紙をめくる音と、ひっそりとした話し声。それを邪魔しない程度に、小さくジャズが流れている。
書店を併設したこのブックカフェは、俺のバイト先だ。
映える限定スイーツや派手なドリンクメニューはないけれど、そのぶん客層は落ち着いているし、店員同士の私語もあまり良しとされていない。それを知らずに応募した人は「堅い」「地味」と言ってやめていった。でも、無駄に干渉されないこのカフェは、俺にとってはむしろ居心地の良い職場だ。
——けれど、最近はちょっと事情が変わった。
「早見くん、また来てるね。彼」
エプロンをくいっと引っ張られて、苦笑する。バイトリーダーの花垣さんは声を潜めて、「友だちなんでしょ?」と訊いてきた。
「いえ……まあ」
「イケメンだよねぇ。心なしか、前より女性のお客さん増えた気がするし」
曖昧な返答に目もくれず、彼女はせかせかとコップを拭きながら店内を見渡す。そして視線は、やはりあの男にとまった。
窓際のカウンター席。暖房の効いた店内でも、窓の近くだけは少し冷える。あまり人気のない席だけど、朝日奈くんはいつもそこにいた。
バイト先の情報を教えてから、およそ一ヶ月。週末を利用して、彼はすでに三度も姿を見せていた。
私服姿の朝日奈くんは、電車や学校で会うときよりもしなやかで、隙がない。もっと簡単に言うと、大人っぽい。黒い縁のメガネを掛けているせいもあるのだろうか。
手元に広げた文庫本を、ずいぶん丁寧に読んでいる。ページをめくるたび、その長い指が静かに動いた。
「彼女とかいるのかなぁ」
「さあ……知りません」
「きっといるよね。かっこいいもん」
恋人がいたら、わざわざここに来ることもないと思います。とは、もちろん言えない。ただ、目的は未だにわからないけど。
俺は無難に受け流しながら、ソーサーにカップを置く。静かな空間に、カチャリ、と小さな音が響いた。
——別に、話しかけてくるわけじゃないんだよな……。
窓際で、本を捲っている姿をこっそり眺める。
バイト先を教えたとき、俺は覚悟した。朝日奈くんが店で俺のことをからかったり、その反応を見て楽しんだりすることを予想していた。
でも実際は、俺に声をかけてくることすらほとんどない。
注文時に「ブレンドをひとつ」と短く交わす程度で、あとはただ静かに本を読んでいるだけ。俺は勝手に拍子抜けして、今日もカウンターからその姿を眺めていた。
ちなみに、花垣さんに友人同士だと思われているのは、朝日奈くんが初めて来たとき、うっかり彼の名前を呼んでしまったからだ。そうでなければ、朝日奈くんは他人を貫いていただろう。
——と、思っていたのに。
「すみません。おすすめの甘味とか、ありますか?」
今日は、違うのかもしれない。
窓際からこちらにやってきた朝日奈くんが、カウンター越しに俺を見つめる。たまたま、手の空いた店員を見つけたような素振りで。
「おすすめ……とかは、特に。好みがわかんないので」
お客を全うする朝日奈くんに合わせて、俺も店員を全うする。だけど、先に崩れたのは朝日奈くんの方だった。
「ふっ……さすが、らしいですね」
「……笑いすぎじゃない?」
静かにツボに入った朝日奈くんに、俺は眉をひそめる。周りのお客の、特に女性客の視線が集まったのを感じて、さらに顔を歪めた。
相変わらず、イケメンの引力はすごい。
「店員さん、適当に答えたりしないんですね」
朝日奈くんはわざとらしく、手を口元に添えて言う。
「あさひ……お客さんの嫌いなもの、知らないんで」
「いいですよ。いつも通りで」
「そっちが違うから」
「だって、ただのお客としてなら来て良い、って言われたから」
体育祭の昼休みだったか。確かに、そんなことを言った気がする。もしかして、それで律儀にお客の皮を被っていたのか。
そういえば、朝日奈くんが約束を破ったことはない。でなければ、ほとんど口約束の睡眠売買の契約なんて、とっくに破綻していただろう。
ひとり納得していると、いつの間に隣に立っていたのか、
「もし迷ってるなら、期間限定のベリーサンタムースはどうですか? おすすめですよ」
と、花垣さんがメニュー表を掲げていた。普段より三割増しくらいの笑顔を、朝日奈くんに向けている。
「甘さ控えめで、早見くんも好きだったよね?」
「え?……あー、まあ、はい」
「じゃあ、それにします」
いつもの外面スマイル。しっかり射止められたであろう花垣さんは「かしこまりましたっ」と俺の代わりにレジを打ってくれた。
まあ……仕事をしてるだけだし、別にいいんだけど。
「あ、早見くん。せっかくだから、先に休憩に入っちゃいなよ」
普段よりいくらか丁寧にレジを終えた花垣さんは、時計を見上げて言った。
「え……ああ、じゃあ先に——」
「いやいや、バックヤードじゃなくて」
「はい?」
「せっかくなんだし、お友だちと一緒に。ね?」
……そういうことか。頼んでもいない便宜を図られて、思わず顔がひきつる。
「じゃあ、あっちで待ってます」
「……うん」
外向けの顔を崩さずに、花垣さんにぺこりとお辞儀をする朝日奈くん。その背中を見送りながら、俺はエプロンを畳んだ。
「あんまり株上げすぎると、厄介なことになると思う」
休憩に入った俺は、ベリーサンタムースをまじまじ見つめる朝日奈くんに言った。
ちなみに席は、朝日奈くんのいた窓際からカウンターの近くの二人席へ移動した。まったく気にならないわけではないけど、さっきよりは目立たない場所だ。
「厄介?」
「花垣さん、面食いだから」
「あー……なるほど」
朝日奈くんは呑気に「あ、これ美味しい」と言いながら、花垣さんのおすすめを堪能する。ムースに添えられたサンタのメレンゲドールは、皿の端っこに避けられていた。
苦手なのか、最後にとっておいているのかはわからない。
「早見さんって、俺の顔が好みなんですか?」
「うぐっ……」
急にぶっこまれて、まかないのホットサンドを詰まらせる。
どこをどうしたらそんな話になるんだ。
「あの店員さんが『面食いだから』って忠告してくるの、つまりはそういうことですよね?」
「は……だからって、好みの問題にはならないでしょ」
差し出された水を流し込んで、息を整える。
「少なくとも、俺の顔は格好いいと思ってるんですね」
「だからそれは……っ、一般的にって話で」
「じゃあ、早見さん的にはどうなんです?」
「はぁ?」
「同性にだってあるでしょ? 好きな顔と、そうでもない顔」
「そんなの……考えたことない」
「なら、異性は?」
「それもない」
強がりでも照れ隠しでもなく、ないものは本当にない。ただ朝日奈くんを見て、きれいな顔だ、と思う瞬間があるだけで。
火照った体を冷ますように、もう一度水を呷った。朝日奈くんは、にやにやしている。
「まあでも、気をつけます」
「……?」
「愛想を振りまくのもほどほどに、なるべく気をつけます。誤解はされたくないので」
「まあ……それが良いと思う」
朝日奈くんの性格上、きっと癖になっているんだろうけど、厄介な目に遭わないためには“ほどほど”が賢明だ。
そう頷いたつもりだったのに、朝日奈くんは不服そうに口を尖らせた。
「誤解の意味。履き違えてません?」
「意味?」
「俺は、早見さんに誤解されたくない、って言ってるんです」
「は?」
「周りに好意的に思われる分には、正直そこまで気にならないんで、俺」
黙々とムースを掬いながら、朝日奈くんは言う。
「……俺の誤解って、なに?」
「早見さん以外に興味を持ってるとか。思われたくないです」
また、淡々と言う。
「俺の食指は、早見さん以外に動かないので」
目も合わせずに、当然のように言われたせいか。瞬時に理解できず、遅れて一気に喉の奥が熱くなる。
当の本人を見つめ返しても、彼は平然とした顔で、最後のひと掬いを口へ運んでいた。
なんか、前より明け透けすぎないか。
「別に俺……そんなに面白い人間じゃないけど」
逸る鼓動をごまかすように、皿の端のサンタクロースへ視線を逃がす。まだ、食べられる様子はない。
「言ったでしょ。あなたは唯一無二だって」
「言ったけど……それも、納得はできてないし」
そもそも、俺はそんなに面白い人間じゃない。たしかに、朝日奈くんとは生き方がまるで違うけど、そんな人は大勢いる。俺じゃなくたって、別にいいはずなのに。
「早見さんは論理的だから、根拠が必要なんでしょうけど——でも、それだけじゃないんですよ」
朝日奈くんも、サンタクロースへ目を落とした。すでに試食したことのある俺は、その甘さを知っている。
「最初はここまで近づくつもりじゃなかったのに、気づいたら止められなくなってた、とか」
「え……」
「一緒にいる時間がなんとなく好き、とか」
例え話じゃない。全部、俺に向けられている。
言われなくても、もう分かっているのに。
「早見さんだけですよ」
朝日奈くんは追い打ちのように、言葉を継いだ。
「……納得は、まだできない」
「それはまあ、大丈夫です」
「大丈夫?」
てっきり強情だと笑われると思っていたのに、あっけらかんと言う朝日奈くんに視線をあげる。彼は頬杖を突きながら、メガネの奥でわずかに目を細めた。
「根拠を並べろって言われたら、できますよ。あなたが納得いくまで、俺があなたにこだわる理由を、いくらでも」
返す言葉は見つからなかった。
聞きたいのか、聞きたくないのか。それすらもよく分からない。戸惑うまま視線を泳がせると、また、サンタクロースと目が合った。
「それ……食べないの?」
「ああ、食べますよ」
朝日奈くんはようやくそのサンタクロースに手を伸ばす。そして、
「最後まで取っておきたくなるんですよね」
と言いながら歯を立てた。
甘党な俺にも、その気持ちはよく分かる。好きなものは最後まで取っておく派だから。
「最初は甘さ控えめでも、最後に、とびきり甘いほうがいいので」
最後に、とびきり。朝日奈くんが告げたそのフレーズが、なぜか妙に耳に残った。
「そういえば、それ、メレンゲドールって言うんですね。全然知りませんでした」
「あ……うん。俺も、最初は知らなかった」
このカフェでバイトするようになって、初めて知った。そう話すと、朝日奈くんは感心したように息を吐いた。
「色々、憶えることも多そうですね。期間限定の商品もたくさんあるし」
「まあ、仕事だから」
「早見さんらしい場所ですよね。静かで、落ち着きます」
「うん、わかる。本の匂いって、けっこう落ち着く」
「俺も、バイトするならこういうとこがいいなー」
「……ここはやめてね」
「わかってますよ」
俺の反応を予想してたみたいに笑う。
そろそろ休憩時間も終わる頃、俺がテーブルを片し始めると、朝日奈くんは言った。
「さっき、早見さんらしいって言いましたけど」
「うん?」
「似合ってましたよ。あのエプロンも」
「……そんなとこ、見なくて良い」
余計な一言に、正面を睨みつける。
「じゃあ、俺はバイトに戻るから」
「はい。がんばって」
あと半分くらい残っている、朝日奈くんのコーヒー。まだ居座るつもりだな……と苦笑を浮かべながら、立ち上がる。
「——あっ、いた。深!」
ちょうどそのとき、聞き覚えのある声が、カフェの静寂を貫いた。
書店を併設したこのブックカフェは、俺のバイト先だ。
映える限定スイーツや派手なドリンクメニューはないけれど、そのぶん客層は落ち着いているし、店員同士の私語もあまり良しとされていない。それを知らずに応募した人は「堅い」「地味」と言ってやめていった。でも、無駄に干渉されないこのカフェは、俺にとってはむしろ居心地の良い職場だ。
——けれど、最近はちょっと事情が変わった。
「早見くん、また来てるね。彼」
エプロンをくいっと引っ張られて、苦笑する。バイトリーダーの花垣さんは声を潜めて、「友だちなんでしょ?」と訊いてきた。
「いえ……まあ」
「イケメンだよねぇ。心なしか、前より女性のお客さん増えた気がするし」
曖昧な返答に目もくれず、彼女はせかせかとコップを拭きながら店内を見渡す。そして視線は、やはりあの男にとまった。
窓際のカウンター席。暖房の効いた店内でも、窓の近くだけは少し冷える。あまり人気のない席だけど、朝日奈くんはいつもそこにいた。
バイト先の情報を教えてから、およそ一ヶ月。週末を利用して、彼はすでに三度も姿を見せていた。
私服姿の朝日奈くんは、電車や学校で会うときよりもしなやかで、隙がない。もっと簡単に言うと、大人っぽい。黒い縁のメガネを掛けているせいもあるのだろうか。
手元に広げた文庫本を、ずいぶん丁寧に読んでいる。ページをめくるたび、その長い指が静かに動いた。
「彼女とかいるのかなぁ」
「さあ……知りません」
「きっといるよね。かっこいいもん」
恋人がいたら、わざわざここに来ることもないと思います。とは、もちろん言えない。ただ、目的は未だにわからないけど。
俺は無難に受け流しながら、ソーサーにカップを置く。静かな空間に、カチャリ、と小さな音が響いた。
——別に、話しかけてくるわけじゃないんだよな……。
窓際で、本を捲っている姿をこっそり眺める。
バイト先を教えたとき、俺は覚悟した。朝日奈くんが店で俺のことをからかったり、その反応を見て楽しんだりすることを予想していた。
でも実際は、俺に声をかけてくることすらほとんどない。
注文時に「ブレンドをひとつ」と短く交わす程度で、あとはただ静かに本を読んでいるだけ。俺は勝手に拍子抜けして、今日もカウンターからその姿を眺めていた。
ちなみに、花垣さんに友人同士だと思われているのは、朝日奈くんが初めて来たとき、うっかり彼の名前を呼んでしまったからだ。そうでなければ、朝日奈くんは他人を貫いていただろう。
——と、思っていたのに。
「すみません。おすすめの甘味とか、ありますか?」
今日は、違うのかもしれない。
窓際からこちらにやってきた朝日奈くんが、カウンター越しに俺を見つめる。たまたま、手の空いた店員を見つけたような素振りで。
「おすすめ……とかは、特に。好みがわかんないので」
お客を全うする朝日奈くんに合わせて、俺も店員を全うする。だけど、先に崩れたのは朝日奈くんの方だった。
「ふっ……さすが、らしいですね」
「……笑いすぎじゃない?」
静かにツボに入った朝日奈くんに、俺は眉をひそめる。周りのお客の、特に女性客の視線が集まったのを感じて、さらに顔を歪めた。
相変わらず、イケメンの引力はすごい。
「店員さん、適当に答えたりしないんですね」
朝日奈くんはわざとらしく、手を口元に添えて言う。
「あさひ……お客さんの嫌いなもの、知らないんで」
「いいですよ。いつも通りで」
「そっちが違うから」
「だって、ただのお客としてなら来て良い、って言われたから」
体育祭の昼休みだったか。確かに、そんなことを言った気がする。もしかして、それで律儀にお客の皮を被っていたのか。
そういえば、朝日奈くんが約束を破ったことはない。でなければ、ほとんど口約束の睡眠売買の契約なんて、とっくに破綻していただろう。
ひとり納得していると、いつの間に隣に立っていたのか、
「もし迷ってるなら、期間限定のベリーサンタムースはどうですか? おすすめですよ」
と、花垣さんがメニュー表を掲げていた。普段より三割増しくらいの笑顔を、朝日奈くんに向けている。
「甘さ控えめで、早見くんも好きだったよね?」
「え?……あー、まあ、はい」
「じゃあ、それにします」
いつもの外面スマイル。しっかり射止められたであろう花垣さんは「かしこまりましたっ」と俺の代わりにレジを打ってくれた。
まあ……仕事をしてるだけだし、別にいいんだけど。
「あ、早見くん。せっかくだから、先に休憩に入っちゃいなよ」
普段よりいくらか丁寧にレジを終えた花垣さんは、時計を見上げて言った。
「え……ああ、じゃあ先に——」
「いやいや、バックヤードじゃなくて」
「はい?」
「せっかくなんだし、お友だちと一緒に。ね?」
……そういうことか。頼んでもいない便宜を図られて、思わず顔がひきつる。
「じゃあ、あっちで待ってます」
「……うん」
外向けの顔を崩さずに、花垣さんにぺこりとお辞儀をする朝日奈くん。その背中を見送りながら、俺はエプロンを畳んだ。
「あんまり株上げすぎると、厄介なことになると思う」
休憩に入った俺は、ベリーサンタムースをまじまじ見つめる朝日奈くんに言った。
ちなみに席は、朝日奈くんのいた窓際からカウンターの近くの二人席へ移動した。まったく気にならないわけではないけど、さっきよりは目立たない場所だ。
「厄介?」
「花垣さん、面食いだから」
「あー……なるほど」
朝日奈くんは呑気に「あ、これ美味しい」と言いながら、花垣さんのおすすめを堪能する。ムースに添えられたサンタのメレンゲドールは、皿の端っこに避けられていた。
苦手なのか、最後にとっておいているのかはわからない。
「早見さんって、俺の顔が好みなんですか?」
「うぐっ……」
急にぶっこまれて、まかないのホットサンドを詰まらせる。
どこをどうしたらそんな話になるんだ。
「あの店員さんが『面食いだから』って忠告してくるの、つまりはそういうことですよね?」
「は……だからって、好みの問題にはならないでしょ」
差し出された水を流し込んで、息を整える。
「少なくとも、俺の顔は格好いいと思ってるんですね」
「だからそれは……っ、一般的にって話で」
「じゃあ、早見さん的にはどうなんです?」
「はぁ?」
「同性にだってあるでしょ? 好きな顔と、そうでもない顔」
「そんなの……考えたことない」
「なら、異性は?」
「それもない」
強がりでも照れ隠しでもなく、ないものは本当にない。ただ朝日奈くんを見て、きれいな顔だ、と思う瞬間があるだけで。
火照った体を冷ますように、もう一度水を呷った。朝日奈くんは、にやにやしている。
「まあでも、気をつけます」
「……?」
「愛想を振りまくのもほどほどに、なるべく気をつけます。誤解はされたくないので」
「まあ……それが良いと思う」
朝日奈くんの性格上、きっと癖になっているんだろうけど、厄介な目に遭わないためには“ほどほど”が賢明だ。
そう頷いたつもりだったのに、朝日奈くんは不服そうに口を尖らせた。
「誤解の意味。履き違えてません?」
「意味?」
「俺は、早見さんに誤解されたくない、って言ってるんです」
「は?」
「周りに好意的に思われる分には、正直そこまで気にならないんで、俺」
黙々とムースを掬いながら、朝日奈くんは言う。
「……俺の誤解って、なに?」
「早見さん以外に興味を持ってるとか。思われたくないです」
また、淡々と言う。
「俺の食指は、早見さん以外に動かないので」
目も合わせずに、当然のように言われたせいか。瞬時に理解できず、遅れて一気に喉の奥が熱くなる。
当の本人を見つめ返しても、彼は平然とした顔で、最後のひと掬いを口へ運んでいた。
なんか、前より明け透けすぎないか。
「別に俺……そんなに面白い人間じゃないけど」
逸る鼓動をごまかすように、皿の端のサンタクロースへ視線を逃がす。まだ、食べられる様子はない。
「言ったでしょ。あなたは唯一無二だって」
「言ったけど……それも、納得はできてないし」
そもそも、俺はそんなに面白い人間じゃない。たしかに、朝日奈くんとは生き方がまるで違うけど、そんな人は大勢いる。俺じゃなくたって、別にいいはずなのに。
「早見さんは論理的だから、根拠が必要なんでしょうけど——でも、それだけじゃないんですよ」
朝日奈くんも、サンタクロースへ目を落とした。すでに試食したことのある俺は、その甘さを知っている。
「最初はここまで近づくつもりじゃなかったのに、気づいたら止められなくなってた、とか」
「え……」
「一緒にいる時間がなんとなく好き、とか」
例え話じゃない。全部、俺に向けられている。
言われなくても、もう分かっているのに。
「早見さんだけですよ」
朝日奈くんは追い打ちのように、言葉を継いだ。
「……納得は、まだできない」
「それはまあ、大丈夫です」
「大丈夫?」
てっきり強情だと笑われると思っていたのに、あっけらかんと言う朝日奈くんに視線をあげる。彼は頬杖を突きながら、メガネの奥でわずかに目を細めた。
「根拠を並べろって言われたら、できますよ。あなたが納得いくまで、俺があなたにこだわる理由を、いくらでも」
返す言葉は見つからなかった。
聞きたいのか、聞きたくないのか。それすらもよく分からない。戸惑うまま視線を泳がせると、また、サンタクロースと目が合った。
「それ……食べないの?」
「ああ、食べますよ」
朝日奈くんはようやくそのサンタクロースに手を伸ばす。そして、
「最後まで取っておきたくなるんですよね」
と言いながら歯を立てた。
甘党な俺にも、その気持ちはよく分かる。好きなものは最後まで取っておく派だから。
「最初は甘さ控えめでも、最後に、とびきり甘いほうがいいので」
最後に、とびきり。朝日奈くんが告げたそのフレーズが、なぜか妙に耳に残った。
「そういえば、それ、メレンゲドールって言うんですね。全然知りませんでした」
「あ……うん。俺も、最初は知らなかった」
このカフェでバイトするようになって、初めて知った。そう話すと、朝日奈くんは感心したように息を吐いた。
「色々、憶えることも多そうですね。期間限定の商品もたくさんあるし」
「まあ、仕事だから」
「早見さんらしい場所ですよね。静かで、落ち着きます」
「うん、わかる。本の匂いって、けっこう落ち着く」
「俺も、バイトするならこういうとこがいいなー」
「……ここはやめてね」
「わかってますよ」
俺の反応を予想してたみたいに笑う。
そろそろ休憩時間も終わる頃、俺がテーブルを片し始めると、朝日奈くんは言った。
「さっき、早見さんらしいって言いましたけど」
「うん?」
「似合ってましたよ。あのエプロンも」
「……そんなとこ、見なくて良い」
余計な一言に、正面を睨みつける。
「じゃあ、俺はバイトに戻るから」
「はい。がんばって」
あと半分くらい残っている、朝日奈くんのコーヒー。まだ居座るつもりだな……と苦笑を浮かべながら、立ち上がる。
「——あっ、いた。深!」
ちょうどそのとき、聞き覚えのある声が、カフェの静寂を貫いた。

