夏休みが明けて、ちょうど一週間が経った日の朝。俺の目元には、いつも以上に濃いクマが刻まれていた。
昨日の夜、新作のホラーゲームを「キリのいいところまで」と進めてしまったのが悪い。次に顔をあげたとき時計は午前三時を指していて、さすがに目頭を押さえた。
一度コントローラーを握ると、意識が完全に没入してしまう。時間を忘れて朝までプレイしてしまうのは、俺の悪いクセだ。
「深、なんか死相出てない?」
駅までの道中で合流した幼なじみの桜介が、高いところから覗き込んでくる。
家も近く、幼稚園から中学までずっと同じ学校で過ごした桜介は、身長も顔立ちもすくすく成長して、いまやサッカー部のエースらしい。
桜介は朝練のために、俺は通学のために同じ早起きをしているけど、こうも成長に差があるのは睡眠時間のせいだと思う。寝る子は育つ、ってのは本当だ。
「死相って何。いつもと変わんないだろ」
「深が好きなゲームのさ、あれに似てる。ゾンビ」
「はぁ、どこが?」
「どよーんってしてるし、猫背だし、顔色わるいし」
「ならいつも通りじゃん」
「それがまずいんでしょうが。ちゃんと寝ないとダメじゃん」
「寝てるって」
「嘘つけ。真夜中まで深の部屋の電気ついてたの、知ってんだからな」
なんで知ってんの。てゆーか、桜介の部屋から俺の部屋なんて見えないじゃん。
「あんな時間に外出歩いてたの?」
「ほら。やっぱ起きてた」
指先でコツンと頭を突かれて、カマをかけられたのだと悟る。
高い背丈を睨み上げれば、してやったりな顔で笑われた。いくら上背が伸びても、女子にモテる美青年に成長しても、こういういたずらが成功したときの顔は昔から変わらない。
中学までの桜介にはなかった、後ろでひとつに括られた襟足がふわりと揺れる。
「ずる……誘導尋問じゃん」
「怒んない怒んない。ほら、お詫びにコレあげるから」
桜介が制服のポケットから渡してきたのは、ブドウ糖タブレットだ。疲労回復になるとか言って、たまにくれる。
「電車のなかですこしでも睡眠とれよー? 放課後はバイトなんだし」
「……うん。わかってる」
てゆーか、なんで当たり前に俺のシフト覚えてるんだろう。過保護にもほどがある。
ゲームはほどほどに。昼飯はめんどくさがらずちゃんと食べるんだぞ。あと、暇があったら睡眠をとること。
そんな感じのことを再三叩き込まれたところで、ようやく駅に着く。電車通学ではない桜介とはここで分かれ道だ。
「じゃあ、学校がんばれよ」
「うん。じゃあね」
遠ざかっていく背中を見送りながら、俺はもらったタブレットを口に放りこむ。人工的な甘さが、茹だった脳をすこしだけ軽くしてくれた。
「ふぁぁ……」
とはいえ、眠い。
鈍行列車に揺られながら、過保護な幼なじみの言いつけを思いだす。
半端にゲームはできないけれど。昼飯も手軽なパンに手が伸びてしまうだろうけど——長い電車のなかでの睡眠は約束されている。しかも、有料の枕つきで。
「おはようございます。早見さん」
「おはよう」
十五分もしないうちに、一回百円の枕が千瀬川駅から乗ってきた。まだ低いところにある朝陽がうっすら差し込む車内で、やたらと鮮明に浮かび上がるシルエット。きっと、桜介と同じくらいスタイルが良い。
こんなに目立つ人をいままで、何度も枕にしていたなんて。寝落ちというのは恐ろしい。
「よかったです。いつもと同じ車両にいてくれて」
枕、もとい朝日奈くんは清々しいまでの笑顔を浮かべる。
でも、たしかにそうだ。契約を持ちかけられた昨日は、電車の時間も待ち合わせる車両のことも、なにも話し合っていなかったのに。
「いつもここなんですか? 一番後ろ」
「うん。一番空いてるから」
「考えることは同じですね」
そう言って、朝日奈くんは流れるような動作で隣に腰をおろした。
昨日はそれどころじゃなかったけど、朝日奈くんは近くに居ても、男の人特有のきついニオイがまったくないことに気が付く。まだ汗ばむ季節だというのに、制汗剤でも香水でもない爽やかな香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
これまで何度も寝落ちてしまったのは、この無害で、どこか安心する匂いのせいもあったのかもしれない。
「じゃあ、あとはお好きなときにどうぞ」
彼は首を反対側に傾けて、俺にその場所を明け渡す。……そうあからさまに示されると、なんとなく預けにくいんだけど。
「どうしました? もしかして緊張してます?」
ふっ、と見透かしたような笑みが気に食わない。
「いままでは寝落ちだったんだし、そう簡単にいくわけないでしょ」
「別に、無理して寝ろなんて言ってませんよ」
言われてみれば、確かにそうだ。でも君だって、利益がないと困るんじゃないの。
「不労所得なので、あなたが眠たくないなら今日の分はなしでもいいですよ。俺にとっては『あったらいいな』程度のものなんで」
また、俺の心を見透かしたように言う。守銭奴のくせに、人の機微にも敏いなんて厄介だ。
「でもまあ、リラックスできるように試してみます?」
「なにを?」
「たとえば、こういうのとか」
朝日奈くんはにこりと微笑みながら、首にかけていたワイヤレスヘッドフォンを外す。そして、それを広げたまま俺の首元に腕を回した。
ヘッドフォンを装着させるつもりだとわかって、体が硬直する。さっきよりも深く、朝日奈くんの香りが鼻腔をくぐった。
「……っ、いい。いらない」
俺は迫ってくるヘッドフォンから逃れるように、肩をすくめて首を振る。なんとなく、これを許してしまってはいけない気がした。さらに主導権を握られてしまうと、体が反応したのかもしれない。
ガチガチに固まった俺を横目に、朝日奈くんはふっと笑みをこぼす。
「ケーカイしすぎ」
……ほら。こういうのもやっぱり手の内だ。
ヘッドフォンはもとの位置に戻してくれたようだけど、おかげでどっと疲れた。リラックスなんてできたもんじゃない。
「警戒もするでしょ。君のこと、昨日知ったばっかだし」
「まあ、それもそうですね」
からかうような笑みをやめた朝日奈くんは、じっと対面の窓を見据える。徐々に明らんでいく視界のなかに、うっすらと、知り合って間もない二人の男がぼんやり浮かぶ。
そこに映しだされる、うさんくさい笑みをはりつけていない朝日奈くんは、心地よい静けさをまとっていた。
「早見さんって、心を許してる人とかいないんですか?」
二駅ほどすぎたところで、彼はまた半月型の目を寄越す。そういう顔より、窓に映っていた朝日奈くんのほうがいいのに。
「なに、急に」
「気になるじゃないですか。好んで人付き合いをしない人が、どういう人に心を許すのか」
「それも、取引相手だから?」
「あー……いえ、これは単純な興味です」
朝日奈くんは、再び前を向く。いつもの人を食ったような笑みも、うさんくさい愛嬌もない。かといって、値踏みされているような不快感もない。
さっきも覗きかけた静けさがまたやってきて、緊張の糸をゆっくりほどいた。
「……幼なじみがいる」
電車の音にかき消されそうな小さな声を、朝日奈くんは「へえ」と器用に拾い上げる。
「高校は別々なんですか?」
「うん。家が近くて、中学までは一緒だった」
「おなじ高校に入ろうとは思わなかったんですか?」
「まあ……俺はなるべく遠いほうが良かったから」
「変わってますね」
「朝日奈くんだって遠いじゃん」
「俺は、移動とか早起きとか苦じゃないんで」
ああ、なんかそんな感じ。朝起きて、優雅にコーヒーを嗜んでいる彼の姿がぼんやり浮かぶ。
「でも、学校が近ければ、寝不足にならずに済んだんじゃないですか?」
だけどすぐに核心をつかれて、浮かんでいた妄想がパタリと閉じた。
「電車で寝れるから、べつにいい」
「そのせいで、怪しい後輩から取引を持ちかけられても?」
「……怪しいって、自分でわかってたんだ」
突然の自白に、思わずふっと息が漏れる。そんなところまで見込んでいたのかと、すこしおかしくなった。
「早見さんこそ。警戒してたのに、よく受け入れる気になりましたね」
「君が言ったんでしょ。互いにメリットがあるって」
「警戒あってこその利害関係、ですか」
「うん。そうだね」
朝日奈くんは「なるほど」と小さく喉を鳴らした。
それからはお互い何も喋らなくなり、車内はふたたび静まり返る。ガタゴトと規則的に響く電車の駆動音だけが、やけに大きく、けれど心地よく鼓膜を揺らした。
ふいに、並行して走る道路の街路樹のあいだから、朝の太陽が顔をだす。まだオレンジ色を帯びた朝陽が、きらきらとまばらに差し込んでくる。
眩しさに目を細めた視界の先、朝日奈くんはいつの間にかヘッドフォンを装着していた。外部を遮断するその存在が、いまの俺には心地よかった。
——これで、心置きなく眠りにつける。
隣から伝わってくる、爽やかな香りと静かな体温。これまで無意識に味わってきた安心感が、睡魔を誘う。
ああ、これか、と。
肩にコトンと頭を預けながら、昨日まで味わってきた寝落ちの正体をはっきりと知る。
「おやすみなさい」
囁くように告げた彼の声は、遠ざかる意識のなかに溶けていった。
昨日の夜、新作のホラーゲームを「キリのいいところまで」と進めてしまったのが悪い。次に顔をあげたとき時計は午前三時を指していて、さすがに目頭を押さえた。
一度コントローラーを握ると、意識が完全に没入してしまう。時間を忘れて朝までプレイしてしまうのは、俺の悪いクセだ。
「深、なんか死相出てない?」
駅までの道中で合流した幼なじみの桜介が、高いところから覗き込んでくる。
家も近く、幼稚園から中学までずっと同じ学校で過ごした桜介は、身長も顔立ちもすくすく成長して、いまやサッカー部のエースらしい。
桜介は朝練のために、俺は通学のために同じ早起きをしているけど、こうも成長に差があるのは睡眠時間のせいだと思う。寝る子は育つ、ってのは本当だ。
「死相って何。いつもと変わんないだろ」
「深が好きなゲームのさ、あれに似てる。ゾンビ」
「はぁ、どこが?」
「どよーんってしてるし、猫背だし、顔色わるいし」
「ならいつも通りじゃん」
「それがまずいんでしょうが。ちゃんと寝ないとダメじゃん」
「寝てるって」
「嘘つけ。真夜中まで深の部屋の電気ついてたの、知ってんだからな」
なんで知ってんの。てゆーか、桜介の部屋から俺の部屋なんて見えないじゃん。
「あんな時間に外出歩いてたの?」
「ほら。やっぱ起きてた」
指先でコツンと頭を突かれて、カマをかけられたのだと悟る。
高い背丈を睨み上げれば、してやったりな顔で笑われた。いくら上背が伸びても、女子にモテる美青年に成長しても、こういういたずらが成功したときの顔は昔から変わらない。
中学までの桜介にはなかった、後ろでひとつに括られた襟足がふわりと揺れる。
「ずる……誘導尋問じゃん」
「怒んない怒んない。ほら、お詫びにコレあげるから」
桜介が制服のポケットから渡してきたのは、ブドウ糖タブレットだ。疲労回復になるとか言って、たまにくれる。
「電車のなかですこしでも睡眠とれよー? 放課後はバイトなんだし」
「……うん。わかってる」
てゆーか、なんで当たり前に俺のシフト覚えてるんだろう。過保護にもほどがある。
ゲームはほどほどに。昼飯はめんどくさがらずちゃんと食べるんだぞ。あと、暇があったら睡眠をとること。
そんな感じのことを再三叩き込まれたところで、ようやく駅に着く。電車通学ではない桜介とはここで分かれ道だ。
「じゃあ、学校がんばれよ」
「うん。じゃあね」
遠ざかっていく背中を見送りながら、俺はもらったタブレットを口に放りこむ。人工的な甘さが、茹だった脳をすこしだけ軽くしてくれた。
「ふぁぁ……」
とはいえ、眠い。
鈍行列車に揺られながら、過保護な幼なじみの言いつけを思いだす。
半端にゲームはできないけれど。昼飯も手軽なパンに手が伸びてしまうだろうけど——長い電車のなかでの睡眠は約束されている。しかも、有料の枕つきで。
「おはようございます。早見さん」
「おはよう」
十五分もしないうちに、一回百円の枕が千瀬川駅から乗ってきた。まだ低いところにある朝陽がうっすら差し込む車内で、やたらと鮮明に浮かび上がるシルエット。きっと、桜介と同じくらいスタイルが良い。
こんなに目立つ人をいままで、何度も枕にしていたなんて。寝落ちというのは恐ろしい。
「よかったです。いつもと同じ車両にいてくれて」
枕、もとい朝日奈くんは清々しいまでの笑顔を浮かべる。
でも、たしかにそうだ。契約を持ちかけられた昨日は、電車の時間も待ち合わせる車両のことも、なにも話し合っていなかったのに。
「いつもここなんですか? 一番後ろ」
「うん。一番空いてるから」
「考えることは同じですね」
そう言って、朝日奈くんは流れるような動作で隣に腰をおろした。
昨日はそれどころじゃなかったけど、朝日奈くんは近くに居ても、男の人特有のきついニオイがまったくないことに気が付く。まだ汗ばむ季節だというのに、制汗剤でも香水でもない爽やかな香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
これまで何度も寝落ちてしまったのは、この無害で、どこか安心する匂いのせいもあったのかもしれない。
「じゃあ、あとはお好きなときにどうぞ」
彼は首を反対側に傾けて、俺にその場所を明け渡す。……そうあからさまに示されると、なんとなく預けにくいんだけど。
「どうしました? もしかして緊張してます?」
ふっ、と見透かしたような笑みが気に食わない。
「いままでは寝落ちだったんだし、そう簡単にいくわけないでしょ」
「別に、無理して寝ろなんて言ってませんよ」
言われてみれば、確かにそうだ。でも君だって、利益がないと困るんじゃないの。
「不労所得なので、あなたが眠たくないなら今日の分はなしでもいいですよ。俺にとっては『あったらいいな』程度のものなんで」
また、俺の心を見透かしたように言う。守銭奴のくせに、人の機微にも敏いなんて厄介だ。
「でもまあ、リラックスできるように試してみます?」
「なにを?」
「たとえば、こういうのとか」
朝日奈くんはにこりと微笑みながら、首にかけていたワイヤレスヘッドフォンを外す。そして、それを広げたまま俺の首元に腕を回した。
ヘッドフォンを装着させるつもりだとわかって、体が硬直する。さっきよりも深く、朝日奈くんの香りが鼻腔をくぐった。
「……っ、いい。いらない」
俺は迫ってくるヘッドフォンから逃れるように、肩をすくめて首を振る。なんとなく、これを許してしまってはいけない気がした。さらに主導権を握られてしまうと、体が反応したのかもしれない。
ガチガチに固まった俺を横目に、朝日奈くんはふっと笑みをこぼす。
「ケーカイしすぎ」
……ほら。こういうのもやっぱり手の内だ。
ヘッドフォンはもとの位置に戻してくれたようだけど、おかげでどっと疲れた。リラックスなんてできたもんじゃない。
「警戒もするでしょ。君のこと、昨日知ったばっかだし」
「まあ、それもそうですね」
からかうような笑みをやめた朝日奈くんは、じっと対面の窓を見据える。徐々に明らんでいく視界のなかに、うっすらと、知り合って間もない二人の男がぼんやり浮かぶ。
そこに映しだされる、うさんくさい笑みをはりつけていない朝日奈くんは、心地よい静けさをまとっていた。
「早見さんって、心を許してる人とかいないんですか?」
二駅ほどすぎたところで、彼はまた半月型の目を寄越す。そういう顔より、窓に映っていた朝日奈くんのほうがいいのに。
「なに、急に」
「気になるじゃないですか。好んで人付き合いをしない人が、どういう人に心を許すのか」
「それも、取引相手だから?」
「あー……いえ、これは単純な興味です」
朝日奈くんは、再び前を向く。いつもの人を食ったような笑みも、うさんくさい愛嬌もない。かといって、値踏みされているような不快感もない。
さっきも覗きかけた静けさがまたやってきて、緊張の糸をゆっくりほどいた。
「……幼なじみがいる」
電車の音にかき消されそうな小さな声を、朝日奈くんは「へえ」と器用に拾い上げる。
「高校は別々なんですか?」
「うん。家が近くて、中学までは一緒だった」
「おなじ高校に入ろうとは思わなかったんですか?」
「まあ……俺はなるべく遠いほうが良かったから」
「変わってますね」
「朝日奈くんだって遠いじゃん」
「俺は、移動とか早起きとか苦じゃないんで」
ああ、なんかそんな感じ。朝起きて、優雅にコーヒーを嗜んでいる彼の姿がぼんやり浮かぶ。
「でも、学校が近ければ、寝不足にならずに済んだんじゃないですか?」
だけどすぐに核心をつかれて、浮かんでいた妄想がパタリと閉じた。
「電車で寝れるから、べつにいい」
「そのせいで、怪しい後輩から取引を持ちかけられても?」
「……怪しいって、自分でわかってたんだ」
突然の自白に、思わずふっと息が漏れる。そんなところまで見込んでいたのかと、すこしおかしくなった。
「早見さんこそ。警戒してたのに、よく受け入れる気になりましたね」
「君が言ったんでしょ。互いにメリットがあるって」
「警戒あってこその利害関係、ですか」
「うん。そうだね」
朝日奈くんは「なるほど」と小さく喉を鳴らした。
それからはお互い何も喋らなくなり、車内はふたたび静まり返る。ガタゴトと規則的に響く電車の駆動音だけが、やけに大きく、けれど心地よく鼓膜を揺らした。
ふいに、並行して走る道路の街路樹のあいだから、朝の太陽が顔をだす。まだオレンジ色を帯びた朝陽が、きらきらとまばらに差し込んでくる。
眩しさに目を細めた視界の先、朝日奈くんはいつの間にかヘッドフォンを装着していた。外部を遮断するその存在が、いまの俺には心地よかった。
——これで、心置きなく眠りにつける。
隣から伝わってくる、爽やかな香りと静かな体温。これまで無意識に味わってきた安心感が、睡魔を誘う。
ああ、これか、と。
肩にコトンと頭を預けながら、昨日まで味わってきた寝落ちの正体をはっきりと知る。
「おやすみなさい」
囁くように告げた彼の声は、遠ざかる意識のなかに溶けていった。

