袴を合わせ、楽しげに歩いている。その後ろを、藍色の羽織を馴染ませた寅次郎が、少し呆れたような、けれどひどく愛おしそうな「ふにゃり」とした笑みを浮かべてついていく。




 二人の距離は、かつてのような形ばかりの冷たいものではなかった。
 寅次郎の手は、自然な動作で京華の小さな手を包み込み、雑踏に流されないようにしっかりと繋がれている。



 確かに、寅次郎の心の奥底には、今でも、あの遠い日に愛した「サヨ」という娘の面影が、綺麗な思い出として仕舞われているのだろう。それは消えることのない、彼の人生の一部だ。




 けれど、今の寅次郎が守るべきもの、そして心から愛し、共に幸せになりたいと願う相手は、目の前で嬉しそうに微笑む「京華」という妻だった。







 ふと、空からポツリ、ポツリと冷たいものが降ってきた。突然の俄か雨だった。



「あら、雨……」




 京華が空を見上げると、寅次郎は手際よく、小脇に抱えていた一本の黒い番傘を開いた。



「ほら、入りな」

「ありがとうございます、寅次郎さん」


 一つの傘の下、二人はお互いの肩が触れ合うほど身を寄せ合う。





 かつて京華にとって、雨は涙を隠すための寂しい逃げ場所だった。

 けれど今、寅次郎の差し出す傘の下は、世界で一番温かく、安心できる場所に変わっていた。




「ねえ、寅次郎さん」
「ん?」
「私、あなたと結婚できて、本当に幸せです」




 まっすぐに見上げてくる京華の綺麗な瞳に、寅次郎は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。



 そして、いつもの眠たげな目を優しく細めると、繋いだ手に、ぎゅっと力を込めた。



「……ああ。俺もだ」



 言葉は、それだけで十分だった。






 雨音に包まれる帝都の街を、二人は一本の傘を分け合いながら、不器用に、けれど確かな足取りで、未来へと歩み続けていくのだった。