◇
駅のホームで、電車を見送る。
予定よりもひとつ早い電車の時間に着いてしまうなんて、初めてだった。
「はぁー……」
口元を手のひらで覆って、息を吐く。白い蒸気が、寒空の下でしずかに舞った。
『明日、電車で待ってる』
あんなメッセージを送ってしまったのに、今日は珍しく目覚めがよかった。
たぶん、自分の目的がはっきりしたからだ。
プシューッ——。
目の前にいつもの電車がやってくる。開いたドアの周辺は、車内の熱気がホームの冷気と混ざり合っていた。
本当に、来てくれるだろうか。
シートに腰掛けて、紙袋を抱え込む。中には、朝日奈くんから借りていたキャメルのマフラーが入っていた。
気を紛らわすようにスマホを開けば、決済アプリに指が伸びる。昨日のうちに何度も確認した『受取完了』の文字。
——ちゃんと、届いてる。
返金されたらどうしようかと思ったけれど、次の手を考えているうちに眠ってしまった。結局、次の手の出番はなかったけれど。
『次は千瀬川、千瀬川です』
アナウンスが流れ、電車はゆっくりとスピードを落としていく。
車窓の外、滑り込んでいくホームの光景を、息を詰めて見つめた。乗車口の列。その少し後ろに立っている人影を見つけた瞬間、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
——朝日奈くんだ。
降りる客の流れが切れ、彼は車内へ足を踏み入れる。
迷うことのない足取りで、まっすぐ。俺の座るシートの前までやってくると、朝日奈くんは静かに足を止めた。
「おはようございます」
「おはよう」
ピーコートを着た朝日奈くんが、隣を埋める。わずかに、冬の匂いが漂った。
「なんか、久しぶりですね」
「……うん」
「まあ、土曜に会いましたけど」
たった二日空いただけなのに、その土曜が遠い昔のことのように感じられる。
「これ、ありがとう」
紙袋を手渡すと、朝日奈くんは中を見て「ああ」と零す。そして、したたかな笑みを向けてきた。
「役に立ちました?」
「助かった」
「そうですか。バイト先は? 大丈夫でした?」
「……ちょっとだけ、怒られた」
気まずさに小さく肩を竦めると、隣の体温がふふっと揺れる。朝日奈くんは「でしょうね」とでも言いたげに目を細めた。
「でも、朝日奈くんがまたカフェに来たいらしい、って言ったら許してくれた」
「良いように使いましたね」
「嘘じゃないから」
「……まあ、はい。早見さんに言われたら、いつでも行きますよ」
そんなことが言いたいわけじゃなかったんだけど。
逆手に取られて、顔を歪める。朝日奈くんは紙袋を大事そうに、鞄のなかに仕舞った。
「あのさ」
「はい?」
切り出すと、朝日奈くんがこちらを向く。
二つのコートが擦れる音は、すこし新鮮だった。最近は、一緒に電車に乗っていなかったから。
「俺はやっぱり、朝日奈くんとこうしてたい」
膝の上で、ぎゅうっと強く拳を握る。はっきりと口にしたはずの言葉が、途中で震える。
「朝日奈くんと一緒にいると、安心する。理由は、よくわかんないけど……君のことを知りたいし、もう離れたくないと思う、から」
格好悪い。本音を吐き出すだけで、泣きそうだなんて。
誰かと深く繋がることを、面倒だと切り捨ててきたはずだった。朝日奈くんが言うように、俺は人に無頓着だ。
でも——やっぱり、少しだけ変わったかも。
いつだったか、桜介に言われた言葉を思い出す。胸の奥が痛いほど締めつけられる。
今日は顔を埋めるマフラーもない。俺は、自分の膝の上を見つめていた。
「早見さん」
「……なに」
「顔、上げてください」
「やだ」
「顔、見たいです」
俯いた視界に、大きな手が落とされる。
強張りきっていた俺の手を解くように、彼の指先が重なった。
「誰も見てないから、安心してください」
耳元で囁かれた、その反動で顔を上げる。視界が滲んで、朝日奈くんの顔は少しぼやけた。
「やっと、言ってくれましたね」
「……え?」
「早見さんの気持ち」
歪んだ視界のなかで、彼はふっと目を眇める。
「離れたくない、っていうのは、ちょっと反則ですけど」
「なに……それ、」
「早見さんが思ってるほど、余裕があるわけじゃないってことです」
彼の指先が、俺の手を静かに這う。指を絡めとられそうになった寸前で、俺はまたきゅっと拳を握った。
「朝日奈くんは……はっきり言わないから、よくわからない」
「そうですか?」
「そうだよ」
「俺なりに、言葉を尽くしてるつもりですけど」
「わかんない」
頑なに言い張ると、朝日奈くんは目を瞬く。
「——知りたい」
仕返しとばかりに見つめ返せば、今度は彼のほうが目を逸らした。首に提げられたヘッドフォンが、電車の波に揺れている。
「ここまで言っても、伝わらないんですか」
「うん」
「でもこの前、気づいてるって認めませんでした?」
「さあ、覚えてない」
車窓から差し込む朝の光に照らされて、朝日奈くんの耳元から横顔まで、ほんのり染まっていくのが分かった。
あんなに恥ずかしいセリフを吐いてきた人とは思えない。もしかして、ストレートに言うことを意図的に避けてきたんじゃないだろうか。
覗き込むように顔を寄せると、彼は片手で顔の下半分を覆うようにして、小さく息を吐く。
「勘弁してください」
白旗を上げたような呟きに、思わず笑みが零れた。
「……てゆーか、寝なくていいんですか?」
「今日は、そんなに眠くないし」
「せっかく前払いしたのに?」
「それは、君の時間を買っただけ」
はっきりと言い切って、膝の上で握りしめていた拳をそっと解く。
「金なんてなくても、来るのに」
ポツリと落とされた声が、ガタゴトと揺れる電車の音に紛れて、だけどしっかり届く。朝日奈くんといるときだけ湧き上がる、妙な感覚が体中を巡った。
「それは、俺も同じ」
「え?」
「契約がなくても、ここに来る」
学校まで時間はかかるけど、朝日奈くんと同じ電車ならそれも悪くない。
そう告げようと思っていた言葉は、行き場を失う。朝日奈くんの指が、今度こそ俺の指に絡んだからだ。
「好きです」
たったそれだけの告白。なのに、胸の奥でずっと引っかかっていたものが、ほどけていく。
「……ちゃんと、言いましたからね」
すぐにそっぽを向いてしまう横顔に、笑みが零れる。
耳を真っ赤にして、不貞腐れるように口を窄めるところが、ちょっとだけ可愛らしい。
「もしかして、笑ってます?」
「バレた」
「言わせたからには、ちゃんと返事くださいね」
いつまでも、待ちますから——。
半分、睨むような視線を寄越されて、胸がドキリと跳ねる。触れられた指先から、甘い痺れが流れてくる。
黙って頷くと、彼は熱を吐き出すようにして、背をもたれた。寄りかかられる体温が、さっきよりも温かい。
「はー……どうしよ」
電車の音に掻き消されてしまいそうな小さな呟きに、首を傾げる。
「なにが?」
「これで振られたら、人生終わりかも」
「大袈裟すぎる」
「本気ですよ」
「……すぐそういうこと言う」
「まあ、契約を結んだときは、こんなにのめり込むつもりじゃなかったんですけど」
すると、朝日奈くんの頭が首筋にすり寄ってきて、体が固まる。出会ったときよりも甘く漂う匂いが、鼻腔をかすめた。
「香水……」
「気づきました?」
答えるより先に、朝日奈くんはさらに深く顔を埋めてくる。
「なんか、落ち着かない」
ぶっきらぼうにそう答えてしまったのは、触れている体温の熱さを誤魔化すためだったのかもしれない。そのお詫びに、俺はぼそっと呟いた。
「いつもの方が、いい」
「じゃあ、やめます」
ふっ、と微笑む声が鼓膜を揺らす。わざわざ本音を吐いてしまって、むしろこっちの方が心臓に悪い。
「知ってます? 今日、クリスマスイブなの」
「なに、急に」
唐突に切り替えた朝日奈くんを、俺は横目で見つめる。
「あと、終業式ですよね」
今日が、年内最後の登校日だということは、もちろん知っている。だから、長く会えなくなる前に、朝日奈くんに会いたかった。
見透かされないように、俺は口を結んだ。
「放課後は、バイトですか?」
「……うん」
「じゃあ、初詣」
「初詣?」
「一緒に、行きませんか」
体温が、ゆっくりと離れていく。頭を持ち上げた朝日奈くんは、真っ直ぐに俺を見つめた。
「行きたいです。早見さんと」
「……うん。俺も」
交換条件も、貸しもない。ただの約束を交わしただけなのに、心がじんわりと満たされる。
朝日奈くんも、嬉しそうに笑っていた。
「でも、あれですね。連絡手段がない」
「あ……」
言われて気がつく。俺と朝日奈くんの連絡手段は、まだあの無機質な決済アプリしかない。
「さすがに混みますよね、初詣」
「まあ、だね」
「アナログな待ち合わせも、ある意味惹かれますけど」
「…………会えなかったら、嫌だ」
ボソリと漏らした本音に、朝日奈くんが目を丸くする。そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺も、嫌です」
どちらからともなくスマホを取り出し、アプリを起動する。まだ朝日奈くんの名前がない、決済機能もない。ただの、メッセージアプリ。
「じゃあ、始めましょうか」
「……うん」
「まずは、連絡先の交換から」
プシューッ。
吐き出された減速音が車内に響いて、外から柔らかい朝日が差し込む。眩しくてしばらく目を細めていると、途端に睡魔が襲った。
今日はいつもより、早く起きてしまったせいかもしれない。
「肩、貸しますよ」
「じゃあ、遠慮なく」
眠気には抗えなくて、左隣にコトンと体を寄せる。
ああ、これだ、と。
懐かしい感覚に安心しながら、睡魔に誘われるまま力を抜いていく。
「おやすみなさい、早見さん」
「……おやすみ」
ガタゴトと揺れる車内。
わずかに触れ合った指先で、俺たちは二人の熱を分け合っていた。
END
駅のホームで、電車を見送る。
予定よりもひとつ早い電車の時間に着いてしまうなんて、初めてだった。
「はぁー……」
口元を手のひらで覆って、息を吐く。白い蒸気が、寒空の下でしずかに舞った。
『明日、電車で待ってる』
あんなメッセージを送ってしまったのに、今日は珍しく目覚めがよかった。
たぶん、自分の目的がはっきりしたからだ。
プシューッ——。
目の前にいつもの電車がやってくる。開いたドアの周辺は、車内の熱気がホームの冷気と混ざり合っていた。
本当に、来てくれるだろうか。
シートに腰掛けて、紙袋を抱え込む。中には、朝日奈くんから借りていたキャメルのマフラーが入っていた。
気を紛らわすようにスマホを開けば、決済アプリに指が伸びる。昨日のうちに何度も確認した『受取完了』の文字。
——ちゃんと、届いてる。
返金されたらどうしようかと思ったけれど、次の手を考えているうちに眠ってしまった。結局、次の手の出番はなかったけれど。
『次は千瀬川、千瀬川です』
アナウンスが流れ、電車はゆっくりとスピードを落としていく。
車窓の外、滑り込んでいくホームの光景を、息を詰めて見つめた。乗車口の列。その少し後ろに立っている人影を見つけた瞬間、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
——朝日奈くんだ。
降りる客の流れが切れ、彼は車内へ足を踏み入れる。
迷うことのない足取りで、まっすぐ。俺の座るシートの前までやってくると、朝日奈くんは静かに足を止めた。
「おはようございます」
「おはよう」
ピーコートを着た朝日奈くんが、隣を埋める。わずかに、冬の匂いが漂った。
「なんか、久しぶりですね」
「……うん」
「まあ、土曜に会いましたけど」
たった二日空いただけなのに、その土曜が遠い昔のことのように感じられる。
「これ、ありがとう」
紙袋を手渡すと、朝日奈くんは中を見て「ああ」と零す。そして、したたかな笑みを向けてきた。
「役に立ちました?」
「助かった」
「そうですか。バイト先は? 大丈夫でした?」
「……ちょっとだけ、怒られた」
気まずさに小さく肩を竦めると、隣の体温がふふっと揺れる。朝日奈くんは「でしょうね」とでも言いたげに目を細めた。
「でも、朝日奈くんがまたカフェに来たいらしい、って言ったら許してくれた」
「良いように使いましたね」
「嘘じゃないから」
「……まあ、はい。早見さんに言われたら、いつでも行きますよ」
そんなことが言いたいわけじゃなかったんだけど。
逆手に取られて、顔を歪める。朝日奈くんは紙袋を大事そうに、鞄のなかに仕舞った。
「あのさ」
「はい?」
切り出すと、朝日奈くんがこちらを向く。
二つのコートが擦れる音は、すこし新鮮だった。最近は、一緒に電車に乗っていなかったから。
「俺はやっぱり、朝日奈くんとこうしてたい」
膝の上で、ぎゅうっと強く拳を握る。はっきりと口にしたはずの言葉が、途中で震える。
「朝日奈くんと一緒にいると、安心する。理由は、よくわかんないけど……君のことを知りたいし、もう離れたくないと思う、から」
格好悪い。本音を吐き出すだけで、泣きそうだなんて。
誰かと深く繋がることを、面倒だと切り捨ててきたはずだった。朝日奈くんが言うように、俺は人に無頓着だ。
でも——やっぱり、少しだけ変わったかも。
いつだったか、桜介に言われた言葉を思い出す。胸の奥が痛いほど締めつけられる。
今日は顔を埋めるマフラーもない。俺は、自分の膝の上を見つめていた。
「早見さん」
「……なに」
「顔、上げてください」
「やだ」
「顔、見たいです」
俯いた視界に、大きな手が落とされる。
強張りきっていた俺の手を解くように、彼の指先が重なった。
「誰も見てないから、安心してください」
耳元で囁かれた、その反動で顔を上げる。視界が滲んで、朝日奈くんの顔は少しぼやけた。
「やっと、言ってくれましたね」
「……え?」
「早見さんの気持ち」
歪んだ視界のなかで、彼はふっと目を眇める。
「離れたくない、っていうのは、ちょっと反則ですけど」
「なに……それ、」
「早見さんが思ってるほど、余裕があるわけじゃないってことです」
彼の指先が、俺の手を静かに這う。指を絡めとられそうになった寸前で、俺はまたきゅっと拳を握った。
「朝日奈くんは……はっきり言わないから、よくわからない」
「そうですか?」
「そうだよ」
「俺なりに、言葉を尽くしてるつもりですけど」
「わかんない」
頑なに言い張ると、朝日奈くんは目を瞬く。
「——知りたい」
仕返しとばかりに見つめ返せば、今度は彼のほうが目を逸らした。首に提げられたヘッドフォンが、電車の波に揺れている。
「ここまで言っても、伝わらないんですか」
「うん」
「でもこの前、気づいてるって認めませんでした?」
「さあ、覚えてない」
車窓から差し込む朝の光に照らされて、朝日奈くんの耳元から横顔まで、ほんのり染まっていくのが分かった。
あんなに恥ずかしいセリフを吐いてきた人とは思えない。もしかして、ストレートに言うことを意図的に避けてきたんじゃないだろうか。
覗き込むように顔を寄せると、彼は片手で顔の下半分を覆うようにして、小さく息を吐く。
「勘弁してください」
白旗を上げたような呟きに、思わず笑みが零れた。
「……てゆーか、寝なくていいんですか?」
「今日は、そんなに眠くないし」
「せっかく前払いしたのに?」
「それは、君の時間を買っただけ」
はっきりと言い切って、膝の上で握りしめていた拳をそっと解く。
「金なんてなくても、来るのに」
ポツリと落とされた声が、ガタゴトと揺れる電車の音に紛れて、だけどしっかり届く。朝日奈くんといるときだけ湧き上がる、妙な感覚が体中を巡った。
「それは、俺も同じ」
「え?」
「契約がなくても、ここに来る」
学校まで時間はかかるけど、朝日奈くんと同じ電車ならそれも悪くない。
そう告げようと思っていた言葉は、行き場を失う。朝日奈くんの指が、今度こそ俺の指に絡んだからだ。
「好きです」
たったそれだけの告白。なのに、胸の奥でずっと引っかかっていたものが、ほどけていく。
「……ちゃんと、言いましたからね」
すぐにそっぽを向いてしまう横顔に、笑みが零れる。
耳を真っ赤にして、不貞腐れるように口を窄めるところが、ちょっとだけ可愛らしい。
「もしかして、笑ってます?」
「バレた」
「言わせたからには、ちゃんと返事くださいね」
いつまでも、待ちますから——。
半分、睨むような視線を寄越されて、胸がドキリと跳ねる。触れられた指先から、甘い痺れが流れてくる。
黙って頷くと、彼は熱を吐き出すようにして、背をもたれた。寄りかかられる体温が、さっきよりも温かい。
「はー……どうしよ」
電車の音に掻き消されてしまいそうな小さな呟きに、首を傾げる。
「なにが?」
「これで振られたら、人生終わりかも」
「大袈裟すぎる」
「本気ですよ」
「……すぐそういうこと言う」
「まあ、契約を結んだときは、こんなにのめり込むつもりじゃなかったんですけど」
すると、朝日奈くんの頭が首筋にすり寄ってきて、体が固まる。出会ったときよりも甘く漂う匂いが、鼻腔をかすめた。
「香水……」
「気づきました?」
答えるより先に、朝日奈くんはさらに深く顔を埋めてくる。
「なんか、落ち着かない」
ぶっきらぼうにそう答えてしまったのは、触れている体温の熱さを誤魔化すためだったのかもしれない。そのお詫びに、俺はぼそっと呟いた。
「いつもの方が、いい」
「じゃあ、やめます」
ふっ、と微笑む声が鼓膜を揺らす。わざわざ本音を吐いてしまって、むしろこっちの方が心臓に悪い。
「知ってます? 今日、クリスマスイブなの」
「なに、急に」
唐突に切り替えた朝日奈くんを、俺は横目で見つめる。
「あと、終業式ですよね」
今日が、年内最後の登校日だということは、もちろん知っている。だから、長く会えなくなる前に、朝日奈くんに会いたかった。
見透かされないように、俺は口を結んだ。
「放課後は、バイトですか?」
「……うん」
「じゃあ、初詣」
「初詣?」
「一緒に、行きませんか」
体温が、ゆっくりと離れていく。頭を持ち上げた朝日奈くんは、真っ直ぐに俺を見つめた。
「行きたいです。早見さんと」
「……うん。俺も」
交換条件も、貸しもない。ただの約束を交わしただけなのに、心がじんわりと満たされる。
朝日奈くんも、嬉しそうに笑っていた。
「でも、あれですね。連絡手段がない」
「あ……」
言われて気がつく。俺と朝日奈くんの連絡手段は、まだあの無機質な決済アプリしかない。
「さすがに混みますよね、初詣」
「まあ、だね」
「アナログな待ち合わせも、ある意味惹かれますけど」
「…………会えなかったら、嫌だ」
ボソリと漏らした本音に、朝日奈くんが目を丸くする。そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺も、嫌です」
どちらからともなくスマホを取り出し、アプリを起動する。まだ朝日奈くんの名前がない、決済機能もない。ただの、メッセージアプリ。
「じゃあ、始めましょうか」
「……うん」
「まずは、連絡先の交換から」
プシューッ。
吐き出された減速音が車内に響いて、外から柔らかい朝日が差し込む。眩しくてしばらく目を細めていると、途端に睡魔が襲った。
今日はいつもより、早く起きてしまったせいかもしれない。
「肩、貸しますよ」
「じゃあ、遠慮なく」
眠気には抗えなくて、左隣にコトンと体を寄せる。
ああ、これだ、と。
懐かしい感覚に安心しながら、睡魔に誘われるまま力を抜いていく。
「おやすみなさい、早見さん」
「……おやすみ」
ガタゴトと揺れる車内。
わずかに触れ合った指先で、俺たちは二人の熱を分け合っていた。
END


