朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。

「それにしても、珍しいよなぁ」
 駅までの道のりで、桜介が語尾を伸ばす。
 陽の眩しさを存分に浴びたあとの月曜は、一面にうすい雲のかかった冴えない天気だった。おかげで、久しぶりに肌寒い。
「珍しいって、なにが?」
「深が朝からメッセージ返すとこなんて、初めて見た」
 ああ……それのことか。
 いまはもうポケットに入れてしまったスマホには、ついさっきまでトオルくん(・・・・・)からのメッセージを通知していた。
 ゲームセンターで出会った、一見チャラい後輩だ。
「なんか、話しかけられて。ゲーセンで」
「ゲーセン? え、ナンパ?」
「そんなわけないだろ。相手、後輩の男子」
「なにそれ。ますます珍しい」
 桜介は目を白黒させて、先を促した。なんでゲーセンで、とか。どうして連絡先を教えることになったんだ、とか。
 まあ、ほとんどあやふやにしか答えられなかったけど。
「ゲームのこととか、いろいろ聞かれて」
「へえ……それで意気投合したんだ」
「意気投合っていうか……俺のこと、すごいやつだと思ってるみたい」
「たしかに。あのゲームスキル見せられたら感動するもん」
 何かを思い出すようにして言う桜介は、どこか満足げにうなずいた。
「だからって……俺とラインしてて楽しいのかな」
「まーたそんな卑屈になって」
 だって、気の利いた返信なんてまるでできないし、話を膨らませることだって苦手なのに。
 今朝だって、『友達の家に泊まってて、今日は学校まで直行なんです』と、うさぎのスタンプ付きで送られてきたメッセージに『おはよう。そうなんだ』としか返せなかった。
 そんな淡白な返信にも『にしし』と笑うスタンプで応じてくれるトオルくんは、相変わらずフレンドリーだ。
「しーん」
「う、」
「ほら、暗い顔しない」
 むぎゅっと頬をつままれて、戦犯の桜介を軽くにらむ。
 ネガティブな思考に走ると、いつもすぐに見抜かれる。昔からそうだった。
「じゃあ、今日もがんばれよ」
 頬を解放されたあとは、軽く背中を叩かれる。……がんばるのは、これから朝練の桜介のほうじゃん。
 去っていくジャージ姿を、俺は黙って見送った。


 桜介に見抜かれたのはきっと、卑屈になっていたからだけじゃない。
 電車に揺られていると、聞きなれたアナウンスが流れ込んでくる。次は千瀬川、千瀬川です。湿っぽい車内でうとうとしていた体が、その駅名に小さく反応した。
 もうすぐ、朝日奈くんが乗ってくる。
 あの日のことを、彼の問いかけを感じ悪く遮ってしまったことを、謝らなくちゃいけない。だけど、人と関わることを避けてきたせいか、脳内シミュレーションをするだけで息が詰まりそうだった。
 ……ああ、めんどくさい。
 そんな風に思ってしまう人間だから、人と関わらない方がいいと思っていたのに。こんなことなら、契約なんて――。
 プシューッ、という排気音とともにドアが開く。
 もともと利用者の少ない路線だ。乗客の姿もまばらなホームからすぐ見知った顔が入ってくる……はずだったのに、今日はいつもと違った。
 千瀬川駅のホームに、彼の姿は見当たらない。
 いつもならドアが開くと同時に、あの整えられた笑顔で「おはようございます」と乗ってくるはずだ。
 ——もしかして、休みとか。……でなければ、俺と顔を合わせたくないとか。
 別に、全然いいけど。そもそも友だちですらないんだし。でもまあ、契約を終えるのなら一言くらい断ってくれても良いじゃないかと思う。……別に、どうでもいいけど。
「……」
 くすんだ思考を投げやるように、視線を車窓のそとに向ける。
​ 二つの影が滑り込んできたのは、ドアが閉まる寸前のことだった。駆け込み乗車、ダメ、ぜったい。
​「ふぃ〜、間に合った~!」
「……ほんと、ぎりぎり」
 髪の明るい、満足げな表情の男。いつもの笑みはどこへいったのか、その隣で余裕なさそうに肩を上下させるもう一人の男。
 今朝メッセージで言っていた『泊まっていた友だちの家』って——朝日奈くんの家だったのか。
 俺は見知った二つの顔を視界におさめながら、目を大きく瞬いた。
「えっ、はやみん?!」
 げっ。
 声にでたのか、心のなかに収まったのかはわからない。だけど、思わずそう言いたくなる瞬間だった。
 この距離で気づかれないなんて、まず無理だけど。
「え、なんでいるんすか?! つーか、家このへんなんすか?!」
 真っ先に俺に気がついた髪の明るい方——トオルくんは、ぱっと表情を明るくして距離を詰めてくる。
「いや、うん……もうちょっと前から乗ってるけど」
「そうなんすね。あの俺、きのう律世んちに泊まってて、たまたまこの電車使ったんすけど。あ、律世ってのはこいつのことで」
 トオルくんが親しげに隣を指すと、スラリと佇むその男は涼しげににこりと笑った。……うん、よく知っている。
「おはようございます。透の知り合いですか?」
 こういう演技は、いかにも彼が得意そうだ。
 俺を気遣ってのものなのか、何かのあてつけなのかは分からないけど、他人行儀なその笑みに背筋が凍る。
「どうも。トオルくんとは、その……」
「ゲーセンでナンパしたんだよ。ね? はやみんセンパイ」
 俺の言葉を補うように、トオルくんは隣に座る。朝日を反射するネックレスに、思わず目を眇めた。いつもなら、白のヘッドフォンが見えていた場所だ。
「へー……ナンパ?」
 そのヘッドフォンを提げた男は、笑みを崩さないままトオルくんの向こうに沈む。一人隔てているだけで、いつもよりずいぶん遠い。
「俺らの高校の先輩でさ。早見さんっていうんだけど、マジでゲームがうまくて」
「ゲーム……ねえ」
「つーか律世、覚えてないのかよ。お前が助けた先輩じゃん」
 そうだ。そういえばこのトオルくんは、渡り廊下で朝日奈くんに隠れた俺のことを覚えていたんだ。
​ トオルくんの頭越しに、朝日奈くんと視線がぶつかる。
 貼りついたような営業スマイル。けれど、その瞳からは温度が消えていた。……正直、さっきよりもずっと怖い。
​「……ああ。もしかして渡り廊下で会った――」
「そうそう!」
「あのときの先輩、なんですね。ノート拾っただけだったから、顔覚えてなくて。すみません、はやみん先輩(・・・・・・)
 肩をすくめた彼の顔が、トオルくんの影からのぞく。普段なら絶対に口にしなさそうな『はやみん先輩』という呼び名を強調するのもわざとらしい。……やっぱり、何かの当てつけか?
「いいよ、別に。俺も覚えてなかったし」
 投げやりに応えてしまったのは、すこしだけ腹が立ったからだ。
 知らないふりを突き通すのはいい。だけど、朝日奈くんの態度はあきらかに俺を煽っている。不機嫌だということを悟らせるような態度もそうだ。
 怒らせたのは俺かもしれない。でも、そういうやり方はちょっとずるい。
「へえ、そうですか」
 仕掛けてきたわりには、覇気のない返事だった。そしてすぐに、彼は首に提げていたヘッドフォンを持ち上げる。
「……ごめん。俺ちょっと寝るから」
「おう、昨日遅かったもんな」
「あとは仲のいいお二人で楽しんで」
 トオルくんの影に隠れて、どんな顔をしているのかはわからない。だけど、いつもの貼りついた笑みが消えていることだけは、明らかだった。