翌日、七月十四日の朝。
じりじりと肌を焼くような不快な日差しが、登校中のローファーを熱していた。歩くたびにアスファルトから立ち上る陽炎が、視界をぐにゃりと歪める。いつもなら「暑い、だるい、学校に行きたくない」という三拍子で頭の中を埋め尽くしているはずの俺だったが、今日ばかりは、ほんの少しだけ足取りが軽かった。
教室の引き戸を開けると、冷房の冷気とともに、いかにも男子校らしい汗と制汗スプレーの混ざった匂いが鼻を突く。
俺はいつも通り、自分の席へと向かいながら、視線だけを教室の最奥へと滑らせた。
いた。
御子柴廻は、すでに自分の席に座っていた。
窓枠に肘を突き、頬杖をついて外を眺めている。その横顔は相変わらず不機嫌そうで、近づくなというオーラを全身から放っていた。けれど、昨日俺が指摘した泥汚れの制服はきれいに洗濯されたものに替わっており、足元のローファーも新品とまではいかないが、綺麗に磨かれた別のものになっていた。
――やっぱり、昨日のあれは現実だ。
俺が席に着くと、御子柴の身体が一瞬、硬直したのがわかった。彼は外を向いたまま微動だにしないが、首筋の筋が妙に緊張して張っている。意識されている。嫌でもそれが伝わってきて、俺の唇の端が自然と持ち上がった。
「おはよ、御子柴」
あえて、普段なら絶対にしない「自発的な挨拶」を、席に着きがてら投げかけてみる。
クラスの数人が、珍しいものを見る目で俺たちを振り返った。いつも塩対応を貫く俺が、同じく塩対応の御子柴に話しかけること自体が、この教室では異常事態なのだ。
御子柴はゆっくりと首を回し、俺を睨み据えた。その瞳の回りには、昨日よりもさらに濃い、酷い隈が刻まれている。一体この男は、昨晩どれほど睡眠を削ったのだろうか。俺を救うためのシミュレーションでもしていたのだろうか。
「……気安く話しかけるな。耳障りだ」
低く、地を這うような声。いつも通り冷徹な拒絶。
けれど、俺は気づいてしまった。彼が握りしめているシャーペンの指先が、白くなるほど強張っていることに。そして、その視線が、俺の首元や胸元――昨日、トラックの衝撃をまともに受けたであろう場所――を、値踏みするように、あるいは無事を確認するように、一瞬だけ彷徨ったことに。
(本当に不器用な奴。そんなに心配なら、普通にそう言えばいいのに)
「そ。じゃあ、静かにしてるよ」
俺は素っ気なく答えて、自分の机に教科書を広げた。追及は急がない。一気に詰め寄れば、この警戒心の強い野良犬は、またどこかへ逃げてしまうか、あるいは完全に殻に閉じこもってしまうだろう。一週間という猶予は、長いようで短い。けれど、彼を観察するには十分な時間だ。
一限目の数学の授業中、俺はノートを取るフリをしながら、時折、斜め後ろの御子柴を盗み見た。
御子柴は真面目に授業を聞いている風を装っていたが、その視線は頻繁に時計と、割と頻繁に俺の背中に向けられていた。俺が少しでも大きく息を吐いたり、首を傾げたりするたびに、彼のペンがピタリと止まる。その過剰なまでの反応が、なんだか可笑しくて、同時に奇妙な胸の痛みを伴った。
四十二回。
プロローグで俺が思い出した数字が確かなら、彼は四十二回も、俺が死ぬ一週間を繰り返していることになる。
一週間×四十二回。単純計算でも、彼は十ヶ月近く、この閉じた時間の中で、俺の死を何度も何度も目の当たりにしてきたわけだ。
(……どんな気分なんだろうな、それって)
想像するだけで、気が遠くなりそうだった。自分の存在すらまともに認識していないような塩対応のクラスメイトが、目の前で肉塊に変わる瞬間を、四十二回も。その絶望と、孤独。
彼がどれだけ冷たい言葉を吐こうとも、俺を突き放そうとも、その裏にある圧倒的な『生への執着』を思えば、腹を立てる気なんて失せてしまう。
昼休み。
弁当を食べ終えた俺は、席を立った。御子柴はすでに教室を出ていっている。どこへ行くかは、だいたい予想がついていた。彼のような一匹狼が、騒がしい学食や購買に行くはずがない。向かうのは、人の少ない静かな場所――旧校舎への渡り廊下か、あるいは屋上の手前の踊り場だ。
カラン、と水筒の氷が鳴る音を響かせながら、俺は階段を上った。
案の定、最上階の、屋上へと続く重い鉄扉の手前。薄暗い踊り場の階段に、御子柴は腰掛けていた。膝の上に購買の焼きそばパンを乗せたまま、食べようともせず、ただぼんやりとコンクリートの床を見つめている。
「やっぱりここにいた」
俺の声に、御子柴の肩が大きく跳ね上がった。
彼は弾かれたように立ち上がり、焼きそばパンを落としそうになりながら、信じられないものを見る目で俺を凝視した。
「……薄葉。お前、なんで……」
「なんでって、静かな場所を探してたらここに着いただけ。隣、いい?」
許可なんて待たずに、俺は御子柴が座っていた一段下の階段に、腰を降ろした。背中で彼の気配を感じる。御子柴は立ったまま、逃げ出すべきか否かを激しく葛藤しているようだった。長い沈黙の後、諦めたように衣類が擦れる音がして、彼は俺の斜め後ろ、元の位置にどさりと座り直した。
「……目障りだと言ったはずだ。なぜ付きまとう」
「付きまとってないって。ただの偶然。それよりさ、御子柴」
俺は首だけを後ろに振り、階段の上段にいる彼を見上げた。薄暗い踊り場の中、窓から差し込む一筋の光が、御子柴の端正な、だけど酷くやつれた顔を照らしている。
「俺さ、昨日、すっごく変な夢を見たんだよね」
その言葉を口にした瞬間、空気が、ぴたりと凍りついた。
御子柴の呼吸が止まる。彼の切れ上がった瞳が、限界まで大きく見開かれた。
「……夢?」
「うん。大きな交差点でさ、ブレーキの壊れたトラックが突っ込んでくるの。俺は動けなくて、あ、これ死んだわって思ったんだけど……」
俺はわざと、言葉を少し濁らせて、彼の反応を窺った。
御子柴の顔から、完全に血の気が引いていくのがわかった。彼は焼きそばパンを握りつぶしそうなほど指に力を入れ、小刻みに震え始めている。
「その時、視界の端で、誰かが俺の名前を呼んで、必死に手を伸ばしてたんだよね。すっごい必死な顔で。……ねえ、御子柴。その人の顔、誰に似てたと思う?」
「やめろ」
地声よりもずっと低い、地獄の底から響くような声だった。
御子柴はガタガタと震える手で、俺の制服の肩を強く掴んだ。指先が肉に食い込んで、少し痛いくらいだ。彼の呼吸は完全に乱れ、過呼吸の一歩手前のような荒い息が、俺の耳元をかすめる。
「……そんな、くだらない妄想を話すな。お前が夢で死のうが生きようが、俺には関係ない。二度と、俺の前でその話を口にするな……!」
必死だった。
俺を睨みつける彼の瞳は、怒りではなく、圧倒的な『恐怖』に支配されていた。今にも泣き出しそうな、それでいて俺を絶対に離さないとでも言うような、強烈な拒絶と執着。
掴まれた肩から、彼の体温が痛いほど伝わってくる。
塩対応の仮面の裏に隠された、剥き出しの感情。
(あぁ、やっぱり。お前、俺のことが――)
俺は心の中でその言葉を呟きながら、痛む肩を意に介さず、ただ静かに彼の崩壊していく表情を見つめていた。
じりじりと肌を焼くような不快な日差しが、登校中のローファーを熱していた。歩くたびにアスファルトから立ち上る陽炎が、視界をぐにゃりと歪める。いつもなら「暑い、だるい、学校に行きたくない」という三拍子で頭の中を埋め尽くしているはずの俺だったが、今日ばかりは、ほんの少しだけ足取りが軽かった。
教室の引き戸を開けると、冷房の冷気とともに、いかにも男子校らしい汗と制汗スプレーの混ざった匂いが鼻を突く。
俺はいつも通り、自分の席へと向かいながら、視線だけを教室の最奥へと滑らせた。
いた。
御子柴廻は、すでに自分の席に座っていた。
窓枠に肘を突き、頬杖をついて外を眺めている。その横顔は相変わらず不機嫌そうで、近づくなというオーラを全身から放っていた。けれど、昨日俺が指摘した泥汚れの制服はきれいに洗濯されたものに替わっており、足元のローファーも新品とまではいかないが、綺麗に磨かれた別のものになっていた。
――やっぱり、昨日のあれは現実だ。
俺が席に着くと、御子柴の身体が一瞬、硬直したのがわかった。彼は外を向いたまま微動だにしないが、首筋の筋が妙に緊張して張っている。意識されている。嫌でもそれが伝わってきて、俺の唇の端が自然と持ち上がった。
「おはよ、御子柴」
あえて、普段なら絶対にしない「自発的な挨拶」を、席に着きがてら投げかけてみる。
クラスの数人が、珍しいものを見る目で俺たちを振り返った。いつも塩対応を貫く俺が、同じく塩対応の御子柴に話しかけること自体が、この教室では異常事態なのだ。
御子柴はゆっくりと首を回し、俺を睨み据えた。その瞳の回りには、昨日よりもさらに濃い、酷い隈が刻まれている。一体この男は、昨晩どれほど睡眠を削ったのだろうか。俺を救うためのシミュレーションでもしていたのだろうか。
「……気安く話しかけるな。耳障りだ」
低く、地を這うような声。いつも通り冷徹な拒絶。
けれど、俺は気づいてしまった。彼が握りしめているシャーペンの指先が、白くなるほど強張っていることに。そして、その視線が、俺の首元や胸元――昨日、トラックの衝撃をまともに受けたであろう場所――を、値踏みするように、あるいは無事を確認するように、一瞬だけ彷徨ったことに。
(本当に不器用な奴。そんなに心配なら、普通にそう言えばいいのに)
「そ。じゃあ、静かにしてるよ」
俺は素っ気なく答えて、自分の机に教科書を広げた。追及は急がない。一気に詰め寄れば、この警戒心の強い野良犬は、またどこかへ逃げてしまうか、あるいは完全に殻に閉じこもってしまうだろう。一週間という猶予は、長いようで短い。けれど、彼を観察するには十分な時間だ。
一限目の数学の授業中、俺はノートを取るフリをしながら、時折、斜め後ろの御子柴を盗み見た。
御子柴は真面目に授業を聞いている風を装っていたが、その視線は頻繁に時計と、割と頻繁に俺の背中に向けられていた。俺が少しでも大きく息を吐いたり、首を傾げたりするたびに、彼のペンがピタリと止まる。その過剰なまでの反応が、なんだか可笑しくて、同時に奇妙な胸の痛みを伴った。
四十二回。
プロローグで俺が思い出した数字が確かなら、彼は四十二回も、俺が死ぬ一週間を繰り返していることになる。
一週間×四十二回。単純計算でも、彼は十ヶ月近く、この閉じた時間の中で、俺の死を何度も何度も目の当たりにしてきたわけだ。
(……どんな気分なんだろうな、それって)
想像するだけで、気が遠くなりそうだった。自分の存在すらまともに認識していないような塩対応のクラスメイトが、目の前で肉塊に変わる瞬間を、四十二回も。その絶望と、孤独。
彼がどれだけ冷たい言葉を吐こうとも、俺を突き放そうとも、その裏にある圧倒的な『生への執着』を思えば、腹を立てる気なんて失せてしまう。
昼休み。
弁当を食べ終えた俺は、席を立った。御子柴はすでに教室を出ていっている。どこへ行くかは、だいたい予想がついていた。彼のような一匹狼が、騒がしい学食や購買に行くはずがない。向かうのは、人の少ない静かな場所――旧校舎への渡り廊下か、あるいは屋上の手前の踊り場だ。
カラン、と水筒の氷が鳴る音を響かせながら、俺は階段を上った。
案の定、最上階の、屋上へと続く重い鉄扉の手前。薄暗い踊り場の階段に、御子柴は腰掛けていた。膝の上に購買の焼きそばパンを乗せたまま、食べようともせず、ただぼんやりとコンクリートの床を見つめている。
「やっぱりここにいた」
俺の声に、御子柴の肩が大きく跳ね上がった。
彼は弾かれたように立ち上がり、焼きそばパンを落としそうになりながら、信じられないものを見る目で俺を凝視した。
「……薄葉。お前、なんで……」
「なんでって、静かな場所を探してたらここに着いただけ。隣、いい?」
許可なんて待たずに、俺は御子柴が座っていた一段下の階段に、腰を降ろした。背中で彼の気配を感じる。御子柴は立ったまま、逃げ出すべきか否かを激しく葛藤しているようだった。長い沈黙の後、諦めたように衣類が擦れる音がして、彼は俺の斜め後ろ、元の位置にどさりと座り直した。
「……目障りだと言ったはずだ。なぜ付きまとう」
「付きまとってないって。ただの偶然。それよりさ、御子柴」
俺は首だけを後ろに振り、階段の上段にいる彼を見上げた。薄暗い踊り場の中、窓から差し込む一筋の光が、御子柴の端正な、だけど酷くやつれた顔を照らしている。
「俺さ、昨日、すっごく変な夢を見たんだよね」
その言葉を口にした瞬間、空気が、ぴたりと凍りついた。
御子柴の呼吸が止まる。彼の切れ上がった瞳が、限界まで大きく見開かれた。
「……夢?」
「うん。大きな交差点でさ、ブレーキの壊れたトラックが突っ込んでくるの。俺は動けなくて、あ、これ死んだわって思ったんだけど……」
俺はわざと、言葉を少し濁らせて、彼の反応を窺った。
御子柴の顔から、完全に血の気が引いていくのがわかった。彼は焼きそばパンを握りつぶしそうなほど指に力を入れ、小刻みに震え始めている。
「その時、視界の端で、誰かが俺の名前を呼んで、必死に手を伸ばしてたんだよね。すっごい必死な顔で。……ねえ、御子柴。その人の顔、誰に似てたと思う?」
「やめろ」
地声よりもずっと低い、地獄の底から響くような声だった。
御子柴はガタガタと震える手で、俺の制服の肩を強く掴んだ。指先が肉に食い込んで、少し痛いくらいだ。彼の呼吸は完全に乱れ、過呼吸の一歩手前のような荒い息が、俺の耳元をかすめる。
「……そんな、くだらない妄想を話すな。お前が夢で死のうが生きようが、俺には関係ない。二度と、俺の前でその話を口にするな……!」
必死だった。
俺を睨みつける彼の瞳は、怒りではなく、圧倒的な『恐怖』に支配されていた。今にも泣き出しそうな、それでいて俺を絶対に離さないとでも言うような、強烈な拒絶と執着。
掴まれた肩から、彼の体温が痛いほど伝わってくる。
塩対応の仮面の裏に隠された、剥き出しの感情。
(あぁ、やっぱり。お前、俺のことが――)
俺は心の中でその言葉を呟きながら、痛む肩を意に介さず、ただ静かに彼の崩壊していく表情を見つめていた。



