虐げられた鬼女は、最強軍人の契約妻になる

 三日ぶりに帰宅した千隼の手には、帝都で最も人気のある甘味処の菓子包みが握られていた。甘く炊き上げられたこし餡を、深い緑色の生地で包み込んだ蓬饅頭。どうやら売り切れも珍しくない逸品であるらしい。

 気を遣う必要はない、と言ったものの、あれからひと月たった今も、千隼の細やかな心配りは相も変わらず続いている。今日のように菓子を買ってくることもあれば、茶屋に連れ出されたり、帝都の外へ出れば地産の土産を携えて戻ってくることも珍しくない。

 ――いつも女性の方が、いたく腹を立てるそうなのです。薫子様とのことで。

 この男の、果たしてどこに不満を持てというのだろう。夕餉の食器を洗いながら、椛は呉服店の女将から聞いた噂を反芻する。薫子を優先する千隼に腹を立てると言うが、それの何がいけないのか分からない。

 そもそも愛だの恋だのを求めていない椛にとって、日々を穏やかに過ごせるだけでも十分すぎるものだった。里にいた頃とは比べ物にならないほど毎日が安定している。それだけで十分なのに、頻繁に菓子だの何だのと与えられては、不足どころか過剰なくらいだ。

「椛」

 不意に背後から名を呼ばれ、椛は椀を片手に振り返る。

「何でしょう」
「それが終わったら、一杯付き合ってくれないか」

 そう言って、千隼は板戸に身を凭せ掛け、右手に持った一升瓶を軽く掲げた。湯浴みを済ませたばかりだからか、白い肌は帰宅時よりも仄かに血色良く見える。

「……鬼に酒を飲ませるのですね」

 琥珀色の瓶を一瞥しながら、椛は淡々とした口調で、それでも冗談交じりに言葉を返す。刹那、千隼は虚を突かれたように目を見開いたものの、すぐにくつくつと喉を鳴らして笑った。

「そういえば、酒呑童子は酒盛りの後に討伐されたんだったな」

 無論、千隼がそんなことをするとは思っていない。この男に限っては――。そう頭に浮かんで、椛ははたと息を呑む。いつからそんなふうに思うようになったのだろう。彼ならば大丈夫だ、と。何の疑いも持たずに、すんなりと受け入れてしまうようになったのは。

 縁側で待っている、と言い置いて去っていった千隼の後ろ姿を見送り、椛はそっと溜息をついた。あやかしにも分け隔てなく接する千隼に、知らず感化されてしまったのだろうか。或いは――。

 馬鹿馬鹿しい、と胸の内で吐き捨て、椛は手早く洗い物を済ませると、白磁の小皿に蓬饅頭をふたつのせ、猪口とともに漆塗りの盆へと並べた。

 濡れ縁へ足を運ぶと、そこには既に、胡座をかいて座る千隼の後ろ姿があった。逞しくも、どこか寂しげにも見える大きな背中。青白い月明かりに照らされた白銀の髪が、夜風にのってふわりと靡く。

 最強と言っても過言ではない軍人であるのに、ふとした瞬間、その背中が、横顔が儚く見えるのはどうしてだろう。そんなことを思っていると、気配に気付いた千隼がふと振り返り、手招くように掌を振ってみせた。

「君の為に買ってきたんだけどな」

 傍らに腰を下ろし、小皿を縁板に置くと、千隼はわざとらしく肩を竦めて、困ったように眉尻を下げた。猪口を並べつつ、椛はさらりと言葉を返す。

「ふたりで食べる方が、美味しいはずですから」

 猪口に酒を注いでいた千隼の手が、ぴたりととまった。目を上げると、どこか楽しげに綻んだ双眸と視線が重なり、椛は思わず顔を逸らす。

「それ、先日仕立てた着物か?」
「ええ」

 似合っている、と言って千隼が猪口を持ち上げると、椛はおずおずと己のそれを近付け、軽く触れ合わせた。ありがとう、と言うのがなんだか恥ずかしく、小さな水面に切り取られた月の欠片を、じっと見つめる。陶器がぶつかる澄んだ音が、夜の空気に溶けるようにして消えていった。

 酒を飲むのは久方ぶりのことだ、と椛は思う。里に居た頃は、宴の時でさえ与えられることは殆どなかった。清冽な薫りが鼻を抜ける感覚も、喉を通るにつれ熱が広がる感覚も、随分と懐かしい。

 そのままふたり揃って、夜空に浮かぶ月を眺めながら、静かに酒を楽しむ。今夜は見事な満月だ。少しの欠けも歪みもない、まん丸故にその存在が一層目立つ神秘的な姿。

 沈黙が苦しくなくなったのは、いつからだったろう。そんなことを思い巡らせながら、ちびちびと舐めるように酒を飲む。静かな時間の中、幾層にも重なった蛙の鳴き声だけが、やけに大きく耳に届く。瞼を閉ざすと、初々しい緑色の苗が揺らめく田園が、さあっと蘇るようだった。

「此処での生活はどうだ」

 それまで黙っていた千隼が、不意に唇を開く。

「何か困ってることとか、不自由してることがあれば、言ってほしいんだが」
「特に問題はありません」

 強いて言うならば、未だ事あるごとに気を遣われるのが落ち着かないことくらいだろうか。猪口の見込みに沈んだ藍色の蛇の目を、澄んだ液体越しに眺めながら椛は小さく息を吐く。

 ――彼はべつに、薫子さんを盲目的に溺愛しているというわけではないんだけどね。

 ふと、指先に繃帯を巻きながら零された朽葉の何気ない一言が、脳裏に浮かび上がる。何故そんな会話になったのかは憶えていない。それでもその言葉だけは、はっきりと耳の奥に残っていた。

 ――千隼が此処に足繁く通うのは、薫子さんというより、昔の自分から今も抜け出せてないせいだと思うけど。

 恐らく彼の耳にも、千隼の縁談にまつわる噂が流れ込んでいるのだろう。表沙汰になっていなくとも、あの男の情報網なら、どこかで引っかかっていてもおかしくはない。

「……貴方様がここまで気を配ってくださるのは、過去の縁談のせいでしょうか」

 猪口を口へ運ぼうとしていた千隼の手が、ぴたりととまる。けれどすぐに、「なんだ、知っていたのか」と苦笑し、猪口に残っていた酒をひと思いに呷った。

「どうせ、女将か朽葉あたりだろう」

 そう言いながら一升瓶を傾けて猪口に酒を注ぎ、彼は遠い何処かへ思いを馳せるように目を伏せ、唇を閉ざした。夜の静けさが、ふたりを優しく包み込む。

 千隼は手にした猪口を、暫く弄ぶように傾けていた。青白い月明かりが横顔を薄く照らし、伏せられた睫毛の影が、頬に淡く落ちている。何かを話すべきか、或いは黙して過ごすべきか――そんな迷いが、その横顔からは滲んで見えるような気がした。

 急かすことも問い詰めることもなく、椛はただ静かに、彼が言葉を紡ぐのを待つ。酒を舐め、蓬饅頭を一口齧りながら。

 やがて、猪口をことりと縁板に置く音がして、千隼はゆっくりと唇を開いた。

「あの日――姉上が襲われた日、本当は俺が同行する予定だったんだ」

 つっかえていたものが外れたのか、千隼は訥々と語り始めた。久方ぶりの休みに姉の買い物へ同行する予定が、急な任務で女中に任せたこと。姉は買い物の最中、妖魔と遭遇し、子どもを助けて呪いを受けたこと――。

「あのまま俺が同行していれば、姉上も子どもも、どちらも助けることができただろうにな」

 そこまで聞き終え、椛は漸く納得する。朽葉の言っていた“昔の自分から抜け出せていない”とは、こういうことだったのか、と。

 この男は今も、あの日――姉が襲われたその瞬間に囚われている。助けられなかったという強い後悔と、ひどい自責の念に雁字搦めにされて。

「母は早くに亡くなり、父は多忙で滅多に邸へ戻らなかった。物心つく頃には、俺の傍にいたのはいつも姉上だけだった」

 殆ど母代わりのような存在だった、と寂しげに呟き、千隼はそれ以上語らず、猪口の縁へそっと唇をつけた。

 “家族”や“兄妹”を知らない椛には、千隼の抱える葛藤や喪失感を、完全には理解できない。それでも、支え合って生きてきたのだろう姉を、彼が特別に思うのは無理もないと分かる。“普通はそういうもの”という価値観くらいは、長年虐げられてきた椛の中にも、“書物で得た常識”として一応はあるのだ。

「確かに貴方様が居れば、お二人とも助かったのでしょう」

 青白く輝く満月を仰ぎ見たまま、椛は避けることなく、真正面から言葉を紡ぐ。正直でありたいからこそ、淡々とした口調で。

「けれど、それはもう過ぎたことです。詮無きことを悔い続けたところで、何かが変わるわけでもありません。……私も、幾度となく“あの時こうしていれば”と思ったことがあります。けれど、それで何かが報われたことは、一度もありませんでした」

 あんなにも煩かった蛙の鳴き声が、夜風に攫われたかのように、ひとつも聞こえなくなった。椛は猪口を軽く揺らし、中身を一口だけ呷る。横顔に、千隼の視線を感じながら。

「今の貴方様がしなければならないのは、悔い続けることではなく、姉君の治療を進めることではありませんか。それを優先するのは、何も間違ってはいないと思います」

 貴方にとって大事な人なのだから、と心の中でだけ囁き、椛は傍らで息を呑む千隼へと目を移す。切れ長の双眸には驚きが色濃く滲み、じわりと見開かれている。紫色の瞳が、月明かりを浴びていつもより深く、美しく揺らいでいた。

 暫く千隼は呆然と椛を見つめていたが、やがてふっと吐息を漏らすようにして、小さく笑った。まるで憑き物が落ちた後のような、晴れ晴れとした面持ちで。

「君は――」

 何かを言いかけ、しかし彼は笑みを深めるだけに留めると、胡座をかいた足に頬杖をついて、どこか戯けたように首を傾けた。

「今度は、君の話を聞かせてくれないか。あの日――俺と出会う前までの、君のことを」
「面白い話など何もありませんよ」

 空になった千隼の猪口に酒を注いでやりながら、椛は眉根を寄せて溜息を吐く。そんな彼女に、千隼はははっと明るい笑い声を上げた。

 こんな些末な遣り取りひとつ、以前は何も思うことはなかったのに――。椛は己の猪口に酒を注ぎながら、胸の奥にじんわりと広がる温もりに、内心戸惑いを覚える。何故だろう。どうしてだろう。――今がこんなにも心地良いと思えるのは。