ついにその日がやってきた。七月二十日、月曜日。四十三回目の世界における、運命の終業式当日。
朝の光はいつも以上に白くギラついていて、通学路のアスファルトを容赦なく熱していた。ジジジジと鼓膜を突き刺すような蝉時雨が、まるでこれから始まる世界との決戦を煽るかのように鳴り響いている。いつもなら、重いカバンを肩にかけながら「暑い、だるい、早く夏休みにならないか」と心の中で毒づいているはずの俺だった。面倒なことはすべて避けて、省エネモードで一日をやり過ごす。それが俺という人間のデフォルトの生き方だったからだ。
けれど、今朝の俺の胸の奥は、これまでにないほど熱く、激しい鼓動を刻んでいた。恐怖で震えているんじゃない。隣に立つ最強の味方の存在が、俺の臆病な心を芯から創り替えてくれたからだ。
校門をくぐり、昇降口でローファーを上履きに履き替える。階段を上って三年生の教室の引き戸を開けると、冷房の冷気と共に、いつも通りの騒がしいクラスメイトたちの声が飛び込んできた。通知表がどうだとか、夏休みの予定がどうだとか、そんな他愛のない日常の会話。彼らにとってはただの「学期末の一日」でしかない今日が、俺とあいつにとっては、文字通り命をかけた戦場なのだ。
俺は自分の席へと向かいながら、ごく自然な動作で視線を斜め後ろの席へと滑らせた。
いた。
御子柴廻は、すでに席に着いていた。窓枠に肘をつき、頬杖をついて外を眺めているその姿は、相変わらず誰も寄せ付けない冷徹な一匹狼そのものだ。けれど、俺が教室に入ってきた瞬間、あいつの長い睫毛がピクリと跳ねたのを、俺の目は見逃さなかった。外を向いたまま微動だにしないあいつの首筋が、微かに緊張で強張る。
(廻、ガチガチに緊張しすぎだろ……)
心の中で苦笑しながらカバンを机の横のフックにかけ、椅子を引いて腰を下ろす。カバンを片付けるフリをしながら、俺は机の下でそっとスマートフォンを開いた。クラスメイトたちの視線を巧みに遮りながら、慣れた手つきでメッセージを打ち込む。
『うすば:おはよ。顔が怖いぞ、タイムリーパー。少しは肩の力を抜け』
画面を見つめる間もなく、一瞬で『既読』がついた。本当にこいつは、俺に関することになると恐ろしいほどの反応速度を見せる。すぐに返信のバイブレーションが短く手元を震わせた。
『みこしば:おはよう。……緊張していないと言えば嘘になる。十四時三十分まで、あと数時間しかない。お前が俺の目の前で消えてしまうんじゃないかと、生きた心地がしないんだ』
文字面(もじづら)からでも伝わってくる、あいつの切実で、押し潰されそうなほどの不安。四十二回も俺の死を見届けてきたあいつにとって、この当日の朝という時間は、過去のすべての絶望がフラッシュバックする最悪の時間帯なのだろう。手帳に書かれた無惨な死因の数々が、あいつの脳裏をかすめているに違いない。
俺はスマホの画面を見つめながら、少しだけ唇の端を吊り上げた。めんどくさがり屋の俺をここまで本気にさせたのは、他ならぬあいつの重すぎる愛だ。だったら、その不安ごと、俺が全部抱きしめて溶かしてやる。
『うすば:大丈夫だって言ったろ。四十三回目の俺たちは無敵だよ。……ほら、机の下』
メッセージを送ると同時に、俺はスマホをポケットに仕舞い、右手を椅子の後ろへと伸ばした。自分の机の脚の影、周囲からは死角になる絶妙な位置に、そっと手のひらを上に向けて待機させる。
後ろの席で、御子柴が小さく息を呑む気配がした。
数秒の躊躇(ためら)いの後、衣類が擦れる静かな音がして、俺の手のひらの上に、少し冷えた、けれど大きな手がそっと重ねられた。
指先が触れ合った瞬間、電流が走ったかのような甘い痺れが背筋を駆け抜ける。俺は迷うことなく、あいつの長い指の隙間に自分の指を滑り込ませ、固く、強く指を絡め合わせた。恋人繋ぎ。クラスメイトたちがすぐ近くで大声で笑い合っているこの教室の片隅で、俺たちは誰にも見えない秘密の境界線を引いて、互いの体温を貪(むさぼ)るように分かち合っていた。
御子柴の手は、微かに震えていた。けれど、俺がぎゅっと握り返すと、あいつの指先にも強い力がこもり、壊れ物を抱きしめるかのような必死さで俺の手を握り締めてきた。掌から伝わってくるあいつの激しい鼓動が、俺の心臓のテンポと完全にシンクロしていく。
(熱いな……)
冷房の効いた教室のはずなのに、繋いだ手のひらから溢れ出る熱量のせいで、全身がカッと熱くなっていくのが分かる。御子柴の方を少しだけ振り返ると、あいつは相変わらず窓の外を見つめたままだったが、その綺麗な横顔の、耳の根元から首筋にかけてが、隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。誰も寄せ付けない鉄仮面の裏側で、俺の些細なアプローチ一つにここまで激しく翻弄(ほんろう)されている。その独占欲を刺激する姿が、どうしようもなく愛おしかった。
一限目の始業を告げるチャイムが鳴り響くまで、俺たちはどちらからともなく手を離そうとはしなかった。周りの目を盗みながら、指先を擦り合わせ、互いの存在を確認し合う。この甘やかで狂おしい秘密の時間があるからこそ、俺は世界が用意するどんな罠も怖くないと思えた。
朝のホームルームが始まり、担任の教師が教壇に立ってプリントを配り始める。俺はしぶしぶ手を離したが、離れた瞬間のあいつの手の名残惜しそうな微かな指の引っかかりが、胸の奥をキュンと締め付けた。
「おい、薄葉。終業式が終わったら、みんなで駅前のカラオケ行かね? 夏休みの打ち上げ的なさ」
前の席の男子が、ホームルームの合間に気安く振り返って声をかけてきた。いつものルートなら、俺はここで適当に話を合わせて十分間のタイムロスを生み出してしまうところだ。
その瞬間、背後からブワッと教室の空気を凍りつかせるほどの、凄まじいプレッシャーが放たれた。振り返らなくても分かる。御子柴が般若(はんにゃ)のような形相で俺の前の席の男子を睨(にら)みつけているのだ。「俺の薄葉に気安く話しかけるな」「そいつは当日の午後、俺と一緒に裏山へ逃げるんだ」という激しい独占欲と過保護な怒りが、オーラとなって物理的に迫ってくるようだった。前の席の男子が「うわ、なんか急に寒気が……」と身震いしている。
俺はクスリと笑いながら、「あー、ごめん。今日、放課後はちょっと……先約があってさ。絶対に外せない用事なんだ」と、はっきりと断りの言葉を口にした。
先約。その単語を口にした瞬間、背後の殺気が嘘のように消え去り、代わりにトクン、とあいつの心臓が甘く跳ね上がる気配が伝わってきた。
俺の視線も、俺の放課後も、俺の命も。そのすべてがあいつのものだと言わんばかりの徹底した特別扱い。
時計の針は容赦なく進み、午前中の授業が次々と消化されていく。終業式が行われる体育館への移動の時間が近づくにつれ、俺たちの間の空気は、より一層濃密で、互いを求める熱を帯びていった。
大丈夫だ、廻。四十三回目の今回は、絶対に二人で生き残る。そして、その先にある誰も見たことのないハッピーエンドを、お前と一緒に掴み取ってやるんだから。
俺は心の中で強くそう誓いながら、迫り来る運命の十四時三十分に向けて、不敵に唇の端を吊り上げた。
朝の光はいつも以上に白くギラついていて、通学路のアスファルトを容赦なく熱していた。ジジジジと鼓膜を突き刺すような蝉時雨が、まるでこれから始まる世界との決戦を煽るかのように鳴り響いている。いつもなら、重いカバンを肩にかけながら「暑い、だるい、早く夏休みにならないか」と心の中で毒づいているはずの俺だった。面倒なことはすべて避けて、省エネモードで一日をやり過ごす。それが俺という人間のデフォルトの生き方だったからだ。
けれど、今朝の俺の胸の奥は、これまでにないほど熱く、激しい鼓動を刻んでいた。恐怖で震えているんじゃない。隣に立つ最強の味方の存在が、俺の臆病な心を芯から創り替えてくれたからだ。
校門をくぐり、昇降口でローファーを上履きに履き替える。階段を上って三年生の教室の引き戸を開けると、冷房の冷気と共に、いつも通りの騒がしいクラスメイトたちの声が飛び込んできた。通知表がどうだとか、夏休みの予定がどうだとか、そんな他愛のない日常の会話。彼らにとってはただの「学期末の一日」でしかない今日が、俺とあいつにとっては、文字通り命をかけた戦場なのだ。
俺は自分の席へと向かいながら、ごく自然な動作で視線を斜め後ろの席へと滑らせた。
いた。
御子柴廻は、すでに席に着いていた。窓枠に肘をつき、頬杖をついて外を眺めているその姿は、相変わらず誰も寄せ付けない冷徹な一匹狼そのものだ。けれど、俺が教室に入ってきた瞬間、あいつの長い睫毛がピクリと跳ねたのを、俺の目は見逃さなかった。外を向いたまま微動だにしないあいつの首筋が、微かに緊張で強張る。
(廻、ガチガチに緊張しすぎだろ……)
心の中で苦笑しながらカバンを机の横のフックにかけ、椅子を引いて腰を下ろす。カバンを片付けるフリをしながら、俺は机の下でそっとスマートフォンを開いた。クラスメイトたちの視線を巧みに遮りながら、慣れた手つきでメッセージを打ち込む。
『うすば:おはよ。顔が怖いぞ、タイムリーパー。少しは肩の力を抜け』
画面を見つめる間もなく、一瞬で『既読』がついた。本当にこいつは、俺に関することになると恐ろしいほどの反応速度を見せる。すぐに返信のバイブレーションが短く手元を震わせた。
『みこしば:おはよう。……緊張していないと言えば嘘になる。十四時三十分まで、あと数時間しかない。お前が俺の目の前で消えてしまうんじゃないかと、生きた心地がしないんだ』
文字面(もじづら)からでも伝わってくる、あいつの切実で、押し潰されそうなほどの不安。四十二回も俺の死を見届けてきたあいつにとって、この当日の朝という時間は、過去のすべての絶望がフラッシュバックする最悪の時間帯なのだろう。手帳に書かれた無惨な死因の数々が、あいつの脳裏をかすめているに違いない。
俺はスマホの画面を見つめながら、少しだけ唇の端を吊り上げた。めんどくさがり屋の俺をここまで本気にさせたのは、他ならぬあいつの重すぎる愛だ。だったら、その不安ごと、俺が全部抱きしめて溶かしてやる。
『うすば:大丈夫だって言ったろ。四十三回目の俺たちは無敵だよ。……ほら、机の下』
メッセージを送ると同時に、俺はスマホをポケットに仕舞い、右手を椅子の後ろへと伸ばした。自分の机の脚の影、周囲からは死角になる絶妙な位置に、そっと手のひらを上に向けて待機させる。
後ろの席で、御子柴が小さく息を呑む気配がした。
数秒の躊躇(ためら)いの後、衣類が擦れる静かな音がして、俺の手のひらの上に、少し冷えた、けれど大きな手がそっと重ねられた。
指先が触れ合った瞬間、電流が走ったかのような甘い痺れが背筋を駆け抜ける。俺は迷うことなく、あいつの長い指の隙間に自分の指を滑り込ませ、固く、強く指を絡め合わせた。恋人繋ぎ。クラスメイトたちがすぐ近くで大声で笑い合っているこの教室の片隅で、俺たちは誰にも見えない秘密の境界線を引いて、互いの体温を貪(むさぼ)るように分かち合っていた。
御子柴の手は、微かに震えていた。けれど、俺がぎゅっと握り返すと、あいつの指先にも強い力がこもり、壊れ物を抱きしめるかのような必死さで俺の手を握り締めてきた。掌から伝わってくるあいつの激しい鼓動が、俺の心臓のテンポと完全にシンクロしていく。
(熱いな……)
冷房の効いた教室のはずなのに、繋いだ手のひらから溢れ出る熱量のせいで、全身がカッと熱くなっていくのが分かる。御子柴の方を少しだけ振り返ると、あいつは相変わらず窓の外を見つめたままだったが、その綺麗な横顔の、耳の根元から首筋にかけてが、隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。誰も寄せ付けない鉄仮面の裏側で、俺の些細なアプローチ一つにここまで激しく翻弄(ほんろう)されている。その独占欲を刺激する姿が、どうしようもなく愛おしかった。
一限目の始業を告げるチャイムが鳴り響くまで、俺たちはどちらからともなく手を離そうとはしなかった。周りの目を盗みながら、指先を擦り合わせ、互いの存在を確認し合う。この甘やかで狂おしい秘密の時間があるからこそ、俺は世界が用意するどんな罠も怖くないと思えた。
朝のホームルームが始まり、担任の教師が教壇に立ってプリントを配り始める。俺はしぶしぶ手を離したが、離れた瞬間のあいつの手の名残惜しそうな微かな指の引っかかりが、胸の奥をキュンと締め付けた。
「おい、薄葉。終業式が終わったら、みんなで駅前のカラオケ行かね? 夏休みの打ち上げ的なさ」
前の席の男子が、ホームルームの合間に気安く振り返って声をかけてきた。いつものルートなら、俺はここで適当に話を合わせて十分間のタイムロスを生み出してしまうところだ。
その瞬間、背後からブワッと教室の空気を凍りつかせるほどの、凄まじいプレッシャーが放たれた。振り返らなくても分かる。御子柴が般若(はんにゃ)のような形相で俺の前の席の男子を睨(にら)みつけているのだ。「俺の薄葉に気安く話しかけるな」「そいつは当日の午後、俺と一緒に裏山へ逃げるんだ」という激しい独占欲と過保護な怒りが、オーラとなって物理的に迫ってくるようだった。前の席の男子が「うわ、なんか急に寒気が……」と身震いしている。
俺はクスリと笑いながら、「あー、ごめん。今日、放課後はちょっと……先約があってさ。絶対に外せない用事なんだ」と、はっきりと断りの言葉を口にした。
先約。その単語を口にした瞬間、背後の殺気が嘘のように消え去り、代わりにトクン、とあいつの心臓が甘く跳ね上がる気配が伝わってきた。
俺の視線も、俺の放課後も、俺の命も。そのすべてがあいつのものだと言わんばかりの徹底した特別扱い。
時計の針は容赦なく進み、午前中の授業が次々と消化されていく。終業式が行われる体育館への移動の時間が近づくにつれ、俺たちの間の空気は、より一層濃密で、互いを求める熱を帯びていった。
大丈夫だ、廻。四十三回目の今回は、絶対に二人で生き残る。そして、その先にある誰も見たことのないハッピーエンドを、お前と一緒に掴み取ってやるんだから。
俺は心の中で強くそう誓いながら、迫り来る運命の十四時三十分に向けて、不敵に唇の端を吊り上げた。



