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同じ電車に乗り込むと、俺たちはいつもと同じ並びで座る。あのあと、朝日奈くんは言葉を溜めた挙句、「電車のなかで話します」と言って口を噤んでしまったのだ。
傘の襞をたたむ指先を眺めながら、俺はその続きを待った。
「さっきの話ですけど、」
いつもより少しだけ掠れた声。
「苛立ってたのは、早見さんに対して、とかじゃないんです」
左隣から響く声は、この体によく馴染む。朝日奈くんは吐き出すようにして言った。
「誰に対してでもないというか、そもそも行き場がないというか」
「うん?」
「幼なじみさんとの通話とか、電車で透と会ったときとか。親しそうにしてるのを見たら、むしゃくしゃして」
交友関係がない、と俺を評したのは朝日奈くんなのに。桜介はともかく、トオルくんとも親しいと言われて少し驚いた。
「これから、たぶんかなり勝手なこと言いますけど、怒らないでくださいね」
そんな風に前置きするなんて、よほどのことなんだろうか。わずかに緊張が走ったせいか、
「それは、話による」
と、淡白に答えてしまった。朝日奈くんは「ははっ、ですね。ごもっとも」と、なぜか逆に力を抜いて笑っていたけど。
ガタン、ゴトン。規則正しいその音が何度か巡ったあと、彼はゆっくり唇を割った。
「交友関係の薄いあなたが、俺にだけ心を開いてくれたらいいと思ったんです。なんてゆーか、きれいな話じゃなくて。……承認欲求みたいなものって言えば、わかりますか」
“勝手なこと”が、まるで用意されていたかのように、滑らかに落ちていく。俺にはまだ、その真意は掴めない。
「人付き合いが苦手なのは、俺のほうなんですよ」
だけど、自嘲的に笑うその横顔から、なぜか目が離せなかった。
人付き合いが苦手……? 朝日奈くんが?
「友だちに囲まれてるとこ、見たけど」
「みんな、ハリボテに騙されてるだけですよ。好かれるような振る舞いはできても、自分を晒したらきっと離れていく。本来はこういう、打算的な人間なんで」
「朝日奈くんは……最初から打算的だったけど」
「言ったでしょ。あなたには繕っても意味がないって」
「交友関係が薄いから」
「はい。……でも、計算が狂いました。早見さんみたいな人が心を許してくれたら、さぞ気分がいいだろうなーと思ったんです」
「どうして俺……?」
「希少価値、ってやつです」
わざわざ突き放すような言葉を選ぶ彼に、違和感を覚える。その言葉もまるで、用意されていたみたいだ。
「覚えてます? 渡り廊下で、俺の後ろに隠れたこと」
「え……あ、うん」
「あれが原因ですね。普段人に懐かない猫が、俺にだけ懐いてくれた感じがして」
「猫って」
「すみません。気に障りました?」
「いや……たとえとしては、わかりやすい」
思ったままそう言うと、朝日奈くんはケラケラと笑い出した。
「ほんと、そういうところが良いですよね。自分に無頓着というか、なんというか」
「なんか、変なこと言った?」
「猫とか、懐くとか。怒ってもいいところですよ」
「猫は、嫌いじゃないし」
「そういうことじゃなくて」
またケラケラ笑っている。朝日奈くんのツボが一向に分からない。
首を傾げていると、ようやく息を整えた彼はしずかに唇を割った。
「あなたのことを物差しにしてた。だから、通話を聞いたときも、透との話を聞いたときも、苛ついてたんだと思います」
「……自分にしか懐いていないと思ってた猫が、他人にも懐いてたから?」
「自分で言うんですか」
困ったように笑う横顔に、力が抜けていく。
打ち明けられたことに驚きはしたけれど、不思議と腑に落ちた。
「どうです? 失望しました?」
その声は、すべてをさらけ出した晴れやかさと、恐怖が混ざり合っているように聞こえる。
「びっくりはした。でも、失望とかは、とくに」
「そうですか。甘いですね」
「……どうかな。俺じゃなくても、失望なんてしないと思うけど」
朝日奈くんのことは、よく知っているわけじゃないけど、少しだけ知っている。
守銭奴なところ。打算的で、外面を気にしているところ。怒っているのに笑うところ。とことん空気を読むところ――あげてみると、ぜんぶ長所かどうかはわからない。
それが少しおかしくて、笑ってしまいそうになる。
「意外ですね。早見さんが励ましてくれるなんて」
不意を突かれたように、朝日奈くんの目がパチリと瞬く。
「励ましたわけじゃないし……それに、どうかと思うところもあるけど」
「なんです?」
「睡眠を売買するところとか。初対面の人間にそれを持ちかけるところとか」
「我ながらいいアイデアだと思ってますよ。未だに」
「普通の人なら思いつかない」
こんな取引を受け入れてしまった俺も、普通じゃないのかもしれないけど。
「あー、確かに」
と、朝日奈くんは楽しそうに肩を揺らしている。その横顔からは、不安げな緊張感はきれいに消えていた。
しばらくして落ち着くと、肩にストンと重みが増す。なにかと思って覗き込めば、朝日奈くんの頭が俺の肩に乗せられていた。
「ねてる……?」
そっと尋ねてみたけど、応答はない。
次の瞬間、電車が揺れて、朝日奈くんの頭がぐらりと存在感を主張する。
すうっ、と。そばで響く寝息は彼のものとは思えないくらいに無垢で、静か。じっとしていれば、雨のせいで少し湿った髪の匂いと、制汗剤の香りが混ざった匂いが漂う。
——朝じゃなくて、部活の後だからか。
いつも隣から漂うものとはすこし違う香りに、心臓の座りが悪くなる。
……俺が寝てるとき、朝日奈くんは何を考えているんだろう。
「早見さん」
「…………起きてたの」
狸寝入りを白状するような、くっきりとした声に眉をひそめる。こんなことじゃないかと、半分予感していた。
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
もしかして、この体勢のまま話すつもりか。
「どうして、俺には話せなかったんですか? 早見さんが遮った話」
突っ込むよりも先に、朝日奈くんは問いかける。いまさら切り出すのも面倒で、俺は結局、肩に重みを抱えたまま応えることにした。
「……昔のことが原因で。ごめん」
「透には話せたのに?」
「え?」
「ゲームの話、したって言ってませんでしたっけ」
体温が触れているからか、表情は見えないのに、不服そうなのが伝わってくる。なんか、拗ねてるみたいだ。
「それは、また別っていうか。ゲーセンでのことだし」
「なにか違うんですか?」
「大したことじゃない。ただ、昔ちょっと……引かれただけ」
「引かれた?」
俺は喉を鳴らして、ちいさく頷いた。
「友だちとゲームで盛り上がって、嬉しくて。熱を入れて話しすぎたんだと思う」
「ああ……それでさっきも――」
ついさっきのことだ。朝日奈くんの頭のなかにはきっと、弓道のことを褒めたときの反応が、しっかり過っているのだろう。
「だから、話せなかったんですか」
「そう、だけど……」
「なるほど。へえ……そうですか」
「なんで嬉しそうなの」
「ん? いや、なんでも」
「笑ってるし」
「そうですか?」
肩に乗せられたままの頭を睨み見るけど、肝心な表情は見えない。この体勢も、早くやめてほしい。
「早見さんは引かれたくない、って思ってくれたんですね」
機嫌の良さそうな声音に、顔が熱くなる。
ああ、そうか。さっきの話、よく考えたらそういうことになる。朝日奈くんのことだから、すぐ紐解いてしまったんだろうけど。
「早見さんは、俺にどう思われてもどうでもいいのかと思ってました」
「……どうでもよくは、ない」
「はい?」
「俺にだって、どうでもよくない人くらいいる」
体温が、急に離れていく。朝日奈くんがのそっと起き上がったからだ。
見ると、豆鉄砲を食らったような目をしている。本当に、豆鉄砲くらいの小さな反撃だ。
「朝日奈くんは……友だちじゃないけど、話しやすいし。だから、気まずくなりたくなかっただけ」
これじゃあ本当に、彼に手懐けられた猫みたいじゃないか。
不本意だけど、俺自身、言葉にするまで気づかなかった。毎朝のルーティンになりつつある、眠りにつく前のあの会話が、心地のいいものとして染み付いていたなんて。
逃げるように顔を逸らすと、横から名前を呼ばれる。だけど、いま振り向くわけにはいかない。
「早見さん」
「……なに?」
「こっち向いてくれないんですか?」
「向かない」
「えー、ショックだなぁ」
「白々しいな」
「これでもいま、結構うれしいんですよ。俺」
これまでに聴いたことのない、浮遊感を覚えるような声と、肩には体温が降りてくる。また狸寝入りでもするつもりか。
「——……ちょっと、やばいかも」
「え?」
もごもごと、なにか呟いた声が聴こえる。聞き返しても応答はなくて、代わりに朝日奈くんの吐息が響くだけだった。
だけど、怪しい。
「……寝てないでしょ」
「今日だけ、許してください」
眠くないのに、人の肩を借りる必要なんてないと思う。そう言いたかったのに、どうして言葉を呑んでしまったんだろう。
「もちろん、百円は支払いますから」
「べつに……これは契約外でしょ」
「じゃあ、特別措置ってことで」
小さな笑い声が肩口で揺れて、なにそれ、と同じトーンで息を漏らす。
しばらくすると、朝日奈くんは本当に眠ってしまったようで、肩が重い。毎朝こんなのを耐えている彼はすごい。このまま続けていたら、右肩だけムキムキになったりしないだろうか。
「……そんなわけない」
駅に着くまでの数十分。隣から伝わる体温のせいで、俺はちっとも落ち着かなかった。

