要が頼んだのは珈琲とケーキのセット。美弥子はアイスクリームソーダだ。
「わあ……!本当にソーダ水の上にアイスクリームが乗っています!」
美弥子は運ばれてきたグラスを前に目を輝かせる。
『藤野屋の喫茶室でクリームソーダをご馳走になったのよ』と自慢げに話していた巫女がいて、その時からずっと気になっていたのだ。
桐島家は確かに裕福だったが、家族は誰も帰ってこないものだから、美弥子には外食の思い出というものが全くなかった。
だからなおのこと憧れていたのだが、それを要が叶えてくれるとは。
ぱちぱちと弾けるソーダの泡に、まあるい真っ白なアイスクリーム。ちょこんと乗せられたさくらんぼは真っ赤で可愛らしい。
「世の中に、こんなに素敵な飲み物があるなんて……」
まるで夢のようだ。
ああ、素晴らしきかなクリームソーダ。
と、美弥子が感動していると、グラスの向こうで要がこちらを見ていることに気づいた。
微笑ましいものでも見ているかのような優しい顔だ。
要のこんなに緩んだ顔は初めて見た。
「要さん?」
「っ! ……なんでもない。早く飲まないと溶けるぞ」
要は誤魔化すようにそっぽを向いて珈琲に角砂糖を落とす。
(三つも入れてる……)
だが対照的に珈琲を飲むその顔は苦いものになっていた。
今日の要はくるくる表情が変わるようだ。
「あの、本当にこんなに良くしていただいてありがとうございます」
「別に、俺だって世話になった礼ぐらいはきっちりする」
要はそう言ってティーカップを置く。
「あの夜、俺を助けてくれたことは感謝している。あの日以来何やら気を回してくれているようで、おかげで毎日仕事が捗って仕方がないぐらいだ」
「き、気付いておられたのですね……。すみません。勝手なことをして」
「なぜ謝る。これからも、負担にならない程度にやってくれると助かるんだが」
「……! もちろん、おまかせください!」
淡々と言い放つ要に、美弥子は感動のあまり言葉につまる。
今まで、誰かに自分の巫女の力を求められたことはなかった。
大袈裟に褒めるわけでもなく、ただ自分の役割を求めてくれたのが何よりも嬉しかった。
「私も、要さんにはお礼を言わなければなりません。先程はありがとうございました」
「別に、俺がやり返したかっただけだ。ああいう色恋沙汰で他人に迷惑をかけるようなどうしようもない連中が、俺はこの世で一番嫌いなんだ」
芹奈のことだ。芹奈は彰と婚約中の身でありながら、他の男性と親密そうに過ごしていた。それも、名前を美弥子と偽って。
「青井彰は君が不特定多数の男と遊んでいると言っていたが……これでようやく分かったな。君のご立派な従姉妹殿は他人の前では名前が変わるらしい」
「私、自分の名前を使われていたなんて今までまったく気づかなかったです。まさか、そこまで芹奈ちゃんに嫌われていたなんて……」
「青井は君をずいぶんと悪く言っていたが、奴の目は節穴のようだな。上官として申し訳ない」
「いえ、要さんが謝る必要はありません……!」
美弥子本人でさえ気づかなかったのだ。
だが、要はしばらくためらった後、口を開く。
「結婚式の時、俺の両親に会っただろう。母親の方は、俺と血が繋がっていない」
「えっ……」
「俺は父親の妾の子だ。男児が生まれなかったために仕方なく跡継ぎになっただけで、家族間の愛情など存在しない。俺の母親が死んでから、父親は俺に対して見向きもしなくなったし、本妻の方は俺をずっと疎んでいた」
そんな話、今まで一度も聞いたことがなかった。
確かに、結婚式の時は天岸家に和やかな雰囲気はなく親子らしい会話も特に見られなかったが、そういうものだとばかり思っていた。
なにせ、美弥子は自分の両親が会話しているとこを見たことがなければ、両親と会話をしたこともほとんどないから分からなかったのだ。
「結果的に俺が跡継ぎになってしまったわけだが、義母は俺が儀式に失敗すると思っているらしい。今頃娘たちのうち誰を跡継ぎにするか、真剣に悩んでいるだろう。父親の方が何を考えているかは知らんが、俺個人に対して興味はないだろうな。儀式さえ済めば誰でもいいと考えているはずだ」
「そんな……」
要は自嘲気味に語る。
以前、みえが『旦那様は不器用な方ですから』と言っていたが、これが理由だったのだ。
本邸で暮らしていないのも、駐屯地に近いからではなく家庭環境が理由ではないかと思い至る。
(要さんも、私と同じだったのね……)
自分勝手な親の都合に振り回されて、いいように扱われて。
どうりで、要が芹奈のことを嫌うわけだ。
「おっと、暗い話がしたかったわけじゃないんだが……。まあ、今の環境は気に入ってるからそう悪いことばかりじゃない。軍人になったのも勝手に親に決められたことで、昔は色々と悩んだが、続けてみれば存外俺の性分にあっていると分かったからな」
今まで自分の知らなかった要の素顔を垣間見たような気分だった。
「美弥子はどうなんだ。君は、なにか将来やりたかったことはあるのか?」
「私、ですか」
話を振られて美弥子は戸惑う。
そんなこと、考えたこともなかったし、自分に出来ることがあると思ったこともなかった。
(私も、要さんのようになれたら……)
婦人洋品フロアで、鏡の前に立つ美弥子を励ましてくれた要の姿は、実に堂々としていて格好良かった。
彼のように、自信に満ち溢れた素敵な人になれたら、それはどんなに素晴らしいことだろうか。
「よく、分からなくて。自分がこの先、どんな風に生きていくのか……。でも、今日要さんとお出かけしてひとつ思ったんです。百貨店の販売員さんになれたら、とっても素敵だなって」
藤野屋の販売員になって、自分のように自信のなさから諦めてしまうようなお客さんがいたら、要のように自信を持って勇気づけられるような人になりたい。
なんてことを考えたのだが、すぐに妄想だと首を横に振る。
「でも、私にはきっと難しいから、もっと現実的なお仕事を探さないといけないですね」
「ほう。いいじゃないか。君は細かな気遣いのできる人だから、きっと向いているだろう」
「……本当ですか?」
「ああ」
要は働く美弥子の姿を想像して、ふっと柔らかく微笑む。
夫は軍人で妻は職業婦人、なんだか現代的でいいじゃないかと要が言おうとした、その時だ。
「じゃあ、もし藤野屋で働くことができたら、その時はいつかお客さんとして来てくださいね」
美弥子は笑顔で言い放つ。
お客さんとして。夫ではなく。
「……そうだな」
要はそこでやっと我に返った。
そうだ。自分たちは最初から、そういう契約だった。
だから、この先は夫婦としてではなく他人になって当然なのだ。
——————美弥子と要の離婚まで、あと三ヶ月に迫っていた。

