脇役巫女の契約結婚

 小雨が振る中、美弥子は清子と共に街へ繰り出した。
 雨の降る街中は気温は低くともじっとりと蒸し暑い。

「今日のお夕飯はどうします?」
「そうね、連日蒸し暑いし何か冷たいものでも用意したいわね」
「良いですね!」

 雨の日でも清子は元気いっぱいだ。
 その笑顔のおかげで、自然と美弥子も明るい気分になってくる。

 だが、雨音に紛れて不審な影が美弥子に迫っていた。

「美弥子……?」

 ふと聞こえてきた声に、美弥子は振り返る。
 地の底を這うような低い声だ。
 足音はゆっくりと近づいてくる。
 行き交う人波の間から現れた軍服は、要のものではなかった。

「あ、彰さん……!?」

 かつて美弥子を捨てたはずの、青井彰だった。
 そのただならぬ気迫に、慌てて清子が割って入る。
 
「陰陽部隊の方ですか? 旦那様に言伝でしたら……」
「どいてくれ」
「きゃっ!」

 彰は清子を無理やり押し退ける。
 清子は傘を落としてよろけてしまい、美弥子は慌てて支えた。

「清子さん! あなた、何をするんです!」
「よくもやってくれたな! お前たち二人して俺を騙しやがって……!」

 お前たち、というのは清子のことではないようだった。

「お前、芹奈が浮気してたの知ってたんだろ!? お前は天岸隊長と結婚したいがために、芹奈と結託して俺を陥れたんだ! そうだろう違うか!?」
「なっ、何をおっしゃるのですか……!」

 彰は大声で怒鳴り散らす。
 前から気位の高い人ではあったが、こんなに気性の荒い性格ではなかったはずだ。
 美弥子は気圧されつつも必死に言い返す。

「芹奈ちゃんと結託など私はしておりません……! 彰さんが婚約解消を言い出すまで、私は二人の関係などつゆほども知りませんでした」
「しらばっくれる気か!」

 芹奈から証言は上がってるんだ、と彰はわめく。
 思い浮かぶのは、いつぞやの百貨店での再会だ。

「ちょっ、ちょっとどういうことですか! あなた陰陽部隊の方ですよね? 奥様に話があるのでしたら、旦那様にお伝えください」

 清子は美弥子の手を引き、美弥子をここから連れ出そうとする。
 その方が賢明だということは美弥子も分かっていた。
 ただ、ここで黙って引き下がったままでは美弥子は彰に侮辱されたままだ。
 それに、美弥子はどうしても彰の言うことが信じられなかった。

(あんなに、彼女を愛していると訴えていたのに……)

 美弥子との婚約を解消してくれと、必死に頼み込んできたのは他でもない彰だ。
 そして、芹奈を愛していると切実に訴えたのも彰だ。

(私には愛し愛される関係が分からない。だから、身を引いた。そのはずなのに……)

「このあばずれどもが! 芹奈もお前も何が巫女だ、ふざけるなよ!」

 どうして、愛していると言った人間の名前を、それほど憎らしげに呼べるのだろう。
 分からない。
 彰があれほど大切にしていたはずの『愛』というものは、こんなに簡単に崩れさるものだったというのか。

(ああ、そうか私は……愛というものに、憧れていたのね)

 美弥子はようやく、自分自身の中にあった感情を理解した。
 誰かに愛されてみたかった、誰かを愛してみたかった。
 彰とはそれが叶わないと分かっていたから、彰の幸せを願い身を引いた。
 美弥子にとって愛というものは、手が届かない高値の存在だった。
 だから、現実を目の当たりにしてこれほど深い失望を感じてしまうのだ。
 
「——————ですが、彰さんが求めているのはその巫女の力なのでしょう? ならば、芹奈ちゃんと結婚すれば良いではありませんか。何が駄目だと言うんです?」

 美弥子の言葉に、彰は一瞬虚をつかれたように唖然とする。
 
「た、確かに巫女の力は必要だが……だからといって、あんな性悪女を嫁に貰いたがるやつはどこにいる!?」

 かつて彰は、芹奈のことをこの世で最も清らかな巫女だと言っていた。

(あなたは、もう彼女を愛してはいないのね)

「彰さん。結婚は、愛がなくとも出来るのですよ」
「血も涙もない女だな……! 愛されずに育った人間は、こうなるのだと思い知ったよ! お前なんぞと結婚せずに済んで良かったわ!」

 美弥子の言葉に、彰はますます腹を立てた様子だった。

(愛がなくとも結婚はできるわ。私と要さんだって、そうだもの)

 人が人を愛したところで、いつか砂に消えてしまう。
 彰が目の前で見せつけてくれたように、美弥子の望むものはこの世界のどこにもないのだと、美弥子は理解してしまった。

「帰りましょう、清子さん」
「待て、まだ話は……!」

 身を翻した美弥子の腕を、彰が強引に掴む。
 弾みで傘が美弥子の手から抜け落ちた、その時だ。

「青井彰! 貴様、任務中に何をやっている」

 突如として響き渡った怒声に、彰が震え上がる。
 
「あ、天岸隊長……!」
「馬鹿者が! 民間人に手を出すなど言語道断、今すぐ処罰してやる」

 顔を上げると、凄まじい形相をした要がこちらに駆け寄ってきたのが分かる。
 そのまま要は彰を美弥子から引き剥がすと、襟元を掴み上げる。
 
「っ、違うんです隊長! 話を、話を聞いて、っぐ!?」

 彰は早口でまくし立てるが要はそれを聞き入れず、彼を地面に叩きつけた。
 泥と雨水に塗れて、彰は何が起きたのか分からないような顔をして混乱さている。
 
「要さん……! 待ってください!」
「なぜ庇う。此奴は命令に従わない上規律に背いた。今ここで処罰せねば、示しがつかない」
 
 要が美弥子の静止も聞かず、腰の軍刀をすらりと抜く。
 途端、地面に転がったまま彰が情けない悲鳴をあげた。
 それを止めたのは、要に同行していた副官だ。

「確かに示しがつかないのは同意しますが、私情での処罰も同様ですよ、隊長」
「……っ」

 要は不服そうに刀を納める。

「続きは官舎で聞きます。民間人に暴力を振るうなど、始末書だけで済むと思わないでくださいね」

 彼は彰を起こすと、他の隊員ともに彰を連行していく。
 だが要はそれに同行せず、美弥子が落とした傘を拾い差し出した。

「大丈夫か、美弥子」
「……はい」

 この一連の騒動のおかげで通りがかった住民たちも不安そうにこちらを見ている。
 
「怪我はないようだが……清子、一体何があった」
「旦那様、それが先程の方が急に奥様に詰め寄られて、騙されたと喚いていらしたんです」

 清子がことのあらましを説明する。
 要には思い当たる節があったようだ。

「篠崎芹奈のことだろうな。奴があれほどまでに考え無しの馬鹿だとは思わなかった。青井を野放しにした俺の失態だ」
「要さんは何も悪くありません。任務のこともありますから、ここで出会ってしまったのは運が悪かっただけです」
「美弥子、奴に言われたことは何も気にするな。今日はもう帰るといい」
「……良いんです。私が愛されずに育った人間だというのは、事実ですから」

 美弥子は要を安心させようと無理に微笑むが、その顔には影が差している。
 実際、美弥子は傷ついてなどいない。
 ただ、現実を再確認しただけのことだ。

「美弥子……俺は……」

 要は美弥子に手を伸ばしかけてから、ハッとその手を止め、少しの間躊躇ってから下ろした。

「……なんでもない。早く帰るといい、そんなに濡れては風邪をひくだろう」
「はい。儀式を滞りなく行うためにも、体調管理は心がけておきます」

 美弥子は頭を下げると、清子と共に引き返していく。
 後ろ姿を見送りながら、要は儀式のためではない、とは言えなかった。

(愛を知らないのは、俺とて同じことではないか……)
 
 やはり自分では、美弥子が求める愛を与えてやれない。
 であれば、当初の契約通り手放してやるのが正しいのだろう。
 
 そう頭では理解していても、美弥子の歪な笑顔が要の頭から離れなかった。