◇
「早見くんもどう?」
帰りのホームルームが終わった直後、クラスメートの男子からそう声をかけられる。
これから行われる体育祭のリレー練習と、その後のカラオケに行かないかと誘われて、丁重にお断りするところだった。
そもそも俺はリレーに出る予定はない。選手以外も盛り上げ役として参加するらしいけど、俺には二億パーセント向いてないから、どっちにしろキャンセルだ。
「俺は遠慮しとく。ごめん」
「そっかぁ、残念。じゃ、また明日!」
深追いしてこない、あっさりとした態度に胸を撫で下ろす。最初から俺が参加するとは思っていなかったのだろうけど。
賑やかな教室を後にして、昇降口とは反対方向に足を伸ばす。本当ならこのまま帰ってしまいたいけど、今日は隔週で一回訪れる部活の日だった。
夏休みが明けてからは、初めての活動日だ。
「失礼します」
化学室の扉を開けると、薬品のツンとした匂いと冷房の風が肌をなでる。ちょうどプリントの山を抱えていた森尾先生が、眼鏡の奥で目を細めた。
「お、ひさしぶり」
「どうも。今日は何をすればいいですか」
「これこれ、レジュメづくり」
机の上にドサッと置かれたプリントの山に、ぎょっとする。まさか、これ全部か。
「早見くん器用だからすぐできちゃうよ。俺いまから職員会議だから、適当に進めといてくれる?」
「あ、はい」
「助かるよ、ありがと」
誰かの笑顔を彷彿とさせるような、少しうさんくさい顧問は、早々に化学室を出て行ってしまった。
静かになった室内に、ホチキスの規則正しい音が響く。
「いつ終わんだろ、これ……」
校則で『部活動への強制加入』が定められているなか、隔週での活動を許してくれているこの化学部には、感謝している。
ただ、部活動なんてのは名ばかりで、実態は先生の雑用係みたいなものだ。召集されるタイミングは人それぞれで、俺はほかの部員と被ったことがほとんどない。まあ……本当にほかの部員がいるのかすらも怪しいとこだけど。
ブブブブッ——。
粛々と作業をすすめていると、ポケットのなかでスマホが揺れる。
「桜介……?」
画面に映った文字を読み上げて、通話ボタンを押した。こんな時間にかかってくるのは、珍しい。
「もしもし、桜介?」
『お、深。出るの早かったなあ』
間延びした声に首を捻る。電話の向こうは静かで、一人でいるんだろうなということが分かった。
「なんかあった?」
そう訊くと、桜介は『んー』と唸っただけで黙り込む。
もしかして、長くなるやつか。そんな予感を覚えて、スピーカーモードに切り替えた。これなら、作業をしながらでも通話ができる。
「桜介」
『あー……うん、ごめん。大した用じゃないんだけど』
「いいよ。なに?」
『……いまさ、クラスの子に告白されて』
予想外の内容に、手の動きがピタリと止まる。
桜介のことだから告白はよくあることなんだろうけど、直接そういう話を聞くのは初めてだった。
「それで……なんで俺に電話?」
『あははっ、やっぱり深だなぁ』
「え?」
『そこで良かったね、とか言わないところがさ。深らしくて、安心する』
電話の向こうの声は穏やかで、さっきよりも柔らかい。本心から言っている言葉なのだと、俺にもわかる。
『実は、困っててさ』
「告白、されたこと?」
『うん。どう断れば傷つけないかなーとか、一丁前に悩んでた』
「そんなの……俺に訊かれてもわかんないよ」
『いいよ。深の声聞いて、落ち着きたいだけだったから』
「変なの」
クスッ、と笑うと、桜介も釣られたように笑う。同じタイミングで重なる笑い声が、心地良い。
『そういえばさ、今日バイトは?』
この手の話題が苦手だと知っているからか、桜介はすぐに切り替える。もともと、相談をするつもりで掛けてきたわけではないのだろう。
「今日はシフト入ってない。部活だから」
『あー、そっか。残念。バイト先行ったら会えるかと思ったのに』
「また今度ね」
『うん。てか、いま部活中だった? 邪魔してごめん』
「いや、いいよ。一人だし」
しかも、雑用だし。
作業にも慣れてきて、規則正しいリズムでホチキスを留めていく。桜介のほうにもこの音が伝わっているのか、「んー?」と不思議そうに唸る声がした。
『一人って、他の部員は?』
「たぶん俺だけだと思う」
『そんなのあり?』
「さあ。うちの顧問、いい加減だから。……でも、その方が俺は楽だし」
一人のほうが自由でいい。人と関わりがないほうが、楽でいい。
電話の向こうで、静かに息を吐く音がした。
『俺も、同じ高校行けばよかった』
「……無理でしょ。桜介はサッカーで呼ばれてたんだし」
『まあ、そうだけど。……まさか深が、そんな遠い高校受けるなんて思わなかったから』
「俺はただ……、なんとなく選んだだけ」
——嘘だ。本当は、なんとなくなんかじゃない。
人間関係を築き上げるために必要な、探り合いのような時間が好きじゃなかった。好きでないものを好きと言ったり、好きなものを押し込めたり。うまくやっていくための処世術が、昔から体になじまなかった。
それに、自分はちゃんと築けていたつもりでも、相手にとっては違ったり、ふとした拍子にあっけなく崩れ落ちたりする。
そういうのが、たまらなく嫌で。だから距離を言い訳にするように、誰にも邪魔をされない遠くへ逃げたのだ。
『俺はもっと、周りに深の良さを知ってもらいたいけどな』
そう言ってくれるのはありがたいけど、望んでいるわけじゃない。と心のなかで呟いていたら、
『深は望んでないと思うけど』
と言われて、俺は目を瞬いた。
「よくわかったね」
『当たり前だろー。何年の付き合いだと思ってんだよ』
笑みを含んだ桜介の声に、安堵する。さっきまで少し流れていた張り詰めた空気は、すっかり和らいでいた。
ガラガラ、と。化学室の扉が開かれたのは、ちょうどそのときだ。
「失礼します」
低く、澄んだ声が響く。引き戸の隙間から滑り込んできたのは、書類を抱えた朝日奈くんだった。
こちらに向かってくる彼に、心臓がドクンと音を立てる。
「なんで……」
『深? どうした、誰か来た?』
スピーカーから漏れる桜介の声が、静かな化学室に大きく響く。
俺は焦ってスマホに手を伸ばしたけれど、歩み寄ってくる朝日奈くんの視線とぶつかり、指先が固まった。
その瞳が、いつになく冷ややかな温度を帯びていたからだ。
『深?』
異変を察知した桜介の声。我に返って、通話を切ろうとしたそのとき、
「ちょっ……」
「いいですよ。切らなくて」
伸ばした手首を、下から強引に掴まれる。
容赦のない力と、ひやりとした体温が肌に伝わって、息が詰まった。
どういうつもりなのか、さっぱりわからない。もしかして、今朝あんな態度をとってしまった腹いせか。
「ごめん、桜介。また明日」
どうにか無理にスマホを取って、通話を切る。朝日奈くんを見上げれば、彼は冷ややかな笑みで俺を見下ろしていた。
「通話、気にせず続けてよかったのに」
全然「よかった」なんて顔してないけど。
俺は掴まれた手を振りほどいて、ホチキスを握り直す。朝日奈くんがそばに座ったことには、気づかないふりをした。
「仲良いんですね。もしかして、前に教えてくれた幼なじみですか?」
「……うん」
スピーカーにしていたせいで、外にも会話が漏れていたんだろうか。だからといって、どこから聞いていたのか、なんて怖くて訊けない。
「付き合いが長いっていいですね」
「別に……ただの腐れ縁だし」
「お互いに波長があってる感じ、しましたよ」
恐る恐る顔を上げれば、彼は書類に目を通しながら笑みを湛えている。
「朝日奈くんは、なんでここにいるの」
「森尾先生に用があって。体育祭のことで、ちょっと」
「職員会議だから、しばらく戻らないと思うけど」
「へえ、そうですか」
笑ってはいるけど、投げやりだ。俺は作業を止めて、息を吸い込んだ。
「……なんか、怒ってる?」
「はい?」
顔を上げた朝日奈くんは、不服そうな表情で首をもたげる。怒りながらも笑みを絶やさないなんて、本当に器用だ。
「怒ってませんよ。心外だな」
「そう。……ならいいけど」
——嘘つけ。
心のなかで毒づきながら、俺は再び手元に視線を落とした。
怒っていないと言うわりに、纏う空気は刺々しいままだ。書類の束をデスクに置くかすかな音さえ、どこか威嚇めいて聞こえる。
「早見さん」
呼ばれて、肩がピクリと反応する。
「先生、しばらく戻らなそうなので、これ渡しておいてもらってもいいですか?」
「ああ……うん。わかった」
「助かります」
朝日奈くんは完璧な笑顔に戻って、立ち上がる。さっきまでの棘々しさが幻想かと思えるくらいの、スマートな態度に戸惑った。
「じゃ、失礼します。早見さん」
これじゃあ、どっちが擬態かわからない。
手を振って去っていく朝日奈くんの残像に、俺は大きく息を吐いた。
「……やっぱり、面倒くさい」
人と関わると、体力が削られる。ただの利害関係だからと割り切れると思っていたのに、大誤算だ。
掴まれた手首に残る熱も、あの冷ややかな笑顔も、簡単には離れてくれなかった。
「早見くんもどう?」
帰りのホームルームが終わった直後、クラスメートの男子からそう声をかけられる。
これから行われる体育祭のリレー練習と、その後のカラオケに行かないかと誘われて、丁重にお断りするところだった。
そもそも俺はリレーに出る予定はない。選手以外も盛り上げ役として参加するらしいけど、俺には二億パーセント向いてないから、どっちにしろキャンセルだ。
「俺は遠慮しとく。ごめん」
「そっかぁ、残念。じゃ、また明日!」
深追いしてこない、あっさりとした態度に胸を撫で下ろす。最初から俺が参加するとは思っていなかったのだろうけど。
賑やかな教室を後にして、昇降口とは反対方向に足を伸ばす。本当ならこのまま帰ってしまいたいけど、今日は隔週で一回訪れる部活の日だった。
夏休みが明けてからは、初めての活動日だ。
「失礼します」
化学室の扉を開けると、薬品のツンとした匂いと冷房の風が肌をなでる。ちょうどプリントの山を抱えていた森尾先生が、眼鏡の奥で目を細めた。
「お、ひさしぶり」
「どうも。今日は何をすればいいですか」
「これこれ、レジュメづくり」
机の上にドサッと置かれたプリントの山に、ぎょっとする。まさか、これ全部か。
「早見くん器用だからすぐできちゃうよ。俺いまから職員会議だから、適当に進めといてくれる?」
「あ、はい」
「助かるよ、ありがと」
誰かの笑顔を彷彿とさせるような、少しうさんくさい顧問は、早々に化学室を出て行ってしまった。
静かになった室内に、ホチキスの規則正しい音が響く。
「いつ終わんだろ、これ……」
校則で『部活動への強制加入』が定められているなか、隔週での活動を許してくれているこの化学部には、感謝している。
ただ、部活動なんてのは名ばかりで、実態は先生の雑用係みたいなものだ。召集されるタイミングは人それぞれで、俺はほかの部員と被ったことがほとんどない。まあ……本当にほかの部員がいるのかすらも怪しいとこだけど。
ブブブブッ——。
粛々と作業をすすめていると、ポケットのなかでスマホが揺れる。
「桜介……?」
画面に映った文字を読み上げて、通話ボタンを押した。こんな時間にかかってくるのは、珍しい。
「もしもし、桜介?」
『お、深。出るの早かったなあ』
間延びした声に首を捻る。電話の向こうは静かで、一人でいるんだろうなということが分かった。
「なんかあった?」
そう訊くと、桜介は『んー』と唸っただけで黙り込む。
もしかして、長くなるやつか。そんな予感を覚えて、スピーカーモードに切り替えた。これなら、作業をしながらでも通話ができる。
「桜介」
『あー……うん、ごめん。大した用じゃないんだけど』
「いいよ。なに?」
『……いまさ、クラスの子に告白されて』
予想外の内容に、手の動きがピタリと止まる。
桜介のことだから告白はよくあることなんだろうけど、直接そういう話を聞くのは初めてだった。
「それで……なんで俺に電話?」
『あははっ、やっぱり深だなぁ』
「え?」
『そこで良かったね、とか言わないところがさ。深らしくて、安心する』
電話の向こうの声は穏やかで、さっきよりも柔らかい。本心から言っている言葉なのだと、俺にもわかる。
『実は、困っててさ』
「告白、されたこと?」
『うん。どう断れば傷つけないかなーとか、一丁前に悩んでた』
「そんなの……俺に訊かれてもわかんないよ」
『いいよ。深の声聞いて、落ち着きたいだけだったから』
「変なの」
クスッ、と笑うと、桜介も釣られたように笑う。同じタイミングで重なる笑い声が、心地良い。
『そういえばさ、今日バイトは?』
この手の話題が苦手だと知っているからか、桜介はすぐに切り替える。もともと、相談をするつもりで掛けてきたわけではないのだろう。
「今日はシフト入ってない。部活だから」
『あー、そっか。残念。バイト先行ったら会えるかと思ったのに』
「また今度ね」
『うん。てか、いま部活中だった? 邪魔してごめん』
「いや、いいよ。一人だし」
しかも、雑用だし。
作業にも慣れてきて、規則正しいリズムでホチキスを留めていく。桜介のほうにもこの音が伝わっているのか、「んー?」と不思議そうに唸る声がした。
『一人って、他の部員は?』
「たぶん俺だけだと思う」
『そんなのあり?』
「さあ。うちの顧問、いい加減だから。……でも、その方が俺は楽だし」
一人のほうが自由でいい。人と関わりがないほうが、楽でいい。
電話の向こうで、静かに息を吐く音がした。
『俺も、同じ高校行けばよかった』
「……無理でしょ。桜介はサッカーで呼ばれてたんだし」
『まあ、そうだけど。……まさか深が、そんな遠い高校受けるなんて思わなかったから』
「俺はただ……、なんとなく選んだだけ」
——嘘だ。本当は、なんとなくなんかじゃない。
人間関係を築き上げるために必要な、探り合いのような時間が好きじゃなかった。好きでないものを好きと言ったり、好きなものを押し込めたり。うまくやっていくための処世術が、昔から体になじまなかった。
それに、自分はちゃんと築けていたつもりでも、相手にとっては違ったり、ふとした拍子にあっけなく崩れ落ちたりする。
そういうのが、たまらなく嫌で。だから距離を言い訳にするように、誰にも邪魔をされない遠くへ逃げたのだ。
『俺はもっと、周りに深の良さを知ってもらいたいけどな』
そう言ってくれるのはありがたいけど、望んでいるわけじゃない。と心のなかで呟いていたら、
『深は望んでないと思うけど』
と言われて、俺は目を瞬いた。
「よくわかったね」
『当たり前だろー。何年の付き合いだと思ってんだよ』
笑みを含んだ桜介の声に、安堵する。さっきまで少し流れていた張り詰めた空気は、すっかり和らいでいた。
ガラガラ、と。化学室の扉が開かれたのは、ちょうどそのときだ。
「失礼します」
低く、澄んだ声が響く。引き戸の隙間から滑り込んできたのは、書類を抱えた朝日奈くんだった。
こちらに向かってくる彼に、心臓がドクンと音を立てる。
「なんで……」
『深? どうした、誰か来た?』
スピーカーから漏れる桜介の声が、静かな化学室に大きく響く。
俺は焦ってスマホに手を伸ばしたけれど、歩み寄ってくる朝日奈くんの視線とぶつかり、指先が固まった。
その瞳が、いつになく冷ややかな温度を帯びていたからだ。
『深?』
異変を察知した桜介の声。我に返って、通話を切ろうとしたそのとき、
「ちょっ……」
「いいですよ。切らなくて」
伸ばした手首を、下から強引に掴まれる。
容赦のない力と、ひやりとした体温が肌に伝わって、息が詰まった。
どういうつもりなのか、さっぱりわからない。もしかして、今朝あんな態度をとってしまった腹いせか。
「ごめん、桜介。また明日」
どうにか無理にスマホを取って、通話を切る。朝日奈くんを見上げれば、彼は冷ややかな笑みで俺を見下ろしていた。
「通話、気にせず続けてよかったのに」
全然「よかった」なんて顔してないけど。
俺は掴まれた手を振りほどいて、ホチキスを握り直す。朝日奈くんがそばに座ったことには、気づかないふりをした。
「仲良いんですね。もしかして、前に教えてくれた幼なじみですか?」
「……うん」
スピーカーにしていたせいで、外にも会話が漏れていたんだろうか。だからといって、どこから聞いていたのか、なんて怖くて訊けない。
「付き合いが長いっていいですね」
「別に……ただの腐れ縁だし」
「お互いに波長があってる感じ、しましたよ」
恐る恐る顔を上げれば、彼は書類に目を通しながら笑みを湛えている。
「朝日奈くんは、なんでここにいるの」
「森尾先生に用があって。体育祭のことで、ちょっと」
「職員会議だから、しばらく戻らないと思うけど」
「へえ、そうですか」
笑ってはいるけど、投げやりだ。俺は作業を止めて、息を吸い込んだ。
「……なんか、怒ってる?」
「はい?」
顔を上げた朝日奈くんは、不服そうな表情で首をもたげる。怒りながらも笑みを絶やさないなんて、本当に器用だ。
「怒ってませんよ。心外だな」
「そう。……ならいいけど」
——嘘つけ。
心のなかで毒づきながら、俺は再び手元に視線を落とした。
怒っていないと言うわりに、纏う空気は刺々しいままだ。書類の束をデスクに置くかすかな音さえ、どこか威嚇めいて聞こえる。
「早見さん」
呼ばれて、肩がピクリと反応する。
「先生、しばらく戻らなそうなので、これ渡しておいてもらってもいいですか?」
「ああ……うん。わかった」
「助かります」
朝日奈くんは完璧な笑顔に戻って、立ち上がる。さっきまでの棘々しさが幻想かと思えるくらいの、スマートな態度に戸惑った。
「じゃ、失礼します。早見さん」
これじゃあ、どっちが擬態かわからない。
手を振って去っていく朝日奈くんの残像に、俺は大きく息を吐いた。
「……やっぱり、面倒くさい」
人と関わると、体力が削られる。ただの利害関係だからと割り切れると思っていたのに、大誤算だ。
掴まれた手首に残る熱も、あの冷ややかな笑顔も、簡単には離れてくれなかった。

