朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。

 貸しひとつ。その言葉はしばらく頭の隅に残っていたけれど、日常はあっさり過ぎていった。

 昼夜逆転してしまう週末のあと、月曜は、千瀬川駅の手前から舟を漕いでいたせいで
「おはようございます。ぐっすりでしたね」
 と、起き抜けに朝日奈くんの笑顔を見る羽目になった。
 学校の最寄りまで熟睡してしまったのは、この日が初めてだった。

 火曜日は、わりと元気。月曜の寝不足がたたって、コントローラーを握るよりも先にベッドで寝てしまったからだと思う。
 とはいえ、朝が弱いことには変わりない。
「早見さんって、いつも何時に起きてるんですか?」
「だいたい、六時前とか」
「え、それで間に合います? ……あ、朝食べてないでしょ」
「いや、それは食わないと怒られる。早食い」
「ふっ……早見さんが早食い……」
「なんかおかしい?」
「いえ……ふっ、想像したらちょっと、アンバランスっていうか」
 この日、朝日奈くんはよくわからないことでツボに入る、ということを知った。

 水曜日になると、疲労がピークになった。
 これから学校に行って、また明日も早起きかと思うと、気が萎える。
「ふぉあよ……」
「なんですか、その腑抜けたおはようは」
 朝日奈くんを迎えるまでなんとか起きていたけれど、意識はすぐ遠のいていった。
 ——“ほんと……無頓着っていうか、無防備っていうか”
 意識の底で、朝日奈くんの声で響いたその言葉。現実のものか、夢のものかは結局わからなかった。

 木曜日は、また睡眠不足がひどい。
 水曜の夕方は大抵バイトのシフトが入っていて、ゲームに手をつけると遅くなってしまう。
「そういえば、この路線ってうちの生徒少ないですよね」
 それを感じ取ったのか、朝日奈くんの声のトーンは抑えめだ。
「まあ……そうだね」
「よかったです。心置きなく眠ってもらえるし」
「心置きなくって?」
「毎朝同じやつが肩貸してたら、さすがに違和感ありません?」
「べつに俺は……人にどう思われようと、どうでもいい」
 朝日奈くんらしい視点だと思いながら、俺はあくびを吐き出した。
「そういうところ、本当にあなたらしい」
 そのセリフを最後に、車内は静けさを取り戻す。沈黙が心地よくて、俺はいつもどおり、隣の肩に沈んでいった。

 朝日奈くんとの売買を除けば、これまでの日常とそう変わらない。むしろ、快適に眠る時間ができて体は楽になったくらいだ。 
 そんな朝が、いつの間にか一ヶ月続いていた。

「今日は久々にひどいですね。クマ」
 取引相手は今朝も、お得意の軽口をたたきながら定位置に腰をおろす。
「うん……ほぼ寝てない」
「そんなんじゃいずれ倒れますよ」
 それから、俺の酷い顔を覗き込むようにして、
「何をしてたらそんなに寝不足になるんですか?」
 と問いかけてくる。朝は電車で寝られるからと高をくくって、前より夜更かしをしてしまうことも、最近は多くなってきた。さすがに、定着しすぎだ。
「ゲームが、止まんなくて」
「へえ。ゲーム好きなんですね」
「……まあ」
「昨日は何時まで?」
「たぶん、三時」
「それは、相当好きですね。脳が覚醒して寝れなかったんじゃないですか」
「たぶん、そうだと思う」
 昨日はバイトで疲れていたはずなのに、画面に向かっているあいだは不思議と気力に満ちていた。ベッドに入ってからも、かえって目が冴えてしまったのかもしれない。
「どんなゲームやるんです?」
 ​だけど、そう訊かれた瞬間、うとうとしていた脳にピリッとわずかに電流が走る。

 ——“なんか俺のイメージと違った。本気すぎってゆーか、さすがに引くって”

 脳裏にフラッシュバックした古い記憶を振り払うように、俺は小さく首を振った。
「……ふつうのゲームだよ。一般的な」
 一線を引くように、しずかに零す。
「普通って? 色々あるじゃないですか」
「ふつうだって、」
「何が好きなんです? オンラインでつなぐやつとか、RPGとか——」
「っ、そんなの、別になんでもいいじゃん……!」
 遮るように放った声は、自分でも驚くくらい大きな声だった。強制的にシャッター下ろしたのだって、初めてだ。
「……」
 しばらくの沈黙。
 それから隣を盗み見ると、彼はけろりとした顔で
「そうですか」
 と目を細めていた。
 すっかり見慣れたと思っていたはずなのに、その人工的な笑みにぞっとする。それに、いつも隣で話しているときの朝日奈くんとは、別人のような冷たい声だ。
「もうすぐ体育祭ですけど、種目なにでます?」
 ​何事もなかったかのように。だけど、明確に線を引くようにして話題を替えられる。
 ——もう、いまさら。
 俺は、口を噤む。謝ろうとしていた言葉は喉の奥で、こんがらがった糸のままつかえていた。
「早見さん?」
 余裕な表情でこっちを見ないでほしい。結局なにも言い出せない俺ばっかり、惨めになる。
​「……まだ、決まってない」
「そうですか。俺はリレーです」
​ 先ほどまでの、どこか居心地の良かったルーティンの空気はもうなかった。
 気まずい沈黙のなか、俺は逃げるように目を閉じる。

 俺たちの関係は、あくまで一回百円のビジネス。踏み込まれたくないことには線を引けばいい。
 それなのに、カタンコトンと響く電車の音が、いつもより不快に響いていた。