貸しひとつ。
その言葉はしばらく呪いのように付きまとっていたけれど、気づけば九月も終盤に近づいていた。
朝日奈くんのことだから、なにも求めないなんてことはないと思っていたのに。朝の電車でも新たに対価を持ちかけられるようなことはなかった。
「今日は特にひどいですね。クマ」
「うん……ほぼ寝てない」
「そんなんじゃいずれ倒れますよ」
今朝だって、お得意の軽口をたたきながら定位置に腰をおろす。
朝日奈くんは俺の酷い顔を覗き込むようにして、
「何をしてたらそんなに寝不足になるんですか?」
と問いかけてきた。
最近では眠りにつく前に、こうして会話を交わすこともルーティンのひとつになりつつある。もっとも、会話の途中で寝落ちしてしまったことは何度もあるけれど。
「ゲームが、止まんなくて」
「へえ。ゲーム好きなんですね」
「まあ」
「昨日は何時まで?」
「たぶん、三時」
「それは……相当好きですね。脳が覚醒して寝れなかったんじゃないですか」
「たぶん、そうだと思う」
昨日はバイトで疲れていたはずなのに、画面に向かっているあいだは不思議と気力に満ちていた。ベッドに入ってからも、かえって目が冴えてしまったのかもしれない。
「どんなゲームやるんです?」
だけどそう訊かれた瞬間、うとうとしていた脳にピリッとわずかに電流が走る。
——“なんか俺のイメージと違った。本気すぎってゆーか、さすがに引くって”
脳裏にフラッシュバックした古い記憶を振り払うように、俺は小さく首を振った。
「……ふつうのゲームだよ。一般的な」
一線を引くように、しずかに零す。
「普通って? 色々あるじゃないですか」
「……ふつうだって」
「何が好きなんです? オンラインでつなぐやつとか、RPGとか——」
「っ、そんなの、別になんでもいいじゃん」
遮るように放った声は、自分でも驚くくらい大きな声だった。強制的にシャッター下ろしたのだって、初めてだ。
こんなことで、何をムキになってんだよ。ただ俺が眠りにつくまでの、会話のネタを探ろうとしてくれてたことくらい分かっていたのに——。
「……」
しばらくの沈黙。
それから隣を盗み見ると、彼はけろりとした顔で「そうですか」と目を細めていた。すっかり見慣れたと思っていたはずなのに、その人工的な笑みにぞっとする。
「もうすぐ体育祭ですけど、種目なにでます?」
何事もなかったかのように。だけど、明確に線を引くようにして話題を替えられる。
もう、いまさら。
朝日奈くんが切り替えたことを、タイミングを逃したことを言い訳にして、口を噤む。謝ろうとしていた言葉は喉の奥で、こんがらがった糸のままつかえていた。
「早見さん?」
余裕な表情でこっちを見ないでほしい。結局なにも言い出せない俺ばっかり、惨めになる。
「……まだ、決まってない」
「そうですか。俺はリレーです」
先ほどまでの、どこか居心地の良かったルーティンの空気はもうない。
——線を引いたのは朝日奈くんじゃない。俺の方だ。
気まずい沈黙のなか、俺は逃げるように目を閉じる。
俺たちの関係は、あくまで一回百円のビジネス。踏み込まれたくないことには線を引けばいい。
それなのに、カタンコトンと響く電車の音が、いつもより不快に響いていた。

