◇
……あ、財布置いてきた。
放課後、自動販売機の前でポケットを探り、息を吐く。
いつもならとっくに帰ってる時間だけど、これから体育祭に向けて練習をするらしいので、飲み物を調達しにきていた。
ちなみに今回は、クラス全員強制参加のやつだ、と実行委員に言われている。クラス対抗で行われる大縄の練習をする、とかなんとか。あれ、砂ぼこりが舞うからかなり苦手なんだけど。
「アプリ……で、いっか」
財布を置いてきてしまった俺は、仕方なくスマホを光らせる。ガコン、と落ちてきたスポーツドリンクを拾ったタイミングで、決済完了の電子音がピロンと鳴った。
例の取引のせいで、最近いやというほど聞きなれた音が、今日はどこか他人事のように響く。今朝は、朝日奈くんに送金しなかったからだ。
それだけで、妙な空白がある。
「あっ、早見くんいた! もう始まるよー!」
グラウンドの方からクラスメートに呼ばれ、俺はハッと振り返る。
変なことに慣れちゃったな。と、溜め息まじりに駆けだした。
結局、大縄の練習は小一時間も続いた。
砂ぼこりに晒され続けたのもそうだけど、引っかからないようにと神経をすり減らしたせいで、全身がどっと重い。
散会になったあと、俺はひとり、水道で砂を落としていた。
リレーに出場するクラスメートたちは、まだ残って練習するのだとか。自分は体力がないほうだとわかってはいたけど、同級生にこうも差を突きつけられると情けない。……かといって、あんなに眩しい人たちに混ざるなんて、さらに無謀だけど。
更衣室までの近道を行くために、校舎の裏手を通る。
パァンッ——!
静まり返った空気に、軽やかで小気味良い音が響き渡ったのは、そのときだった。
鼓膜を心地よく揺らすその音に、思わず足がとまる。
これ……なんだろう。鮮明には思い出せないけど、前にも似たようなことがあった気がする。
音のした方、弓道場へと吸い寄せられるように足を向けると、庇の下によく見慣れた影が伸びていた。
——朝日奈くんだ。
真っ白な胴着に漆黒の袴をまとったその姿に、目が引きつけられる。
——やっぱり、どこかで……いや、そんなことより、弓道部だったのか。
弓に矢をつがえて、引きしぼる。洗練されたそのしなやかな型。凛と張りつめた静寂。その空気のなかで、指先から弦が離れる。
バシッと静寂を打ちやぶる音とともに、矢は一直線に的の真ん中を射抜いた。
「すごい……」
弦の震えが収まるまでの、数秒間。
矢羽の擦れる音、袴の衣擦れ、的がかすかに揺れる一瞬。それだけの世界に、取り残されてしまいそうだった。
——もう一回。
気付けば、足を進めていた。じゃり、と。砂を擦る音が響いたことにも気づかずに。
「……早見さん?」
矢をとった朝日奈くんが、不意に振り返る。俺は逃げ帰る余裕もなく、固まった。
「見てたんですか?」
「え、いや……」
「弓道、興味あるんです?」
朝日奈くんは射場の端まで歩み寄ると、すこし屈んで覗き込む。いつもは見上げるばかりだった彼と、ちょうど同じくらいの高さで視線が絡んだ。
「いや……よく、わかんない」
目を逸らすと、朝日奈くんは不満げに「ふーん」と声を漏らす。
だって、本当によくわからないんだから仕方ない。矢を射ているところなんて、今初めて見たんだし。でも——、
「でも……すごかったよ」
朝日奈くんは、目を白黒させる。驚いているのが丸わかりな彼は、珍しい。
「いいもの、見せてもらった気がする。……じゃあ」
だけど、本当はもうすこし見てみたかった、なんて。口が裂けても言えない。
俺は目も合わさずに体を翻す。零してしまった本音が気恥ずかしくて、早くその場を去りたかった。
「早見さん」
だけど、逃げ去ろうとした体はぐんっ、と後ろに引っ張られる。俺の手首を掴んだ、その戦犯を振り仰いだ。
「もう少し、見ていきませんか?」
「……は?」
「興味、あるんでしょ?」
「だから、それはわかんないって、」
「弓道じゃなくて、弓道をしてる俺に」
どうしてそんなに満足気なのか、全然わからない。今朝はあんなに刺々しかったのに、追いつめてくる彼はもはや愉しそうですらある。
「部活中に、邪魔じゃないの」
「いいですよ」
「他の人は?」
「いません。今日は俺ひとりなんで、安心してください」
他の人がいると嫌がる、とか思われてるんだろうな。不本意だけど、間違いではない。
「ほら、上がって」
「えっ、なに……?!」
唐突に腕を引かれ、俺はたたらを踏むように射場の縁へ足をのせた。板張りの床に引き上げられ、よろめいた体を咄嗟に支えられる。
相手が俺じゃなければ、映画のワンシーンみたいだ。
「ちょっと無茶でしたかね」
「……うん」
距離も近いし、なにより心臓に悪い。急に引っ張るなんて、ありえない。
ぶつぶつと不満を唱えていると、支えられた背中をぽんぽんと叩かれる。見上げれば、少女漫画のヒーローのような顔がふわりと綻んだ。
「早見さん、てっきりもっと軽いのかと。かなり華奢だし」
「普通だよ。……てゆーか、男に華奢って」
「俺と比べたら、十分細いですよ」
「……朝日奈くんだって細いじゃん」
そう反論すると、朝日奈くんは笑った。
「すみません、からかって。靴脱いだら、こっち座ってください」
彼が指した先には、見学用のベンチがある。そのすぐ横には、道場の入り口もある。
わざわざ引っ張りあげなくても、あそこから入れてくれればよかったのに。相変わらず掴めない彼に悶々としながら、俺は靴を脱ぎ捨てた。
「じゃ、そろそろ出ましょうか」
弓を片付け終えた朝日奈くんに声をかけられ、我に返る。道場から見えるはずの的は、ほとんど夕刻の色に包まれていた。
その指先から矢が放たれるのを、俺は時間を忘れて眺めていたらしい。
靴を履き、弓道場の出口へ向かう。ひんやりとした風が頬を撫でて、茹だっていた頭がようやく冷えていった。
「……すごかった」
「はい?」
「いや……なんか、朝日奈くんが朝日奈くんじゃないみたいで」
弓から放たれる矢の、迷いない軌道を思い出す。
あれは、本当にすごかった、と。心に留めておくつもりだった言葉がほろほろ、無意識に零れていく。
「正確に的を射れるのもすごいけど、フォームだってずっと綺麗で崩れないし。あと、あの音。かなり速い矢じゃないとあの音は出ないと思う。弓道場の外に響くくらい聴こえてたし、初めて俺、あんな音――」
昔から、こういうところがあった。普段好んで口を開かない分、興奮すると饒舌になってしまったり、周りが一瞬見えなくなる。
——……やってしまった。
恐る恐る隣を見上げれば、朝日奈くんは目を丸くして俺を凝視している。まるで、体のどこかを射抜かれたように。
「ごめん……、忘れて」
最悪だ。恥ずかしい。消えてなくなりたい。
——“本気すぎってゆーか、さすがに引くって”
熱を込めて気味悪がられた、あの苦い記憶が脳裏をよぎる。
趣味が合うから仲良くなれる。話を聞いてくれる人は信用できる。そんなものは、すべて幻想だった。うまくやっていくためには、相手の熱量と自分の熱量を合わせないといけない。
だから、俺は一刻も早くこの場から去りたかった——それなのに、
「……っ?!」
「待ってください」
どうして引き留めるんだよ。
強い力で腕を掴まれ、逃げようとした足は勢いよく引き戻されていた。
「なんで逃げるんですか?」
矢のように降ってくる真剣な眼差し。今度はこっちが、射抜かれる番だった。
「……なんでって、」
「嬉しかったのに」
道着の上で、鋭い眼光がふっとやわらぐ。
気を遣われているとか、取引相手だからだとか。そんな考えが消えてしまうくらい、朝日奈くんの表情は優しかった。
……本当に、今日の朝日奈くんはどうしたんだろう。
「褒めてくれたんですよね?」
「そう、だけど」
「だけど?」
「いつもより……、しゃべりすぎたから」
すこしの沈黙。耐え切れずに笑いだしたのは、朝日奈くんのほうだ。
「そりゃあ人間だし、しゃべるでしょ」
なに言ってるんですか早見さん? と、あからさまなくらい煽ってくるのはわざとだろうか。
「バカにするなら放して」
「すみません、違います。俺も、ちょっと照れました」
俺も、って。別に俺は、照れてたわけじゃないんだけど。
「でも嬉しいです。褒められて伸びるタイプなので」
朝日奈くんは隣にならんで、ゆっくり歩き出す。腕はもう解放されていたけど、熱をもった空気は簡単に引き下がってはくれなかった。
気まずくて目を泳がせた俺を、彼はちらりと盗み見る。
「——そういえば珍しいですね、体操着」
そして、「なにかあったんですか?」と軽やかなトーンで首を傾げた。気恥ずかしくて居心地の悪かった空気が、それだけでふっと解けていくような気がする。
朝日奈くんは、本当に器用だ。
「……体育祭の練習。今日はクラス全員、強制参加だったから」
「あー、そういえばもう来週ですね。クラス全員といったら、大縄ですか?」
「そう。よくわかったね」
「早見さんって、跳べるんですか?」
「……跳べるよ。なんだと思ってるの」
運動は特別好きじゃないけど、縄くらい跳べる。すこしだけムキになった。
「いいですね。早見さんのそういうところ、見てみたい」
なんだ、それ。てっきり流されると思っていたのに、よくわからない返しをされて眉を寄せる。
別に見たってなにも面白くない。そう返そうとしたけれど、気づけば部室棟の前まで来ていたようで、彼は「じゃ、また」と去っていった。
——はずだったのに、どうして校門の前に朝日奈くんがいるんだろう。
更衣室で着替え終えた俺は、校舎を背に立ち尽くす。とっくに帰ったと思っていたのに。
「なんでいるの?」
スラリと佇む影に近づくと、朝日奈くんは驚いた様子もなく「どうも」と微笑む。……どうも、じゃない。
「“また”って言ったじゃないですか。さっき」
「明日って意味かと思った」
「まさか。せっかくだし、一緒に帰りましょう」
ね? と首に角度をつけるやり方は、世にいう『あざとい』ってやつだろう。
「嫌ですか?」
「いや……いいけど」
「ならよかった」
俺たちは二人並んで、校門をあとにする。
今朝から立ちこめていた雲は、夜に近い夕空のなかで、さらに厚みを増していた。
「そういえば、朝のことなんですけど」
「あさ?」
「透が一緒にいるって、先に言えなくて、すみませんでした」
唐突な謝罪に、目を丸くする。
「朝は肩を貸すって契約なのに、破ってすみません」
もしかして、俺を待ってたのってこのため……?
流された視線にドキリとしたのは、俺も朝日奈くんに謝ろうとしていたことを思い出したからだ。
「いいよ。連絡先も教えてないし、仕方ない」
「まあ、そうなんですけど」
朝日奈くんは、なぜか勿体ぶるように言葉を溜める。代わりに俺は口を割った。
「——……俺の方こそ、ごめん」
シミュレーションなんてなんの役にも立たない。頭のなかは真っ白で、朝日奈くんのようにスマートにはいかない。
つい立ち止まってしまうと、彼の顔がふっと目の前に現れる。無言で先を促すような瞳に、息を吸い込んだ。
「このまえ、金曜の朝……いやな態度、とったから」
ぽつりぽつりと紡いだ言葉が、夕闇に溶けていく。返事を待つ数秒が、こんなにも長いなんて知らなかった。
「早見さん、」
朝日奈くんが口を開いた、そのとき——ポツ、と鼻先に冷たいものが落ちてくる。雨だ。
「あ、降ってきちゃいましたね」
朝から怪しい天気だとは思っていたけど、こんなタイミングで降るなんて。ことごとく、俺のシミュレーションは役に立たない。
「早見さん、こっち」
「え……」
固まっていると、朝日奈くんは折りたたみ傘をパサッと開く。どこから取り出したんだ? と手品のタネを探るように見据えていれば、
「なにしてるんですか、早く」
と、腕を引かれた。弓道場と、駅までの帰り道。今日だけで二度も同じ目に遭った気がする。
「何が目的?」
「はい?」
「傘……これも有料?」
ここで金をとられるなら、濡れたほうがいい。小さな傘に収めて睨みあげると、朝日奈くんは吹き出した。
「そんなに非情じゃないですよ。ほら、体育祭前に風邪引いたら困るでしょ」
俺は、別に困らない。
「別に困らない、って顔してます?」
「……なんで分かったの」
「早見さん、結構わかりやすいんで」
悪戯っぽく笑うしたり顔に、言葉を詰まらせる。見抜かれるのがイヤで距離を置こうとしても、傘と一緒についてくる。簡単には逃げられない。
だいたい、俺が風邪を引いたって、損なんかしないくせに。
触れ合う距離で肩を並べながら、悪態をつく。今度は目を合わせないように、心のなかで。
「で、何を謝られたんでしたっけ? 俺」
すっかりうやむやになったかと思った話題を、彼はけろりとした顔で持ち出した。
「……別に。なんでもない」
「態度が悪かったハナシ、ですか」
「わかってるなら、訊かないで」
「すみません。でも、早見さんから謝られるなんて、予想外でした」
「そのままにしとくの……嫌なんだよ」
俺だって、できるならこんな不慣れなことはしたくない。だけど、うやむやにして放って置くのは、もっと気持ちが悪かった。
あんな態度をとってしまった理由は、俺自身にあったから。
「別に、謝られるのほどのことじゃないですよ」
朝日奈くんはそう言いながら、歩くペースをすこし緩める。俺は隣に並ぶ勇気がでなくて、半歩引いたところで影を重ねた。
「踏み込まれたくないんだなー、とは思いましたけど」
「……うん」
「当然じゃないですか。人に、そういう部分があるのって」
さらにペースを緩められて、隣に追いつく。わざと追いつかせたのだとわかった頃には、視線がバッチリ合っていた。
「ましてや、俺たちはただの“取引相手”ですし」
同意を求めるような視線に、口を結ぶ。
「だから、俺も嫌な思いしてません。早見さんが謝る必要はないんです」
「……違う」
「え?」
「あれから、なんとなく気づいてた。俺に、怒ってたんじゃないの?」
雨音のなかで、一瞬だけ朝日奈くんの足が止まりかける。彼は目を丸くしたあと、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「あー……怒っては、ないです。本当に」
「そうなの?」
「はい。ただ……苛立ってはいました」
「怒ってるじゃん」
「それは、似て非なるものってゆーか」
「なにそれ」
「……グイグイくるんですね。珍しい」
今日は、初めて見る表情ばかりだ。
距離が近いせいか、表情の変化が手に取るようにわかる。怒っているときは笑ってハリボテをつくるくせに、困っているときは無防備だ。
このまま追っていれば、覆われている感情が掴めるような気がして、隣をじっと見つめた。
「教えるから——……そんなに見ないで」
なんだかちょっと、らしくない。
観念したような、拗ねたような言いざまに、心臓がおかしな音を立てる。傘をたたく雨音が、一瞬だけ消えたような気がした。
……あ、財布置いてきた。
放課後、自動販売機の前でポケットを探り、息を吐く。
いつもならとっくに帰ってる時間だけど、これから体育祭に向けて練習をするらしいので、飲み物を調達しにきていた。
ちなみに今回は、クラス全員強制参加のやつだ、と実行委員に言われている。クラス対抗で行われる大縄の練習をする、とかなんとか。あれ、砂ぼこりが舞うからかなり苦手なんだけど。
「アプリ……で、いっか」
財布を置いてきてしまった俺は、仕方なくスマホを光らせる。ガコン、と落ちてきたスポーツドリンクを拾ったタイミングで、決済完了の電子音がピロンと鳴った。
例の取引のせいで、最近いやというほど聞きなれた音が、今日はどこか他人事のように響く。今朝は、朝日奈くんに送金しなかったからだ。
それだけで、妙な空白がある。
「あっ、早見くんいた! もう始まるよー!」
グラウンドの方からクラスメートに呼ばれ、俺はハッと振り返る。
変なことに慣れちゃったな。と、溜め息まじりに駆けだした。
結局、大縄の練習は小一時間も続いた。
砂ぼこりに晒され続けたのもそうだけど、引っかからないようにと神経をすり減らしたせいで、全身がどっと重い。
散会になったあと、俺はひとり、水道で砂を落としていた。
リレーに出場するクラスメートたちは、まだ残って練習するのだとか。自分は体力がないほうだとわかってはいたけど、同級生にこうも差を突きつけられると情けない。……かといって、あんなに眩しい人たちに混ざるなんて、さらに無謀だけど。
更衣室までの近道を行くために、校舎の裏手を通る。
パァンッ——!
静まり返った空気に、軽やかで小気味良い音が響き渡ったのは、そのときだった。
鼓膜を心地よく揺らすその音に、思わず足がとまる。
これ……なんだろう。鮮明には思い出せないけど、前にも似たようなことがあった気がする。
音のした方、弓道場へと吸い寄せられるように足を向けると、庇の下によく見慣れた影が伸びていた。
——朝日奈くんだ。
真っ白な胴着に漆黒の袴をまとったその姿に、目が引きつけられる。
——やっぱり、どこかで……いや、そんなことより、弓道部だったのか。
弓に矢をつがえて、引きしぼる。洗練されたそのしなやかな型。凛と張りつめた静寂。その空気のなかで、指先から弦が離れる。
バシッと静寂を打ちやぶる音とともに、矢は一直線に的の真ん中を射抜いた。
「すごい……」
弦の震えが収まるまでの、数秒間。
矢羽の擦れる音、袴の衣擦れ、的がかすかに揺れる一瞬。それだけの世界に、取り残されてしまいそうだった。
——もう一回。
気付けば、足を進めていた。じゃり、と。砂を擦る音が響いたことにも気づかずに。
「……早見さん?」
矢をとった朝日奈くんが、不意に振り返る。俺は逃げ帰る余裕もなく、固まった。
「見てたんですか?」
「え、いや……」
「弓道、興味あるんです?」
朝日奈くんは射場の端まで歩み寄ると、すこし屈んで覗き込む。いつもは見上げるばかりだった彼と、ちょうど同じくらいの高さで視線が絡んだ。
「いや……よく、わかんない」
目を逸らすと、朝日奈くんは不満げに「ふーん」と声を漏らす。
だって、本当によくわからないんだから仕方ない。矢を射ているところなんて、今初めて見たんだし。でも——、
「でも……すごかったよ」
朝日奈くんは、目を白黒させる。驚いているのが丸わかりな彼は、珍しい。
「いいもの、見せてもらった気がする。……じゃあ」
だけど、本当はもうすこし見てみたかった、なんて。口が裂けても言えない。
俺は目も合わさずに体を翻す。零してしまった本音が気恥ずかしくて、早くその場を去りたかった。
「早見さん」
だけど、逃げ去ろうとした体はぐんっ、と後ろに引っ張られる。俺の手首を掴んだ、その戦犯を振り仰いだ。
「もう少し、見ていきませんか?」
「……は?」
「興味、あるんでしょ?」
「だから、それはわかんないって、」
「弓道じゃなくて、弓道をしてる俺に」
どうしてそんなに満足気なのか、全然わからない。今朝はあんなに刺々しかったのに、追いつめてくる彼はもはや愉しそうですらある。
「部活中に、邪魔じゃないの」
「いいですよ」
「他の人は?」
「いません。今日は俺ひとりなんで、安心してください」
他の人がいると嫌がる、とか思われてるんだろうな。不本意だけど、間違いではない。
「ほら、上がって」
「えっ、なに……?!」
唐突に腕を引かれ、俺はたたらを踏むように射場の縁へ足をのせた。板張りの床に引き上げられ、よろめいた体を咄嗟に支えられる。
相手が俺じゃなければ、映画のワンシーンみたいだ。
「ちょっと無茶でしたかね」
「……うん」
距離も近いし、なにより心臓に悪い。急に引っ張るなんて、ありえない。
ぶつぶつと不満を唱えていると、支えられた背中をぽんぽんと叩かれる。見上げれば、少女漫画のヒーローのような顔がふわりと綻んだ。
「早見さん、てっきりもっと軽いのかと。かなり華奢だし」
「普通だよ。……てゆーか、男に華奢って」
「俺と比べたら、十分細いですよ」
「……朝日奈くんだって細いじゃん」
そう反論すると、朝日奈くんは笑った。
「すみません、からかって。靴脱いだら、こっち座ってください」
彼が指した先には、見学用のベンチがある。そのすぐ横には、道場の入り口もある。
わざわざ引っ張りあげなくても、あそこから入れてくれればよかったのに。相変わらず掴めない彼に悶々としながら、俺は靴を脱ぎ捨てた。
「じゃ、そろそろ出ましょうか」
弓を片付け終えた朝日奈くんに声をかけられ、我に返る。道場から見えるはずの的は、ほとんど夕刻の色に包まれていた。
その指先から矢が放たれるのを、俺は時間を忘れて眺めていたらしい。
靴を履き、弓道場の出口へ向かう。ひんやりとした風が頬を撫でて、茹だっていた頭がようやく冷えていった。
「……すごかった」
「はい?」
「いや……なんか、朝日奈くんが朝日奈くんじゃないみたいで」
弓から放たれる矢の、迷いない軌道を思い出す。
あれは、本当にすごかった、と。心に留めておくつもりだった言葉がほろほろ、無意識に零れていく。
「正確に的を射れるのもすごいけど、フォームだってずっと綺麗で崩れないし。あと、あの音。かなり速い矢じゃないとあの音は出ないと思う。弓道場の外に響くくらい聴こえてたし、初めて俺、あんな音――」
昔から、こういうところがあった。普段好んで口を開かない分、興奮すると饒舌になってしまったり、周りが一瞬見えなくなる。
——……やってしまった。
恐る恐る隣を見上げれば、朝日奈くんは目を丸くして俺を凝視している。まるで、体のどこかを射抜かれたように。
「ごめん……、忘れて」
最悪だ。恥ずかしい。消えてなくなりたい。
——“本気すぎってゆーか、さすがに引くって”
熱を込めて気味悪がられた、あの苦い記憶が脳裏をよぎる。
趣味が合うから仲良くなれる。話を聞いてくれる人は信用できる。そんなものは、すべて幻想だった。うまくやっていくためには、相手の熱量と自分の熱量を合わせないといけない。
だから、俺は一刻も早くこの場から去りたかった——それなのに、
「……っ?!」
「待ってください」
どうして引き留めるんだよ。
強い力で腕を掴まれ、逃げようとした足は勢いよく引き戻されていた。
「なんで逃げるんですか?」
矢のように降ってくる真剣な眼差し。今度はこっちが、射抜かれる番だった。
「……なんでって、」
「嬉しかったのに」
道着の上で、鋭い眼光がふっとやわらぐ。
気を遣われているとか、取引相手だからだとか。そんな考えが消えてしまうくらい、朝日奈くんの表情は優しかった。
……本当に、今日の朝日奈くんはどうしたんだろう。
「褒めてくれたんですよね?」
「そう、だけど」
「だけど?」
「いつもより……、しゃべりすぎたから」
すこしの沈黙。耐え切れずに笑いだしたのは、朝日奈くんのほうだ。
「そりゃあ人間だし、しゃべるでしょ」
なに言ってるんですか早見さん? と、あからさまなくらい煽ってくるのはわざとだろうか。
「バカにするなら放して」
「すみません、違います。俺も、ちょっと照れました」
俺も、って。別に俺は、照れてたわけじゃないんだけど。
「でも嬉しいです。褒められて伸びるタイプなので」
朝日奈くんは隣にならんで、ゆっくり歩き出す。腕はもう解放されていたけど、熱をもった空気は簡単に引き下がってはくれなかった。
気まずくて目を泳がせた俺を、彼はちらりと盗み見る。
「——そういえば珍しいですね、体操着」
そして、「なにかあったんですか?」と軽やかなトーンで首を傾げた。気恥ずかしくて居心地の悪かった空気が、それだけでふっと解けていくような気がする。
朝日奈くんは、本当に器用だ。
「……体育祭の練習。今日はクラス全員、強制参加だったから」
「あー、そういえばもう来週ですね。クラス全員といったら、大縄ですか?」
「そう。よくわかったね」
「早見さんって、跳べるんですか?」
「……跳べるよ。なんだと思ってるの」
運動は特別好きじゃないけど、縄くらい跳べる。すこしだけムキになった。
「いいですね。早見さんのそういうところ、見てみたい」
なんだ、それ。てっきり流されると思っていたのに、よくわからない返しをされて眉を寄せる。
別に見たってなにも面白くない。そう返そうとしたけれど、気づけば部室棟の前まで来ていたようで、彼は「じゃ、また」と去っていった。
——はずだったのに、どうして校門の前に朝日奈くんがいるんだろう。
更衣室で着替え終えた俺は、校舎を背に立ち尽くす。とっくに帰ったと思っていたのに。
「なんでいるの?」
スラリと佇む影に近づくと、朝日奈くんは驚いた様子もなく「どうも」と微笑む。……どうも、じゃない。
「“また”って言ったじゃないですか。さっき」
「明日って意味かと思った」
「まさか。せっかくだし、一緒に帰りましょう」
ね? と首に角度をつけるやり方は、世にいう『あざとい』ってやつだろう。
「嫌ですか?」
「いや……いいけど」
「ならよかった」
俺たちは二人並んで、校門をあとにする。
今朝から立ちこめていた雲は、夜に近い夕空のなかで、さらに厚みを増していた。
「そういえば、朝のことなんですけど」
「あさ?」
「透が一緒にいるって、先に言えなくて、すみませんでした」
唐突な謝罪に、目を丸くする。
「朝は肩を貸すって契約なのに、破ってすみません」
もしかして、俺を待ってたのってこのため……?
流された視線にドキリとしたのは、俺も朝日奈くんに謝ろうとしていたことを思い出したからだ。
「いいよ。連絡先も教えてないし、仕方ない」
「まあ、そうなんですけど」
朝日奈くんは、なぜか勿体ぶるように言葉を溜める。代わりに俺は口を割った。
「——……俺の方こそ、ごめん」
シミュレーションなんてなんの役にも立たない。頭のなかは真っ白で、朝日奈くんのようにスマートにはいかない。
つい立ち止まってしまうと、彼の顔がふっと目の前に現れる。無言で先を促すような瞳に、息を吸い込んだ。
「このまえ、金曜の朝……いやな態度、とったから」
ぽつりぽつりと紡いだ言葉が、夕闇に溶けていく。返事を待つ数秒が、こんなにも長いなんて知らなかった。
「早見さん、」
朝日奈くんが口を開いた、そのとき——ポツ、と鼻先に冷たいものが落ちてくる。雨だ。
「あ、降ってきちゃいましたね」
朝から怪しい天気だとは思っていたけど、こんなタイミングで降るなんて。ことごとく、俺のシミュレーションは役に立たない。
「早見さん、こっち」
「え……」
固まっていると、朝日奈くんは折りたたみ傘をパサッと開く。どこから取り出したんだ? と手品のタネを探るように見据えていれば、
「なにしてるんですか、早く」
と、腕を引かれた。弓道場と、駅までの帰り道。今日だけで二度も同じ目に遭った気がする。
「何が目的?」
「はい?」
「傘……これも有料?」
ここで金をとられるなら、濡れたほうがいい。小さな傘に収めて睨みあげると、朝日奈くんは吹き出した。
「そんなに非情じゃないですよ。ほら、体育祭前に風邪引いたら困るでしょ」
俺は、別に困らない。
「別に困らない、って顔してます?」
「……なんで分かったの」
「早見さん、結構わかりやすいんで」
悪戯っぽく笑うしたり顔に、言葉を詰まらせる。見抜かれるのがイヤで距離を置こうとしても、傘と一緒についてくる。簡単には逃げられない。
だいたい、俺が風邪を引いたって、損なんかしないくせに。
触れ合う距離で肩を並べながら、悪態をつく。今度は目を合わせないように、心のなかで。
「で、何を謝られたんでしたっけ? 俺」
すっかりうやむやになったかと思った話題を、彼はけろりとした顔で持ち出した。
「……別に。なんでもない」
「態度が悪かったハナシ、ですか」
「わかってるなら、訊かないで」
「すみません。でも、早見さんから謝られるなんて、予想外でした」
「そのままにしとくの……嫌なんだよ」
俺だって、できるならこんな不慣れなことはしたくない。だけど、うやむやにして放って置くのは、もっと気持ちが悪かった。
あんな態度をとってしまった理由は、俺自身にあったから。
「別に、謝られるのほどのことじゃないですよ」
朝日奈くんはそう言いながら、歩くペースをすこし緩める。俺は隣に並ぶ勇気がでなくて、半歩引いたところで影を重ねた。
「踏み込まれたくないんだなー、とは思いましたけど」
「……うん」
「当然じゃないですか。人に、そういう部分があるのって」
さらにペースを緩められて、隣に追いつく。わざと追いつかせたのだとわかった頃には、視線がバッチリ合っていた。
「ましてや、俺たちはただの“取引相手”ですし」
同意を求めるような視線に、口を結ぶ。
「だから、俺も嫌な思いしてません。早見さんが謝る必要はないんです」
「……違う」
「え?」
「あれから、なんとなく気づいてた。俺に、怒ってたんじゃないの?」
雨音のなかで、一瞬だけ朝日奈くんの足が止まりかける。彼は目を丸くしたあと、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「あー……怒っては、ないです。本当に」
「そうなの?」
「はい。ただ……苛立ってはいました」
「怒ってるじゃん」
「それは、似て非なるものってゆーか」
「なにそれ」
「……グイグイくるんですね。珍しい」
今日は、初めて見る表情ばかりだ。
距離が近いせいか、表情の変化が手に取るようにわかる。怒っているときは笑ってハリボテをつくるくせに、困っているときは無防備だ。
このまま追っていれば、覆われている感情が掴めるような気がして、隣をじっと見つめた。
「教えるから——……そんなに見ないで」
なんだかちょっと、らしくない。
観念したような、拗ねたような言いざまに、心臓がおかしな音を立てる。傘をたたく雨音が、一瞬だけ消えたような気がした。

