――浄血の採取は今日で終わりだよ。
いつかはその時が来ると、分かっていたはずなのに。順調に回復してゆく薫子を見て、終わりはそう遠くない未来だと思いもしていたはずなのに。
けれど、いざその一言を告げられると、足元から崩れ落ちるような衝撃を受けた。分かっていたつもりの言葉が、まさかこんなにも重いものだったなんて。
あの時――もう浄血による治療はお終いだ、と朽葉が口にした、あの時。安堵と喜びの混じった笑顔を浮かべ合う千隼と薫子の傍で、全く別の感情に雁字搦めにされて、ただ無表情のまま二人を眺めているしかできなかった自分は、きっと薄情な女に見えたことだろう。
薫子が無事に治癒したのは、素直に良かったと思う。しかし、理由の分からない胸の痛みから顔を背け、現実を手放しに受け入れることは、どうしても難しかった。
やはり自分は、どこかおかしいのかもしれない。布巾で拭き上げたばかりの皿を見つめながら、椛はそっと溜息を零す。どんなに言い訳を繕おうとも、心から祝えない時点でまともではないのだろう、と。
何処で間違えたのだろう。深入りをするつもりも、馴染むつもりもなかったはずなのに。どうしてこんなにも、考えるほど、胸が引き絞られるように苦しくなるのだろう。朽葉の言葉を聞いてから、ずっと。小さな棘の突き刺さった胸が、じくりじくりと痛み続けている。忘れるな、と。現実と向き合え、と。まるでそう言っているかのように。
そもそも、あやかしにとって結婚とは、ただの契約でしかないはずだ。重要なのは“条件”であって“想い”ではない。千隼とのそれも、双方の利害の一致で結ばれた契であり、それ以上でも以下でもない。
千隼が欲していたのは“浄血”だ。姉を蝕む呪いを消す為に。だから彼は、優しくしてくれた。気を遣ってくれてもいた。それらは、椛自身を想ってのことではなく、あくまで浄血の持ち主として丁重に扱っていただけに過ぎない。
しかし、その浄血はもう不要になってしまった。薫子の快復によって。ならばもう、千隼には何の利益もない。偽りの夫婦という関係を続ける理由が、彼にはもう微塵もないのだ――。
ぱりん、と乾いた音がして、椛は忽ち我に返る。慌てて足元へ視線を落とすと、土間に白い破片が幾つも散らばっていた。夕餉でお浸しを盛った白磁の小鉢が、元の形も分からぬほど、粉々に砕けてしまっている。
すぐに身体が動かなかったのは、散乱する破片が、まるで己の姿と、これまでの日々そのもののように見えたからだ。これから失うもの、壊れゆくもの――。何が壊れるのかは、まだ分からないけれど。
「大丈夫か?」
板戸が開き、心配した面持ちの千隼が姿を覗かせる。そんな大きな音を立てたつもりはなかったが、偶々近くを通りかかっていたのだろうか。
「え、ええ……大丈夫です。すみません、すぐに片付けますので」
そう応えながら急いで腰を屈め、袂を片手で押さえ、もう一方の手を破片へ伸ばす。けれど、指先が触れようとした瞬間、唐突にその手を阻まれた。ぎゅっと、力強く握り締められて。
「素手で触るのはやめておけ。怪我するぞ」
そう言われて漸く、馬鹿な真似をしていたのだと自覚する。箒で掃くべきだと、いつもなら判断できたはずなのに。この家が結界に護られ、千隼や式神が傍にいるとはいえ、浄血を流せばその匂いを辿って妖魔を招く可能性だってあるというのに。どうしてすぐに、そこまで考えが及ばなかったのだろう。
朽葉との遣り取り以降、どうにも頭がぼんやりしているせいだろうか。焼き魚は一部焦がしたし、野菜を茹でる湯も盛大に吹き零してしまった。今日は尽く、何もかもがうまくいかない。
「すみません……」
謝る以外に言葉が浮かばず、椛は唇を噛み締めて、そっと顔を上げる。刹那、あまりにも間近にある千隼の顔が視界いっぱいに広がり、椛ははっと息を呑んだ。いつも見上げてばかりだった紫色の瞳が、今はすぐそこにある。艷やかな白銀の髪も、筋の通った高い鼻も、形の良い唇も。彼を形作るもの全てが。
――身体が無意識に逃げたのなら、それは“本当は生きたい”という、本能の訴えだったのかもしれない。
――素直に受け取っておけば良いと思うが。
妖魔から逃げながらも何故逃げているのか分からなかった、と吐露した時。薫子からの謝辞を持て余している、と打ち明けた時。彼はいつも穏やかに応えてくれた。優しく諭しながらも、決して嫌味ったらしくない口調で。
新しい気付きを与えてくれたその唇で、新しい世界を教えてくれたその声で、もし終止符を打たれたら――。もう幾度目になるか分からない寂寥が頭を擡げ、心臓からすっと熱が消えてゆく。まるで冷水でも浴びせられたみたいに。
いつか終わる関係だったはずなのに、いざ別れが目前に迫ると、何故だかひどく恐ろしくなる。焦燥のようなものが胸の中に渦巻き、思考も言葉も呑み込んで、それに囚われてしまいそうにも。
「具合でも悪いのか?」
訝しげに問われ、椛は咄嗟にかぶりを振る。そうしてやんわりと千隼の手を解いて、ゆっくりと腰を上げた。
「いえ……大丈夫です」
見上げてくる彼の双眸を直視できず、椛はそっと視線を逸らす。危ない、と思った。このまま見つめていれば、声を聞いていれば、頭も心も今以上にぐちゃぐちゃになってしまいそうだ、と。
もう確かめてしまう方が良いのではないだろうか。ぐだぐだと考え込むくらいならば、いっそ自ら話題を振り、己の口で終わらせてしまう方が良いのでは。彼から終止符を打たれるより、よほど。
「あの……」
「何だ」
「……そろそろ、此処を出てゆこうと、思うのですが」
意を決して紡いだ言葉は、あまりにか細く頼りなげで、微かに震えていた。千隼が立ち上がったのが気配で伝わってきたが、椛は反対に、静かに顔を俯ける。彼がどんな表情をしているのかは分からない。でも、それを確かめるのが怖い。笑顔だったらどうしよう。喜んでいたらどうしよう。安堵していたら――。
「私たちは、互いの利の為に契約を結んだだけの関係でしかありません。……ですから、役目を終えればもう、それをいつまでも続けてゆく必要性はありませんし」
当然のことだ、と椛は思う。契は、双方に利があってこそ成り立つものなのだから。故にどちらかが無くなれば、もうその関係は続ける意味を失う。
「あやかしの契は、結んだ時と同じ血を用いて術を施せば解けますので、ご安心下さい」
そう言いながら恐る恐る顔を上げると、彼は眉間に深い皺を刻んでいた。それは怒っているというより、どちらかといえば何かに苦しんでいるかのようで。
「――ひとつ、訊きたいんだが」
僅かな間を置いて、千隼がぽつりと切り出した。
「此処を出ていきたいのは……俺が嫌だからか」
まさか、と言いかけて、椛は既の所で言葉を呑み込む。否定して何になるというのだろう。契は契であり、好きか嫌いかは関係がない。――そうでなければならない。感情は余計なものでしかないのだから。
けれど、そんな当たり前のことを頭の中で繰り返せば繰り返すほど、胸の奥がきゅっと縮んで、張り裂けそうになる。
そんなふうになるのが、もう嫌だった。己が何者か分からなくなる気がして。あやかしが重きを置くのは“条件”であって、“想い”ではない。――だからこそ、この感情の奔流に呑まれるわけにはいかなかった。
千隼の傍にい続ければ、あやかしとしての当たり前が、きっと崩れてしまう――。
「いいえ」
頷くことができれば、どれほど良かっただろう。それが理由なら、どんなに楽だっただろう。そうすれば、ふたりで過ごした記憶も容易く捨てられただろうに。
微かに震える手をぎゅっと握り締めながら、椛はああ――と納得し、静かに瞼を伏せる。今まで目を背けてきたけれど。恐れているのは彼の口から終止符を打たれることではなく、彼の傍にいられなくなることそのものなのだ、と。自ら関係を壊そうとしていながら、心はこんなにもひどく、ずきりずきりと痛んで悲鳴を上げているのだから。
暫し、重苦しい沈黙がふたりを包んだ。椛は唇をきつく引き結び、割れた小鉢の白い破片をじっと見つめる。「分かった」とだけ言ってくれれば良い、と思いながら。しかし胸の何処かでは、何も言わないで、と切に願いもしながら。
やがて、千隼が溜息をついた。
「……困ったな」
まるで途方に暮れてでもいるかのような呟きに、冷たいものがすっと背中を流れ落ちてゆく。椛はゆるゆると瞼を上げ、窺うように、千隼のかんばせを上目で見遣る。彼は僅かに目を逸らし、片手で口元を覆っていた。眉間には、相も変わらず小さな皺が刻まれている。
椛の視線に気付いたのか、ぱっと視線を戻した千隼は口元の手を離し、自嘲とも苦笑ともつかない曖昧な笑みを浮かべた。
「ああ、違うんだ。べつに君がどうというわけではなく、ただ……」
そこで言葉を濁し、彼はどうしたものかと言いたげに眉尻を下げる。考え倦ねているのか、再び短い間が空いた。互いに口を開かず、ただじっと静かに見つめ合う。
「どうすれば君を引き止められるのか……その術を、ずっと考えていた」
呆れを含んだような笑みがふっと零れ、心地の良い夜気の中へ溶けるように消えてゆく。
「だが、全然思いつかなくてな。情けなくも、このままなあなあで遣り過せれば……と思っていたんだが、やはりそううまくはいかないか」
「馬鹿だろう?」と告げながら自嘲を深める千隼を、椛は半ば呆然と見つめる。どうすれば引き止められるか考えていた、と言っただろうか。聞き間違いでなければ。なあなあで遣り過ごせればと思っていた、とも。
何故、と問いかけたいのに、唇が動かない。頭の中は足場が崩れたように、ぐちゃぐちゃだった。困惑以外に何を抱いているのかさえ、判然としない。
「初めは、ただ“浄血の持ち主”という認識でしかなかったのにな。条件以外に、何を望んでもいなかった」
独り言のように、千隼が訥々と語り始める。
「だが、いつからか……そんなことは、どうでも良くなっていた。家に帰れば君がいて、出かければ隣に君がいて。その日常を送る“理由”が、知らぬ間になくなっていたんだ。……いや、なくなったというより、“変わった”と言った方が正しいのだろうが」
そう言って、千隼は微かに目を細めた。どこか遠くへ思いを馳せているような、それを懐かしみつつもほろ苦そうな面持ちで。
「――なあ、椛」
いつにも増して優しさの滲んだ眼差しで見つめられ、椛は息を呑む。瞳を逸らすことが、どうしてもできない。
「俺のことが嫌いでないなら、このままふたりで、この家で暮らさないか」
芯の通った真っ直ぐな声に、椛はじわりと目を見開く。信じられないという思いと、跳ね上がった心臓の熱のせいで、言葉が見つからなかった。
「わ、たしは……」
声が、喉に詰まる。どうして。どうして、そんな――。
「私は、あやかしです」
「そうだな。君はれっきとした鬼だ」
今まで両親にさえ認められなかったことを、千隼は平然と肯定する。それ以外にないだろう、というきっぱりとした口調で。
「浄血も、もう必要ありません」
「そうだな。君のおかげで、姉上は呪いから解放された」
「ですから……」
「君が鬼だろうが人間だろうが、浄血の持ち主だろうが、そんなものはもう関係ない。俺が知りたいのはあやかしの掟でも常識でもなく――君がどうしたいか、その本心だけだ」
大事なのは、君の心だ――。そう言われ、椛はくしゃりと顔を歪め、震える両手で着物の袖を握り締めた。千隼に買ってもらった、彼の瞳に合う藤色の着物。
「今まで通り一緒にいられれば、良いのだろうと、思います。けれど――」
掠れた声が、引き攣った唇の間から漏れる。これからも隣にいることが許されるのなら、嬉しい。楽しい。きっと心穏やかにいられる。でも――。
「私には、分からないのです。……何故そう思うのかが」
椛は零れそうになる何かを堪え、そっと息を吐く。そんな彼女に、千隼は大きく目を瞬かせ、暫し動きをとめた。
「それは……」
やがて彼はぽつりと呟くと、ひとりでに納得したのか、ふわりと頬を綻ばせて小さく笑った。どこかほっとしたような軽やかさで。
「今はそれで良いさ」
ゆっくりとひとつ瞬いて、千隼は静かに伸ばした手で椛の頭に触れた。髪の隙間から、彼の心地良い温もりがじんわりと伝わってくる。それが一層、椛の心を震わせた。
この人はいつだってそうだ、と思う。決して否定をしようとしない。どんな生い立ちであれ、どんな存在であれ、ありのままを受け入れようとしてくれる。
そんな彼の言葉に、優しさに、心を攫われそうになる。――否、本当は随分と前から、もう攫われてしまっているのかもしれない。彼に終わりを告げられることが怖い、と思ってしまっている時点で。
「感情に名前をつけるのは、まだしなくて良い。ただ、傍にいたいと思うなら、それで十分だ」
徐に動いた指先が流れるように髪を梳き、毛先を掬い上げる。そのままそっと、千隼は唇を寄せた。まるで壊れ物にでも触れるかのように、慎重に。けれど、どこか悪戯っぽく口角を持ち上げて。
「これから俺と、ゆっくり知ってゆけば良いさ」
小さく首を傾けた千隼の色っぽく輝く紫色の瞳に、思わず胸の奥が甘く疼く。忽ち頬が焼けるように熱を孕んでゆくのを感じて、椛は狼狽えたように、慌ただしく顔を背けた。どこを見れば良いのか、分からない。心臓がずっとうるさく鳴っていて、ちっとも落ち着いてくれない。
そんな彼女の視界に、ふと、見覚えのある赤い花が映り込んだ。細い茎と、花火のように広がる赤い花弁。季節はまだまだ先だというのに、その花は硝子窓の向こう側で、夜風に揺れながら静かに咲いていた。あの時のような、濃く甘い血の匂いは纏わずに。ただの美しい、一輪の彼岸花として。
いつかはその時が来ると、分かっていたはずなのに。順調に回復してゆく薫子を見て、終わりはそう遠くない未来だと思いもしていたはずなのに。
けれど、いざその一言を告げられると、足元から崩れ落ちるような衝撃を受けた。分かっていたつもりの言葉が、まさかこんなにも重いものだったなんて。
あの時――もう浄血による治療はお終いだ、と朽葉が口にした、あの時。安堵と喜びの混じった笑顔を浮かべ合う千隼と薫子の傍で、全く別の感情に雁字搦めにされて、ただ無表情のまま二人を眺めているしかできなかった自分は、きっと薄情な女に見えたことだろう。
薫子が無事に治癒したのは、素直に良かったと思う。しかし、理由の分からない胸の痛みから顔を背け、現実を手放しに受け入れることは、どうしても難しかった。
やはり自分は、どこかおかしいのかもしれない。布巾で拭き上げたばかりの皿を見つめながら、椛はそっと溜息を零す。どんなに言い訳を繕おうとも、心から祝えない時点でまともではないのだろう、と。
何処で間違えたのだろう。深入りをするつもりも、馴染むつもりもなかったはずなのに。どうしてこんなにも、考えるほど、胸が引き絞られるように苦しくなるのだろう。朽葉の言葉を聞いてから、ずっと。小さな棘の突き刺さった胸が、じくりじくりと痛み続けている。忘れるな、と。現実と向き合え、と。まるでそう言っているかのように。
そもそも、あやかしにとって結婚とは、ただの契約でしかないはずだ。重要なのは“条件”であって“想い”ではない。千隼とのそれも、双方の利害の一致で結ばれた契であり、それ以上でも以下でもない。
千隼が欲していたのは“浄血”だ。姉を蝕む呪いを消す為に。だから彼は、優しくしてくれた。気を遣ってくれてもいた。それらは、椛自身を想ってのことではなく、あくまで浄血の持ち主として丁重に扱っていただけに過ぎない。
しかし、その浄血はもう不要になってしまった。薫子の快復によって。ならばもう、千隼には何の利益もない。偽りの夫婦という関係を続ける理由が、彼にはもう微塵もないのだ――。
ぱりん、と乾いた音がして、椛は忽ち我に返る。慌てて足元へ視線を落とすと、土間に白い破片が幾つも散らばっていた。夕餉でお浸しを盛った白磁の小鉢が、元の形も分からぬほど、粉々に砕けてしまっている。
すぐに身体が動かなかったのは、散乱する破片が、まるで己の姿と、これまでの日々そのもののように見えたからだ。これから失うもの、壊れゆくもの――。何が壊れるのかは、まだ分からないけれど。
「大丈夫か?」
板戸が開き、心配した面持ちの千隼が姿を覗かせる。そんな大きな音を立てたつもりはなかったが、偶々近くを通りかかっていたのだろうか。
「え、ええ……大丈夫です。すみません、すぐに片付けますので」
そう応えながら急いで腰を屈め、袂を片手で押さえ、もう一方の手を破片へ伸ばす。けれど、指先が触れようとした瞬間、唐突にその手を阻まれた。ぎゅっと、力強く握り締められて。
「素手で触るのはやめておけ。怪我するぞ」
そう言われて漸く、馬鹿な真似をしていたのだと自覚する。箒で掃くべきだと、いつもなら判断できたはずなのに。この家が結界に護られ、千隼や式神が傍にいるとはいえ、浄血を流せばその匂いを辿って妖魔を招く可能性だってあるというのに。どうしてすぐに、そこまで考えが及ばなかったのだろう。
朽葉との遣り取り以降、どうにも頭がぼんやりしているせいだろうか。焼き魚は一部焦がしたし、野菜を茹でる湯も盛大に吹き零してしまった。今日は尽く、何もかもがうまくいかない。
「すみません……」
謝る以外に言葉が浮かばず、椛は唇を噛み締めて、そっと顔を上げる。刹那、あまりにも間近にある千隼の顔が視界いっぱいに広がり、椛ははっと息を呑んだ。いつも見上げてばかりだった紫色の瞳が、今はすぐそこにある。艷やかな白銀の髪も、筋の通った高い鼻も、形の良い唇も。彼を形作るもの全てが。
――身体が無意識に逃げたのなら、それは“本当は生きたい”という、本能の訴えだったのかもしれない。
――素直に受け取っておけば良いと思うが。
妖魔から逃げながらも何故逃げているのか分からなかった、と吐露した時。薫子からの謝辞を持て余している、と打ち明けた時。彼はいつも穏やかに応えてくれた。優しく諭しながらも、決して嫌味ったらしくない口調で。
新しい気付きを与えてくれたその唇で、新しい世界を教えてくれたその声で、もし終止符を打たれたら――。もう幾度目になるか分からない寂寥が頭を擡げ、心臓からすっと熱が消えてゆく。まるで冷水でも浴びせられたみたいに。
いつか終わる関係だったはずなのに、いざ別れが目前に迫ると、何故だかひどく恐ろしくなる。焦燥のようなものが胸の中に渦巻き、思考も言葉も呑み込んで、それに囚われてしまいそうにも。
「具合でも悪いのか?」
訝しげに問われ、椛は咄嗟にかぶりを振る。そうしてやんわりと千隼の手を解いて、ゆっくりと腰を上げた。
「いえ……大丈夫です」
見上げてくる彼の双眸を直視できず、椛はそっと視線を逸らす。危ない、と思った。このまま見つめていれば、声を聞いていれば、頭も心も今以上にぐちゃぐちゃになってしまいそうだ、と。
もう確かめてしまう方が良いのではないだろうか。ぐだぐだと考え込むくらいならば、いっそ自ら話題を振り、己の口で終わらせてしまう方が良いのでは。彼から終止符を打たれるより、よほど。
「あの……」
「何だ」
「……そろそろ、此処を出てゆこうと、思うのですが」
意を決して紡いだ言葉は、あまりにか細く頼りなげで、微かに震えていた。千隼が立ち上がったのが気配で伝わってきたが、椛は反対に、静かに顔を俯ける。彼がどんな表情をしているのかは分からない。でも、それを確かめるのが怖い。笑顔だったらどうしよう。喜んでいたらどうしよう。安堵していたら――。
「私たちは、互いの利の為に契約を結んだだけの関係でしかありません。……ですから、役目を終えればもう、それをいつまでも続けてゆく必要性はありませんし」
当然のことだ、と椛は思う。契は、双方に利があってこそ成り立つものなのだから。故にどちらかが無くなれば、もうその関係は続ける意味を失う。
「あやかしの契は、結んだ時と同じ血を用いて術を施せば解けますので、ご安心下さい」
そう言いながら恐る恐る顔を上げると、彼は眉間に深い皺を刻んでいた。それは怒っているというより、どちらかといえば何かに苦しんでいるかのようで。
「――ひとつ、訊きたいんだが」
僅かな間を置いて、千隼がぽつりと切り出した。
「此処を出ていきたいのは……俺が嫌だからか」
まさか、と言いかけて、椛は既の所で言葉を呑み込む。否定して何になるというのだろう。契は契であり、好きか嫌いかは関係がない。――そうでなければならない。感情は余計なものでしかないのだから。
けれど、そんな当たり前のことを頭の中で繰り返せば繰り返すほど、胸の奥がきゅっと縮んで、張り裂けそうになる。
そんなふうになるのが、もう嫌だった。己が何者か分からなくなる気がして。あやかしが重きを置くのは“条件”であって、“想い”ではない。――だからこそ、この感情の奔流に呑まれるわけにはいかなかった。
千隼の傍にい続ければ、あやかしとしての当たり前が、きっと崩れてしまう――。
「いいえ」
頷くことができれば、どれほど良かっただろう。それが理由なら、どんなに楽だっただろう。そうすれば、ふたりで過ごした記憶も容易く捨てられただろうに。
微かに震える手をぎゅっと握り締めながら、椛はああ――と納得し、静かに瞼を伏せる。今まで目を背けてきたけれど。恐れているのは彼の口から終止符を打たれることではなく、彼の傍にいられなくなることそのものなのだ、と。自ら関係を壊そうとしていながら、心はこんなにもひどく、ずきりずきりと痛んで悲鳴を上げているのだから。
暫し、重苦しい沈黙がふたりを包んだ。椛は唇をきつく引き結び、割れた小鉢の白い破片をじっと見つめる。「分かった」とだけ言ってくれれば良い、と思いながら。しかし胸の何処かでは、何も言わないで、と切に願いもしながら。
やがて、千隼が溜息をついた。
「……困ったな」
まるで途方に暮れてでもいるかのような呟きに、冷たいものがすっと背中を流れ落ちてゆく。椛はゆるゆると瞼を上げ、窺うように、千隼のかんばせを上目で見遣る。彼は僅かに目を逸らし、片手で口元を覆っていた。眉間には、相も変わらず小さな皺が刻まれている。
椛の視線に気付いたのか、ぱっと視線を戻した千隼は口元の手を離し、自嘲とも苦笑ともつかない曖昧な笑みを浮かべた。
「ああ、違うんだ。べつに君がどうというわけではなく、ただ……」
そこで言葉を濁し、彼はどうしたものかと言いたげに眉尻を下げる。考え倦ねているのか、再び短い間が空いた。互いに口を開かず、ただじっと静かに見つめ合う。
「どうすれば君を引き止められるのか……その術を、ずっと考えていた」
呆れを含んだような笑みがふっと零れ、心地の良い夜気の中へ溶けるように消えてゆく。
「だが、全然思いつかなくてな。情けなくも、このままなあなあで遣り過せれば……と思っていたんだが、やはりそううまくはいかないか」
「馬鹿だろう?」と告げながら自嘲を深める千隼を、椛は半ば呆然と見つめる。どうすれば引き止められるか考えていた、と言っただろうか。聞き間違いでなければ。なあなあで遣り過ごせればと思っていた、とも。
何故、と問いかけたいのに、唇が動かない。頭の中は足場が崩れたように、ぐちゃぐちゃだった。困惑以外に何を抱いているのかさえ、判然としない。
「初めは、ただ“浄血の持ち主”という認識でしかなかったのにな。条件以外に、何を望んでもいなかった」
独り言のように、千隼が訥々と語り始める。
「だが、いつからか……そんなことは、どうでも良くなっていた。家に帰れば君がいて、出かければ隣に君がいて。その日常を送る“理由”が、知らぬ間になくなっていたんだ。……いや、なくなったというより、“変わった”と言った方が正しいのだろうが」
そう言って、千隼は微かに目を細めた。どこか遠くへ思いを馳せているような、それを懐かしみつつもほろ苦そうな面持ちで。
「――なあ、椛」
いつにも増して優しさの滲んだ眼差しで見つめられ、椛は息を呑む。瞳を逸らすことが、どうしてもできない。
「俺のことが嫌いでないなら、このままふたりで、この家で暮らさないか」
芯の通った真っ直ぐな声に、椛はじわりと目を見開く。信じられないという思いと、跳ね上がった心臓の熱のせいで、言葉が見つからなかった。
「わ、たしは……」
声が、喉に詰まる。どうして。どうして、そんな――。
「私は、あやかしです」
「そうだな。君はれっきとした鬼だ」
今まで両親にさえ認められなかったことを、千隼は平然と肯定する。それ以外にないだろう、というきっぱりとした口調で。
「浄血も、もう必要ありません」
「そうだな。君のおかげで、姉上は呪いから解放された」
「ですから……」
「君が鬼だろうが人間だろうが、浄血の持ち主だろうが、そんなものはもう関係ない。俺が知りたいのはあやかしの掟でも常識でもなく――君がどうしたいか、その本心だけだ」
大事なのは、君の心だ――。そう言われ、椛はくしゃりと顔を歪め、震える両手で着物の袖を握り締めた。千隼に買ってもらった、彼の瞳に合う藤色の着物。
「今まで通り一緒にいられれば、良いのだろうと、思います。けれど――」
掠れた声が、引き攣った唇の間から漏れる。これからも隣にいることが許されるのなら、嬉しい。楽しい。きっと心穏やかにいられる。でも――。
「私には、分からないのです。……何故そう思うのかが」
椛は零れそうになる何かを堪え、そっと息を吐く。そんな彼女に、千隼は大きく目を瞬かせ、暫し動きをとめた。
「それは……」
やがて彼はぽつりと呟くと、ひとりでに納得したのか、ふわりと頬を綻ばせて小さく笑った。どこかほっとしたような軽やかさで。
「今はそれで良いさ」
ゆっくりとひとつ瞬いて、千隼は静かに伸ばした手で椛の頭に触れた。髪の隙間から、彼の心地良い温もりがじんわりと伝わってくる。それが一層、椛の心を震わせた。
この人はいつだってそうだ、と思う。決して否定をしようとしない。どんな生い立ちであれ、どんな存在であれ、ありのままを受け入れようとしてくれる。
そんな彼の言葉に、優しさに、心を攫われそうになる。――否、本当は随分と前から、もう攫われてしまっているのかもしれない。彼に終わりを告げられることが怖い、と思ってしまっている時点で。
「感情に名前をつけるのは、まだしなくて良い。ただ、傍にいたいと思うなら、それで十分だ」
徐に動いた指先が流れるように髪を梳き、毛先を掬い上げる。そのままそっと、千隼は唇を寄せた。まるで壊れ物にでも触れるかのように、慎重に。けれど、どこか悪戯っぽく口角を持ち上げて。
「これから俺と、ゆっくり知ってゆけば良いさ」
小さく首を傾けた千隼の色っぽく輝く紫色の瞳に、思わず胸の奥が甘く疼く。忽ち頬が焼けるように熱を孕んでゆくのを感じて、椛は狼狽えたように、慌ただしく顔を背けた。どこを見れば良いのか、分からない。心臓がずっとうるさく鳴っていて、ちっとも落ち着いてくれない。
そんな彼女の視界に、ふと、見覚えのある赤い花が映り込んだ。細い茎と、花火のように広がる赤い花弁。季節はまだまだ先だというのに、その花は硝子窓の向こう側で、夜風に揺れながら静かに咲いていた。あの時のような、濃く甘い血の匂いは纏わずに。ただの美しい、一輪の彼岸花として。

