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いつもなら頭も冴えてくる四限目、俺の脳みそはまだ茹だっていた。
朝からあんな取引を持ちかけられて、どっと疲れが落ちてきたんだと思う。夏休み明けでまだ体も鈍っているし、ぼうっとする。
——そもそも、あれは本当に現実だったのか?
夢で体験した出来事を、現実に置き換えてしまう人がいるということを聞いたことがある。現に、幼なじみがそうだった。
あるとき、約束をした時間にいつまで経っても現れなくて家を訪ねたら、『あれ、深? 風邪引いて遊べなくなったんじゃなかった?』と言われておどろいた。約束を忘れていたとしても、謝る前にそんな嘘を吐くようなやつではないし、かといって夢と現が混ざることなんて……とも思っていた。
だけど、その半信半疑もいまは左に傾き始めている。
最近ちゃんと眠れていなかったし、きっと悪い夢でも見たんだろう。現実にしては男の顔もやけに整っていたし、こっちの素性を知っている風だったのもおかしい。制服で同じ学校だということはわかっても、初めて会話を交わす相手に『先輩』なんて呼ばないだろ、ふつう。
「こんにちは。早見先輩」
悪い夢のつづきは、夜を待たずに訪れた。
昼休みに購買へ行こうとした足は、教室前の廊下で立ち止まる。呼びかけに振り返れば、そこには今朝みた夢にでてきた男とそっくりな男が立っていた。
「聞こえてます?」
聞こえてるよ。わかってる、これが夢じゃないってことくらい。
自分より上背のある彼を見上げて、しずかに息を吐く。
「なんで俺の名前、」
「それも含めて、いろいろ話そうと思って。一緒に昼、どうですか?」
男は、半月型に瞳を細めた。
親しみやすそうなのに、どこか冷ややかな笑顔。それと、こちらに答えを委ねているように見えて、拒絶は許さんといわんばかりの威圧も感じる。
「……わかりました」
「よかった。じゃあ行きましょうか」
本当は断りたかったんだよ。君の顔、怖いんだよ。それに、派手な容姿が目立つせいか、周りからの視線も痛い。
断るための時間をかけるより、この場所を抜け出すほうが俺にとっては重要だった。
……もしかしてこれも、断らせないための計算だったりして。いや、まさか。
連れてこられたのは、校舎の裏手にひっそりと佇む部室棟だった。
文化系の部活がいくつか部屋を借りているだけの建物で、昼休みのこの時間は驚くほど人気がない。
彼はそのうちの一室、現在は使われていない空き教室の引き戸を迷いなくあけた。埃っぽい匂いのなかに、窓から昼下がりの光が差し込んでいる。
「ここなら人目も気にならないでしょ」
窓際の席に誘導されて、にこやかな笑みに眉を寄せる。やっぱり、人目につくところで俺を誘ったのはわざとだったのだろう。
「話ってなんですか」
「そんな焦んないでくださいよ。あと俺一年なんで、敬語はやめてください」
男は笑みを絶やさず、正面に座る。一つの机に二人分の昼食がならんだ。
「俺の名前は。なんで知ってるの」
学年も、クラスも、名前も。見知らぬ人物に素性を知られてるのは、同じ学校の生徒だとしても正直気味が悪い。
「調べました」
「調べた?」
「同じ路線を使ってるあなたが、何年何組の誰なのか。割り出すのはけっこう簡単でしたよ」
「なんで調べたの。同じ電車使ってるから?」
「今朝、言ったじゃないですか」
「電車で、寝てたから……?」
「取引相手のことを調べるのは当然のことでょ」
サンドイッチを頬張る姿さえ画になるけれど、話している内容はさながらホラーだ。知らない間に取引相手にされているなんて、怖い以外の感想が浮かばない。
「ほかの人じゃだめなの」
わざわざ俺にこだわらなくても、君の肩を借りたい人なんて大勢いるはずだ。たとえば、さっき廊下で色めき立っていた女子たちとか。
「早見さんがいいんです」
「……なんで」
「それはまあ、周りに漏れる心配がないから」
しばらく考えて、納得した。
さっき『調べた』と言っていたのは、俺の簡単なプロフィールだけではなく、たぶん交友関係も含まれていたのだろう。
部活にも所属していなくて、クラスメートとの関わりもほとんどない。つまり、イケメンな後輩からおかしな提案を持ちかけられた、と打ち明ける相手もいないということ。
——誰とも繋がらないから、安全。
俺はこの男にとって、リスクゼロの優良物件というわけだ。
「ずいぶんと用意周到だね」
「一応、俺にはメンツってものがあるんで」
「そこまでしてお金が欲しいの?」
「金はあるだけ困らないでしょ」
「……まあ、たしかに」
残念なことに、それには共感できる。
しずかに頷く俺を見て、後輩の男は頬杖をついてにこりと笑った。
「どうです? ボランティアで肩を貸してもらうより、後腐れがないと思いません?」
これにも、本当に残念なことに納得できてしまう。この男から『よかったら俺の肩使ってください』と迫られるより、対価があるほうが安心できる。
イケメンの威圧は怖いけど、タダより怖いものはない。
「……わかった。いいよ」
「お、早いですね」
さんざん口説いたくせに、彼はぱちりと目を瞬く。
「長い議論は好きじゃないから」
「いいですね。そういうところ、俺たちすごく合うと思います」
そう言って、男は満足そうに手元のスマホをこちらへ向けた。液晶に表示されているのは、見慣れた電子マネーアプリの、QRコードだ。
「じゃあさっそく。明日からの決済用に、俺のID追加してください」
「わかった」
「あと、毎朝先輩の隣に座れる保証はないので、後払いでけっこうです」
思ったよりこちらのことも考えられている。本当に取引相手みたいだな、と少し感心した。
「朝日奈……律世」
スマホの画面に表示された文字を読みあげる。そのアカウントを登録した瞬間、正式にこの契約が結ばれた。
そういえば、高校に入ってからこうして連絡先を登録するのは初めてだ。まあ、そもそも決済アプリだし。通学電車のなかで快適な睡眠をえるための、完全な利害関係だけど。
「そうだ。俺は千瀬川から乗るので、すこしお待たせしますけど、いいですか?」
千瀬川は、俺が乗る駅から四つだけ先の駅だ。そんなところから隣にこの朝日奈くんが座っていたなんて、これまで気づきもしなかったけど。
「いいよ。十分」
「じゃあ、契約成立ですね」
用件は済んだとばかりに、朝日奈くんは手際よくゴミをまとめ、椅子からひらりと立ち上がる。契約を結んでしまった相手には、もう余計な口説き文句も必要ないということだろう。
詮索されたことは嫌だったけど、無駄に干渉してこないなら願ったりかなったりだ。
「お先に失礼します。また明日」
「うん……また」
教室を出ていく彼に、軽く手を振り返す。
空き教室にひとり取り残された俺は、画面に映しだされた目新しいアイコンを見つめていた。

