よく似ている、と思った。切れ長の瞳も、真っ直ぐに伸びた髪も。色さえ違わなければ、瓜二つと言えるくらいによく似ている、と。
「私は恵まれているわね。貴女という奇跡に出会えたんですもの」
姉弟というのはこういうものなのだろうか。そう考えながら、椛は眼前に横たわる女の、優しく綻んだ顔を見つめる。造りが同じであるからか、笑った様も千隼によく似ていた。双子と言われても違和感はないほどに。
薫子が目を覚ましたとの一報を受けたのは、血の量を増やしてから幾許か経ってのことだった。
昏睡が長く続いたせいで、目覚めて暫くは意識が混濁し、会話もままならなかったが、今では随分と快方している。あの死人のようだった姿は、もうどこにもない。青白かった肌には血色が差し、乾いた唇には潤いが満ち、虚ろだった瞳には輝きが宿っている。身体を起こすことこそまだ難しいものの、周りが舌を巻くほどの早さで、彼女は元来の美しさを取り戻しつつあった。
「本当に、どれだけお礼をしてもし尽くせないわ」
笑みを深める薫子に曖昧な反応を返しながら、椛は、彼女の片手に包み込まれた己の手へと視線を落とす。
見舞いにくる度、薫子は幾度も繰り返し礼を告げる。貴女のおかげで命が救われた、と。そしてその後には決まって、採血の傷をつけることを詫びもする。ごめんなさいね、と眉尻を下げて。
そうされる度、椛は言いようのない当惑に襲われた。誰かに感謝されたことなど、里では経験がなかったからだ。生きているだけで疎まれる存在だったのだから、役に立つことも、礼を言われることも、謝られることさえ一度もない。
産まれてこなければ良かった、ただの穀潰しだ、妖力のない奴に価値はない――幾度もそう言われ、故に己はそういう存在なのだと思い続けてきた。中途半端で、厄介で、無用な生き物なのだと。
だからだろうか。礼を告げられる度、謝罪を口にされる度、妙に胸がざわつくのは。くすぐったいと言えば良いのだろうか。それとも、落ち着かないと言えば良いのだろうか。兎も角、今までに得たことのない何かが押し寄せ、じんわりと胸の奥に染み込んで、仄かな熱を残して消えてゆく。その正体は、未だによく分からない。
「素直に受け取っておけば良いと思うが」
診療所を辞し、大路を肩を並べて歩みながら、千隼は穏やかに表情を綻ばせる。薫子からの謝辞を持て余していると吐露した椛への、それは彼なりの助言だった。
「……そういうものでしょうか」
よく分からない、と眉根を寄せる椛に、千隼はくすりと笑い声を零す。そんな彼を横目でちらりと見上げると、温かく和らいだ紫色の瞳とかち合った。
まさか視線が交わるとは思ってもおらず、椛はそそくさと目を逸らす。気の所為だろうか。最近よく千隼と目が合うのは。話している時だけではない。本当に何気ない拍子に、まるで示し合わせたかのように視線が絡むような気がするのだ。
寧ろそういう一瞬の方が多いのではないだろうか。
眉間の皺を深めながら胸の内で溜息を吐いていると、ふと視界の端に、大きな人集りが映り込んだ。大路の中でも一際立派な辻の一角を埋め尽くすように、それはみっしりと広がっている。
気になって視線を遣ると、そこはいつにも増して華やかで騒々しい空気に包まれていた。色とりどりの提灯、軒を連ねる屋台、豪華な山車、喧騒に紛れて聞こえる篠笛や太鼓の音色。
「そういえば、今日から大祭だったな」
「大祭……?」
「帝都一の祭だ。数日は何処もこの調子だろう」
夜には花火も上がる、という説明に、里で毎年見ていたそれを思い出す。人間に扮するのが上手い者は嬉々として出かけていたが、自由のなかった椛にそれが許されるはずもなく。里の端からひっそりと眺めていたのが、今となっては懐かしい。
「観に行くか?」
「えっ」
不意に問われ、椛は思わず頓狂な声を零す。行きたそうな顔でもしていたのか、と意識を寄せて確かめてみるが、眉根も和らいだそこは至って普段通りだ。
「祭は初めてだろう?」
「……言った覚えはないのですが」
「そういう顔をしていた」
くつりと笑った千隼を一瞥し、椛は右手で頬に触れる。どうせ口から出任せなのだろうが、完全に否定しきれないくらいには、祭に興味がないわけでもなかった。
しかし、路を埋め尽くす人波を見ていると、素直に頷くのは躊躇われる。彼は今朝任務から帰ってきたばかりだ。一睡もせず疲労が残っているだろう千隼を、人でごった返す場所に付き合わせたくはなかった。
「いえ……今日はもう、早く戻って休んだ方が宜しいかと。お疲れでしょうから」
「気にするな。そんなことより――」
唐突に、言葉が途切れた。息を呑むような気配がして、椛は訝しく思いながら傍らを見上げる。千隼は何故か呆気に取られたような顔で、切れ長の目をぱちりと瞬かせていた。
「どうかしたのですか?」
「いや……」
千隼は右手で口元を覆うと、それきり言葉を濁した。時が経つにつれ、瞬いていた目はじわりじわりと見開かれ、紫色の瞳が、真昼の陽光の下に晒される。そこには戸惑いや動揺が滲んで見え、椛は再び眉根を寄せて小首を傾げた。
何か気に触ることでも口にしただろうか。そんなつもりは露ほどもなかったのだけれど。
しかし彼は、暫く呆然と立ち尽くしていた。どうして、と言いたげな面持ちで。それが一層、状況を分からなくする。そんなことこちらの方が訊きたい、と思うほど。
やがて千隼は咳払いをすると、ふいと顔を背けた。そうして、唐突に伸びてきた彼の手が、椛の右手を掴む。何をするにも必ず事前に了承をとる彼にしては珍しく、強引に。
「あ、あのっ」
訳が分からず狼狽える椛をよそに、千隼はずんずんと歩き出した。つられて、椛の足もまろぶように前へ進む。浮き立った人の群れの方へ向かって、一歩、また一歩と。
「俺の息抜きに、少し付き合ってくれないか」
ちらと肩越しに一瞥を向けられ、椛は口にしかけた言葉を忽ち見失う。狡い、と思った。「君の為」と言われれば幾らでも断れたが、「俺の為」と挿げ替えられては、どうにも無下にできない。分かっていてやっているのなら、尚の事。つくづく、食えない人だと思う。
群衆の中へ踏み入ると、そこは華やかな活気に溢れていた。風車を手にした子ども、鳳凰を形作る細工飴師、大傘を回す大道芸人。そぞろ歩く人々も、路の脇に並ぶ屋台も、目が奪われるほど実に様々だ。
けれど、それ以上に――。屋台へ向けていた目を右手に落とし、椛は妙に騒がしい鼓動を抑え込むように唇を噛み締める。道行く人々にも、目新しい屋台にも興味は惹かれるのに、それ以上にどうしても右手へ意識が集中してしまう。人の肌とは、こんなにも熱かっただろうか。男の手とは、こんなにも大きいものだったのか。
他人の手の感触など、ただ痛いだけのものでしかなかった。殴られるか、叩かれるか、鷲掴みにされるか。だからずっと、誰かに触れられることを嫌悪していたはずなのに。不快でしかなかったのに。――右手を握る彼の手は、不思議と嫌ではなかった。
その事実に一層どぎまぎとしてしまい、椛は気を紛らわせようと周りの屋台へ視線を向ける。
そこでふと、彼女の目はある一点に吸い寄せられた。自然と、歩みがとまる。軒先に提げられた朱色の提灯、屋号が染め抜かれた古い暖簾。それは小間物屋のようで、台の上には簪や櫛といった品々が所狭しと並べられている。
その中のひとつに釘付けになっていると、不意に腰に何かが触れ、椛はびくりと身体を強張らせた。それが、いつの間にか離された千隼の手だと気付くと、何故か心臓がどくりと跳ね上がる。
「後ろ、危ないぞ」
「え、ええ……」
どうやら通りを行き交う人にぶつからないよう、庇ってくれたらしい。そうと分かっても鼓動は早まるばかりで、声が不自然と震える。怖いわけでも痛いわけでもないのに、いったいどうしたというのだろう。
病気にでも罹ったのか、と有り得ないことまで考えるほどおろおろしていると、丸椅子に腰掛けた老齢の店主と視線が交わった。皺の刻まれた目元を穏やかに綻ばせ、彼は煙管から口を離し、細く煙を吐く。
「お目が高いねえ、お嬢さん」
店主は灰落しで煙管を叩くと、幾つも並ぶ装身具の中から一本の簪を手に取った。黒漆の艷やかな一本足の軸、その先端に据えられた美しい紫色の玉。
どうしてそれだと分かったのだろう。差し出された簪と店主の顔を交互に見遣りながら、椛は困惑しつつ思う。他にもたくさんの簪があったというのに、何故その玉簪だと気付いたのだろう。
「紫がお好きかい?」
意味深な問いに、どう返したものかと言葉を探していると、ほんの一瞬、横顔に視線が落とされたのを感じた。そのせいで、否が応でも、あの澄んだ紫色の瞳が脳裏に蘇る。
「なら、それを頂こうか」
「ちょ、ちょっと待って下さいっ」
店主の提示した金額をあっさり払おうとする千隼を、椛は慌てて引き止める。
「簪は、今あるものだけで十分ですから」
しかし、椛の制止には一切聞く耳を持たず、彼はさらりと支払いを済ませ、店主から受け取った簪を椛へと差し出した。日陰から姿を現した紫色の玉が、陽光を浴びて小さな光の粒を湛えている。
「言っただろう。俺の息抜きに付き合ってくれ、と」
「……買っていただいたのは、私の方なのですが」
「君を甘やかすのは、俺にとって十分な“息抜き”だ」
そう言って、千隼はくすりと笑った。心底楽しそうに。それでいて、どこか嬉しそうにも。
暫くの間、椛は簪と千隼を交互に見遣っていたが、やがてひとつ溜息を吐いて、髪をまとめていた簪を引き抜いた。刹那、彼が動きをとめる。しかし椛は気に留めることなく差し出された簪を受け取ると、再び髪をまとめ上げ、今度は買ったばかりのそれを挿し込んだ。
なんだか癪だな、と思った。やはり狡い男だ、とも。だからこそ、仕返しをしたくなった。息抜きだ、と言うのなら。
「これで、如何でしょうか」
そう言いながら千隼の双眸を見据えると、彼は面食らったように目を大きく瞬かせ――それから、ふっと吐息を零すように笑った。先程よりもずっと優しく、満ち足りたように。
「よく似合っている」
あと幾度、この笑顔を見られるのだろう――。唐突に過った何かが、ぎゅっと胸を締め付ける。馴染むつもりなどなかったはずなのに。この笑顔もいつか遠い記憶の底へ沈むのかと思うと、心の何処かがじくりと重く痛むような気がした。
「私は恵まれているわね。貴女という奇跡に出会えたんですもの」
姉弟というのはこういうものなのだろうか。そう考えながら、椛は眼前に横たわる女の、優しく綻んだ顔を見つめる。造りが同じであるからか、笑った様も千隼によく似ていた。双子と言われても違和感はないほどに。
薫子が目を覚ましたとの一報を受けたのは、血の量を増やしてから幾許か経ってのことだった。
昏睡が長く続いたせいで、目覚めて暫くは意識が混濁し、会話もままならなかったが、今では随分と快方している。あの死人のようだった姿は、もうどこにもない。青白かった肌には血色が差し、乾いた唇には潤いが満ち、虚ろだった瞳には輝きが宿っている。身体を起こすことこそまだ難しいものの、周りが舌を巻くほどの早さで、彼女は元来の美しさを取り戻しつつあった。
「本当に、どれだけお礼をしてもし尽くせないわ」
笑みを深める薫子に曖昧な反応を返しながら、椛は、彼女の片手に包み込まれた己の手へと視線を落とす。
見舞いにくる度、薫子は幾度も繰り返し礼を告げる。貴女のおかげで命が救われた、と。そしてその後には決まって、採血の傷をつけることを詫びもする。ごめんなさいね、と眉尻を下げて。
そうされる度、椛は言いようのない当惑に襲われた。誰かに感謝されたことなど、里では経験がなかったからだ。生きているだけで疎まれる存在だったのだから、役に立つことも、礼を言われることも、謝られることさえ一度もない。
産まれてこなければ良かった、ただの穀潰しだ、妖力のない奴に価値はない――幾度もそう言われ、故に己はそういう存在なのだと思い続けてきた。中途半端で、厄介で、無用な生き物なのだと。
だからだろうか。礼を告げられる度、謝罪を口にされる度、妙に胸がざわつくのは。くすぐったいと言えば良いのだろうか。それとも、落ち着かないと言えば良いのだろうか。兎も角、今までに得たことのない何かが押し寄せ、じんわりと胸の奥に染み込んで、仄かな熱を残して消えてゆく。その正体は、未だによく分からない。
「素直に受け取っておけば良いと思うが」
診療所を辞し、大路を肩を並べて歩みながら、千隼は穏やかに表情を綻ばせる。薫子からの謝辞を持て余していると吐露した椛への、それは彼なりの助言だった。
「……そういうものでしょうか」
よく分からない、と眉根を寄せる椛に、千隼はくすりと笑い声を零す。そんな彼を横目でちらりと見上げると、温かく和らいだ紫色の瞳とかち合った。
まさか視線が交わるとは思ってもおらず、椛はそそくさと目を逸らす。気の所為だろうか。最近よく千隼と目が合うのは。話している時だけではない。本当に何気ない拍子に、まるで示し合わせたかのように視線が絡むような気がするのだ。
寧ろそういう一瞬の方が多いのではないだろうか。
眉間の皺を深めながら胸の内で溜息を吐いていると、ふと視界の端に、大きな人集りが映り込んだ。大路の中でも一際立派な辻の一角を埋め尽くすように、それはみっしりと広がっている。
気になって視線を遣ると、そこはいつにも増して華やかで騒々しい空気に包まれていた。色とりどりの提灯、軒を連ねる屋台、豪華な山車、喧騒に紛れて聞こえる篠笛や太鼓の音色。
「そういえば、今日から大祭だったな」
「大祭……?」
「帝都一の祭だ。数日は何処もこの調子だろう」
夜には花火も上がる、という説明に、里で毎年見ていたそれを思い出す。人間に扮するのが上手い者は嬉々として出かけていたが、自由のなかった椛にそれが許されるはずもなく。里の端からひっそりと眺めていたのが、今となっては懐かしい。
「観に行くか?」
「えっ」
不意に問われ、椛は思わず頓狂な声を零す。行きたそうな顔でもしていたのか、と意識を寄せて確かめてみるが、眉根も和らいだそこは至って普段通りだ。
「祭は初めてだろう?」
「……言った覚えはないのですが」
「そういう顔をしていた」
くつりと笑った千隼を一瞥し、椛は右手で頬に触れる。どうせ口から出任せなのだろうが、完全に否定しきれないくらいには、祭に興味がないわけでもなかった。
しかし、路を埋め尽くす人波を見ていると、素直に頷くのは躊躇われる。彼は今朝任務から帰ってきたばかりだ。一睡もせず疲労が残っているだろう千隼を、人でごった返す場所に付き合わせたくはなかった。
「いえ……今日はもう、早く戻って休んだ方が宜しいかと。お疲れでしょうから」
「気にするな。そんなことより――」
唐突に、言葉が途切れた。息を呑むような気配がして、椛は訝しく思いながら傍らを見上げる。千隼は何故か呆気に取られたような顔で、切れ長の目をぱちりと瞬かせていた。
「どうかしたのですか?」
「いや……」
千隼は右手で口元を覆うと、それきり言葉を濁した。時が経つにつれ、瞬いていた目はじわりじわりと見開かれ、紫色の瞳が、真昼の陽光の下に晒される。そこには戸惑いや動揺が滲んで見え、椛は再び眉根を寄せて小首を傾げた。
何か気に触ることでも口にしただろうか。そんなつもりは露ほどもなかったのだけれど。
しかし彼は、暫く呆然と立ち尽くしていた。どうして、と言いたげな面持ちで。それが一層、状況を分からなくする。そんなことこちらの方が訊きたい、と思うほど。
やがて千隼は咳払いをすると、ふいと顔を背けた。そうして、唐突に伸びてきた彼の手が、椛の右手を掴む。何をするにも必ず事前に了承をとる彼にしては珍しく、強引に。
「あ、あのっ」
訳が分からず狼狽える椛をよそに、千隼はずんずんと歩き出した。つられて、椛の足もまろぶように前へ進む。浮き立った人の群れの方へ向かって、一歩、また一歩と。
「俺の息抜きに、少し付き合ってくれないか」
ちらと肩越しに一瞥を向けられ、椛は口にしかけた言葉を忽ち見失う。狡い、と思った。「君の為」と言われれば幾らでも断れたが、「俺の為」と挿げ替えられては、どうにも無下にできない。分かっていてやっているのなら、尚の事。つくづく、食えない人だと思う。
群衆の中へ踏み入ると、そこは華やかな活気に溢れていた。風車を手にした子ども、鳳凰を形作る細工飴師、大傘を回す大道芸人。そぞろ歩く人々も、路の脇に並ぶ屋台も、目が奪われるほど実に様々だ。
けれど、それ以上に――。屋台へ向けていた目を右手に落とし、椛は妙に騒がしい鼓動を抑え込むように唇を噛み締める。道行く人々にも、目新しい屋台にも興味は惹かれるのに、それ以上にどうしても右手へ意識が集中してしまう。人の肌とは、こんなにも熱かっただろうか。男の手とは、こんなにも大きいものだったのか。
他人の手の感触など、ただ痛いだけのものでしかなかった。殴られるか、叩かれるか、鷲掴みにされるか。だからずっと、誰かに触れられることを嫌悪していたはずなのに。不快でしかなかったのに。――右手を握る彼の手は、不思議と嫌ではなかった。
その事実に一層どぎまぎとしてしまい、椛は気を紛らわせようと周りの屋台へ視線を向ける。
そこでふと、彼女の目はある一点に吸い寄せられた。自然と、歩みがとまる。軒先に提げられた朱色の提灯、屋号が染め抜かれた古い暖簾。それは小間物屋のようで、台の上には簪や櫛といった品々が所狭しと並べられている。
その中のひとつに釘付けになっていると、不意に腰に何かが触れ、椛はびくりと身体を強張らせた。それが、いつの間にか離された千隼の手だと気付くと、何故か心臓がどくりと跳ね上がる。
「後ろ、危ないぞ」
「え、ええ……」
どうやら通りを行き交う人にぶつからないよう、庇ってくれたらしい。そうと分かっても鼓動は早まるばかりで、声が不自然と震える。怖いわけでも痛いわけでもないのに、いったいどうしたというのだろう。
病気にでも罹ったのか、と有り得ないことまで考えるほどおろおろしていると、丸椅子に腰掛けた老齢の店主と視線が交わった。皺の刻まれた目元を穏やかに綻ばせ、彼は煙管から口を離し、細く煙を吐く。
「お目が高いねえ、お嬢さん」
店主は灰落しで煙管を叩くと、幾つも並ぶ装身具の中から一本の簪を手に取った。黒漆の艷やかな一本足の軸、その先端に据えられた美しい紫色の玉。
どうしてそれだと分かったのだろう。差し出された簪と店主の顔を交互に見遣りながら、椛は困惑しつつ思う。他にもたくさんの簪があったというのに、何故その玉簪だと気付いたのだろう。
「紫がお好きかい?」
意味深な問いに、どう返したものかと言葉を探していると、ほんの一瞬、横顔に視線が落とされたのを感じた。そのせいで、否が応でも、あの澄んだ紫色の瞳が脳裏に蘇る。
「なら、それを頂こうか」
「ちょ、ちょっと待って下さいっ」
店主の提示した金額をあっさり払おうとする千隼を、椛は慌てて引き止める。
「簪は、今あるものだけで十分ですから」
しかし、椛の制止には一切聞く耳を持たず、彼はさらりと支払いを済ませ、店主から受け取った簪を椛へと差し出した。日陰から姿を現した紫色の玉が、陽光を浴びて小さな光の粒を湛えている。
「言っただろう。俺の息抜きに付き合ってくれ、と」
「……買っていただいたのは、私の方なのですが」
「君を甘やかすのは、俺にとって十分な“息抜き”だ」
そう言って、千隼はくすりと笑った。心底楽しそうに。それでいて、どこか嬉しそうにも。
暫くの間、椛は簪と千隼を交互に見遣っていたが、やがてひとつ溜息を吐いて、髪をまとめていた簪を引き抜いた。刹那、彼が動きをとめる。しかし椛は気に留めることなく差し出された簪を受け取ると、再び髪をまとめ上げ、今度は買ったばかりのそれを挿し込んだ。
なんだか癪だな、と思った。やはり狡い男だ、とも。だからこそ、仕返しをしたくなった。息抜きだ、と言うのなら。
「これで、如何でしょうか」
そう言いながら千隼の双眸を見据えると、彼は面食らったように目を大きく瞬かせ――それから、ふっと吐息を零すように笑った。先程よりもずっと優しく、満ち足りたように。
「よく似合っている」
あと幾度、この笑顔を見られるのだろう――。唐突に過った何かが、ぎゅっと胸を締め付ける。馴染むつもりなどなかったはずなのに。この笑顔もいつか遠い記憶の底へ沈むのかと思うと、心の何処かがじくりと重く痛むような気がした。

