塩対応のタイムリーパーは、今日も俺を救えない?

生温い沈黙が、古い温室のガラス屋根の下で濃密に膨れ上がっていく。

手渡したスポーツドリンクのボトルを握りしめたまま、御子柴はしばらくの間、彫刻のように硬直していた。プラスチックの表面についた結露が、あいつの長い指を伝って床へと静かに滴り落ちる。ガラスの隙間から差し込む西日は容赦なくあいつの白い肌を照らし出し、耳元から首筋にかけての鮮やかな赤さをこれでもかと強調していた。普段の冷徹な仮面はどこへやら、今の御子柴は完全に余裕を失くし、まるで初めて男に口説かれた初心な執着の塊のようになっていた。

「……いつまでそうしているんだ。早く飲めよ、温くなるだろ」

俺が作業台に肘をつき、少しだけ顔を近づけて覗き込むと、御子柴は弾かれたようにボトルを見つめ、それから観念したようにキャップをひねった。カチリ、と小さな小気味よい音が響き、あいつはボトルを口元へと運ぶ。

ゴクリ、と喉仏が大きく上下した。
薄い唇の端から一滴のしずくが溢れ、あいつの顎のラインを伝って鎖骨の真ん中へと落ちていく。その一連の動きが、妙に扇情的で、息を呑むほどに美しかった。俺は無意識のうちにその視線を釘付けにされ、自分の喉が小さく鳴るのを感じていた。めんどくさがり屋の俺が、他人の「水を飲む姿」ごときにこれほど胸を締め付けられるなんて、どうかしている。けれど、この御子柴という男に限っては、その一挙手一投足が俺の防壁を容易く突き破って、胸の奥の最も敏感な部分へと直接響いてくるのだ。

「……ふぅ」

ボトルを離した御子柴は、口元を制服の袖で無造作に拭うと、ようやく俺を正面から見据えた。その瞳には、先ほどの動揺を押し隠すような、けれど隠しきれていない熱い情動がギラギラと渦巻いている。

「薄葉、お前は……本当に自分が置かれている状況を理解しているのか? ここはただの密室だ。もしここで、世界がお前を殺すための『罠』を発動させたら、俺たちは逃げ場を失う」

「だからここを選んだんだよ」

俺はふっと唇の端を吊り上げ、作業台の上に置いてあったあいつの黒い手帳を引き寄せた。

「逃げ場のない場所だからこそ、世界も罠を仕掛けやすい。裏を返せば、ここで何も起きないということは、俺たちの『放課後の密会』という行動自体が、まだ世界の予測アルゴリズムに検知されていない証拠だ。お前が一人で動いていた過去の四十二回とは違って、俺たちがこうして二人で行動を選択していること自体が、すでに運命の軌道を狂わせ始めてるんだよ」

俺が手帳の白いページを開き、ポケットから取り出したボールペンをカチカチと鳴らすと、御子柴は一歩、また一歩と俺との距離を詰めてきた。あいつの放つ特有の、少し冷たい香水の匂いと、それに相反するような熱い体温が、温室の熱気と混ざり合って俺の嗅覚を満たしていく。

「……ランダム行動の、リストアップを始めるぞ」

御子柴が俺のすぐ隣に立ち、作業台に両手を突いて手帳を覗き込んできた。
近すぎる。あいつの肩が、俺の腕とぴったりと触れ合っている。制服の薄い生地越しに伝わってくるあいつの心臓の鼓動が、まるで俺の胸の中にまで響いてくるかのように激しく脈打っていた。あいつは手帳を見つめているフリをしているが、その視線が完全に泳いでいるのを、俺の目はすぐ真横から捉えていた。

「じゃあ、まずは第一段階。終業式当日の十四時三十分、チャイムが鳴った瞬間の行動だ。お前の記録だと、俺はいつも前の席の奴と無駄話をして十分間ロスするんだよな?」

「ああ。それがお前の基本ルートだ」

御子柴の声が、すぐ耳元で鼓膜を震わせる。低く掠れたその声が、妙に鼓動を速めさせた。

「だったら、その瞬間に俺はお前に向かって飛びついたらどうなる?」

「なっ……!?」

御子柴が猛然と顔を上げた。その距離、わずか数センチ。お互いの鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で、あいつの大きな瞳が驚愕に丸くなっている。

「飛びつくって……お前、何を言っているんだ!?」

「文字通りの意味だよ。チャイムが鳴った瞬間、俺は自分の席を蹴り飛ばして、斜め後ろの席にいるお前の胸の中に全力で飛び込む。クラスの連中が呆然としている間に、お前は俺を抱きかかえたまま、教室の窓から中庭に向かって飛び降りるんだ。二階からなら、下に植木もあるし怪我はしないだろ?」

「馬鹿なことを言うな! そんなことをしたら、お前が足を挫くかもしれないし、何より周囲の目が……!」

「周囲の目なんてどうでもいいだろ。お前にとって一番大事なのは、俺の命じゃないのか?」

俺はボールペンを机に置き、そのまま両手であいつの制服の襟ぐりをぐっと掴んだ。
力任せに引き寄せると、御子柴の身体が簡単に俺の方へと傾く。あいつの両手が俺の身体を挟むようにして作業台に突かれ、俺は完全に御子柴の大きな身体に閉じ込められるような格好になった。いわゆる、壁ドンというやつだ。けれど、主導権を握っているのは完全に俺の方だった。

「……薄葉」

御子柴の瞳が、激しい情熱と、それ以上の深い愛惜に濡れていく。あいつの長い指先が、俺の頬の横で、木製の作業台を軋ませるほど強く握りしめられていた。

「お前は本当に……俺を狂わせるのが上手いな。四十二回の間、俺はお前が死ぬ恐怖だけに支配されていた。お前をどうやって守るか、どうやって遠ざけるか、そればかりを考えていたんだ。なのに、お前は……知性も警戒心も全部放り投げて、俺の胸に飛び込んでくるなんて言う」

「嫌か?」

俺はわざと視線をあいつの薄い唇へと落とし、それからゆっくりと瞳を見つめ返した。
御子柴の呼吸が、一段と荒くなる。あいつの顔が、磁石に引き寄せられるように、じわじわと俺の顔へと近づいてくるのが分かった。温室のガラス越しに降り注ぐ金色の光の中で、あいつの前髪が俺の額に触れ、チクチクとした心地よい刺激を与える。

「……嫌なわけがないだろう」

御子柴の唇から、掠れた本音が零れ落ちた。あいつは襟ぐりを掴んでいた俺の手の上に、自分の大きな手を重ねてくる。その力強さは、二度と俺を離さないという強固な誓いのようであり、同時に、壊れ物を扱うかのような繊細な優しさに満ちていた。

「お前が俺の胸に飛び込んでくるなら、俺は世界がどれだけ牙を剥こうと、お前を抱きしめて地獄の底まで走り抜けてやる。……だから、薄葉。絶対に俺を見失うな。俺以外の男に、そんな顔を見せるな」

その言葉に含まれた、圧倒的な独占欲と過保護な愛の重さに、俺の胸は完全に降伏の旗を掲げていた。めんどくさいはずの男の執着が、今ではどうしようもなく心地よくて、愛おしい。

「言われなくても、俺の相棒はお前だけだよ、廻」

初めて名前で呼んでやると、御子柴は完全に理性を融解させたような表情になり、俺の頬をその大きな手でそっと包み込んできた。二人の距離が完全にゼロになる寸前、温室の空気が、甘く、狂おしいほどに熱く弾けた。