◇
……あ、財布置いてきた。
放課後、自動販売機の前でポケットを探り、息を吐く。
いつもならとっくに帰ってる時間だけど、これから体育祭に向けて練習をするらしいので、飲み物を調達しにきていた。
ちなみに今回は、クラス全員強制参加のやつだ、と実行委員に言われている。クラス対抗で行われる大縄の練習をする、とかなんとか。あれ、砂ぼこりが舞うからかなり苦手なんだけど。
「アプリ……で、いっか」
財布を置いてきてしまった俺は、仕方なくスマホを光らせる。ガコン、と落ちてきたスポーツドリンクを拾ったタイミングで、決済完了の電子音がピロンと鳴った。
例の取引のせいで、最近いやというほど聞きなれた音が、今日はどこか他人事のように響く。今朝は、朝日奈くんに送金しなかったからだ。
それだけで、なんだか妙な空白がある。
「あっ、早見くんいた! もう始まるよー!」
グラウンドの方からクラスメートに呼ばれ、俺はハッと振り返る。
変なことに慣れちゃったな。と、溜め息まじりに駆けだした。
結局、大縄の練習は小一時間も続いた。
砂ぼこりに晒され続けたのもそうだけど、引っかからないようにと神経をすり減らしたせいで、全身がどっと重い。
曇っているおかげで暑さはだいぶ和らいだけど、湿っぽい空気のせいでじわりと汗が滲む。
散会になったあと、俺はひとり、水道で砂を落としていた。
リレーに出場するクラスメートたちは、まだ残って練習するのだとか。自分が体力がないほうだとわかってはいたけど、同級生にこうも差を突きつけられると情けない。……かといって、あんなに眩しい人たちに混ざるなんて、さらに無謀だけど。
更衣室までの近道を行くために、校舎の裏手を通る。
パァンッ——!
静まり返った空気に、軽やかで小気味良い音が響き渡ったのは、そのときだった。
鼓膜を心地よく揺らすその音に、思わず足がとまる。音のした方——弓道場へと吸い寄せられるように目を向けると、庇の下によく見慣れた影が伸びていた。
——朝日奈くんだ。
真っ白な胴着に漆黒の袴をまとったその姿に、目が引きつけられる。
別人みたい……なのに、朝日奈くんらしい。矛盾した感想がごちゃ混ぜになって、ただ目の前の動作を追う。外面のいい笑顔も、今朝の刺々しさもそこにはない。ピンと背筋を伸ばす、どこか神聖なたたずまいに息を呑んだ。
弓道部……だったのか。
弓に矢をつがえて、引きしぼる。洗練されたそのしなやかな型。凛と張りつめた静寂。その空気のなかで、指先から弦が放たれる。
バシッと静寂を打ちやぶる音とともに、矢は一直線に的の真ん中を射抜いた。
「すごい……」
朝の電車で、朝日奈くんがたまに見せる静けさと、いま纏っている空気はよく似ている。……だから、なのか。新鮮なのに妙に心が落ち着いて、目を留めてしまう。
——もう一回。
気付けば、心のなかで呟きながら足を進めていた。じゃり、と。砂を擦る音が響いたことにも気づかずに。
「……早見さん?」
矢をとった朝日奈くんが、不意に振り返る。どうして気付かれたのか、なんて考える余裕もなく固まった。
「見てたんですか?」
「え、いや……」
「弓道、興味あるんです?」
朝日奈くんは射場の端まで歩み寄ると、すこし屈んで覗き込む。いつもは見上げるばかりだった彼と、ちょうど同じくらいの高さで視線が絡んだ。
「いや……よく、わかんない」
目を逸らすと、朝日奈くんは不満げに「ふーん」と声を漏らす。
だって、本当によくわからないんだから仕方ない。矢を射ているところなんて、今初めて見たんだし。でも——、
「でも……すごかったよ」
驚いているのが丸わかりな朝日奈くんは、珍しい。
「いいもの、見せてもらった気がする。……じゃあ」
だけど、本当はもうすこし見てみたかった、なんて。口が裂けても言えない。
俺は目も合わさずに体を翻す。零してしまった本音が気恥ずかしくて、早くその場を去りたかった。
「早見さん」
だけど、逃げ去ろうとした体はぐんっ、と後ろに引っ張られる。俺の手首を掴んだ、その戦犯を振り仰いだ。
「もう少し、見ていきませんか?」
「……は?」
神聖な道着のうえに、うさんくさい笑みが浮かぶ。
「興味、あるんでしょ?」
「だから、それはわかんないって、」
「弓道じゃなくて、弓道をしてる俺に」
どうしてそんなに満足気なのか、全然わからない。今朝はあんなに刺々しかったのに、そうでしょ? と追いつめてくる彼はもはや愉しそうですらある。
「部活中に、邪魔じゃないの」
「いいですよ」
「他の人は?」
「いません。今日は俺ひとりなんで、安心してください」
他の人がいると嫌がる、とか思われてるんだろうな。不本意だけど、間違いではない。
「ほら、上がって」
「えっ、なに……?!」
唐突に腕を引かれ、俺はたたらを踏むように射場の縁へ足をのせた。板張りの床に引き上げられ、よろめいた体を咄嗟に支えられる。
まるで、抱き寄せられているかのようなワンシーン。朝日奈くんはイケメンだし、俺のポジションが女の子なら様になるんだろうけど。
「ちょっと無茶でしたかね」
「……うん」
距離も近いし、なにより心臓に悪い。急に引っ張るなんて、ありえない。
ぶつぶつと不満を唱えていると、支えられた背中をぽんぽんと叩かれる。見上げれば、少女漫画のヒーローのような顔がふわりと綻んだ。
「早見さん、てっきりもっと軽いのかと。かなり華奢だし」
「普通だよ。……てゆーか、男に華奢って」
「俺と比べたら、十分細いですよ」
朝日奈くんだって細いじゃん。
そう反論する言葉が溶けたのは、背中から流れるように、ウエスト周りに触れられたからだ。
「ひっ……」
代わりに、変な声が出る。朝日奈くんは声をあげて笑った。
「すみません、からかって。靴脱いだら、こっち座ってください」
彼が指した先には、見学用のベンチがある。そのすぐ横には、道場の入り口もある。
わざわざ引っ張りあげなくても、あそこから入れてくれればよかったのに。相変わらず掴めない彼に悶々としながら、俺は靴を脱ぎ捨てた。
……あ、財布置いてきた。
放課後、自動販売機の前でポケットを探り、息を吐く。
いつもならとっくに帰ってる時間だけど、これから体育祭に向けて練習をするらしいので、飲み物を調達しにきていた。
ちなみに今回は、クラス全員強制参加のやつだ、と実行委員に言われている。クラス対抗で行われる大縄の練習をする、とかなんとか。あれ、砂ぼこりが舞うからかなり苦手なんだけど。
「アプリ……で、いっか」
財布を置いてきてしまった俺は、仕方なくスマホを光らせる。ガコン、と落ちてきたスポーツドリンクを拾ったタイミングで、決済完了の電子音がピロンと鳴った。
例の取引のせいで、最近いやというほど聞きなれた音が、今日はどこか他人事のように響く。今朝は、朝日奈くんに送金しなかったからだ。
それだけで、なんだか妙な空白がある。
「あっ、早見くんいた! もう始まるよー!」
グラウンドの方からクラスメートに呼ばれ、俺はハッと振り返る。
変なことに慣れちゃったな。と、溜め息まじりに駆けだした。
結局、大縄の練習は小一時間も続いた。
砂ぼこりに晒され続けたのもそうだけど、引っかからないようにと神経をすり減らしたせいで、全身がどっと重い。
曇っているおかげで暑さはだいぶ和らいだけど、湿っぽい空気のせいでじわりと汗が滲む。
散会になったあと、俺はひとり、水道で砂を落としていた。
リレーに出場するクラスメートたちは、まだ残って練習するのだとか。自分が体力がないほうだとわかってはいたけど、同級生にこうも差を突きつけられると情けない。……かといって、あんなに眩しい人たちに混ざるなんて、さらに無謀だけど。
更衣室までの近道を行くために、校舎の裏手を通る。
パァンッ——!
静まり返った空気に、軽やかで小気味良い音が響き渡ったのは、そのときだった。
鼓膜を心地よく揺らすその音に、思わず足がとまる。音のした方——弓道場へと吸い寄せられるように目を向けると、庇の下によく見慣れた影が伸びていた。
——朝日奈くんだ。
真っ白な胴着に漆黒の袴をまとったその姿に、目が引きつけられる。
別人みたい……なのに、朝日奈くんらしい。矛盾した感想がごちゃ混ぜになって、ただ目の前の動作を追う。外面のいい笑顔も、今朝の刺々しさもそこにはない。ピンと背筋を伸ばす、どこか神聖なたたずまいに息を呑んだ。
弓道部……だったのか。
弓に矢をつがえて、引きしぼる。洗練されたそのしなやかな型。凛と張りつめた静寂。その空気のなかで、指先から弦が放たれる。
バシッと静寂を打ちやぶる音とともに、矢は一直線に的の真ん中を射抜いた。
「すごい……」
朝の電車で、朝日奈くんがたまに見せる静けさと、いま纏っている空気はよく似ている。……だから、なのか。新鮮なのに妙に心が落ち着いて、目を留めてしまう。
——もう一回。
気付けば、心のなかで呟きながら足を進めていた。じゃり、と。砂を擦る音が響いたことにも気づかずに。
「……早見さん?」
矢をとった朝日奈くんが、不意に振り返る。どうして気付かれたのか、なんて考える余裕もなく固まった。
「見てたんですか?」
「え、いや……」
「弓道、興味あるんです?」
朝日奈くんは射場の端まで歩み寄ると、すこし屈んで覗き込む。いつもは見上げるばかりだった彼と、ちょうど同じくらいの高さで視線が絡んだ。
「いや……よく、わかんない」
目を逸らすと、朝日奈くんは不満げに「ふーん」と声を漏らす。
だって、本当によくわからないんだから仕方ない。矢を射ているところなんて、今初めて見たんだし。でも——、
「でも……すごかったよ」
驚いているのが丸わかりな朝日奈くんは、珍しい。
「いいもの、見せてもらった気がする。……じゃあ」
だけど、本当はもうすこし見てみたかった、なんて。口が裂けても言えない。
俺は目も合わさずに体を翻す。零してしまった本音が気恥ずかしくて、早くその場を去りたかった。
「早見さん」
だけど、逃げ去ろうとした体はぐんっ、と後ろに引っ張られる。俺の手首を掴んだ、その戦犯を振り仰いだ。
「もう少し、見ていきませんか?」
「……は?」
神聖な道着のうえに、うさんくさい笑みが浮かぶ。
「興味、あるんでしょ?」
「だから、それはわかんないって、」
「弓道じゃなくて、弓道をしてる俺に」
どうしてそんなに満足気なのか、全然わからない。今朝はあんなに刺々しかったのに、そうでしょ? と追いつめてくる彼はもはや愉しそうですらある。
「部活中に、邪魔じゃないの」
「いいですよ」
「他の人は?」
「いません。今日は俺ひとりなんで、安心してください」
他の人がいると嫌がる、とか思われてるんだろうな。不本意だけど、間違いではない。
「ほら、上がって」
「えっ、なに……?!」
唐突に腕を引かれ、俺はたたらを踏むように射場の縁へ足をのせた。板張りの床に引き上げられ、よろめいた体を咄嗟に支えられる。
まるで、抱き寄せられているかのようなワンシーン。朝日奈くんはイケメンだし、俺のポジションが女の子なら様になるんだろうけど。
「ちょっと無茶でしたかね」
「……うん」
距離も近いし、なにより心臓に悪い。急に引っ張るなんて、ありえない。
ぶつぶつと不満を唱えていると、支えられた背中をぽんぽんと叩かれる。見上げれば、少女漫画のヒーローのような顔がふわりと綻んだ。
「早見さん、てっきりもっと軽いのかと。かなり華奢だし」
「普通だよ。……てゆーか、男に華奢って」
「俺と比べたら、十分細いですよ」
朝日奈くんだって細いじゃん。
そう反論する言葉が溶けたのは、背中から流れるように、ウエスト周りに触れられたからだ。
「ひっ……」
代わりに、変な声が出る。朝日奈くんは声をあげて笑った。
「すみません、からかって。靴脱いだら、こっち座ってください」
彼が指した先には、見学用のベンチがある。そのすぐ横には、道場の入り口もある。
わざわざ引っ張りあげなくても、あそこから入れてくれればよかったのに。相変わらず掴めない彼に悶々としながら、俺は靴を脱ぎ捨てた。

