「――終わりましたよ」
不意に声をかけられ、椛の意識は現実へと引き戻された。それでも暫しぼうっとしたまま、右手の人差し指の先に出来た小さな赤い粒を見つめる。心はまだ此処に在らずというような、浮遊感にも似た心地で。
「次からはもう少し量を増やそうと思うんだけど、問題ない?」
優しくもどこか淡々とした声音でそう問いながら、白衣の男が脱脂綿で指先を拭き取る。消毒液の、鼻の奥を刺激するような臭いに感覚を引き戻され、行方知れずだった心は、漸くもとの場所へと、すとんと落ちるように戻ってきた。
「……大丈夫です」
指先に細い繃帯が手際良く巻かれるのを他人事のように眺めながら、椛は乾いた声で返す。放っておいてもすぐに治る程度の傷だと分かっているくせに、この男は毎回律儀に手当てを施してくれる。まるで“医者”としての立場を、どこまでも忠実に演じているかのように。
治療方針を擦り合わせ、椛は軽く頭を下げてから診察室を辞した。医者ひとりしか駐在していない此処は、いつ来てもひと気がなく、薬品の臭いを滲ませた静謐な空気に包まれている。
ひとつ息を吐き、待合室へ繋がる廊下を進んでいると、隣室の扉が内側から唐突に開いた。姿を現したのは千隼で、椛と視線を交わすや否や、端正なかんばせに愛想の良い笑みを浮かべる。けれどもそこに、何とも言い難い翳りが滲んでいるのを、椛は見逃さなかった。
「もう終わったのか?」
「ええ」
簡素に応えながら、椛は扉の隙間から室内を覗く。殺風景な病室の大半を占める寝台には、白い寝間着の女が微動だにせず横たわっている。真っ直ぐな黒髪、かたく閉ざされた瞼、死人のような青白い肌。微かに上下する胸の動きだけが、彼女が生きていることを教えてくれる。
「来週からは、少し量を増やすそうです」
「そうか」
肩を並べて裏口へ向かいながら、医者と擦り合わせた内容を淡々と告げると、千隼はひとつ頷き、いつも通り「大丈夫か」と問うた。椛もまた定型文のように「問題ありません」と返し、裏口の扉を開ける。
妖魔の呪いに蝕まれている千隼の姉・薫子の治療の為、この診療所を初めて訪れたのは、偽りの夫婦となってから五日後のことだった。
診療所ただひとりの医者である朽葉は、最初こそ椛の“浄血”に懐疑的だったが、指先から一滴落とすと、匂いを嗅いだ途端に目を見開いた。
匂いで判別できるのは、あやかしだけだ。つまり彼は人ならざる者であるが、医学の知識と実績は確かで、彼の治療方針は患者を最優先にした慎重なものだった。
拒絶反応を考慮し、少量から段階的に血の量を増やしてゆく。千隼は時折焦れったそうな様子を見せるものの、朽葉の方針に異を唱えたことは一度もない。それだけ、あのあやかし医者を信頼しているのだろう。
そう思いながら診療所の前を横切る細道を西へ進み、賑やかな大路へと抜け出す。流石は帝都一の路だけあり、人で溢れかえるだけでなく、馬車や自動車までもが行き交っている。
「行きたい所があるんだが、少し付き合ってくれないか」
横目でちらりと、傍らを歩む千隼の横顔を見上げる。診療所では常に、何かに追い詰められたような焦燥を滲ませている彼のかんばせには、しかし今、いつも通りの柔和な微笑みが戻っていた。
千隼とふたりで暮らすようになって分かったのは、この男が基本的に真面目で、本当に“最強の軍人”なのかと疑いたくなるほど優しい、ということだ。
臥せっている間の粥はどれも彼の手作りであったし、ある朝など、出仕する千隼を見送ろうと戸口に立った椛が、軒先を過ぎる小さな影――式神――に気付いたこともある。護衛のつもりなのだろう。当人は何も言わないが、椛が気付く度に、決まりが悪そうに視線を逸らした。
家事を椛が引き受けるようになってからも、千隼は何かと気にかけることをやめない。「自分の分だけで構わない」「無理はしなくて良い」と言い、椛が嫌がりそうなことは何ひとつせず、新しいことをする時には事前に問題がないか確かめもする。
暫く大路を進んだところで、千隼は不意に歩みをとめた。一歩遅れて、椛もまた足をとめる。路の端には店蔵造りの木造家屋が建ち、“津崎呉服店”と達筆な文字の看板が掛けられていた。
藍色の日除け暖簾を潜り、千隼の背を追って店の中へ足を踏み入れる。程よく焚かれた香の薫りが鼻先を掠める中、天井から下がる色とりどりの反物が色視界を埋めた。里では見たことのない、鮮やかな反物たち。
それについ目を奪われていると、店の奥からひとりの女が姿を現した。品の良い菖蒲色の着物を纏い、所々に白いものが目立つ黒髪を丁寧に結い上げた、齢五十は超えているであろう初老の女。
彼女は千隼を一目見ると、皺の刻まれた顔をやわらかく綻ばせ、「まあまあ」と言いながら足早に歩み寄ってきた。
「これはこれは、千隼様ではありませんか。今日はどのような御用で」
踏込みに佇む千隼を見据えたまま、女は畳の端で丁寧に膝を折る。そんな彼女へ会釈を返し、千隼はにこやかな笑みを浮かべた。
「彼女の着物を仕立てたいんだが」
どうせ自分の着物でも仕立てに来たのだろう。そう思いながら周囲をぼんやり眺めていた椛は、千隼の言葉に、思わずぎょっとして彼を見上げた。
「あ、あのっ」
断ろうと声を上げるものの、そっと向けられた彼の穏やかな一瞥で、喉元に溢れる言葉はどれも、音もなく弾けて消えてゆく。そのまま椛は呆然と、女将と話を進める千隼の横顔を見つめることしかできなかった。
「君にはいつも助けられているから、これくらいはさせてくれ」
確かに、衣食住は十分に保証する、とは言っていたけれど――。女将に連れられ店の奥へ場所を移しながら、椛は着物の袖口を握り締める。今は薫子のお下がりを着ているが、継ぎ接ぎだらけの使い古されたものでもなし、殆ど邸で過ごすだけなのだからコレで十分だ、と思っていたのだけれど。
思えば彼は何をするにも、決まって言い訳のような理由付けを口にする。助けられているから、血を分けてもらったから、採血した後だから――。まるでそれが罪滅ぼしであるかのように。
磨き込まれた姿見の前に立たされ、様々な色の反物を充てがわれる己の姿を漠然と眺めながら、椛はその違和感を胸の中で弄ぶ。
「まさかあの千隼様が女性をお連れになるだなんて」
姿見の脇の棚から手当たり次第帯を取り出しつつ、女将は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あの麗しいお姿に加え、名家のご当主様でしょう? すぐにどこかのお嬢様とご縁談がまとまるかと思っていたのですが、蓋を開けてみれば、なかなかそうもいかないようで」
手は忙しなく動かしながらも、彼女の口は堰を切ったように止まらない。そんな女将へ鏡越しに視線を移し、椛は小首を傾げた。
「何故まとまらなかったのですか」
ただ純粋に、思ったままの疑問を投げかけると、女将ははたと手をとめ、目を瞠った。どうやら何も聞かされていないことを察したらしい。彼女はちらりと入口を一瞥すると、帯を片手に椛の耳元へそっと顔を寄せた。
「いつも女性の方が、いたく腹を立てるそうなのです。薫子様とのことで」
あくまで風の噂ですけれど、と釘を刺すように言い添え、女将はそそくさと身を離す。再び帯選びに戻った彼女から目を逸らし、椛は肩越しに、店の入口で店主と談笑する千隼を盗み見た。
薫子とのこと――とは、恐らく彼の中にある“優先順位”のことだろう。千隼にとって決して譲れぬ、何より重要なもの。それに幾人もの女が腹を立ててきた。姉を優先する千隼に、或いは彼の心を占める薫子その人に。
結局千隼は着物の仕立てだけでなく、新しい簪や櫛まで買ってくれた。包みを両腕に抱えながら店を辞し、肩を並べて家路につく。人で溢れ返った大路を、長閑な陽光を浴びながら。
恐らく途中で、彼はいつもの煮売屋へ立ち寄るのだろう。採血の後だから滋養に良いものを、という決まり文句を紡ぎながら。そんな少し先のことを思いながら、椛は繃帯の巻かれた指先をそっと見下ろした。
採血は、右手の人差し指と決まっている。椛が指定したわけでも、朽葉がこだわっているわけでもないが、いつの間にかそこが定位置となった。その指は、夫婦の契を交わした時、印として血を舐めた場所でもある。“不可侵の掟”は互いの血を呑み合うことで形を成し、身体の内側に夫婦としての証を刻むのだ。
あの時の噛み傷は疾うに消えてしまったけれど――。胸の内で溜息をつきながら、椛は親指の腹で繃帯をそうっと撫でる。まるでその下に隠された、ふたつの傷跡をなぞるかのように。
この指を見つめていると、契を交わした瞬間の記憶が、今でもまざまざと蘇る。優しく触れた人肌のぬくもり、恭しく近づけられた唇、躊躇いがちに立てられた歯。
「……千隼様」
不意に足を止めると、一歩遅れて千隼もまた歩みを止めて振り返った。その顔には、呆れを含んだような苦笑が浮かんでいる。
「“様”は不要だ、と言ったはずだが」
その指摘には敢えて応えず、椛は静かに彼の瞳を見据えた。陽の下で一層澄んで見えるそれは、まるで藤の花のように美しい。けれどその眼はいつも、此処ではない何処かを彷徨っている気がした。今だって彼は、椛を見ているようで、その実、他の何かを透かし見ている。
いつまで経っても意識の戻らない姉だろうか。否、それとも――。
「私に気を遣う必要はありません」
凛とした声できっぱりとそう告げると、千隼は意表を突かれたように大きく目を瞬かせ、珍しいものを見つけたかのような眼差しで、まじまじと椛の顔を見つめた。
「随分と手厳しいな」
短くそう零した声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。何がそんなに意外だったのか、椛には見当もつかない。
「手厳しくはありません。貴方様が優しすぎるだけです」
肩を竦めながら、椛は包みを抱く腕へ密かに力を込める。何故だろう。己で口にした言葉が、思いの外強く胸に突き刺さるのは。今までに感じたことのない、こそばゆいような、胸の奥がちりちりと灼けるような、不思議な感覚。
「……心配せずとも、契を交わした以上、務めは全うするつもりです」
得体の知れない感覚を振り払うように、椛は手早く会話を結ぶ。千隼は暫し押し黙ったまま、そんな彼女の顔をじっと見つめていた。何かを言いかけては止めることを、幾度か繰り返して。
結局、彼はただ小さく笑んで、「そうか」とだけ呟いた。驚きながらも、心做しか安堵したような、或いは切なく思えるような声で。
不意に声をかけられ、椛の意識は現実へと引き戻された。それでも暫しぼうっとしたまま、右手の人差し指の先に出来た小さな赤い粒を見つめる。心はまだ此処に在らずというような、浮遊感にも似た心地で。
「次からはもう少し量を増やそうと思うんだけど、問題ない?」
優しくもどこか淡々とした声音でそう問いながら、白衣の男が脱脂綿で指先を拭き取る。消毒液の、鼻の奥を刺激するような臭いに感覚を引き戻され、行方知れずだった心は、漸くもとの場所へと、すとんと落ちるように戻ってきた。
「……大丈夫です」
指先に細い繃帯が手際良く巻かれるのを他人事のように眺めながら、椛は乾いた声で返す。放っておいてもすぐに治る程度の傷だと分かっているくせに、この男は毎回律儀に手当てを施してくれる。まるで“医者”としての立場を、どこまでも忠実に演じているかのように。
治療方針を擦り合わせ、椛は軽く頭を下げてから診察室を辞した。医者ひとりしか駐在していない此処は、いつ来てもひと気がなく、薬品の臭いを滲ませた静謐な空気に包まれている。
ひとつ息を吐き、待合室へ繋がる廊下を進んでいると、隣室の扉が内側から唐突に開いた。姿を現したのは千隼で、椛と視線を交わすや否や、端正なかんばせに愛想の良い笑みを浮かべる。けれどもそこに、何とも言い難い翳りが滲んでいるのを、椛は見逃さなかった。
「もう終わったのか?」
「ええ」
簡素に応えながら、椛は扉の隙間から室内を覗く。殺風景な病室の大半を占める寝台には、白い寝間着の女が微動だにせず横たわっている。真っ直ぐな黒髪、かたく閉ざされた瞼、死人のような青白い肌。微かに上下する胸の動きだけが、彼女が生きていることを教えてくれる。
「来週からは、少し量を増やすそうです」
「そうか」
肩を並べて裏口へ向かいながら、医者と擦り合わせた内容を淡々と告げると、千隼はひとつ頷き、いつも通り「大丈夫か」と問うた。椛もまた定型文のように「問題ありません」と返し、裏口の扉を開ける。
妖魔の呪いに蝕まれている千隼の姉・薫子の治療の為、この診療所を初めて訪れたのは、偽りの夫婦となってから五日後のことだった。
診療所ただひとりの医者である朽葉は、最初こそ椛の“浄血”に懐疑的だったが、指先から一滴落とすと、匂いを嗅いだ途端に目を見開いた。
匂いで判別できるのは、あやかしだけだ。つまり彼は人ならざる者であるが、医学の知識と実績は確かで、彼の治療方針は患者を最優先にした慎重なものだった。
拒絶反応を考慮し、少量から段階的に血の量を増やしてゆく。千隼は時折焦れったそうな様子を見せるものの、朽葉の方針に異を唱えたことは一度もない。それだけ、あのあやかし医者を信頼しているのだろう。
そう思いながら診療所の前を横切る細道を西へ進み、賑やかな大路へと抜け出す。流石は帝都一の路だけあり、人で溢れかえるだけでなく、馬車や自動車までもが行き交っている。
「行きたい所があるんだが、少し付き合ってくれないか」
横目でちらりと、傍らを歩む千隼の横顔を見上げる。診療所では常に、何かに追い詰められたような焦燥を滲ませている彼のかんばせには、しかし今、いつも通りの柔和な微笑みが戻っていた。
千隼とふたりで暮らすようになって分かったのは、この男が基本的に真面目で、本当に“最強の軍人”なのかと疑いたくなるほど優しい、ということだ。
臥せっている間の粥はどれも彼の手作りであったし、ある朝など、出仕する千隼を見送ろうと戸口に立った椛が、軒先を過ぎる小さな影――式神――に気付いたこともある。護衛のつもりなのだろう。当人は何も言わないが、椛が気付く度に、決まりが悪そうに視線を逸らした。
家事を椛が引き受けるようになってからも、千隼は何かと気にかけることをやめない。「自分の分だけで構わない」「無理はしなくて良い」と言い、椛が嫌がりそうなことは何ひとつせず、新しいことをする時には事前に問題がないか確かめもする。
暫く大路を進んだところで、千隼は不意に歩みをとめた。一歩遅れて、椛もまた足をとめる。路の端には店蔵造りの木造家屋が建ち、“津崎呉服店”と達筆な文字の看板が掛けられていた。
藍色の日除け暖簾を潜り、千隼の背を追って店の中へ足を踏み入れる。程よく焚かれた香の薫りが鼻先を掠める中、天井から下がる色とりどりの反物が色視界を埋めた。里では見たことのない、鮮やかな反物たち。
それについ目を奪われていると、店の奥からひとりの女が姿を現した。品の良い菖蒲色の着物を纏い、所々に白いものが目立つ黒髪を丁寧に結い上げた、齢五十は超えているであろう初老の女。
彼女は千隼を一目見ると、皺の刻まれた顔をやわらかく綻ばせ、「まあまあ」と言いながら足早に歩み寄ってきた。
「これはこれは、千隼様ではありませんか。今日はどのような御用で」
踏込みに佇む千隼を見据えたまま、女は畳の端で丁寧に膝を折る。そんな彼女へ会釈を返し、千隼はにこやかな笑みを浮かべた。
「彼女の着物を仕立てたいんだが」
どうせ自分の着物でも仕立てに来たのだろう。そう思いながら周囲をぼんやり眺めていた椛は、千隼の言葉に、思わずぎょっとして彼を見上げた。
「あ、あのっ」
断ろうと声を上げるものの、そっと向けられた彼の穏やかな一瞥で、喉元に溢れる言葉はどれも、音もなく弾けて消えてゆく。そのまま椛は呆然と、女将と話を進める千隼の横顔を見つめることしかできなかった。
「君にはいつも助けられているから、これくらいはさせてくれ」
確かに、衣食住は十分に保証する、とは言っていたけれど――。女将に連れられ店の奥へ場所を移しながら、椛は着物の袖口を握り締める。今は薫子のお下がりを着ているが、継ぎ接ぎだらけの使い古されたものでもなし、殆ど邸で過ごすだけなのだからコレで十分だ、と思っていたのだけれど。
思えば彼は何をするにも、決まって言い訳のような理由付けを口にする。助けられているから、血を分けてもらったから、採血した後だから――。まるでそれが罪滅ぼしであるかのように。
磨き込まれた姿見の前に立たされ、様々な色の反物を充てがわれる己の姿を漠然と眺めながら、椛はその違和感を胸の中で弄ぶ。
「まさかあの千隼様が女性をお連れになるだなんて」
姿見の脇の棚から手当たり次第帯を取り出しつつ、女将は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あの麗しいお姿に加え、名家のご当主様でしょう? すぐにどこかのお嬢様とご縁談がまとまるかと思っていたのですが、蓋を開けてみれば、なかなかそうもいかないようで」
手は忙しなく動かしながらも、彼女の口は堰を切ったように止まらない。そんな女将へ鏡越しに視線を移し、椛は小首を傾げた。
「何故まとまらなかったのですか」
ただ純粋に、思ったままの疑問を投げかけると、女将ははたと手をとめ、目を瞠った。どうやら何も聞かされていないことを察したらしい。彼女はちらりと入口を一瞥すると、帯を片手に椛の耳元へそっと顔を寄せた。
「いつも女性の方が、いたく腹を立てるそうなのです。薫子様とのことで」
あくまで風の噂ですけれど、と釘を刺すように言い添え、女将はそそくさと身を離す。再び帯選びに戻った彼女から目を逸らし、椛は肩越しに、店の入口で店主と談笑する千隼を盗み見た。
薫子とのこと――とは、恐らく彼の中にある“優先順位”のことだろう。千隼にとって決して譲れぬ、何より重要なもの。それに幾人もの女が腹を立ててきた。姉を優先する千隼に、或いは彼の心を占める薫子その人に。
結局千隼は着物の仕立てだけでなく、新しい簪や櫛まで買ってくれた。包みを両腕に抱えながら店を辞し、肩を並べて家路につく。人で溢れ返った大路を、長閑な陽光を浴びながら。
恐らく途中で、彼はいつもの煮売屋へ立ち寄るのだろう。採血の後だから滋養に良いものを、という決まり文句を紡ぎながら。そんな少し先のことを思いながら、椛は繃帯の巻かれた指先をそっと見下ろした。
採血は、右手の人差し指と決まっている。椛が指定したわけでも、朽葉がこだわっているわけでもないが、いつの間にかそこが定位置となった。その指は、夫婦の契を交わした時、印として血を舐めた場所でもある。“不可侵の掟”は互いの血を呑み合うことで形を成し、身体の内側に夫婦としての証を刻むのだ。
あの時の噛み傷は疾うに消えてしまったけれど――。胸の内で溜息をつきながら、椛は親指の腹で繃帯をそうっと撫でる。まるでその下に隠された、ふたつの傷跡をなぞるかのように。
この指を見つめていると、契を交わした瞬間の記憶が、今でもまざまざと蘇る。優しく触れた人肌のぬくもり、恭しく近づけられた唇、躊躇いがちに立てられた歯。
「……千隼様」
不意に足を止めると、一歩遅れて千隼もまた歩みを止めて振り返った。その顔には、呆れを含んだような苦笑が浮かんでいる。
「“様”は不要だ、と言ったはずだが」
その指摘には敢えて応えず、椛は静かに彼の瞳を見据えた。陽の下で一層澄んで見えるそれは、まるで藤の花のように美しい。けれどその眼はいつも、此処ではない何処かを彷徨っている気がした。今だって彼は、椛を見ているようで、その実、他の何かを透かし見ている。
いつまで経っても意識の戻らない姉だろうか。否、それとも――。
「私に気を遣う必要はありません」
凛とした声できっぱりとそう告げると、千隼は意表を突かれたように大きく目を瞬かせ、珍しいものを見つけたかのような眼差しで、まじまじと椛の顔を見つめた。
「随分と手厳しいな」
短くそう零した声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。何がそんなに意外だったのか、椛には見当もつかない。
「手厳しくはありません。貴方様が優しすぎるだけです」
肩を竦めながら、椛は包みを抱く腕へ密かに力を込める。何故だろう。己で口にした言葉が、思いの外強く胸に突き刺さるのは。今までに感じたことのない、こそばゆいような、胸の奥がちりちりと灼けるような、不思議な感覚。
「……心配せずとも、契を交わした以上、務めは全うするつもりです」
得体の知れない感覚を振り払うように、椛は手早く会話を結ぶ。千隼は暫し押し黙ったまま、そんな彼女の顔をじっと見つめていた。何かを言いかけては止めることを、幾度か繰り返して。
結局、彼はただ小さく笑んで、「そうか」とだけ呟いた。驚きながらも、心做しか安堵したような、或いは切なく思えるような声で。

