御子柴から差し出された黒い革の手帳を、俺は躊躇(ためら)うことなく受け取った。
その拍子に、俺の指先が彼の冷え切った指に微かに触れる。御子柴はビクリと肩を跳ね上げ、拒絶するように手を引こうとしたが、俺が強引に手帳を掴み取ったため、彼はそれ以上動けなくなった。掠れた夏の風が、二人の間に生温く吹き抜けていく。
手帳を開くと、そこには几帳面(きちょうめん)な、けれどどこか切迫した筆跡で、七月二十日のタイムラインが詳細に書き込まれていた。
「十四時三十分、終業式終了。十五時、薄葉が教室を出る。十五時二十分、購買前の廊下を通る……。おい、御子柴。これ、分単位で俺の行動をストーキングしてたのか?」
「ストーカーなどと言うな!」
御子柴が顔を真っ赤にして色をなした。目角(めかど)を鋭く立てて俺を睨(にら)みつけてくるが、その耳の根元まで朱に染まっている。
「お前がどこで何を選択するか、その傾向を掴(つか)まなければ防ぎようがないだろう。最初の十回ほどは、お前がいつもの帰宅ルートを変えるだけで事故を回避できると思っていた。だが、違った。十五時に教室を出たお前が、まっすぐ帰らずに図書室に寄った世界(九回目)では、十五時四十五分に図書室の窓ガラスが割れてお前の喉元(のどもと)を切り裂いた。十六時に校門を出て、あえて逆方向の電車に乗った世界(十七回目)では、駅のホームで線路に転落した。……まるで、時間が来れば自動的に執行される死刑宣告だ」
御子柴の声は、次第に熱を帯び、それと同時に絶望の色を深めていく。
彼は自分の頭を抱えるようにして、ずるずると錆びついた鉄パイプに背を預けた。端正な顔が、苦悶(くもん)に歪(ゆが)んでいる。
「何をしても、どんな選択をしても、最後の結末だけが変わらない。世界そのものが、お前を殺すための巨大な罠(わな)に見えてくるんだ。……四十二回だぞ? 四十二回、俺はお前が死ぬのをただ見ていることしかできなかった。お前を助けようと伸ばしたこの手が、何度も、お前の血で汚れて……」
彼の言葉が途切れ、激しい過呼吸のような音が静寂の裏庭に響く。
その限界まで張り詰めた横顔を見て、俺は小さく息を吐いた。
いつもクラスの隅で、誰とも群れずに「塩対応」を貫いている御子柴廻。何を考えているか分からない一匹狼。それが、周囲の評価だった。俺自身も、こいつのことは「近寄りがたい無口な奴」としか思っていなかった。
だが、その鉄面の裏側で、こいつはこれほどまでに狂おしいほどの熱量と、歪んだ執着を俺に向けていたのだ。
(……重い。重すぎるだろ、普通に考えて)
親しくもないクラスメイトのために、十ヶ月以上も地獄のループを繰り返すなんて、正気の沙汰(さた)じゃない。普通なら、恐怖で逃げ出すか、頭が狂ってすべてを投げ出すはずだ。なのに御子柴は、四十三回目の今もこうして、俺を救うためにボロボロの身体を引きずって立っている。
その事実が、俺の胸の奥を奇妙に逆撫(さかな)でした。
恐怖よりも先に、どうしようもない昂(たか)ぶりが脳を支配していく。極度のめんどくさがり屋であるはずの俺の心が、こいつの絶望に触れた瞬間、パチパチと音を立てて火花を散らしている。
「なあ、御子柴」
俺は手帳をパタンと閉じ、彼の目の前にしゃがみ込んだ。
下から覗き込むようにして彼の目を見つめる。御子柴はハッとしたように視線を彷徨(さまよ)わせたが、俺が彼の膝(ひざ)を軽く叩くと、諦めたようにその濁った瞳を俺に固定した。
「四十二回失敗したってことは、お前の『隠密作戦』が世界に読まれてるってことだよ。お前一人で俺の周りをチョロチョロ動いて、運命の裏をかこうとするから、世界が新しい罠を用意する隙を与えるんだ」
「……何が言いたい」
「だから、今回は正面突破だ」
俺は立ち上がり、夕日に向かって背筋を伸ばした。
「七月二十日の当日、俺はお前の言う通りに動かない。お前が記録した過去の四十二回のどの行動とも違う、全く新しい選択を俺自身の意志で積み重ねる。お前が俺を引っ張るんじゃない。俺が、お前を巻き込んで運命のルートを外れてやる」
御子柴は呆然(ぼうぜん)としたように、俺を見上げていた。その形の良い唇が微かに戦慄(わなな)いている。彼の中に、戸惑いと、それ以上の小さな『衝撃』が走っているのが見て取れた。
「薄葉……お前、本気で言っているのか? もし失敗したら……」
「失敗したら、またお前が時間を戻すんだろ?」
俺は振り返り、意地悪く口元を歪めてみせた。
「四十四回目があるのかは知らないけどさ。でも、どうせ戻るなら、一回くらい俺の作戦に付き合えよ。……というわけで、作戦第一段階だ」
俺はポケットからスマホを取り出し、御子柴の目の前に突きつけた。
「連絡先、教えろ」
「……は?」
「は? じゃないだろ。共闘するって決めたのに、連絡手段もないなんて話にならない。まさか毎日この泥臭い裏庭で作戦会議をするつもりか? そんなの面倒だし、虫に刺される」
俺が淡々と言い放つと、御子柴は信じられないものを見る目で俺のスマホと顔を交互に見た。それから、ひどく不器用な手つきで自分のポケットからスマホを取り出し、俺の画面にQRコードをかざす。
『ピコん』という軽い電子音が、重苦しかった裏庭の空気を拍子抜けするほど簡単に切り裂いた。
画面に表示された【みこしば】の文字を見て、俺の胸の奥が、ほんの少しだけトクンと跳ねたような気がした。予想外の、奇妙な動揺。けれど俺はそれを表情には一切出さず、いつもの塩対応の仮面で覆い隠す。
「よし。これで繋がったな」
スマホをカバンに仕舞いながら、俺は冷たくなった夕闇が裏庭を包み込んでいくのを感じていた。蝉の声も、いつの間にかヒグラシの悲しげな鳴き声へと変わっている。
「明日からの放課後、全部俺にくれよ、御子柴」
「……なっ!?」
「勘違いするな。作戦会議の時間のことだ。一週間、俺の行動パターンを脳内に叩き込むシミュレーションを二人でやる。お前が持ってるその手帳の情報、全部俺に吐き出してもらうからな」
御子柴は言葉に詰まり、顔を真っ赤にしたまま、ふいっと気まずそうに背を向けた。
いつもなら「うっとうしい」と切り捨てるはずの彼が、何も言い返せずに、ただ小さく「……分かった」とだけ呟(つぶや)く。その背中は、昼間よりもほんの少しだけ、肩の荷が軽くなったように見えた。
噛み合わなかったはずの、二人の「塩対応」な歯車。
四十三回目の世界で、俺たちはついに、同じ絶望のラインに立ち、同じ未来を見据えて回り始めた。
「じゃあ、また明日。教室でな、相棒」
俺はそう言い残し、今度こそ振り返らずに、薄暗い裏庭から校門へと歩き出した。背後から、御子柴の視線が痛いほど突き刺さっているのを感じながら、俺は唇の端を人知れず吊り上げていた。
その拍子に、俺の指先が彼の冷え切った指に微かに触れる。御子柴はビクリと肩を跳ね上げ、拒絶するように手を引こうとしたが、俺が強引に手帳を掴み取ったため、彼はそれ以上動けなくなった。掠れた夏の風が、二人の間に生温く吹き抜けていく。
手帳を開くと、そこには几帳面(きちょうめん)な、けれどどこか切迫した筆跡で、七月二十日のタイムラインが詳細に書き込まれていた。
「十四時三十分、終業式終了。十五時、薄葉が教室を出る。十五時二十分、購買前の廊下を通る……。おい、御子柴。これ、分単位で俺の行動をストーキングしてたのか?」
「ストーカーなどと言うな!」
御子柴が顔を真っ赤にして色をなした。目角(めかど)を鋭く立てて俺を睨(にら)みつけてくるが、その耳の根元まで朱に染まっている。
「お前がどこで何を選択するか、その傾向を掴(つか)まなければ防ぎようがないだろう。最初の十回ほどは、お前がいつもの帰宅ルートを変えるだけで事故を回避できると思っていた。だが、違った。十五時に教室を出たお前が、まっすぐ帰らずに図書室に寄った世界(九回目)では、十五時四十五分に図書室の窓ガラスが割れてお前の喉元(のどもと)を切り裂いた。十六時に校門を出て、あえて逆方向の電車に乗った世界(十七回目)では、駅のホームで線路に転落した。……まるで、時間が来れば自動的に執行される死刑宣告だ」
御子柴の声は、次第に熱を帯び、それと同時に絶望の色を深めていく。
彼は自分の頭を抱えるようにして、ずるずると錆びついた鉄パイプに背を預けた。端正な顔が、苦悶(くもん)に歪(ゆが)んでいる。
「何をしても、どんな選択をしても、最後の結末だけが変わらない。世界そのものが、お前を殺すための巨大な罠(わな)に見えてくるんだ。……四十二回だぞ? 四十二回、俺はお前が死ぬのをただ見ていることしかできなかった。お前を助けようと伸ばしたこの手が、何度も、お前の血で汚れて……」
彼の言葉が途切れ、激しい過呼吸のような音が静寂の裏庭に響く。
その限界まで張り詰めた横顔を見て、俺は小さく息を吐いた。
いつもクラスの隅で、誰とも群れずに「塩対応」を貫いている御子柴廻。何を考えているか分からない一匹狼。それが、周囲の評価だった。俺自身も、こいつのことは「近寄りがたい無口な奴」としか思っていなかった。
だが、その鉄面の裏側で、こいつはこれほどまでに狂おしいほどの熱量と、歪んだ執着を俺に向けていたのだ。
(……重い。重すぎるだろ、普通に考えて)
親しくもないクラスメイトのために、十ヶ月以上も地獄のループを繰り返すなんて、正気の沙汰(さた)じゃない。普通なら、恐怖で逃げ出すか、頭が狂ってすべてを投げ出すはずだ。なのに御子柴は、四十三回目の今もこうして、俺を救うためにボロボロの身体を引きずって立っている。
その事実が、俺の胸の奥を奇妙に逆撫(さかな)でした。
恐怖よりも先に、どうしようもない昂(たか)ぶりが脳を支配していく。極度のめんどくさがり屋であるはずの俺の心が、こいつの絶望に触れた瞬間、パチパチと音を立てて火花を散らしている。
「なあ、御子柴」
俺は手帳をパタンと閉じ、彼の目の前にしゃがみ込んだ。
下から覗き込むようにして彼の目を見つめる。御子柴はハッとしたように視線を彷徨(さまよ)わせたが、俺が彼の膝(ひざ)を軽く叩くと、諦めたようにその濁った瞳を俺に固定した。
「四十二回失敗したってことは、お前の『隠密作戦』が世界に読まれてるってことだよ。お前一人で俺の周りをチョロチョロ動いて、運命の裏をかこうとするから、世界が新しい罠を用意する隙を与えるんだ」
「……何が言いたい」
「だから、今回は正面突破だ」
俺は立ち上がり、夕日に向かって背筋を伸ばした。
「七月二十日の当日、俺はお前の言う通りに動かない。お前が記録した過去の四十二回のどの行動とも違う、全く新しい選択を俺自身の意志で積み重ねる。お前が俺を引っ張るんじゃない。俺が、お前を巻き込んで運命のルートを外れてやる」
御子柴は呆然(ぼうぜん)としたように、俺を見上げていた。その形の良い唇が微かに戦慄(わなな)いている。彼の中に、戸惑いと、それ以上の小さな『衝撃』が走っているのが見て取れた。
「薄葉……お前、本気で言っているのか? もし失敗したら……」
「失敗したら、またお前が時間を戻すんだろ?」
俺は振り返り、意地悪く口元を歪めてみせた。
「四十四回目があるのかは知らないけどさ。でも、どうせ戻るなら、一回くらい俺の作戦に付き合えよ。……というわけで、作戦第一段階だ」
俺はポケットからスマホを取り出し、御子柴の目の前に突きつけた。
「連絡先、教えろ」
「……は?」
「は? じゃないだろ。共闘するって決めたのに、連絡手段もないなんて話にならない。まさか毎日この泥臭い裏庭で作戦会議をするつもりか? そんなの面倒だし、虫に刺される」
俺が淡々と言い放つと、御子柴は信じられないものを見る目で俺のスマホと顔を交互に見た。それから、ひどく不器用な手つきで自分のポケットからスマホを取り出し、俺の画面にQRコードをかざす。
『ピコん』という軽い電子音が、重苦しかった裏庭の空気を拍子抜けするほど簡単に切り裂いた。
画面に表示された【みこしば】の文字を見て、俺の胸の奥が、ほんの少しだけトクンと跳ねたような気がした。予想外の、奇妙な動揺。けれど俺はそれを表情には一切出さず、いつもの塩対応の仮面で覆い隠す。
「よし。これで繋がったな」
スマホをカバンに仕舞いながら、俺は冷たくなった夕闇が裏庭を包み込んでいくのを感じていた。蝉の声も、いつの間にかヒグラシの悲しげな鳴き声へと変わっている。
「明日からの放課後、全部俺にくれよ、御子柴」
「……なっ!?」
「勘違いするな。作戦会議の時間のことだ。一週間、俺の行動パターンを脳内に叩き込むシミュレーションを二人でやる。お前が持ってるその手帳の情報、全部俺に吐き出してもらうからな」
御子柴は言葉に詰まり、顔を真っ赤にしたまま、ふいっと気まずそうに背を向けた。
いつもなら「うっとうしい」と切り捨てるはずの彼が、何も言い返せずに、ただ小さく「……分かった」とだけ呟(つぶや)く。その背中は、昼間よりもほんの少しだけ、肩の荷が軽くなったように見えた。
噛み合わなかったはずの、二人の「塩対応」な歯車。
四十三回目の世界で、俺たちはついに、同じ絶望のラインに立ち、同じ未来を見据えて回り始めた。
「じゃあ、また明日。教室でな、相棒」
俺はそう言い残し、今度こそ振り返らずに、薄暗い裏庭から校門へと歩き出した。背後から、御子柴の視線が痛いほど突き刺さっているのを感じながら、俺は唇の端を人知れず吊り上げていた。



