朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。

 ◇

 電車に乗り込むと、俺たちはいつもと同じ並びで座る。
 あのあと、朝日奈くんは言葉を溜めた挙句、「電車のなかで話します」と言って口を噤んでしまったのだ。
 傘をたたむ指先を眺めながら、俺はその続きを待った。
「話、してもいいですか」
 朝日奈くんの、さっきよりも柔くなった声に頷く。
 上から降りそそぐ雨音よりも、足元からガタゴトと伝う振動の方が、俺たちには心地良いのかもしれない。
「苛立ってたのは、早見さんに対してではないんです」
 左隣から響く声も、この体によく馴染む。朝日奈くんは吐き出すように言った。
「誰に対してでもないというか、そもそも行き場がないというか」
「行き場がない?」
「幼なじみさんとの通話とか、電車で透と会ったときとか。親しそうにしてるのを見たら、むしゃくしゃして」
 交友関係がない、と俺を評したのは朝日奈くんなのに。桜介はともかく、トオルくんとも親しいと言われて少し驚いた。
「これから、たぶんかなり勝手なこと言いますけど、怒らないでくださいね」
 そんな風に前置きするなんて、よほどのことなんだろうか。わずかに緊張が走ったせいか、
「それは、話による」
 と、淡白に答えてしまった。朝日奈くんは「ごもっとも」と、なぜか力を抜いて笑っていたけど。
 ガタン、ゴトン。
 規則正しいその音が何度か巡ったあと、彼はゆっくり唇を割った。
「交友関係の薄いあなたが、俺にだけ心を開いてくれたらいいと思ったんです。なんていうか……承認欲求みたいなものって言えば、わかりますか」
 “勝手なこと”が、まるで用意されていた言葉のように、滑らかに落ちていく。俺にはまだ、その真意は掴めない。
「人付き合いが苦手なのは、俺のほうなんですよ」
 人付き合いが苦手……? 朝日奈くんが?
 だけど、自嘲的に笑うその横顔から、なぜか目が離せなかった。
「友だちに囲まれてるとこ、見たけど」
「みんな、ハリボテに騙されてるだけですよ。好かれるような振る舞いはできても、自分を晒したらきっと離れていく。本来はこういう、打算的な人間なんで」
 そんなの、今更じゃないか。俺は首を傾げる。
「朝日奈くんは、最初から打算的だったけど」
「言ったでしょ。あなたには繕っても意味がないって」
「交友関係が薄いから」
「はい。でも、計算が狂いました」
 呟かれた言葉の意味を図りかねていると、彼はふっと吐息を漏らした。
「早見さんみたいな人が心を許してくれたら、さぞ気分がいいだろうなと思ったんです」
「どうして俺……?」
「希少価値、ってやつです」
 朝日奈くんは眉を下げて、遠くを見据える。
 雨の匂いが残る車内で、ぽつりと落とされた静寂。言葉はまっすぐ届いたのに、その向こう側にはまだ冷たい膜が張られているような気がしてならない。
「覚えてます? 渡り廊下で、俺の後ろに隠れたこと」
「え……あ、うん」
 空気が急に、入れ替えられたみたいだ。
 唐突に顔を向けられて、俺は軽く肩を弾いた。
「あれはよかったですね。普段人に懐かない猫が、俺にだけ懐いてくれた感じがして」
「猫って」
「すみません。気に障りました?」
「いや……たとえとしては、わかりやすい」
 思ったまま言うと、朝日奈くんは笑い出した。
「ほんと、自分に無頓着というか、なんというか」
「なんか、変なこと言った?」
「猫とか、懐くとか。怒ってもいいところですよ」
「猫は嫌いじゃないし」
「そういうことじゃなくて」
 まだケラケラ笑っている。朝日奈くんのツボが一向に分からない。
 首を傾げていると、ようやく息を整えた彼はしずかに唇を割った。
「まあ、だから苛ついてたんだと思います」
「自分にしか懐いてないと思ってた猫が、他人にも懐いてたから?」
「自分で言うんですか」
 困ったように笑う横顔に、力が抜けていく。
 打ち明けられたことに驚きはしたけれど、不思議と腑に落ちた。さっき覚えた感覚は、やっぱり気のせいだったのかもしれない。
「どうです? 失望しました?」
 そう尋ねる朝日奈くんの声は、すべてをさらけ出した晴れやかさと、恐怖が混ざり合っているみたいだ。
「びっくりはしたけど。失望とかは、とくに」
「そうですか。甘いですね」
「……どうかな。俺じゃなくても、失望なんてしないと思うけど」
 朝日奈くんのことは、よく知っているわけじゃないけど、少しだけ知っている。
 守銭奴なところ。打算的で、外面を気にしているところ。怒っているのに笑うところ。とことん空気を読むところ――あげてみると、ぜんぶ長所かどうかはわからない。
 それが、少しおかしい。
「意外ですね。早見さんが励ましてくれるなんて」
 不意を突かれたように、朝日奈くんの目がパチリと瞬いた。
「励ましたわけじゃないし……それに、どうかと思うところもあるけど」
「へえ、なんです?」
 食い気味で聞くところか。
 これまでで一番愉しそうな顔をしていて、少し呆れながら俺は言った。
「睡眠を売買するところとか。初対面の人間にそれを持ちかけるところとか」
「我ながらいいアイデアだと思ってますよ。未だに」
「普通の人なら思いつかない」
 こんな取引を受け入れてしまった俺も、普通じゃないのかもしれないけど。
「あー、確かに」
 朝日奈くんはふふっと肩を揺らしている。その横顔から、不安げな緊張感はきれいに消えていた。

 会話が途切れると、肩にふっと重みが増す。なにかと思って覗き込めば、朝日奈くんの頭が俺の肩に乗ってた。
「ねてる……?」
 そっと尋ねてみたけど、応答はない。
 次の瞬間、電車が揺れて、朝日奈くんの頭がぐらりと存在感を主張する。すうっ、と。そばで響く寝息は、彼のものとは思えないくらいに無垢で静かだった。
 ——朝じゃなくて、部活の後だからか。
 いつも隣から漂うものとはすこし違う気配に、心臓の座りが悪くなる。
 俺が寝てるとき、朝日奈くんは何を考えているんだろう。
「早見さん」
「…………起きてたの」
 狸寝入りを白状するような、くっきりとした声に眉をひそめる。こんなことじゃないかと、半分予感していた。
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
 もしかして、この体勢のまま話すつもりか。
「どうして、俺には話せなかったんですか? 早見さんが遮った話」
 突っ込むよりも先に、朝日奈くんは問いかける。いまさら切り出すのも面倒で、俺は結局、肩に重みを抱えたまま応えることにした。
「……昔のことが原因で」
「透には話せたのに?」
「え?」
「ゲームの話、したって言ってませんでしたっけ」
 体温が触れているからか、表情は見えないのに、不服そうなのが伝わってくる。なんだか、拗ねてるみたいだ。
「それは、また別っていうか」
「なにか違うんですか?」
「大したことじゃない。ただ、昔ちょっと……引かれただけ」
「引かれた?」
 俺は静かに、小さく頷く。
 走る電車の明滅が、車内を浅く照らしては過ぎていく。大したことじゃないと自分に言い聞かせながら、固くなった唾を嚥下する。
 そのとき、朝日奈くんがゆっくりと息を吐いたのは、偶然だったのか。肩に伝わるその微かな温もりに、少しだけ救われた気がした。
「……友だちとゲームで盛り上がって、嬉しくて……熱を入れて話しすぎたんだと思う」
 吐き出すと、朝日奈くんはわずかに頭を浮かせた。
「それで、さっきも――」
 ついさっきのことだ。彼の頭のなかにはきっと、弓道のことを褒めた俺の反応が過っているのだろう。
「だから、話せなかったんですか」
「そう、だけど……」
「なるほど。へえ……そうですか」
 寄り添われている気がしたけど、気のせいだったのか。
 朝日奈くんが頰を緩めている予感がした。
「なんで嬉しそうなの」
「ん? いや、なんでも」
 肩に乗せられたままの頭を睨み見るけど、肝心な表情は見えない。この体勢も、早くやめてほしい。
「早見さんは引かれたくないって、思ってくれたんですね」
 機嫌の良さそうな声音に、顔がカアッと熱くなる。
 ああ、そうか。さっきの話、よく考えたらそういうことになる。
「早見さんは、俺にどう思われてもどうでもいいのかと思ってました」
「……どうでもよくは、ない」
「はい?」
「俺にだって、どうでもよくない人くらいいる」
 体温が、急に離れていく。朝日奈くんがのそっと起き上がったからだ。
 見ると、豆鉄砲を食らったような目をしている。本当に、豆鉄砲くらいの小さな反撃だ。
「朝日奈くんは……友だちじゃないけど、話しやすいし。だから、気まずくなりたくなかっただけ」
 これじゃあ本当に、彼に手懐けられた猫みたいじゃないか。
 不本意だけど、俺自身、言葉にするまで気づかなかった。毎朝のルーティンになりつつある、眠りにつく前のあの会話が、心地のいいものとして染み付いていたなんて。
 逃げるように顔を逸らすと、名前を呼ばれる。だけど、いま振り向くわけにはいかない。
「早見さん」
「……なに?」
「こっち向いてくれないんですか?」
「向かない」
「えー、ショックだなぁ」
「白々しいな」
「これでもいま、結構うれしいんですよ。俺」
 これまでに聴いたことのない、浮遊感を覚えるような声と、肩には体温が降りてくる。
 また狸寝入りでもするつもりか。
「——……ちょっと、やばいかも」
「え?」
 もごもごと、なにか呟いた声が聴こえる。聞き返しても返答はなくて、代わりに朝日奈くんの吐息が響くだけだった。
 だけど、怪しい。
「……寝てないでしょ」
「今日だけ、許してください」
 眠くないのに、人の肩を借りる必要なんてないと思う。そう言いたかったのに、どうして言葉を呑んでしまったんだろう。
「もちろん、百円は支払いますから」
「べつに……これは契約外でしょ」
​「じゃあ、特別措置ってことで」
​ 小さな笑い声が肩口で揺れて、なにそれ、と同じトーンで息を漏らす。
 しばらくすると、朝日奈くんは本当に眠ってしまったようで、肩が重い。毎朝こんなのを耐えている彼はすごい。このまま続けていたら、右肩だけムキムキになったりしないだろうか。
「……そんなわけない」
 駅に着くまでの数十分。隣から伝わる体温のせいで、俺はちっとも落ち着かなかった。