塩対応のタイムリーパーは、今日も俺を救えない?

七月十六日、木曜日。運命の日である終業式まで、残された時間はあと四日となった。

朝の光は容赦なく窓ガラスを透過し、教室の床に鋭い四角形の輪郭を描き出している。まだ午前八時を回ったばかりだというのに、天井の換気扇が回す空気は生温く、クラスメイトたちの騒がしい声がその熱気に拍車をかけていた。いつもなら、俺はこの時間帯、机に両腕を枕にして突っ伏し、始業のチャイムが鳴るまで完全な休眠状態に入っているのが常だった。周囲の雑音をシャットアウトし、誰からも話しかけられないように「話しかけるな」というオーラを全身から放つ。それが俺の、この学校における最も快適な生存戦略だったはずだ。

けれど、今朝の俺は、どうしても眠ることができなかった。

薄く開けた視線の先、斜め後ろの席に座る御子柴廻の姿が、どうしても意識の網膜に引っかかってしまうからだ。
あいつはいつもと変わらない仏頂面で、黒いカバンから英語の教科書を取り出していた。周囲を拒絶するような鋭い三白眼も、常に不機嫌そうに結ばれた薄い唇も、クラスの連中から見れば「相変わらず近寄りがたい一匹狼」そのものだろう。だが、俺には分かってしまった。あいつが教科書を開く指先が、妙にぎこちなく強張っていることに。そして、その切れ上がった瞳が、数秒に一度、本当に微かな頻度で、俺の背中や首元をそっと掠めるように動いていることに。

(……意識しすぎだろ、御子柴)

心の中でそう呟きながら、俺はわざとらしく小さく肩を回してみせた。案の定、俺が少し動いただけで、後ろの席で衣類が小さく擦れる音がした。あいつのシャーペンがピタリと止まる気配が、背中越しに手に取るように伝わってくる。

昨日の放課後、図書室の薄暗い郷土資料スペースで触れ合った、あいつの手の熱さ。
至近距離で見つめ合った時に漏れ出してきた、狂おしいほどの執着と、熱い吐息。
思い出すだけで、俺の胸の奥がトクンと妙な疼きを訴える。他人に興味を持たないはずの俺の領域に、御子柴という男がこれほどまでに深く、強引に踏み込んできている。四十二回もの絶望のループを繰り返してきたあいつの重すぎる愛が、俺の冷めきっていた血液を、じわじわと甘く狂わせていくような感覚だった。

「おい、薄葉。ちょっとこれ、次の時間の小テストの範囲なんだけどさ……」

隣の席の男子が、プリントを片手に気安く話しかけてきた。俺はいつもの塩対応を崩さないよう、「あー、そこ? 確かプリントの三枚目から出るって先生が言ってた気がする」と、極力低いトーンでぶっきらぼうに答える。

その瞬間だった。
背後から、刺すような、物理的な痛みを伴うほどの冷徹な視線が俺の後頭部に突き刺さった。
振り返らなくても分かる。御子柴だ。あいつ、俺が他の男と一言二言言葉を交わすだけで、あからさまに周囲の空気を凍りつかせている。それは単なる警戒心を超えて、もはや無自覚な『独占欲』に近いものに変質しつつあった。四十三回目のこの世界で、ようやく俺という『相棒』を手に入れたあいつにとって、俺が他の人間に意識を向けること自体が、我慢ならないのかもしれない。

(本当に、分かりやすい奴……)

俺は隣の男子との会話を適当に切り上げると、机の下でこっそりとスマートフォンを開いた。クラスメイトたちの目を盗み、画面を隠しながら、新しく登録された【みこしば】のアカウントへメッセージを打ち込む。

『うすば:そんなに睨むな。前の席の奴が怯えてるだろ』

送信ボタンを押すと、やはり一秒と経たずに画面に『既読』の文字がついた。
直後、後ろの席で御子柴が小さく息を呑むような気配がした。数秒の後、画面に短い返信が返ってくる。

『みこしば:睨んでいない。……ただ、お前が軽率に他人に隙を見せるのが気に入らないだけだ』

『うすば:隙なんて見せてないって。ただの小テストの話。それより、今日の放課後の場所、もう決めた』

『みこしば:どこだ』

『うすば:旧校舎の裏にある、古びた温室。あそこなら今は誰も使ってないし、鍵も壊れてるから中に入れる。放課後、また時間差で集合な』

そこまで打って画面を閉じると、俺は小さく息を吐いた。
胸の鼓動が、静かに、けれど確実に熱を帯びていく。ただの作戦会議のはずなのに、あいつと二人だけの秘密の場所を共有するという行為自体が、まるで恋人同士の密会のような甘やかな背徳感を伴っていた。

授業中も、俺たちの水面下でのやり取りは終わらなかった。
御子柴は授業を聞くフリをしながら、時折、ノートの端を破った小さなメモ用紙を、前の席の俺の机の隙間に滑り込ませてきた。そこには、あいつの几帳面な文字で、当日の危険エリアや回避すべきルートの補足がびっしりと書かれている。俺はそれを読み、自分の意見を書き加えて、また後ろの席へとさりげなく戻す。

クラスの誰も気づいていない、俺と御子柴だけの秘密の通信。
机の下で指先が微かに触れ合うたびに、電流が走ったように身体が熱くなる。あいつの指先は相変わらず少し冷えているけれど、メモを受け取る瞬間の、俺の指を強引に引き留めるような微かな力加減に、あいつの隠しきれない情動が溢れ出ていた。

そして、待ち望んだ放課後のチャイムが鳴り響いた。

俺はいつも通り、誰よりも早くカバンをまとめると、御子柴と目を合わせることもなく教室を後にした。廊下を早足で進み、本校舎の裏手に広がる、ほとんど人通りのない旧校舎の敷地へと向かう。

夏草が生い茂る小道の奥に、目指す古い温室が見えてきた。
ガラス張りの建物の多くはひび割れ、蔦が複雑に絡みついている。かつては園芸部などが使っていたのだろうが、今では完全に放棄された廃墟のような場所だ。壊れたスライド式の鉄扉を少しだけ開け、俺は中へと足を踏み入れた。

温室の中は、外気よりもさらに濃い緑の匂いと、蒸し風呂のような熱気に満ちていた。
ガラス越しに差し込む午後の光が、空気中に舞う埃の粒子をキラキラと金色に輝かせている。俺は入り口近くにある、比較的綺麗な木製の作業台にカバンを置き、額の汗を拭った。

「暑いな、ここは……」

独りごちた瞬間、背後の鉄扉がガラガラと音を立てて開いた。
振り返ると、そこには息を切らせた御子柴が立っていた。カバンを肩にかけ、制服の第一ボタンを外したあいつは、周囲に誰もいないことを鋭い視線で確認すると、勢いよく扉を閉めて俺へと近づいてきた。

「薄葉……! なぜこんなに暑い場所を選ぶ。お前、熱中症で倒れたらどうするつもりだ」

開口一番、御子柴は怒ったような声で詰め寄ってきた。けれど、その瞳は怒りではなく、俺の体調を本気で心配する過保護な光に満ちている。

「大丈夫だよ、それくらい。それに、ここなら本当に誰も来ないだろ?」

俺は作業台に背を預け、少し挑発するように首を傾げてみせた。
御子柴は俺の目の前で足を止めると、うっと言葉に詰まったように俺を見つめた。ガラス越しの強い光を浴びたあいつの顔は、いつも以上に端正で、けれど酷く無防備に赤みを帯びている。制服の襟元から覗く鎖骨の白さと、そこに浮かぶ微かな汗のきらめきが、妙に生々しくて視線を奪われる。

「……お前は、本当に緊張感がない」

御子柴は低く呟き、カバンからあの黒い手帳を取り出そうとした。だが、俺はそのあいつの手首を、下からそっと掴んで引き留めた。

「手帳の話は後。まずは、これ」

俺はカバンから冷たいペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、あいつの頬にピタッと押し付けた。

「っひゃん……っ!?」

御子柴の口から、いつも通りの冷徹な男からは想像もつかないような、可愛らしい悲鳴が漏れた。あいつは弾かれたように肩を震わせ、顔を真っ赤にして俺を睨みつけてくる。

「な、何をするんだ、薄葉……!」

「お前こそ、隈が酷いし、顔色が悪いぞ。ちゃんと水分補給しろ。俺を救う前に、お前が倒れたら元も子もないだろ?」

俺は苦笑しながらボトルをあいつの手に握らせた。御子柴はボトルを受け取ったものの、赤くなった顔を隠すようにふいっと横を向いてしまった。その握りしめられたボトルの上で、あいつの指先が小刻みに震えている。

「……お前に心配される筋合いはない」

「あるよ。共闘の相棒なんだからな」

俺が一歩足を踏み出し、あいつとの距離を極限まで縮めると、御子柴は逃げようとしなかった。いや、むしろ、俺の接近を拒めないように、じっとその場に立ち尽くしている。温室の濃密な熱気の中で、二人の呼吸が重なり合い、お互いの体温が空気を通じて直接肌へと伝わってくる。

あいつの瞳の奥にある、狂気的なまでの愛と執着。それが今、この閉ざされた温室の中で、ゆっくりと俺を包み込み、引きずり込もうとしていた。俺の心臓は、夏の暑さのせいだけではない、確かな熱量を持って激しく高鳴り始めていた。