朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。


 カフェの六人席を埋めるほどの、賑やかな声。そのうちの一人は、さっき俺を呼んでいた桜介だった。
「つーか知ってる? 篠原さん、また桜介に告ったらしい」
「おいっ、言うなよそれ……大体なんで知ってんだよ」
「うぉ、まじ?! 一回振ったんじゃなかった?」
「クラスの女子が話してたの聞いたんだ〜」
「振ったっていうか……いまは恋愛する余裕ないって言っただけ」
「うわー、いけすかねー」
「うるせぇっ」
 よく見たことのあるジャージ姿で、笑い声を響かせる。店内を包みこんでいたジャズは、とっくに掻き消されていた。
「早見くん……あの子たちも知り合い?」
 バックヤードにいた花垣さんが、眉をひそめてやってくる。彼らのドリンクを作っていた俺は、手を止めて頷いた。
「一人だけ。……すみません」
 俺が謝ることではないとは思うけど、ここで働き続けるためには必要なことだった。実際、彼らが来てから帰っていくお客さんは、一人や二人じゃない。
「いやいや、早見くんが悪いんじゃないけど……でも、ちょっとねえ。書店側にも迷惑かかるようなら、注意しないと」
「そう、ですね……」
 楽しそうに笑う桜介を見て、言葉が詰まる。
 これまで、桜介が店に顔を出したことは何度かあった。だけど、友だちを連れてきたことなんてなかったのに。
 ため息を吐いて視線をずらすと、朝日奈くんと目が合う。だけど、なんとなく罰が悪くてすぐに逸らした。
「——ん。おーい、深ー」
 カウンターの向こうから呼ばれて振り返る。そこにいたのは、桜介だった。
「なに? ドリンクならもうできるけど」
「ありがと。それでさ、今日ってバイトいつ終わりそう?」
「え? あー……六時までだけど」
「あと一時間くらいか。うん、わかった」
 わかったって、何が? 作業の手を緩めないまま、首を傾げる。
「あのさ深……もし嫌じゃなければさ、あとで合流しない?」
「……合流?」
「数分でいいからさ。あいつらに深のこと、紹介したくて」
 カフェの片隅で、わーきゃーと騒いでいる集団に視線を注ぐ。とても桜介の口から出た言葉とは思えなくて、手を止めた。
「紹介って、なんのために?」
「どっちも、俺の大事な友だちだからさ」
 それじゃあ答えになってない。桜介の友だちは、桜介の友だち。俺が付き合う人は俺が決める。
「数分だけでいいからさ、無理?」
 桜介は、俺がこういうのを好まないことくらい知っている。それなのに、どうして。
 両手を合わせて俺を見上げる。その様子に胸の奥がチクリと疼いた。
「……本当に、数分なら」
「え、ほんと?」
「だから、ちょっと声のボリューム下げて」
 自分を対価に、交換条件を突きつける。朝日奈くんと関わってから、変に身についてしまったようだ。
 それにしても……面倒なこと引き受けたな。
 去っていく桜介を見据えながら、ため息を吐く。こんなこと、今まで一度もなかったのに。きっと相手が桜介じゃなければ、断っていたと思う。
「ドリンク、行ってきます」
 トレーに六人分のカップを乗せて、持ち上げる。手のひらを広げて真ん中を支える。両手で運ぶより、そのほうが安定した。
「――断らないんですね」
 キュッ、と一瞬足が止まる。客席に居座っている朝日奈くんが、通りすがりに呟いた。
「……盗み聞きするなよ」
 それに、どうしようと俺の勝手だろ。
 目も合わせずスタスタと通り過ぎれば、六人席の賑わいが耳を突く。桜介に言ったおかげか多少はマシになっているけど、ジャズは掻き消されたままだった。
「お待たせしました」
 近づくと、ソファにはベンチコートとバッグが散らばっている。部活の後なのか、軽く土のついたジャージにも、思わず顔をしかめたくなった。
「もしかして、桜介の幼なじみ?」
 注文を読み上げながらドリンクを置いていると、途中で遮られる。
 やっぱりここは、花垣さんに頼めばよかった。後悔するけど、もう遅い。
「……はい」
 仕方なく頷くと、陽気なサッカー部は「やっぱり!」と再び声を上げた。
「ねえ、桜介(こいつ)、世話焼きでしょ?」
「幼なじみの深くんって、俺らんなかではもう有名だから」
「そうそう。弟みたいで可愛いのなんのって」
「お前ら、ちょっと言い過ぎ。つーかうるさい」
 ようやく仲裁に入った桜介は、恥ずかしそうに顔を歪める。「ごめんな、深」と眉を下げる。
 見慣れた表情がそばにあるはずなのに、なぜか居心地が悪かった。
「すみません。仕事なんで、戻ります」
 サッと頭を下げてカウンターへ向かう。花垣さんが、心配そうに覗き込んでいた。
 ……あんまり、店に迷惑は掛けたくない。
 ガシャンッ——!!
 店内に陶器の割れる音が響き渡った。
 後ろを振り返ると、六人席のテーブルから床へ向けて、溢れた液体が派手に広がっていく。
「うわっ、やべ」
「おー、何やってんだよ三原ー」
「つか、おい。俺のカバンにめっちゃかかってんじゃんっ」
 騒ぎ立てるサッカー部員たちに、周りの客が一層冷ややかな目を向ける。そのなかで、いち早く立ち上がったのは桜介だった。
「とりあえず、店員さん呼んでくるわ」
 と、こちらに駆けてくる。その間に俺も、バックヤードから布巾とダスターを取り出した。
 お客さんがカップを割って、その処理をする。そういうことは今までにもあった。……でも、今日はすこし虫の居所が悪い。
 桜介は本当に、俺を紹介したいのか。
「深!」
 席に向かう途中で出会った桜介は、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんっ、カップ割っちゃったみたいで」
「うん。だから、今から行く」
「ああ……うん、ありがとな」
「……あとあの人たち、さすがに声大きすぎ」
 呆れた様子が伝わったのか、桜介はきゅっと口を結んだ。
「一応注意するけど、飲み終わったらファミレスとかに移ってもらったほうが良いと思う」
「え……」
「うちのバイトリーダー、怒ると怖いから」
 布巾を取りに行ったとき、花垣さんはすでに「ここはそういう店じゃないのよ」と軽く零していた。
 早く片さないと。これ以上機嫌が悪くなっても困る。
 俺は急いで桜介の横を抜けようとした。
「深、待って」
「……桜介?」
 だけど、手首を掴まれ、動きを止められる。目の前に、よく見慣れた笑みが浮かぶ。
「注意なら俺がするから」
「いや、それは……」
「たしかに、あいつらちょっと騒ぎすぎだし。悪いやつらじゃないんだけど」
 ごめんな。そう謝られても、残るのは違和感だった。
 桜介はたしかに世話焼きだけど、さすがに度が過ぎる。それに、これは俺の仕事だ。
「こういうのは、店員から注意しないといけないと思う」
「けど深、苦手だろ? うまくやるから、心配すんなって」
「俺は……、」
​ 言いかけて、なぜか言葉が詰まる。子ども扱いされているような感覚に、胸の奥が冷えていく。
​「——過保護ですね」
​ 低く静かな声が響いたのは、そのときだった。
 お客のひとりとして溶け込んでいたはずの朝日奈くんが、パタリと文庫本を閉じて立ち上がる。視線は、桜介に向けられていた。
「え……なに……?」
「聞こえませんでした? 早見さんのこと、すごく甘やかしてるんですね、って言ったんです」
 ――そんな風には言ってないだろ。
 隣に並んだ、にこやかな表情の朝日奈くんを、俺は睨むように見上げた。だけど、こっちには目配せひとつしてこない。
「深……知り合い?」
「同じ学校の後輩ですよ。幼なじみさん(・・・・・・)
 桜介の問いかけに応えたのは、もちろん俺じゃない。朝日奈くんは目を眇めて続けた。
「早見さんを囲ってきたのは、あなただったんでしょうね」
「深を、囲う?」
「人と必要以上に関わらなくても、あなたが全部与えてきたんじゃないですか」
「何を言ってんのか、全然わかんないんだけど」
「じゃあ、もう少しわかりやすいように言いましょうか」
「は……?」
「あなたにとって、都合がいいってことです」
 それを聞いた桜介の眉が、苛立ちに歪んだ。
「都合がいいって、深のことが? そんなわけないだろ」
「早見さんがあなただけを頼ることに、快感を覚えてるんじゃないですか?」
「そんなわけ……なんで初対面の君に、そんなこと言われなきゃなんないんだよ」
 一歩近づいた桜介を止めるように、思わず手を伸ばして中に入った。
「本当に分からないんですか?」
「朝日奈くん、」
 もうやめてくれ。そう目配せしても、視線は拾ってもらえない。代わりに、桜介がまた一歩近づいた。
「なにが」
「あなたの言葉を聞いて、早見さんが何を思っているのか」
 そのとき、再び止めようとした言葉を呑んだ。朝日奈くんの目が、あまりにも真剣だったからだ。
 桜介は俺を一瞥して、ゴクリと喉を鳴らす。
「……当たり前だろ」
 きっと、そう答えるだろうと思っていた。だけど、逸らされた視線にだけ真意が見える。
 朝日奈くんはそれを見て、さらに笑みを深めた。
「そうですか。失礼なこと言ってすみません」
 彼はそれだけ言うと、手際よくトレーをもって下げ口へ向かった。コートを羽織ったところを引き留めたのは、桜介だ。
「君は……深のなんなの?」
 いつの間に店内が静まったのか、朝日奈くんの後ろでジャズがかすかに鳴り響く。
 ほんの、一瞬だけ。俺に向けられた瞳が、ふるりと小さく揺れていた。
「……言ったでしょう。ただの後輩です」


 朝日奈くんが店を後にして数分。急いで清掃を終えた俺は、すぐにバックヤードへ戻りコートを羽織った。
「すみません。お客さん、忘れ物してったみたいなんで」
「えっ、早見くん?!」
「深……!」
 花垣さん、それと桜介。二人の声を背に受けながら、俺はカフェのドアを押し開けた。冷たい冬の空気が、熱を帯びた頬に突き刺さる。
 こんな風に走ったのは、体育祭以来かもしれない。
 息を切らして大通りに出ると、ようやく見覚えのある長身の背中が見えた。俺は慣れないペースで加速して、その肩を掴んだ。
「えっ、早見さん?」
 息苦しさに顔を伏せてしまったせいで、表情がわからない。だけど、声は今までで一番と言っていいほど驚いていた。
「どうしたんですか。走って来たんですか?」
「う……ぅん……、」
 朝日奈くんは俺の両肩を優しく掴んで、支えてくれる。
 顔を上げると、そこにはキラキラと眩い光が散りばめられていて、一瞬ここがどこなのか分からなくなった。
「イルミネーション……」
「はい。綺麗ですよね」
 そういえば、もうすぐクリスマスだ。
 肩を支えられたまま、俺は息を整えるように深く空気を吸い込んだ。いつもなら寒さを感じるところだけど、体が火照ったいまは気持ちがいい。
 だけど、首元はその冷たさを纏う前に、何かに覆われた。くるくると、温かい布が巻き付けられていく。
「もしかして、イルミネーション見たさに走ってきたんですか?」
「そんなわけ……わかってるくせに」
 キャメルのマフラーを俺に巻き付けた朝日奈くんは、否定することなくクスリと笑う。
「こんな薄着で来るなんて。しかも、エプロンつけたままですよ」
「……忘れ物、してたから」
「忘れ物?」
「これ」
 エプロンのポケットに入れていた一冊の文庫本を差し出すと、彼は「ああ」と目を瞬いた。
「すっかり忘れてました。すみません」
 これも、俺に追わせるための計算だったら——一瞬そんな邪推が過ったけれど、どちらでもよかった。
 これがあってもなくても、俺は朝日奈くんを追っていたと思うから。
「店、抜けて来て平気でした?」
「う……まあ、たぶん」
「嘘つくの苦手ですよね、早見さん」
 ふっ、と笑われて、マフラーに顔を埋める。朝日奈くんの匂いが、直に香る。最近は電車で肩を借りていないから、やけに久しぶりな気がした。
「どうして、来てくれたんですか?」
 核心を突かれて、目を逸らす。マフラーの隙間から漏れる息が、白く濁った。
「……わかんない」
「ん?」
「わかんないけど……帰ってほしくないって、思ったから」
 何を言っているのか、自分でもよくわからない。
 朝日奈くんが絡むと、自分の行動に説明がつかなくなる。だけど、それが嫌じゃなかった。
「そっか……よかった……」
 はあ、と目の前から零れる白い息。朝日奈くんは少しだけ背を丸めて、俺の肩に額をあずけた。
 鼓動が、途端に騒がしくなる。
「どう、したの……?」
「さすがに、言い過ぎたと思ってたんで」
「え?」
「幼なじみのあの人に」
 桜介に言ったことを気にしていたのか。あんなに飄々と論破していたのに。
「早見さんの大切な友人に、すみませんでした」
「びっくりはしたけど……でも、なんで」
「なんで?」
「悲しそうに、見えたから」
 そう言いながら、店を去っていく前の、朝日奈の瞳を思い出す。
 するとそのとき、ぴゅうっと冷たい風が吹いて、思わず肩を竦めた。顔をあげた朝日奈くんは、近くの商業施設まで俺の手を引いた。
「ここなら暖かいでしょ」
 その一言に、胸が締めつけられる。コートまで掛けてくれようとしたけれど、それはさすがに断った。
 これ以上、朝日奈くんの香りに包まれたら、なんとなくダメな気がした。
「なんかいま、すげぇ情けないです。俺」
「え、なんで」
 コートを羽織り直しながら、朝日奈くんは口を窄める。
「嫉妬心むき出しにして、早見さんに追いかけさせて、悲しい顔してたとか言われて」
 おまけにコートも断られるし——。
 そう言ってふてくされる姿は大人びた格好とアンバランスで、ちょっとおかしい。それと、ひとつだけ引っかかった。
「嫉妬?」
 たしか、朝日奈くんは前にも言っていた。トオルくんに対して嫉妬しているとか、なんとか。
 あのときは訳がわからなくて、ただただ戸惑っていたけれど、彼の本心を聞いてしまった今は落ち着いている。
 ただ、ほんの少し、胸が苦しくなるだけ。
「俺は、あなたが絡むとああなるんです」
「え……」
「大切な幼なじみさんに喧嘩を売るくらい……その、ほんとに余裕がなくて」
 あれで、余裕がなかったのか。感心していると、朝日奈くんは自分の口元を手で覆う。そして、深く息を吐き出した。
「嫉妬してるんです。……あの人が、あなたに与えたすべてのことに」
 こんなこと、言うつもりじゃなかったのに——。
 最後、小さく吐き出された言葉を、俺はしっかり拾い上げた。視界の端で染め上げられた、彼の耳も。
「すみません……引き止めて。俺、そろそろ帰りますね」
「え……」
「早見さんは、風邪引かないで」
 マフラーを解こうとした俺の手を止めて、朝日奈くんは笑みを落とす。そして、そのままくるりと背を向けると、雑踏に消えていった。
「これ……どうしよ……」
 首元に残された温もりに触れて、ぽつりと呟く。
 この胸の熱さが何なのか、俺にはよく分からない。だけど、そのマフラーに顔を埋めると、静かに心が満たされていった。