図書室の最奥に位置する郷土資料スペースは、まるで時間の流れから完全に取り残されたかのように静まり返っていた。
古い背表紙から漂う、わずかにカビの混ざった紙の匂いが、冷房の乾いた空気に乗って鼻腔をくすぐる。頭上から降り注ぐ蛍光灯の白い光は、幾重にも重なる本棚の影によって遮られ、俺たちの座る四人掛けの机の上には、奇妙に薄暗い空間が形成されていた。
俺の正面に座る御子柴廻は、机の上に置いた黒い手帳に両手を添えたまま、彫刻のように微動だにしない。彼の切れ上がった瞳は、まっすぐに手帳の表紙を見つめており、そこから俺へと視線を移すのをごまかすように、何度も何度も浅い呼吸を繰り返していた。いつもなら、教室の隅で誰とも交わらず、ただ冷徹に他者を拒絶している男。それが今、俺の目の前で、隠しきれない動揺と途方もない熱量を孕んで座っている。その事実だけで、俺の胸の奥には、冷たい炭酸水が弾けたような、ちりちりとした刺激が広がっていた。
「……何から話す?」
静寂を破ったのは、俺の声だった。あえていつも通りの、抑揚を欠いた、めんどくさそうなトーンを意識して言葉を投げる。
御子柴の肩がびくりと震えた。彼はゆっくりと顔を上げ、前髪の隙間から、射抜くような強い視線を俺に向けてきた。その瞳の奥には、四十二回の失敗がもたらした濃い絶望の色彩と、それでもなお諦めきれないという、狂気にも似た強烈な意志が混ざり合っている。
「……まずは、お前が死ぬ当日の、正確なタイムラインを頭に叩き込んでもらう」
御子柴の声は、驚くほど低く、そしてかすれていた。彼は長い指先で手帳のページをめくり、ある特定のページを俺の方へと向けた。そこには、七月二十日の十四時から十六時十五分までの行動が、一分単位で、恐ろしいほどの細かさで記録されていた。
「十四時三十分、終業式が終了。お前はそのまま教室に戻り、カバンをまとめる。いつもなら十四時四十五分には校門を出るはずだが、この日はなぜか、クラスの奴に呼び止められて雑談に応じている。それが十四時五十五分まで。……薄葉、お前はこの時、誰と何を話していたか覚えているか?」
「いや……」
俺は手帳に書き込まれた文字を見つめながら、小さく首を振った。
「そもそも、まだ一週間も先の未来のことなんて、覚えてるわけないだろ。第一、俺はクラスの奴と長話をするような性質じゃない。呼び止められたとしても、適当にあしらってすぐに帰るはずだ」
「それが、そうじゃないんだ」
御子柴が、身を乗り出すようにして手帳を指先で叩いた。コン、と静かな図書室に鈍い音が響く。
「お前は、普段なら絶対にしないような無駄話を、その日は十分間も続けている。相手は前の席の男子だ。内容は、夏休みの課題の範囲について。お前がその十分間のタイムロスをしたせいで、駅前のスクランブル交差点に到着する時間が、運命の『十六時十五分』に完全に合致してしまうんだ。……俺は、その十分間を削ろうとして、十四時四十五分の時点で無理やりお前を教室から連れ出したこともある。それが、十六回目のループだ」
十六回目。その数字の重みに、俺は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
「連れ出して、どうなったんだ?」
「……お前を腕を引いて、校門まで走った。お前は当然、不審がって俺の手を振り払おうとしたが、俺は構わずに走らせた。結果、お前は十五時十分には駅前の交差点を通り過ぎることができた。運命の時間を、三十分も前倒しにしたんだ。これで救えたと、その時の俺は本気で歓喜した」
御子柴の言葉が、そこでぴたりと止まった。彼の顔から、すうっと血の気が引いていくのがわかる。握りしめられた彼の拳が、机の上で激しく震え始めた。
「だが、世界は許さなかった。交差点を無事に渡りきったお前は、駅の地下街に入る階段で、後ろから走ってきたサラリーマンと激突した。運悪くバランスを崩したお前は、そのままコンクリートの階段の最下部まで転落し……頭部を強く打って、十五時二十五分に心停止した」
冷房の風が、急に氷水のように冷たく感じられた。
俺の背筋を、ぞっとするような悪寒が駆け抜けていく。時間を早めようが、交差点を回避しようが、世界は別の帳尻合わせを用意して、俺の命を確実に奪いにくる。
「……徹底的だな、おい」
「そうだ。徹底的すぎるんだ」
御子柴は、今にも泣き出しそうな、それでいて激しい怒りを堪えるような表情で、俺を凝視した。
「お前をいくら早く動かしても、いくら遅く動かしても、最終的な結末は変わらない。お前を学校の保健室に監禁した世界(三十一回目)では、十五時五十分に学校の電気室で大爆発が起きて、火災に巻き込まれた。まるでお前という存在が、この世界にとって『排除すべきエラー』であるかのように、あらゆる偶然が必然となってお前を殺しにくる」
御子柴の呼吸が、次第に荒くなっていく。彼の細い胸が、制服の生地を押し上げるように激しく上下していた。四十二回。彼は、そのすべてのバリエーションの『俺の死』を、すぐ特等席で目撃してきたのだ。俺を助けようとして伸ばしたその手が、何度も俺の冷たくなっていく身体に触れてきたのだろう。
想像するだけで、吐き気がするほどの絶望だ。並の人間なら、三回も繰り返せば精神が崩壊している。なのにこいつは、四十三回目の今も、こうして俺の目の前で、ボロボロになりながらも俺を救うための方法を模索している。
(……なんで、そこまでできるんだよ)
俺と御子柴は、ただのクラスメイトだ。それ以上でも、それ以下でもない。なのに、どうしてこいつは、自分の人生をすべて投げ打ってまで、俺一人の命にこれほどの執着を見せるのか。
俺は、机の上に置かれた御子柴の震える拳に、そっと自分の手を重ねた。
ひんやりとした彼の肌が、俺の体温に触れて、びくついたように強張る。御子柴は弾かれたように顔を上げ、信じられないものを見る目で、俺と、重ねられた手を見つめた。
「薄葉……お前、何を……」
「落ち着け、御子柴」
俺は彼の目を真っ向から見据え、いつもの低い、けれど確かな熱を込めた声で言った。
「パニックになったら、世界の思う壺だろ。お前が四十二回も失敗してくれたおかげで、分かったことが一つある」
「……何、だと?」
「世界が俺を殺すために用意する『罠』は、俺の行動を予測して、その先回りをしているってことだ。お前が俺を誘導しようとするから、世界はお前の動きを感知して、新しい罠をリプレイスする。……だったら、作戦は一つしかない」
俺は重ねていた手に少しだけ力を込め、御子柴の細い指先を包み込んだ。彼の耳の後ろが、夕闇のような赤い色彩を帯びていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
「七月二十日の当日、俺はお前の指示通りには動かない。お前が手帳に書いた過去のどのパターンとも違う、世界すらも予測できない『完全にランダムなバカな行動』を、俺自身の意志で突発的に引き起こしてやる。お前と俺の二人で、世界の予測AIの裏をかくんだよ」
古い背表紙から漂う、わずかにカビの混ざった紙の匂いが、冷房の乾いた空気に乗って鼻腔をくすぐる。頭上から降り注ぐ蛍光灯の白い光は、幾重にも重なる本棚の影によって遮られ、俺たちの座る四人掛けの机の上には、奇妙に薄暗い空間が形成されていた。
俺の正面に座る御子柴廻は、机の上に置いた黒い手帳に両手を添えたまま、彫刻のように微動だにしない。彼の切れ上がった瞳は、まっすぐに手帳の表紙を見つめており、そこから俺へと視線を移すのをごまかすように、何度も何度も浅い呼吸を繰り返していた。いつもなら、教室の隅で誰とも交わらず、ただ冷徹に他者を拒絶している男。それが今、俺の目の前で、隠しきれない動揺と途方もない熱量を孕んで座っている。その事実だけで、俺の胸の奥には、冷たい炭酸水が弾けたような、ちりちりとした刺激が広がっていた。
「……何から話す?」
静寂を破ったのは、俺の声だった。あえていつも通りの、抑揚を欠いた、めんどくさそうなトーンを意識して言葉を投げる。
御子柴の肩がびくりと震えた。彼はゆっくりと顔を上げ、前髪の隙間から、射抜くような強い視線を俺に向けてきた。その瞳の奥には、四十二回の失敗がもたらした濃い絶望の色彩と、それでもなお諦めきれないという、狂気にも似た強烈な意志が混ざり合っている。
「……まずは、お前が死ぬ当日の、正確なタイムラインを頭に叩き込んでもらう」
御子柴の声は、驚くほど低く、そしてかすれていた。彼は長い指先で手帳のページをめくり、ある特定のページを俺の方へと向けた。そこには、七月二十日の十四時から十六時十五分までの行動が、一分単位で、恐ろしいほどの細かさで記録されていた。
「十四時三十分、終業式が終了。お前はそのまま教室に戻り、カバンをまとめる。いつもなら十四時四十五分には校門を出るはずだが、この日はなぜか、クラスの奴に呼び止められて雑談に応じている。それが十四時五十五分まで。……薄葉、お前はこの時、誰と何を話していたか覚えているか?」
「いや……」
俺は手帳に書き込まれた文字を見つめながら、小さく首を振った。
「そもそも、まだ一週間も先の未来のことなんて、覚えてるわけないだろ。第一、俺はクラスの奴と長話をするような性質じゃない。呼び止められたとしても、適当にあしらってすぐに帰るはずだ」
「それが、そうじゃないんだ」
御子柴が、身を乗り出すようにして手帳を指先で叩いた。コン、と静かな図書室に鈍い音が響く。
「お前は、普段なら絶対にしないような無駄話を、その日は十分間も続けている。相手は前の席の男子だ。内容は、夏休みの課題の範囲について。お前がその十分間のタイムロスをしたせいで、駅前のスクランブル交差点に到着する時間が、運命の『十六時十五分』に完全に合致してしまうんだ。……俺は、その十分間を削ろうとして、十四時四十五分の時点で無理やりお前を教室から連れ出したこともある。それが、十六回目のループだ」
十六回目。その数字の重みに、俺は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
「連れ出して、どうなったんだ?」
「……お前を腕を引いて、校門まで走った。お前は当然、不審がって俺の手を振り払おうとしたが、俺は構わずに走らせた。結果、お前は十五時十分には駅前の交差点を通り過ぎることができた。運命の時間を、三十分も前倒しにしたんだ。これで救えたと、その時の俺は本気で歓喜した」
御子柴の言葉が、そこでぴたりと止まった。彼の顔から、すうっと血の気が引いていくのがわかる。握りしめられた彼の拳が、机の上で激しく震え始めた。
「だが、世界は許さなかった。交差点を無事に渡りきったお前は、駅の地下街に入る階段で、後ろから走ってきたサラリーマンと激突した。運悪くバランスを崩したお前は、そのままコンクリートの階段の最下部まで転落し……頭部を強く打って、十五時二十五分に心停止した」
冷房の風が、急に氷水のように冷たく感じられた。
俺の背筋を、ぞっとするような悪寒が駆け抜けていく。時間を早めようが、交差点を回避しようが、世界は別の帳尻合わせを用意して、俺の命を確実に奪いにくる。
「……徹底的だな、おい」
「そうだ。徹底的すぎるんだ」
御子柴は、今にも泣き出しそうな、それでいて激しい怒りを堪えるような表情で、俺を凝視した。
「お前をいくら早く動かしても、いくら遅く動かしても、最終的な結末は変わらない。お前を学校の保健室に監禁した世界(三十一回目)では、十五時五十分に学校の電気室で大爆発が起きて、火災に巻き込まれた。まるでお前という存在が、この世界にとって『排除すべきエラー』であるかのように、あらゆる偶然が必然となってお前を殺しにくる」
御子柴の呼吸が、次第に荒くなっていく。彼の細い胸が、制服の生地を押し上げるように激しく上下していた。四十二回。彼は、そのすべてのバリエーションの『俺の死』を、すぐ特等席で目撃してきたのだ。俺を助けようとして伸ばしたその手が、何度も俺の冷たくなっていく身体に触れてきたのだろう。
想像するだけで、吐き気がするほどの絶望だ。並の人間なら、三回も繰り返せば精神が崩壊している。なのにこいつは、四十三回目の今も、こうして俺の目の前で、ボロボロになりながらも俺を救うための方法を模索している。
(……なんで、そこまでできるんだよ)
俺と御子柴は、ただのクラスメイトだ。それ以上でも、それ以下でもない。なのに、どうしてこいつは、自分の人生をすべて投げ打ってまで、俺一人の命にこれほどの執着を見せるのか。
俺は、机の上に置かれた御子柴の震える拳に、そっと自分の手を重ねた。
ひんやりとした彼の肌が、俺の体温に触れて、びくついたように強張る。御子柴は弾かれたように顔を上げ、信じられないものを見る目で、俺と、重ねられた手を見つめた。
「薄葉……お前、何を……」
「落ち着け、御子柴」
俺は彼の目を真っ向から見据え、いつもの低い、けれど確かな熱を込めた声で言った。
「パニックになったら、世界の思う壺だろ。お前が四十二回も失敗してくれたおかげで、分かったことが一つある」
「……何、だと?」
「世界が俺を殺すために用意する『罠』は、俺の行動を予測して、その先回りをしているってことだ。お前が俺を誘導しようとするから、世界はお前の動きを感知して、新しい罠をリプレイスする。……だったら、作戦は一つしかない」
俺は重ねていた手に少しだけ力を込め、御子柴の細い指先を包み込んだ。彼の耳の後ろが、夕闇のような赤い色彩を帯びていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
「七月二十日の当日、俺はお前の指示通りには動かない。お前が手帳に書いた過去のどのパターンとも違う、世界すらも予測できない『完全にランダムなバカな行動』を、俺自身の意志で突発的に引き起こしてやる。お前と俺の二人で、世界の予測AIの裏をかくんだよ」



