廻の分厚い胸板に衝突した衝撃は、心地よい痛みを伴って俺の全身の細胞を激しく覚醒させた。
衣服越しに伝わってくるあいつの体温は、夏の熱気すら生温く思えるほどに熱く、気狂いじみた速度で打つ心臓の鼓動が、俺の背中をドクドクと激しく震わせている。クラスの連中が何事かと呆然(ぼうぜん)とした声を上げ、教室の空気が一瞬で凍りついたのが分かった。いつもなら他人の視線を集めることなど絶対に避ける俺だったが、今この瞬間ばかりは、世界中のすべての視線が俺たちに集まろうがどうでもよかった。
「薄葉……っ、しっかり掴まっていろ!」
廻が低く、けれど雷鳴のように確かな声を俺の耳元で響かせた。
次の瞬間、あいつは俺の身体を横抱きに軽々と抱え上げると、一切の躊躇(ためら)いもなく二階の開け放たれた窓枠へと足をかけた。
(本当にやりやがった……!)
俺は廻の逞(たくま)しい首筋に両腕をきつく巻き付け、あいつの制服の生地を指先が白くなるほど強く握りしめた。
視界がぐにゃりと反転する。
夏の青空と、ギラギラと輝く金色の太陽が視界をよぎったかと思うと、俺たちの身体は重力に従って、二階の窓からまっさ逆さまに中庭へと放たれた。
凄まじい浮遊感が胃のあたりを突き上げ、一瞬だけ呼吸が止まる。
けれど、恐怖は微塵(みじん)もなかった。俺を抱きしめる廻の両腕には、何があっても俺を離さないという、四十二回の絶望が育て上げた狂気的なまでの執着が籠もっていたからだ。あいつは空中で器用に身体を捻(ひね)り、俺を上側にするようにして、すべての衝撃を自分が引き受ける体勢をとった。
ドサリ、という激しい音と共に、茂った植木が俺たちの身体を受け止める。
激しい衝撃に廻が小さな呻(うめ)き声を漏らしたが、あいつの腕は一ミリも緩むことはなかった。それどころか、着地した瞬間にあいつは俺を抱えたまま植木を飛び出し、校門とは完全に真逆の方向――旧校舎の裏手にある、鬱蒼(うっそう)とした裏山へと向かって猛然と走り出した。
「廻、大丈夫か!? 怪我は!?」
「気にするな……っ! お前が、お前が無事なら、俺の骨の二、三本どうなっても構わない!」
あいつは荒い息を吐き出しながら、狂ったように足を動かし続けた。前髪の間から覗(のぞ)く瞳は、完全に世界への敵意と、俺への異常なまでの過保護さに支配されている。
その時、俺たちの背後で、バリバリと不自然な金属音が鳴り響いた。
振り返ると、さっきまで俺たちがいた本校舎の屋上から、巨大な給水タンクの破片が、あり得ない角度で中庭へと落下してくるのが見えた。もし俺がいつも通り十五分間教室で無駄話をしていたら、ちょうどあの場所を通りかかっていたはずのタイミングだ。世界が、俺を殺すための『罠』を強引に発動させたのだ。
「チッ、やっぱり追ってきたか……!」
俺は廻の首に腕を回したまま、叫ぶように指示を出した。
「廻、右だ! いや、あえてその先の枯れ木の根元を左に跳べ!」
「分かった!」
廻は俺の突飛(とっぴ)なナビゲーションに、一ミリの疑いも持たずに従った。あいつの驚異的な身体能力が、俺の気まぐれなランダム行動を完璧にトレースしていく。
あいつが左へ跳んだ直後、俺たちが本来進むはずだった右側の斜面が、原因不明の局地的な土砂崩れを起こして激しく崩落した。世界の予測アルゴリズムが、俺たちのバカげた突発的な選択の前に、完全に先回りを失敗して空を切っている。
「ざまぁみろ、クソシステムが!」
俺は廻の胸の中で、初めて声を上げて大笑いした。
あいつの胸の鼓動が、俺の笑い声に呼応するようにトクンと甘く跳ね上がる。廻は俺の頭を自分の胸元へと強く押し付け、さらに速度を上げて山の斜面を駆け上がっていった。
生い茂る木々を掻き分け、枝葉が制服を裂くのも厭(いと)わずに走り続け、俺たちがたどり着いたのは、裏山の山頂にある、今は誰も使っていない気象観測用の古びた鉄塔の足元だった。
周囲は完全に開けており、上空には遮るもののない夏の終わりの夕焼け空が、血のような鮮やかな赤と紫のグラデーションを描き出している。
廻はそこでようやく俺を地面へと降ろし、激しく肩を上下させながらその場に膝をついた。
あいつの制服は泥と木の葉でボロボロになり、頬には小さな切り傷から一筋の血が流れていた。けれど、その瞳だけは、極上の宝石のように怪しく、そして熱く輝いている。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面のデジタル時計を見つめる。
十五時五十五分。
十六時。
十六時十分。
じりじりと、非情だった時間が、俺たちの間を静かに通り過ぎていく。
世界はもう、俺たちを追ってくる気配を見せなかった。裏山を吹き抜ける風は、どこまでも穏やかで、蝉の声すらも遠くで心地よく響いている。
そして――十六時十五分。
運命の瞬間が、訪れた。
トラックの暴走する音も、何かが崩れ落ちる音も、俺の身体を切り裂く痛みも、何一つとして訪れない。ただ、廻の荒い呼吸の音と、俺自身の生々しい心臓の音だけが、山頂の静寂に響き渡っていた。
「……終わった、のか?」
廻が、掠(かす)れた声で呟(つぶや)いた。あいつの瞳から、一滴の大きな涙が溢(あふ)れ、頬の傷を濡らしながら顎のラインへと落ちていく。
「ああ、終わったんだよ、廻」
俺はあいつの目の前にしゃがみ込み、その泥で汚れた白い頬を、両手で優しく包み込んだ。
あいつの身体が、緊張の糸が切れたようにガタガタと激しく震え始める。四十二回の地獄、十ヶ月以上もの孤独な戦い。そのすべての重圧から、こいつは今、ようやく解放されたのだ。
「薄葉……薄葉……っ! 俺は、お前を……お前を本当に救えたんだな……!?」
「救えたよ。お前のおかげだ、廻。ありがとな」
俺がいつもの塩対応からは想像もつかないほど甘く、 慈しむような声で微笑むと、廻は子供のように声を上げて泣きながら、俺の身体を壊れ物を扱うかのように強く、強く抱きしめてきた。
あいつの涙が俺の首元を濡らし、その熱さが胸の奥の最も深い場所へと染み込んでいく。
「もう、どこにも行くな……。俺のそばにいろ。一生、俺の視界から消えるな……!」
「行かないよ。お前がこんなに重い愛をくれたんだ、責任取ってもらうからな」
俺はあいつの広い背中に腕を回し、その心地よい重みを全身で受け止めた。
廻は俺の言葉に救われたように顔を上げると、濡れた瞳で俺をじっと見つめ、それから吸い寄せられるように唇を重ねてきた。
今回のキスは、昨日までの焦燥(しょうそう)に満ちたものとは全く違っていた。
お互いがお互いの存在を、未来を、そして確かな愛を確かめ合うような、どこまでも深く、蕩(とろ)けるように甘い口づけ。あいつの舌が俺の口内を愛おしそうに撫(な)でるたび、頭の芯が痺(しび)れ、体温が際限なく上昇していく。俺は廻の髪に指を絡め、もっと奥まで欲しいと強請(ねだ)るように、あいつの唇を強く吸い返した。
「ん……、ふぁ……、廻……っ」
息が続かなくなり、 唇が離れる。
二人の間に伸びた銀の糸が夕日にキラキラと輝き、廻は愛おしさが爆発したような表情で、俺の額や目元、 頬に何度も何度も、 狂おしいほどの愛を込めて小刻みなキスを落としてきた。その過保護で、 独占欲に満ちたあいつの愛撫(あいぶ)が、 今の俺にはたまらなく愛おしい。
「四十三回目の世界、大成功だな、相棒」
俺が胸元で小さく笑うと、廻は照れたように、けれどこれまでで一番綺麗な、眩(まぶ)しいほどの笑顔を浮かべて俺の頭を撫でた。
「ああ。これからは、俺とお前の、誰も知らない新しい時間が始まるんだ」
赤く染まった世界の中心で、俺たちはいつまでも抱き合い、互いの体温を確かめ合っていた。噛み合わなかったはずの二人の歯車は、理不尽な死の運命を完全に打ち破り、これからは誰にも邪魔されることなく、どこまでも深く、甘やかに重なり合っていく。あいつの狂おしいほどの執着と愛をこの身にすべて受け止めながら、俺たちは誰も見たことのない、光に満ちた幸福な未来へと歩みを進めていく。もう二度と、この温かい手が離れることはないのだと、胸の奥で強く確信しながら。
衣服越しに伝わってくるあいつの体温は、夏の熱気すら生温く思えるほどに熱く、気狂いじみた速度で打つ心臓の鼓動が、俺の背中をドクドクと激しく震わせている。クラスの連中が何事かと呆然(ぼうぜん)とした声を上げ、教室の空気が一瞬で凍りついたのが分かった。いつもなら他人の視線を集めることなど絶対に避ける俺だったが、今この瞬間ばかりは、世界中のすべての視線が俺たちに集まろうがどうでもよかった。
「薄葉……っ、しっかり掴まっていろ!」
廻が低く、けれど雷鳴のように確かな声を俺の耳元で響かせた。
次の瞬間、あいつは俺の身体を横抱きに軽々と抱え上げると、一切の躊躇(ためら)いもなく二階の開け放たれた窓枠へと足をかけた。
(本当にやりやがった……!)
俺は廻の逞(たくま)しい首筋に両腕をきつく巻き付け、あいつの制服の生地を指先が白くなるほど強く握りしめた。
視界がぐにゃりと反転する。
夏の青空と、ギラギラと輝く金色の太陽が視界をよぎったかと思うと、俺たちの身体は重力に従って、二階の窓からまっさ逆さまに中庭へと放たれた。
凄まじい浮遊感が胃のあたりを突き上げ、一瞬だけ呼吸が止まる。
けれど、恐怖は微塵(みじん)もなかった。俺を抱きしめる廻の両腕には、何があっても俺を離さないという、四十二回の絶望が育て上げた狂気的なまでの執着が籠もっていたからだ。あいつは空中で器用に身体を捻(ひね)り、俺を上側にするようにして、すべての衝撃を自分が引き受ける体勢をとった。
ドサリ、という激しい音と共に、茂った植木が俺たちの身体を受け止める。
激しい衝撃に廻が小さな呻(うめ)き声を漏らしたが、あいつの腕は一ミリも緩むことはなかった。それどころか、着地した瞬間にあいつは俺を抱えたまま植木を飛び出し、校門とは完全に真逆の方向――旧校舎の裏手にある、鬱蒼(うっそう)とした裏山へと向かって猛然と走り出した。
「廻、大丈夫か!? 怪我は!?」
「気にするな……っ! お前が、お前が無事なら、俺の骨の二、三本どうなっても構わない!」
あいつは荒い息を吐き出しながら、狂ったように足を動かし続けた。前髪の間から覗(のぞ)く瞳は、完全に世界への敵意と、俺への異常なまでの過保護さに支配されている。
その時、俺たちの背後で、バリバリと不自然な金属音が鳴り響いた。
振り返ると、さっきまで俺たちがいた本校舎の屋上から、巨大な給水タンクの破片が、あり得ない角度で中庭へと落下してくるのが見えた。もし俺がいつも通り十五分間教室で無駄話をしていたら、ちょうどあの場所を通りかかっていたはずのタイミングだ。世界が、俺を殺すための『罠』を強引に発動させたのだ。
「チッ、やっぱり追ってきたか……!」
俺は廻の首に腕を回したまま、叫ぶように指示を出した。
「廻、右だ! いや、あえてその先の枯れ木の根元を左に跳べ!」
「分かった!」
廻は俺の突飛(とっぴ)なナビゲーションに、一ミリの疑いも持たずに従った。あいつの驚異的な身体能力が、俺の気まぐれなランダム行動を完璧にトレースしていく。
あいつが左へ跳んだ直後、俺たちが本来進むはずだった右側の斜面が、原因不明の局地的な土砂崩れを起こして激しく崩落した。世界の予測アルゴリズムが、俺たちのバカげた突発的な選択の前に、完全に先回りを失敗して空を切っている。
「ざまぁみろ、クソシステムが!」
俺は廻の胸の中で、初めて声を上げて大笑いした。
あいつの胸の鼓動が、俺の笑い声に呼応するようにトクンと甘く跳ね上がる。廻は俺の頭を自分の胸元へと強く押し付け、さらに速度を上げて山の斜面を駆け上がっていった。
生い茂る木々を掻き分け、枝葉が制服を裂くのも厭(いと)わずに走り続け、俺たちがたどり着いたのは、裏山の山頂にある、今は誰も使っていない気象観測用の古びた鉄塔の足元だった。
周囲は完全に開けており、上空には遮るもののない夏の終わりの夕焼け空が、血のような鮮やかな赤と紫のグラデーションを描き出している。
廻はそこでようやく俺を地面へと降ろし、激しく肩を上下させながらその場に膝をついた。
あいつの制服は泥と木の葉でボロボロになり、頬には小さな切り傷から一筋の血が流れていた。けれど、その瞳だけは、極上の宝石のように怪しく、そして熱く輝いている。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面のデジタル時計を見つめる。
十五時五十五分。
十六時。
十六時十分。
じりじりと、非情だった時間が、俺たちの間を静かに通り過ぎていく。
世界はもう、俺たちを追ってくる気配を見せなかった。裏山を吹き抜ける風は、どこまでも穏やかで、蝉の声すらも遠くで心地よく響いている。
そして――十六時十五分。
運命の瞬間が、訪れた。
トラックの暴走する音も、何かが崩れ落ちる音も、俺の身体を切り裂く痛みも、何一つとして訪れない。ただ、廻の荒い呼吸の音と、俺自身の生々しい心臓の音だけが、山頂の静寂に響き渡っていた。
「……終わった、のか?」
廻が、掠(かす)れた声で呟(つぶや)いた。あいつの瞳から、一滴の大きな涙が溢(あふ)れ、頬の傷を濡らしながら顎のラインへと落ちていく。
「ああ、終わったんだよ、廻」
俺はあいつの目の前にしゃがみ込み、その泥で汚れた白い頬を、両手で優しく包み込んだ。
あいつの身体が、緊張の糸が切れたようにガタガタと激しく震え始める。四十二回の地獄、十ヶ月以上もの孤独な戦い。そのすべての重圧から、こいつは今、ようやく解放されたのだ。
「薄葉……薄葉……っ! 俺は、お前を……お前を本当に救えたんだな……!?」
「救えたよ。お前のおかげだ、廻。ありがとな」
俺がいつもの塩対応からは想像もつかないほど甘く、 慈しむような声で微笑むと、廻は子供のように声を上げて泣きながら、俺の身体を壊れ物を扱うかのように強く、強く抱きしめてきた。
あいつの涙が俺の首元を濡らし、その熱さが胸の奥の最も深い場所へと染み込んでいく。
「もう、どこにも行くな……。俺のそばにいろ。一生、俺の視界から消えるな……!」
「行かないよ。お前がこんなに重い愛をくれたんだ、責任取ってもらうからな」
俺はあいつの広い背中に腕を回し、その心地よい重みを全身で受け止めた。
廻は俺の言葉に救われたように顔を上げると、濡れた瞳で俺をじっと見つめ、それから吸い寄せられるように唇を重ねてきた。
今回のキスは、昨日までの焦燥(しょうそう)に満ちたものとは全く違っていた。
お互いがお互いの存在を、未来を、そして確かな愛を確かめ合うような、どこまでも深く、蕩(とろ)けるように甘い口づけ。あいつの舌が俺の口内を愛おしそうに撫(な)でるたび、頭の芯が痺(しび)れ、体温が際限なく上昇していく。俺は廻の髪に指を絡め、もっと奥まで欲しいと強請(ねだ)るように、あいつの唇を強く吸い返した。
「ん……、ふぁ……、廻……っ」
息が続かなくなり、 唇が離れる。
二人の間に伸びた銀の糸が夕日にキラキラと輝き、廻は愛おしさが爆発したような表情で、俺の額や目元、 頬に何度も何度も、 狂おしいほどの愛を込めて小刻みなキスを落としてきた。その過保護で、 独占欲に満ちたあいつの愛撫(あいぶ)が、 今の俺にはたまらなく愛おしい。
「四十三回目の世界、大成功だな、相棒」
俺が胸元で小さく笑うと、廻は照れたように、けれどこれまでで一番綺麗な、眩(まぶ)しいほどの笑顔を浮かべて俺の頭を撫でた。
「ああ。これからは、俺とお前の、誰も知らない新しい時間が始まるんだ」
赤く染まった世界の中心で、俺たちはいつまでも抱き合い、互いの体温を確かめ合っていた。噛み合わなかったはずの二人の歯車は、理不尽な死の運命を完全に打ち破り、これからは誰にも邪魔されることなく、どこまでも深く、甘やかに重なり合っていく。あいつの狂おしいほどの執着と愛をこの身にすべて受け止めながら、俺たちは誰も見たことのない、光に満ちた幸福な未来へと歩みを進めていく。もう二度と、この温かい手が離れることはないのだと、胸の奥で強く確信しながら。



