朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。

 翌日の昼過ぎ、桜介が家に来た。
 インターホン画面に映ったその顔を見ただけで、昨日のことが頭をよぎる。
 朝日奈くんの言葉も。最後に見た、あの表情も。そして、気づけば彼を追いかけていた、自分のことも。
「深、ごめん」
 ​扉を開けると、桜介はすぐに頭を垂れた。玄関に気まずい沈黙が流れる。
「あがって」
 俺は息をひとつ吐き、リビングへ通す。家は近いはずなのに、桜介のコートには凍てついた外の空気が滲んでいた。
「お茶で良い?」
「ありがとう、助かる」
 両親は出かけているので、慣れない手つきで湯を沸かす。母さんのように急須で淹れることはできないので、即席の茶パックで済ませてしまった。
「こういうの、初めてだな」
 マグカップから出る湯気を冷ましながら、桜介は笑う。
「なにが?」
「深に、茶とか淹れてもらうの」
「あー……パックだけどね」
「昨日もコーヒー美味しかったし。バイト、頑張ってんだな」
「普通だよ。仕事だから」
​ 俺は隣に腰を下ろして、自分のカップに手を伸ばす。
 会話が途切れ、コトン、とカップを置く音だけが妙に響いた。
​「その……昨日のことだけどさ」
​ 視線を落としたまま、桜介が口を開く。
「まず、店でうるさくして本当にごめん。深の、大事なバイト先なのに」
「あれは、桜介がうるさかったわけじゃないでしょ」
「連れて行ったのは俺だし、それに、連帯責任だから」
 運動部らしいというより、桜介らしい。なんでも自分で引き受けようとするお節介なところは、昔から変わらない。
「なんで、あの人達を連れてきたの」
 問いかけると、桜介はゆっくり息を吸い込む。
 たまに映画で見る、自供する前の犯人と同じような顔をしていた。
「あれから、俺なりに考えたんだけどさ」
「うん」
「深と、仲良くなってもらいたかったのかも」
「それは、なんで」
 今まで、会わせようとすることなんて一度もなかったのに。
「深が、高校の後輩と仲良くしてるの見て……ほら、よくメッセやりとりしてる」
 たぶん、トオルくんのことだ。
「深、変わってきたのかもなあって思ったんだよ。もしかしたら、俺の仲間とも打ち解けられるかもって」
「あの人達と?」
「いや……うん。これ言うと、綺麗事っぽいんだけどさ」
「思わないよ。なに?」
「俺以外にも、深の良さを知ってもらえるかもしれないって、思ったんだよ」
 そのあとの沈黙を埋めるように、桜介はカップを傾ける。
 綺麗事だとは思わなかった。本心かそうじゃないかくらい、俺にもわかる。
「俺も、はっきり嫌だって言えばよかった」
「え?」
「友だちに紹介したいって言われたとき」
「あー……実はさ、深が嫌そうなのは気づいてたんだけど」
「そうなの?」
「うん。でも、強引に引っ張っていけば、楽しんでもらえると思ってた。だから、ごめん」
 そう言った後、桜介はソファに背をもたれる。そして息を吐き出すのと一緒に零した。
「あの、後輩の子に言われて、正直ギクッとしたなー」
 朝日奈くんのことか。
 はっきりと全ては思い出せないけど、相当なことを言っていた。
「朝日奈くん……その後輩、謝ってたよ」
「ん?」
「桜介に、言い過ぎたって」
 余裕のないあの表情を思い出すと、一緒になって肩に当てられた額の感触が蘇る。キャメルのマフラーも、まだ自分の部屋のなかで眠っている。
 余計な邪念を振り払うように、俺はぬるくなったお茶を呷った。
「でも、あながち間違いじゃないと思ったよ」
 振り返ると、桜介はさっきよりもスッキリした顔で吐き出す。
「俺が深に頼られて嬉しいのは、事実だし」
「世話焼きだしね」
「あと、高校で俺以外にそういうやつがいるのかーって思ったら、モヤモヤした」
「モヤモヤ?」
「親友をとられるかもって。なんだろ、危機感?」
 桜介は自嘲気味に笑うけど、他人事とは思えなかった。
 桜介は俺よりずっと人付き合いが巧いから、幼なじみなんて要らなくなるんじゃないかと不安に思ったことは、何度もある。昨日、はっきり紹介を断れなかったのだって、桜介に見限られるのが怖かったからだ。

 ——でも、じゃあ朝日奈くんは……?

 契約を破棄されたときに覚えた、あの危機感は、桜介に抱いていたものと同じなのか。それとも——。
「深?」
 桜介に覗き込まれて、我に返る。
「ごめん、大丈夫」
「そう? あ、お茶ありがとな」
 ポンポンと頭を撫でられたかと思えば、すぐにその体温が引く。桜介は「やべ」と顔を引きつらせた。
「なに?」
「こういうのも、あんま良くなかったのかもなって」
「まあ、子ども扱いされてるなとは思ったけど」
「違う違う! ついクセってゆーか……うん、気を付けるわ」
 桜介は空になったカップをもって、流しへ向かう。
 昔からスキンシップの多かった幼なじみに、今更なにも感じない。だからまあ、気を付ける必要もないのだけど。
 ——“嫉妬してるんです”
「……っ」
 どうして、いま。前触れもなく朝日奈くんの声がよぎって、顔に体温が集まる。カァッと熱を帯びたそれを冷ますように、手のひらで顔を覆った。
「深? どうした?」
 桜介が戻ってくるけど、いまはこの手を解けない。
 どうして。桜介に触られてもなんともないのに、朝日奈くんの言葉を思い出すだけで、体の制御が効かなくなる。マフラーを巻きつけられた、あの感触がよぎるだけで、胸が強く締めつけられる。
「そういえば、昨日の後輩ってメッセのやりとりしてた子?」
「え……や、違うけど」
 顔を覆ったまま答えると、桜介は「え、違うの?」と目を瞬いた。ちょうど朝日奈くんの話題になって、俺もびっくりしてる。
「てっきり同じだと思ってた。深のこと、よく知ってるみたいだったし」
「知られては、いると思う」
「仲良いんだ」
「それは……」
 ここで詰まる理由が、自分でもわからなかった。相手がトオルくんなら、迷わず頷くことができるのに。
「深は、知りたいと思わない?」
 桜介に覗き込まれて、目を伏せる。
「……わからない」
「ほんとに?」
「え?」
「昨日、その後輩のこと追いかけてった深は、そんな顔してなかったけどなー」
「そんな顔って、」
「いまの、何かに迷ってる顔」
 桜介の言うことは当たっていた。俺は、迷ってる。
 昨日はただ、あのまま彼を放っておけなかった。
 でも、あんな寒空の下、それもバイトを抜け出してまで追いかけてしまった理由は、まだ分からない。
「迷ってるなら、探せば良いんじゃない」
「探すって……どうやって」
「それを俺が答えたら、今までと変わんないだろ」
 眉を下げて笑う桜介に、コクリと頷く。
「ただ、ひとつだけ助言をするなら……なんでも理由を頼らないこと」
「なに、それ」
「知りたいと思うなら知ればいい」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
 桜介はにかっと笑みを浮かべた。
「理由なんて、後から考えればいいだろ」
 しばらく黙っていると、桜介は「じゃ、そろそろ行くわ」と上着を引き寄せた。
 玄関まで見送り、ドアを開く。外の冷気が、火照った体を冷やした。
「またな、深」
「うん。また」
 ​パタン、と音を立てて扉が閉まる。
 静まり返ったリビングに戻ると、さっきまで桜介が座っていたソファの窪みだけが、ぽっかりと残っていた。
「——……」
 知りたいと思うなら、知ればいい。
 理由なんて、後から考えればいい。
 桜介に言われたことを、頭のなかで繰り返す。そして、大きく息を吐いた。
「来週、で……終わりか」
 カレンダーの日付を見て、残り一日となった登校日にいまさら気がつく。
 ​俺はポケットからスマホを取り出して、例の決済アプリを立ち上げた。そのまま慣れた手つきで、朝日奈くんとの取引画面に移る。
 最後のやりとりは契約を破棄されたときのもので、思わず顔がひきつった。
 ——でも、あのときよりずっと、清々しい。
 指先を滑らせて、支払金額をタップする。先払いで有無を言わせないやり方は、朝日奈くんから教わった。

『朝日奈律世に100円を送りました』
『明日、電車で待ってる』

 ちょっと強引だよな。
 自嘲気味に笑いながら、ソファにもたれる。送信完了を通知した画面が、眩く光っていた。